二日目の朝
目の前に横たわる、華奢な身体。
ズシリと重い、手の中の銃。
かすれた、懇願の声。
差し伸べられる、手。
――そして……。
*
「あのさ、鍵になるのは負の感情じゃないかな――罪悪感とか、自分を責める気持ち」
朝食の席でそう切り出した未明を、康平は重苦しく疼く頭を持て余しながら見返した。
「何のことだ?」
「だから、昨日の女の子の話。ほら、お姉さんは眠ってしまったけれど、あの子は全然大丈夫だったでしょう? 飼い犬の死っていう、同じ悲しいことを経験したけれども、あの子は無事で、お姉さんは眠ってしまった。じゃあ、何が違うのかって言えば、お姉さんは『自分が死なせた』と思っていたらしいってとこくらいなのよね」
未明の『自分が死なせた』という台詞に、ほんの一瞬、康平の脳裏に映像が閃いた。
暗い部屋。
薄汚れた床に横たわる少女。
――彼女の顔は、ぼやけていて見えない。
彼が持つコーヒーカップが揺れて、カチャリとソーサーに触れる。
「康平?」
呼ばれて、彼は我に返った。未明は眉をひそめている。
「え?」
「聞いてる?」
「え、ああ、聞いてるよ。だけどな、犬の死がきっかけって確証はないだろ?」
「そうだけど、逆に、普通に生活してる人に起きる出来事として、そう多いことでもないでしょ? 愛している相手の死って」
軽く首を傾げた未明が、言った。
確かに、そうだ。
大事なものを失うということは、日常茶飯事ではない。
誰にでも、どんな人間にも、起こり得るものではあるが。
「――で、罪悪感が眠り病の引き金だとして、どうしてそんなことが起きるんだ? 精神的な何かだとしたら、集団では起きないだろう」
さりげなさを装い、コーヒーを口元に運びながら康平は言った。未明は束の間思案顔になって、答える。
「風車のとこにも魔術の気配は残ってたし、やっぱり、キンベルだと思う。『旧き神々』はヒトの生気を搾取するんだけど、恐怖や絶望に陥ったヒトのものを特に好んでいたの。眷族はそのための存在なの。ヒトを襲わせて、恐怖を味わわせる。……味でも違うっていうのかしらね。まあ、とにかく、キンベルなら『旧き神々』の欲することをしようとするんじゃないかな」
「ふうん」
康平は適当な相槌を返す。
と、未明は何かに気付いたようにジッと彼を見つめてきた。
「なんだよ」
「康平、具合悪い? 何だか、顔色悪いみたい」
案ずるように顔を覗き込んでくる未明を、康平は片手で追い払うようにして遠ざける。
「何でもねぇよ。寝不足なだけ。で、それならどうするんだ?」
未明はジッと彼を見つめる眼をしばらくそのまま留めていたが、やがて諦めたようにホッと息をつく。
「できる限りで、眠っているヒトの背景を調べられないかな。今の説が正しいなら、皆、何か辛い出来事があったってことになるんだけど」
「そりゃ、難問だな。都会ならベラベラ喋ってくれる者もいるだろうが、こんな田舎町じゃ、近所の噂をただの観光客に話すとは思えん」
「そっかぁ」
康平の返事にそう呟くと、未明はまた黙々と食事を進める。
やがて食卓の上もあらかた片付いた頃、彼女が再び口を開いた。
「方法が、ないわけじゃないんだけど……」
「え?」
「あのね、私の精神体だけを飛ばして、眠っている人たちの中を見てくることもできるの」
「へえ。なら、それをやったらいいじゃないか」
そう言ってから、康平は難しい顔をしている未明に気が付いた。
「……危険があるのか?」
「まあ、それなりに。でも、危険と言うほどではないわ――精神体を飛ばすこと自体はね。問題は、残していく身体の方なの。完全に意識を失って、無防備になっちゃうから……結界を張っていっても、百パーセント安全とは言えないし」
要は、残していった身体は無防備になる、ということか。
本気で悩んでいるらしい未明に、康平の中に、また苛立ちが沸き立ってくる。
「俺がいるだろう?」
「?」
「俺がいるだろうと言っているんだよ。お前の身体くらい、護ってやるさ」
「え、あ、ああ……」
まさに今初めて気が付いた、という風情で未明が瞬きをする。
そんな彼女の素振りが、また、康平の心の奥の何かを引っ掻いた。
未明が悪いのではないことは解っている。ただ、『誰かが傍にいる』という事態がまだ彼女の身に沁みていないだけなのだ。
今まで、長い間――康平など想像すらできないほど長い間、独りで戦ってきたのだから。
そもそも、誰かに守られるということを知らない、守ってくれるものがいるということを知らずに来たのだから。
だが、それでも――
(何か、ムカつく)
康平自身、こんなことで腹を立てるのはおかしいと頭の片隅で思っていたが、何故か自分の感情をコントロールできない。小さなことが、無性に気に障る。何だか、終始、頭の中にノイズが漂っている感じだ。
ムッと黙り込んだ康平に、未明がおずおずと声を掛けてくる。
「あの、ゴメンね? 頼りにしてないっていうわけじゃ、ないんだよ。ただ、その……つい、独りでいる時と同じに考えちゃって……」
いかにも申し訳なさそうに謝られて、彼は自分の理不尽さに歯噛みした。
(なんで、こんなしょうもないことを気にするんだ?)
自分がおかしいことは判っていた――何かが変だ。
康平は己の中の違和感を自覚しながらも、口は素っ気無い言葉を吐いてしまう。
「行ってこいよ。俺がここで見張っとくから」
彼の口調に一瞬うつむいた未明だったが、すぐに顔を上げると、ニコッと笑顔になった。
「判った、行ってくる。私の身体をお願いね」
そう言うと、未明は目を閉じる。
彼女が何かを口の中で呟いたかと思うと、その身体がくたくたと崩れ落ちた。思わず手を伸ばした康平だったが、目を閉じ、軽く唇を開いた、精巧な人形のようなその美しさに動きを止める。賢しげな口を利かれるとただの小生意気なガキとしか思えないが、こんなふうにその造形だけに目が向くようになると、どこか異国風の容貌はただただ美しいの一言だ。
テーブルに伏せた未明に自分の手で触れるのが躊躇われ、彼は声も無く見つめる。しかし、いつまでも不自然な格好でいさせれば、戻ってきた時に彼女はえらい目に遭うだろう。
溜息をついて康平は椅子から立ち上がり、未明の横に回った。その肉の薄い背中と膝裏に腕を差し入れて持ち上げる。はかなく感じるほどの華奢さ、軽さに、胸の奥に妙な疼きを感じた。
何故、そんなふうに感じるのか。
束の間康平は眉をひそめたが、多分、打ち捨てられた仔猫を摘まみ上げた時に覚えるのと、似たようなものなのだろう。
あまりに小さく頼りなさそうなものを前にしたら、皆、こんなふうに感じるはずだ。
康平はそう自分を納得させながら、ベッドに寝かせる。上掛けで身体を覆い、頬にかかった髪を払ってやろうとして、結局手を止めた。そのまま、彼はギュッと拳を握る。
そして未明から離れて自分のベッドに腰を下ろすと、ジッと彼女を見守った。




