魔術
康平が未明の『事情』を聞かされてからちょうど七日が経った日。
目覚めた未明は、軽く首をかしげて何か考え込むような素振りをしながらリビングに入ってきた。戸口から二、三歩ほど進んだところで立ち止まり、束の間佇んでいたかと思うと、ふと顔を上げてキッチンでコーヒーをすすっていた康平を手招きする。
「何だ?」
「いいから座って、座って」
リビングのソファに康平を座らせると、彼女は部屋の角に行き、床に指先で何かを書いた。康平が伸び上がってその場所を見ても、別に何もない。
「何してるんだ?」
眉をひそめた康平に、未明は肩越しに振り返ってにこりと笑う。
「結解を強化してるの」
空を眺めているの、とでもいうような軽い口調でそんな台詞を返されても、
「あ、そう」
としか、答えようがない。
四つの角に全て同じことをし終えると、未明は康平の目の前に戻ってきた。
「黙って見ててね」
テーブルをずらして座ったままの彼の前に立ち、そう笑いかけると、未明は両手を組んで目を閉じる。その唇が二言三言、何かを呟いているのが見て取れたが、声までは聞き取れなかった。少なくとも、日本語ではないようだ。
それは、ほんのわずかな時間で。
「――?」
未明の指先に炎が宿り、ふっと宙に浮く。それはクルクルと舞い、やがて二つ、そして四つに分かれた。
「どう?」
スイ、と指を横に滑らせてその火の玉を康平の目の前に一列に並ばせると、未明が首を傾げる。康平は思わず火の玉の上下左右に手をかざし、糸がないかと探ってしまった。当然、何もない。手品だとすれば、天才的な腕前だ。
「どうって言われても……」
話で聞き、信じたつもりになっていたが、実際に目の当たりにするとやはり驚きは半端ない。これで、心底から信じないわけにはいかなくなった――異世界や魔法の話を。
今までの常識を全否定された康平がやれやれとため息をつく前で、未明は力強く頷いた。
「力は完全に戻ったわ。これで、追っ手とも戦える」
そう言うと、未明は手をきゅっと握る。と、同時に、四つの炎も掻き消えた。
「どういう仕組みなんだか」
「仕組みって言っても……私の世界とこことは、根本的な法則が違うから……」
「法則?」
「そう。この世界のいろいろなことは、『物理法則』というもので説明できるのよね? でも、それについて調べてみたけど、私にはさっぱり解らないわ。同じように、『魔術』を説明しても康平には解らないと思うし、そもそも、基本的な知識や考え方が違い過ぎて説明のしようがないの」
そう言う未明に、康平は肩を竦めてみせる。
「物理なんて、あんなもの俺にも説明できねぇよ」
「え?でも、学んだんでしょ?」
「俺は学校ってとこに行ってないからな」
「あれ、でも、この国は――日本は『義務教育』っていうのがあって、殆どの子どもは『高校』というところに通って勉強するって……」
「俺はそのくらいの年の時には、日本にいなかったんだよ」
「『教育』はこの国だけのことなの?」
調べたことと事実が一致せず眉根を寄せる未明に、康平は片手を振る。
「そういう訳でもねぇんだが、まあ、人生色々ある奴もいるんだよ」
それ以上の説明は拒んで、その台詞で康平は話を打ち切る。そんな彼を未明はジッと見つめていたが、やがて諦めたように溜息をついた。
「……まぁ、いいわ。これを持っていて」
「……何だ?」
未明に差し出されたものを受け取って、裏表をためつすがめつする。それは鎖を通したコインのように見えるが、康平がこれまでに目にしたどの国のものとも違っていた。金属の光沢とはまた別に、仄かな光を帯びている。
「護符よ。一度だけ、あなたに向けられた魔力の大半を無効化するわ。完全に防御することはできないけれど、それなりの護りにはなる筈よ」
「あれ、でも、魔法でこの世界の人間を害することはできない、とか何とか言っていなかったか?」
「それはあくまでも理念の問題だから。彼が――あのアレイス・カーレンがそうしたくないからしないってだけ。魔法そのものはこの世界のものにも効くわ。例えば、さっきの炎であなたを焼こうと思えば丸焼きにできるし」
どことなく切れが悪い未明の言い方に康平は引っかかりを覚えたが、何ぶんにも未知の領域の話だ。きっと、彼らには彼らなりの法則があるのだろう、と納得する。いずれにせよ、一生のお付き合いというわけではないのだ。深く突っ込む必要はない。
受け取った護符とやらを首にかけ、康平は立ち上がる。
「飯にしようぜ。腹減ったよ」
そう言いながら、キッチンに行き、朝食の準備に取り掛かった。訳が解からない面倒臭い諸々を理解しようとするよりも、現実的で身に馴染んだことをする方が遥かにいい。
*
康平の背中を見つめながら、未明は、ふと疑問を覚える。
――康平はずいぶんすんなりと自分のことを受け入れているが、この世界の人間はそういうものなのだろうか。
魔術というものに慣れ親しんでいるならともかく、この世界では眉唾な領域として認識されている筈だ。正直、未明は、これほど抵抗なく彼に受け止められるとは思っていなかった。初めに彼に説明しようと心に決めた時、場合によっては、気味悪がられたり拒絶されたりで、ここを出ていかなければならなくなるかもしれないと思ったのだ。
だが、康平の態度はご覧の通りで、未明が何を話そうと何を見せようと、何も変わらなかった。
普通は、現実がひっくり返されるような、とんでもないことではないかと思うのだが。
(それって、『どうでもいい』から……?)
拒否しないのは、それに対して何も思うことがないからなのかもしれない。
無意味なもの、興味がないものに対しては、マイナスの感情すら抱かないのだろうから。
康平からは、あまり『芯』というものを感じられない。柔軟といえば聞こえがいいのだが、全てに関して『投げやり』な気がする。
そんなふうにいい加減でダラダラした姿を見せる一方で、アレイスから助けてくれた時は、怖いほどの気を放っていた。彼から噴き出し逆巻いた憤怒の念の激しさに、未明ですら息を呑んだほどだ。
その二面性は、時折彼から漂ってくる『翳』と関係があるのだろうか。
ちゃらんぽらんでいい加減なように見えて――見せている彼には、ふとした時に何か暗く重いものが漂う。
それはすぐに消えるけれども、足元の影のように、常に彼に付き従っている。
(悪い人では、ないと思うのだけれど)
未明は、図らずも一時頼ることになった相手に関して、いまひとつ人となりを見極めかねていた。