終
新宿に戻った二人は、その足で門屋のもとへ赴いた。
「あの辺色々見てきたけどよ、なんかあるって言ったら、風車の中の一基が壊れてたってことくらいなんだよな」
シレッとそう報告した康平に、門屋が腕を組んで考え込む。
「じゃあ、それのせいかな。ほら、サブリミナルみたいなもんで、ノイズが入ると深層意識に変なふうに作用しちゃったりとか」
「さぁね。まあ、そういうこともあるんじゃねぇの? 俺にはよく判らねぇけどよ、そのくらいしか見つからなかったってことで」
実際には、風車が壊れたのは康平が戦っていた時だ。風車の羽根の一つに実体化した『眷属』が衝突して歪んでしまったのだが、いつから壊れていたかなんて誰にも判らないだろう。
「色んなことがあるもんだねぇ」
感心しきり、という風情の門屋の声と表情からは、どこまでその話を信じているのか、さっぱり予想がつかなかった。
だが、康平は敢えて藪を突くような真似はしない――蛇は大人しく藪の中にいてもらったほうがいいのだ。
「事実は小説より奇なりってか? ま、その風車の動きがおかしいってのは伝えてきたから、修理して収まったら、それのせいだったってことでいいんじゃねぇの?」
次元の亀裂は塞ぎ、アレイス・カーレンの魔法陣とやらも消してきた。
この後眠り病患者が出現しなければ、人々は風車の破損とあの現象を勝手に関連付けて納得してくれるに違いない。どんな奇妙な事柄でも、『理由』が解ればいずれはその奇妙さは薄れていくものだ。
そう、恐らく、もう新たな患者は現れない。だが、正直、今いる眠り病患者が目覚めるかどうかは予測できないのだと未明は言った。
「体力がどのくらい残っているか、精神がどれほど傷付いているか……肉体的にも精神的にも、ある一線を越えてしまったら戻れなくなると思う」
あの町を出て空港へ向かう車の中での未明の言葉だ。
彼女のそのセリフで、康平は自分自身に起きたことを振り返った。
はっきりとは、覚えていない。今でも、ほとんど思い出せていない。
だが、とにかく苦しかったことは覚えている。
そこにあったのは自らに対する全否定だ。
――ひたすら自分の存在が赦せず、叶うことなら杯一粒残さず消し去ってしまいたい。
その感覚だけは、眠りから覚めた後も鮮明に残っていた。
ハンドルを握る手に力がこもり、どこまでも真っ直ぐな北海道の道ですら路肩にはみ出しそうになった時、そっと未明の手が伸ばされた。
未明は康平に触れ、彼を見つめた。
言葉は何もなかったが、その温もり、その眼差しが、彼を全肯定していた。
康平は、それを受け入れた。胸の奥にくっきりと刻まれたままの傷と共に。
彼の中のその傷は、きっと死ぬまで消えることはない。
それは今の彼を形作るものでもあるのだから、消そうとしても無理なのだ。
他の眠り病患者もしかり。起きたことは、決してなかったことにはできない。
だが、その傷が生み出す痛みを癒す手段は、きっとある――康平が未明を得たように。
彼はちらりと彼の後ろにいる未明に視線を走らせた。彼女は、門屋のところに来ると相変わらず警戒する仔猫のようになって、康平の後ろから出てこようとしなくなる。
目が合うと、未明は軽く首をかしげて「何?」というように目だけを微笑ませた。
それに微かな笑みで康平が答えた時、のんびりした声が二人の間に割って入る。
「なんか、何かあったの、お二人さん?」
問うた門屋の顔に浮かんでいるのはにやにや笑いだ。まるで、眠り病の顛末よりもよほどこっちの方が面白そうだと言わんばかりの、笑い。
「別に、何も」
「へぇ? そうかい? イイ感じに熟してきたって感じだけどね?」
もとから細い門屋の目は今や糸の様で、その口は右の耳から左の耳までつながってしまいそうだ。
長居をして変に突っ込まれても困るので、康平と未明はさっさと退却体勢に入る。
「気のせいだ。じゃぁな、報告できることはこれくらいだ」
「もう、つれないなぁ。ま、いいよ。また、何か面白いネタがあったら教えるからさ」
「ああ」
そそくさと門屋の事務所を後にして、康平はフウ、と息を吐いた。
「結構、あっさりだったな。もっと食いついてくるかと思ってたぜ」
「……」
返事がない。康平が見下ろすと、未明は何やら難しい顔をしていた。
「どうした?」
顔を覗き込まれて、彼女はハッと息を呑む。
「あ、うん。なんでもない。ちょっとボウッとしてた。早く帰ろ」
ニコリと笑う彼女は、もういつもどおりの様子である。
康平は未明を見下ろし、ため息混じりに肩をすくめた。そうして、彼女の頭をワシッと掴み、ぐしゃぐしゃとその髪を掻き乱す。
「ちょっと、康平!?」
もつれた髪を直しながら憤然と抗議する未明に、彼は笑いを返した。
(まあ、話す気になったら話すだろ)
康平は内心でそう呟く。
ほんの少し前なら、未明が話すまで食い下がっていただろう。だが、もう、彼女の心中を知ろうとしてがむしゃらになる必要はなかった。突き放しているわけでも、関心が薄くなったわけでもない。ただ、彼は『待てる』ようになったのだ。
それは、康平が未明を信じているからこそ、できること。
信頼という確かな絆を得たからこそ、できることだった。
*
夜も更けて。
未明は眠りの中にいた。
『夢』というのは、一種の別次元になる。身体は地球という世界にいながら、精神はそことは少し違う場所に居るのだ。
その『夢』の中で、未明はゆっくり振り返った。
そして、そこにいるモノを真っ直ぐに見つめる。
「こんばんは。やっぱり、あなただったのね……」
彼女は、『ソレ』に囁きかけた。