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暗黒神話  作者: トウリン
変容

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32/65

過去巡り①

 未明みあかは深く深く潜って行く――康平こうへいの中へ。

 彼の心の中は厚い壁で覆われており、なかなか深層へ辿り着けない。

 身にまとわりついてくるものは暗く重く、ともすればペシャンコに押し潰されてしまいそう。


 康平は、こんな中にいるのだろうか。


 ここで呼吸は必要ないけれど、もしも息をしていたらあっという間に窒息してしまうに違いない。

 そんな中を、未明は必死に彼を探してより深みを目指す。


 ――どれほど進んだ頃だったろう。


 やがて、彼方に仄かな光が見え始めた。



   *



 子どもは、ようやく三歳になったばかりだった。


 NGOで難民救済に携わっていた両親はともに天涯孤独であり、子どもを託せる相手がいなかった。二人は迷った末に、政府と反体制組織が争うこの政情不安定な国に、子どもを伴った。


 両親は子どもに惜しみない愛情を注ぎ込み、銃声と、貧困と、病と、絶望と、ありとあらゆる不幸が渦巻く世界で、子どもは幸福に包まれていた。


 泣いたら、抱き上げてくれて。

 嬉しくても、抱き締めてくれて。

 頑張ったら、頭を撫でてくれて。

 愛しているよという言葉は、呼吸よりも自然に与えてもらえた。


 だが、その幸せな日々は、ある時、唐突に終わりを迎える。

 両親が世話をしていた難民キャンプが、反体制組織に襲われたのだ。豊富とは言えない食事と医薬品を狙われて。


 母は子どもを護ろうとし、父はそんな妻と子どもを護ろうとした。


 辺りを支配する銃声と悲鳴。

 鼓膜に突き刺さるような騒音が消え失せた後、自分に覆い被さっている冷たくなった身体の下から這い出して、子どもは重なるようにして横たわる二人を必死に揺さぶった。


 ……けれども、二人は目覚めない。


 子どもは、身を引き絞るように、泣き出した。



   *



 未明は、ただひたすら泣き叫ぶ子どもを前に、どうしたらいいか判らなかった。


 こんなに泣いていたら、壊れてしまう。

 そう思ったら、勝手に手が伸び、子どもを抱き寄せていた。


 これは、『彼』の記憶。実際には触れることはできないし、その頃の『彼』を助けることも、できない。

 それでも、未明は子どもを抱き締め、その胸に押し付ける。


 子どもの震えが、しゃくりあげる声が、全身に突き刺さってきて、まるで全身を引き裂かれるように、痛い。


「悲しいね……寂しいね」

 ただ、それしか言葉が思い浮かばなかった。


 ――不意に子どもが掻き消え、暗転する。



   *



 少年は、反体制組織に身を置いていた。


 死体が転がる難民キャンプの中で泣いていたところを、この辺りでは珍しい東洋系は何かの役に立つだろう、と、殺されることなく拾われたのだ。


 少年には、善悪はよく判らない。

 ただ、政府とそれに与するものと戦うことを、教えられた。それ以外は、教わらなかった。

 少年はすこぶる優秀で、体術も、銃の扱いも、刃物の扱いも、爆発物の扱いも、全て、彼よりも遥かに年上の者を凌駕した。

 従順で高性能な、兵士――いや、兵器。それが、彼だった。


 ある日彼は、巡回途中であるものに遭遇する。

 それは、彼よりもいくつか年上に見える、少女だった。彼女は崖から落ちたらしく、足を怪我していた。


 不審人物は、全て報告する義務がある。キャンプに連れて行き、上の判断を仰ぐのだ。

 だが、その少女を見た瞬間、少年の胸に何かざわめきのようなものが走り抜けた。物心ついて以来、彼が見た女といえば中年の料理人くらいで、こんなふうに華奢な少女は目にした記憶がない。


 少女は、息もままならないほどに怖がっていた。

 自分に向けられた彼女の怯えた瞳が、心臓に突き刺さる気がした。

 そんな目を向けられるのが、どうしてなのか、耐え難いほどに嫌だった。


 少年は立てた人差指を唇に当て、声を出さないように指示をし、彼女を抱き上げる。その身体は柔らかく、温かく、少年は妙に落ち着かない気分になった。そして同時に、誰にも害されることのないようにしてやりたいと、強く彼に思わせた。

 少年を信じたから、ではなく、恐らく心底から怯えきっていたから、少女は彼の腕の中で声も出さず、暴れることもなく、されるがままになっていた。


 少年は、木々に隠れた洞穴へと少女を隠した。

 隠された少女は、不思議そうに少年を見上げる。彼は彼女に非常食と水筒を渡し、明日も来ることを伝えた。


 数日もすると、少女の表情は次第に柔らかくなる。少年に向けて微笑みかけるようになるのも、それほど時間を要しなかった。彼女の控えめな微笑みは、少年の胸の中に明かりを灯す。

 彼女と離れたくはなかったが、歩けるほどに足が治ったら、すぐに近くの村まで連れて行くつもりだった。そうしなければならないと、解っていた。


 一週間ほども過ぎた頃であろうか。


 いつものように、少年は洞穴へと向かった。


 だが、いつもとは、何かが違っていた。


 洞穴の入り口には、明らかに大人の男のものと見て取れる、複数の足跡。恐らく、六人。

 嫌な予感に、口の中に苦い唾が湧いてくる。

 覗きこんだ洞穴の中に求めた姿はなく――少年はすぐに身を翻した。


 地面に残る足跡を、獣のように辿っていく。時折見え隠れする男たちの足跡に踏み崩された小さな足跡は、裸足だ。男たちのものは洞穴に入っていくものと出ていくものとの両方があったが、その小さな足跡は、出ていくものしかなかった。

 大きな足跡と小さな足跡では、歩幅も明らかに違う。

 だが、短くはない距離を、それらは残されていた。

 まるで追うことを――狩ることを楽しむように、延々と続いている。


 もしかしたら、彼女は逃げおおせたのかもしれない。


 仄かな希望が少年の胸に生まれたその時、彼は少女を見つけた。


 その姿に、少年は立ち竦む。


 ――息は、あるのだろうか。


 そう思った時、彼女の手がピクリと動く。ゆっくりと首が巡り、その目が少年を捉えると、彼女は弱々しく微笑んだ。


 少年はその無残な姿によろめきながら近付き、傍らに膝を突く。

 衣服は身体とともに切り刻まれ、血に濡れそぼっている。治りかけていた足は――膝を撃ち抜かれていた。

 手を伸ばして首筋に触れると、脈は仔猫のように速く、微かだった。


 少女が、彼に望みを囁く。

 少年は一度首を振ったが、重ねられた少女の懇願に、ゆるゆると拳銃を取り出した。


 ――護ってやりたかったのに。


 だが、今の彼女を救えるのは、その方法だけだった。


 外しようのない距離で狙いをつける少年に、彼女は一言呟き、微笑んだ。

 今までに何度も軽く引き絞ってきた引金が、途方もなく固い。彼は、全身の力を、指に集中させた。


 轟く銃声。


 かつて少年が見惚れた微笑は、今も少女の口元に残っている。もう、二度と消えることなく。


 少年は、硬直した指を引き金から引き剥がし、拳銃を遠くへ投げ捨てる。そして、小さくうずくまった。



   *



 未明は、仮の自分の姿よりもいくつか年かさに見える――それくらいの年にしか見えない少年が小さく小さく縮こまる様を見つめていた。

 まだ細い背中に触れ、覆い被さるように頬を寄せる。


 震え方は、幼いころと同じ。

 けれど、今の少年は、声を嗄らして泣き叫ぶことはない。


 でき得ることなら、凍えきったその身体に、自分の熱を全て与えてあげたかった。

 それができないことが、つらい。


「お願い……お願い」

 そう呟きながら、未明にも自分が何を願っているのか、解っていなかった。

 でも、口にせずにはいられなかった。


「……お願い」


 ――不意に少年が掻き消え、暗転する。


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