三日目の朝
目の前に横たわる、華奢な身体。
ズシリと重い、手の中の銃。
かすれた、懇願の声。
差し伸べられる、手。
優しく甘く響く、囁き――『あなたには、誰かを護ることなんてできないのよ』。
それは、彼を打ちのめす声。
――そして、彼は……捕まった。
*
――ちょっと、ほら、起きなよ。起きて、彼を見てよ。
未明は、呼びかけてくる声に引き上げられるように、ゆるゆると眠りの淵から抜け出した。
覚醒を促してきたのは、日本語ではなかった気がする。そして、聞き覚えもない。若い女性、多分、今の未明とそう変わらない年齢の少女の声で、この日本ではない、どこか異国の言葉。
この世界の全ての、とはいかないものの、未明はかなりの数の言語をマスターしているから、すぐさまその中からどの地域のものなのかを頭の中から引っ張り出すことは難しかった。
取り敢えず、その内容に心を向ける。
(――……彼?)
未明にとって身近な男性といえば、康平しかいない。半分寝ぼけた頭で隣を見ると、珍しいことに、彼はまだ熟睡しているようだった。いつもは、康平の方が早く起きるのに。
思わずベッドサイドまで行って、しげしげと見つめてしまった。出会ってから二回目の満月を迎えるほどの日々を一緒に過ごしていて、彼の寝顔を見ることが何度あっただろう。
(……ない気がする)
たいていは康平の方が先に起きていて、身支度も済ませて朝ご飯も作っていてくれる。
突いても起きなそうだな、と思いつつ、未明は時計に目を向けた。
時刻は午前九時。寝坊の域だ。
けれど、眠り病の原因になっていた風車の魔法陣も解除したし、あとは夜になったら次元の亀裂を塞ぎ、一晩休んで帰るだけ。早起きしなければならない理由はない。門屋への説明を考える必要はあるけれど、まあ、それは康平が何とかするだろう。
とにかく、今は早く全部終わらせて東京に帰りたい。
東京へ帰ってしばらくすれば、ここ数日おかしかった彼の様子も元に戻る筈だ。
特に昨日はひどくて、風力発電所から帰った後、康平はほとんど口を利かず、まるでロボットのように食事を摂る間も、未明に視線を向けようともしなかった。「おやすみ」と声をかけた彼女に、かろうじて唸るような声は返してくれただけで。
(戻ってくれないと、イヤだな)
切実に、未明はそう願う。
康平が自分に何かを求めているらしいことは解るのだけれど、その『何か』が何なのかが判らない。未明は康平を護りたいと思うから護っているのに、それが何故か彼を怒らせているように思える。未明がしたいことと、彼が望むことが合致していない。
康平の方は、守ってくれると言ってくれたりとか、頭を撫でてくれたりとか、未明が望むことを言ったりしたり、してくれるのに。
この世界に来てからは、ふと視線を巡らせれば、彼がいる。目が合えば、声には出さなくても、素振りで「何だ?」と訊いてくる。
この世界の栄養補給――食事はとても美味しくて、それが誰かと一緒にするものだと一層味が豊かに感じられる。
休息をとる時には「おやすみ」と声をかけ、覚醒した時には「おはよう」と言う。独りの時には意識レベルを落とすことが不安でならなかったけれども、彼がいると思えばそれだけで安心できた。
未明は、康平と一緒にいられるだけで、嬉しい。だから彼を失いたくないと思うし、護りたいと思う。
けれど、康平はそれを良しとしていない。
「誰かと一緒にいるって、難しい……」
思わずそう呟いたが、慌てて首を振った。そして、康平を起こしにかかる。
「康平、朝だよ。起きて?」
声をかけただけでは、目覚めない。
「康平?」
揺さぶってみた。
「康平、……康平?」
何度名前を呼んでも一向に反応はなく、しっかりと閉じられた目蓋が震える気配すらない。
(これって……)
遅ればせながらその不自然さに気付き、そして、思い当たる。
「ウソ……眠り病?」
何故、康平が。彼はそんなに弱い人ではないはずだ。
そう信じようとした未明だったが、頭の片隅では、「本当に?」と問いかける声が聞こえてくる。彼女だって、康平が時折漂わせる『翳』に気付いていた筈だ。ただ、触れようとしなかっただけで。
「ねえ、康平。目を覚ましてよ」
呼びかける声が震え、目の奥が熱くなる。
このまま放っておいても、このあたりに漂う魔法の残滓が消え失せれば、いずれは目を覚ますだろう。
けれど、それはいったいいつまでだろう。それまでの間、自分はまた独りになるのだろうか。
もしかして、この眠り病があの魔法陣のせいでも何でもなくて、もう二度と、彼が目覚めることがなかったら?
一気に、未明の頭の中は絶望と不安で飽和状態になった。
「イヤ。そんなの、絶対無理」
ポタリ、ポタリと康平の頬に雫が落ちる。誰かとともに過ごす幸せを知ってしまったら、もう、一日だけでも独りではいられない。
かつての生まれ育った世界でも、未明は孤独だった。周りにたくさん人はいたけれど、康平と過ごすようになった今は、あれは孤独だったのだと、判る。皆、未明を尊重し、ともに生活はしていたけれど、誰も康平のようには触れず、康平のようには笑いかけてこなかった。
――だから、護りたいのに。
グッと、未明は奥歯を噛み締めた。
そう、護るのだ。
こうやって泣いていて、何になる。
未明は自分を鼓舞すると、両手のひらで頬の雫を拭い取った。
待っていられないなら、迎えに行けばいい――自分には、それができるのだから。
まだ眠りに落ちてから間もない今なら、傷も浅いかもしれない。彼の中に潜り、彼の精神に覚醒を促せば、目覚めてくれるかも。
「待っててね」
康平にそう囁きかけ。
未明は涙で濡れた両手を固く握り締めた。