帰還、そして、訣別
――ああ、眠い。
『グールムアール』の魔力を使い果たし、少なからず自らの生命力も消耗し、何処とも知れぬ場所を、彼女はゆらゆらと漂っていた。
このまま目覚めずにいれば、この世界に溶けてしまえるのかもしれない。そんなふうにすら思える心地良さだった。
――私は頑張ったんだから、まだ眠っていてもいいでしょう? どうせ私にはもう帰る場所なんてないんだから、どこで眠ったって、いつまで眠っていても、別にいいじゃない。
誰ともつかない相手にそう言い訳して、彼女は、更に深い眠りに潜り込もうとする。
が、不意に。
――誰?
名前を、呼ばれたような気がした。その声の持ち主を自分はとても良く知っている筈なのに、思い出せない。
『未明』
違う。
それは、私の名前じゃない。
私は、ミアカスール――『希望をもたらすもの』。
その名に従い、皆の望みに応え、この世界を守っていかなければならない。
世界を背負って、この先もずっと、彷徨っていかなければならないのだから、少しくらい眠らせておいて欲しい。
『未明』
また、呼ばれた。
私のものではない、名前を。
私のものではない、はずなのに。
その声に呼ばれると、何かが胸にこみ上げてくる。この想いは、いったい何なのだろう。
何度も何度も呼ばれ、彼女は、ほんの少しだけ、その声に気を向ける。
――あれ? なんだか、暖かい……
それを意識した途端、身体の中心に何かが注ぎ込まれていくような心地良さを覚える。
空っぽだった彼女の中が、次第に満たされていく。
繰り返される、呼び声。
それが届くたびに心の中に溜まっていく感覚は、『愛おしい』――そう、愛おしいのだ、その声は。
そして、彼女は思い出す。
そんな気持ちをくれた人は、一人しかいない。
その人は――康平。康平、だ。
彼女は、抱き締めるようにその名を胸の中で囁いた。忘れようのない想いと共に。
康平。
傷付いて、傷付いて、傷付いて、それでも、優しさを忘れなかった人。
私に、たくさんのものをくれた人。
『ミアカスール』としての私ではなく、『未明』である私を欲してくれた人。
何も持たない私を、何も為さない私を、欲してくれた。
――彼が、私の還る場所。私は、彼と生きて行く。
はっきりと自覚した未明を、グイと何かが引き寄せる。
辿り着く場所を、彼女は知っていた――そこで待ってくれている人も。
*
未明はパチリと目を開けた。
この上なく怠いし眠くてたまらないけれども、耐えられないほどではない。
間近にあるのは、自分を見てあからさまにホッと緩んだ、誰よりも大事な人の顔。頬に傷はあるけれど、彼女の身体を抱え込む力は、強い。
「康平」
名前を呼んで、微笑む。フニャリと、勝手に顔が動いた。
その直後、痛いほどに抱き締められて、ちょっと息が詰まる。心地の良い苦しさを噛み締めながら、未明は手を伸ばして彼の頭を撫でた。が、近くにある気配に気づいて首を巡らせる。
視界に入ってきたのは、ボロボロになった、アレイスの姿だった。
「え――?」
未明は思わず康平を押し退けて、そちらへ身を乗り出した。けれど、全然身体に力が入らず顔から地面につんのめりそうになる。そうなる前に、康平の腕が彼女をすくい上げてくれた。
その腕の中から、康平を振り返り、そしてアレイスにまた目を戻す。
「どうして? 何があったの?」
「お前を庇ったんだ」
ふらつく未明を支えながら、康平がそう呟いた。
彼女の声が朧な意識を引き上げたのか、ふと、アレイスの片目が開かれた。その焦点は定まっておらず、未明の姿は認識できていないのだろうと察せられる。
「アレイス・カーレン……」
「ミアカスール……戻りましたか……」
アレイスの声は微かなもので、口元に耳を寄せないと聞き取ることが難しかった。
「なんで、なの……?」
その『なんで』が何を問うものなのか、未明自身もよく判っていなかった。だが、アレイスは『何故庇ったのか』と理解したようだ。
「『グールムアール』を、壊すわけには……いきませんから……」
途切れ途切れに、それでもアレイスの口元には笑みが浮かぶ。未明に向けられる視力を失ったその目に浮かんでいるのは、焦がれる色だ。けれど、彼が求めているのは彼女ではない。
求道者であるアレイス・カーレンが故郷を捨ててまで追い求めてきたものは、『グールムアール』ただ一つ。
そのひたむきさは、愚かだ。
愚かだけれども、何かを求めてやまない気持ちが、今の未明には解かる。
「私ね、『コレ』を手放すわ。封印するの」
未明の決意を伝えても、アレイスの微笑みは消えない。いや、むしろ、深くなったようにも見えた。
「そうですか……」
短く答えて、再び光のない目を閉じる。
彼は、もう間もなく逝くだろう。
全てを手放し、何一つ得られぬまま。
アレイスは、ずっと未明を狙い、追いかけ続け、確かに『敵』という存在ではあった。だが、それと同時に、彼女に残された、数少ない『仲間』でもあったのだ――二度と戻れない『故郷』をつながりとした。
身を起こそうとした未明の身体がふら付いて、康平が後ろから抱えこむように支えてくれる。彼に小さく微笑んでから、彼女は両手のひらを上に向け、胸の高さに持ち上げた。
「キ・サム・エ・フォロ・アピム」
未明の言葉と共に、彼女の両手の中に光が現われる。初めは小さく、次第に大きくなっていく。やがてそれは、彼女の両手のひらに包める程度の大きさの、何色ともつかない輝きを放つ珠となった。
「アレイス?」
その珠を手にしたまま、未明がそっと声を掛ける。
彼は辛うじてわずかに眼瞼を上げて、視線を未明の方へと向けた。
「……ああ……」
呻いたアレイスが、未明が手にした珠に向けて碌に動かない手を伸ばす。彼女は無言で彼の鳩尾の辺りにその珠を置いた。
「ああ、ようやく……『グールムアール』……」
魔力は失われていても紛いようのないその特異な存在に、アレイスの顔はうっとりと緩む。そして、程なく、珠に触れている部分から、彼の身体が光の粒子となって解け始めた。破壊されているのか、吸収されているのかは、判らない。だが、アレイスの身体は静かに崩壊していく。
その様を見守る未明の手が、康平を求めた。震える手で探り当てた彼は、彼女を胸の中に包み込んだまま、その手を力強く握り返してくれる。
やがて全てが終わり、アレイスの身体は痕跡一つ残らず、消え失せた。
彼の身体が横たわっていた場所を見つめたまま、未明がポツリと呟く。
「キンベルも、なんだよね……?」
康平は、問い返すことなく、ただ頷いた。それで、未明は全てを知る。
「そっか……。私、一人になっちゃったなぁ」
苦笑と共に、そう呟く。だが、その彼女の身体を、康平が強く抱き締めた。
「違う。俺がいるだろう? お前は、これから独りじゃなくなるんだ」
耳元で言い含めるように囁きながら全身で包み込まれて、未明の身体の震えが次第に治まっていく。
「うん……うん。そうだね」
頷き、康平の腕の中で向きを変えた。そうして、両手を彼の背に伸ばす。
「私は、私を生きるんだ――康平と一緒に」
夜空に輝くのは、真円の、満月。
それは、未明にとって常に悲しみと寂しさを伴うものだった――これまでは。
けれども、今日からは、ただ美しいと思えるものになる。
これからは、康平と二人で、感動と共に見上げていけるのだ。