海底探索
肉体という錨から飛び出した未明は、いったん海上へと出て、昨日見つけた『亀裂』がある方へと意識を向けた。
(やっぱり、違う)
その場所は、この場所からでもいやになるほどよく判る。単純にもう位置を知っているからというだけではなく、昨日とは打って変わって、闇夜の中のイルミネーションさながらの存在感を放っているからだ。
ただしそれは、心躍らせる美しい輝きではないけれど。
次元の隙間に漂う異形が染み出させているのは、キラキラと目を楽しませてくれる光とはかけ離れた、圧倒的な――おぞましさ。
昨日はその近くまで行かなければ気付かなかったのに、今日は離れていてもその存在を感じる。
(これってやっぱり、『亀裂』が広がったっていうことよね)
十中八九当たってしまっているに違いない予感に苛まれつつ、未明は真っ直ぐに飛ぶ。
マーキングはしておいたから、そこには、想起するだけで瞬き一つの間に辿り着いた。
(うわ……)
現実を目の当たりにした瞬間、未明は声に出さずに呻いた。
昨日は本当に隙間程度であったものが、今日ははっきりと中が覗ける程度になっている。確かに、まだまだ小さいものだ。次元もこことは違っている。中で微睡むオスラムがこの世界に影響するということはないだろう――まだ、今のところは。
けれど、たった一日でこれほど変化したということは、一週間後にはどうなっているか、推して知るべしというものだ。
(これも、私の――私の中の『グールムアール』のせい?)
未明は無意識のうちに実体のない胸元を握り締めた。
次の満月までは、あと三日。
今のうちにこの『亀裂』を塞いでしまえば、三日後には魔力も回復して次の世界へ跳べるだろう。
(でも、その三日の間に、また『亀裂』が拡がったら……)
一度塞いだからといって、また生じないとは限らない。満月が近づくほど『グールムアール』の力も満ちてくるのだから、その可能性は非常に高い。
――どうしよう、どうしよう……どうしよう?
未明の頭の中ではその言葉だけがグルグルと回転し、うまく働かない。
辛うじて考え付く手段は、三つ。
一つ目は、今のうちに『亀裂』を塞ぎ、満月になったら界を渡るもの。
――できたら選びたくない。ちゃんとした理由などなく、完全なる未明の我がままで。
二つ目は、今のままでこの世界に留まり、こうやって『亀裂』が拡がる度に延々と塞いでまわるもの。
――可能で無難だ。けれど、見えない終わりもしくは突然訪れる破綻に怯える日々になる。
三つ目は、門屋から教えられた剣を探し出し、それに『グールムアール』を封じるもの。
――彼女は一番これを望む。けれど、実現できると思えない。
未明は『亀裂』の奥で眠りを貪るオスラムを見据えた。
今までに何度も何度も繰り返してきたように、ここから……この世界から逃げ出すことは、簡単だ。そして、一番確実な方法。
少し前の彼女なら、康平と出会う前の未明なら、迷うことなく道を選んでいた。一も二もなく、世界を守る道を、ただそれだけしかない、道を――その道しか、彼女には存在しなかった。
けれど、今は
もう一度オスラムに目を向けてから未明はそこを離れ、海面に出る。波立つ海を睥睨し、目を閉じた。
ひとまず一切の感覚を遮断し、意識を幾千、幾万にも分けて、その海域に生息する生き物全てに飛ばす。
群れを成す大小の魚類、海底を這う甲殻類、微生物、そして優雅に泳ぐ海獣たち。
関門海峡に息づく生物の全ての感覚器を使って、未明は海の中を捜索する。
凄まじい勢いで魔力が消耗されていくのが判ったが、彼女は頓着しなかった。いっそ魔力を消費しきってしまえば、『亀裂』への影響も和らぐというものだ。
潮水が擦り抜けていく岩と岩の隙間。
光も届かない何かの残骸の陰。
様々なものが潜む柔らかな砂の中。
未明は、ありとあらゆる場所を、ありとあらゆる感覚で探っていく。
クラリと、酩酊するような、全てが消え失せていくような感覚が未明を襲うが、構わずに続けた。今の彼女の位置を中心に、波紋を生み出すように範囲を広めていく。
思念体の形が揺らぎ、『未明』という存在が不安定になった、その時。
(――あ……)
何かが、彼女の感覚を刺激した。
どの生物から送られたものだろうか。未明は、グッと絞り込んでいく。
それは、一匹の海老だった。海底の砂の上を歩いていた小さな海老が、何かの上を通ったのだ。
探索させてみると、やはり、何かが感じられる。門屋からもらった組紐のように、未明の知る魔術とは異なるが、何かの力を持っているものだ。
未明は散らしていた意識をその場所に集中させ、一帯の甲殻類を呼び寄せる。それらに砂を掘らせておいて、一頭のスナメリをそこに向かわせた。
海老や蟹が一心に掻き出す真砂の中から現われてきたものは、確かに鞘に収められた剣である。だが、比較的小振りなもので、康平が持っているナイフを一回り大きくした程度だ。
(本当に、これでいいの……?)
判らない。
確証は、ない。
確かにそれからは何かが伝わってくるけれど、強力な呪具とか、そういうふうには感じられない。
ただ、何というか、これはこの世界のものではない――直感めいたものが未明にそう囁きかけてくる。
逡巡は、短かった。
未明は到着したスナメリの口にそれをくわえさせ、康平の待つ海岸へと向かわせる。
急げ、急げ、急げ。
海獣を急き立てる未明の視界が、一瞬、暗くなった。途端にスナメリは剣を落とし、反転してどこかへ行ってしまいそうになる。慌てて彼女は自分を叱咤し、再びスナメリを捕まえた。
(もう少し。……康平に、渡さなくちゃ)
殆ど祈るような心持ちだった。
薄れゆく意識を懸命に引き留めながら、未明はただ康平のもとに帰ることだけを考える。
岸に近付くにつれ、海底に届く太陽の光が強くなってくる。そして、康平の存在も。
あと少し、だった。




