朝の一幕
――何故、俺はこんなことをしているのだろう。
康平は真面目に自問していた。
そうしている間も、二人分の朝食を作るべく、一つのフライパンの中でスクランブルエッグをかき回し、ウインナーを炒めている。
そもそもよほどのことがなければ昼前に起きることがない康平が曲がりなりにも『朝飯』と呼べる物を用意するようになって、三日。
そう、未明という名の少女の為に朝食を用意するようになって、すでに三日が経とうとしているのだ。
その間、この仕事の依頼人である未明の姉という女は、全くの音信不通である。いったい、どんなつもりなら、こんないい年をした男のところにわずか十歳そこそこの妹を置き去りにできるのか。生憎と康平にその趣味はないが、このご時勢、十歳の少女でもペロッとイかれてしまう可能性は充分にあるというのに。
ため息をこぼしつつ、康平はリビングいる『預かりもの』に目を遣った。
件の少女は今日も目覚めると同時にデスクトップの前に陣取り、ネットで次から次へと、色々なサイトを覗いていっている。暇つぶしにでも、と思ってパソコンを貸してやったら、すっかり病みつきになったらしい。この三日というもの、彼女は起きている間はほとんどそうやっていて、ありとあらゆる方面の情報を仕入れていた。
モニターだけでなく3Dホログラムも使っているから、キッチンからでも彼女が何を見ているのかが判る。現れるものが数秒ごとに切り替わるその様に、当初はあんなに移動が早くて見ている内容を理解できているのかと疑った康平だったが、後で訊いてみると答えは至極的確なものばかりだった。多分、ちゃんと頭に入っていっているのだろう。
と、ウインナーにイイ感じに焦げ目がついてきた。
「そろそろ飯が行くぞぉ。テーブルの上片付けて、コーヒー淹れといてくれや」
「わかった。ちょっと待って」
そんな返事に続いて、ガサガサゴトゴトと音がする。
――なんだか、妙に馴染んでいるところがイヤだ。
不満と諦めをブレンドさせて、康平は渋いため息をついた。
そうしている間も彼は手際よくスクランブルエッグとウインナーを皿に分け、レタスとプチトマトを添える。ほぼ同時に、チンとトーストが焼きあがる音がした。
康平は片腕に二枚ずつ皿を乗せ、器用に運んでいく。
「ほらよ」
「うわぁ、いいにおい。おいしそぉ」
トントン、と、康平がスクランブルエッグの皿とトーストの皿を目の前においてやると、未明は目を輝かせた。飯を作ってやるとだいたいこんな感じの反応をするので、面倒くさいことになったと思いつつも、正直、ちょっとばかり嬉しい。
「ほら、食えよ」
「うん、いただきます! ――おいしい!」
毎朝たいして変わり映えのしないメニューだというのに、彼女は実に作りがいのある反応を示してくれる。
康平もフォークを握って食事を始めるが、目は未明の様子を注意深く観察していた。
(こいつの国は何処なんだろう?)
その疑問が、やはり頭に残る。
この三日間の様子を見ていると、彼女がこれまで日本の文化圏に住んでいなかったことは明らかだった。今でこそ『いただきます』と口にするが、初めの食事ではその挨拶も出ず、箸も全く使えなかった。風呂を用意してやってもきょとんとしており、シャワーに感激したのを見た時には、いったい何処の未開の土地から来たんだよ、と康平はツッコミを入れそうになったのだ。
日本で生活していなかったのは明らかだが――その割りに日本語は流暢だ。ネットをみている時の様子では、読む方もできるのだろう。もしかしたら、凄まじく頭がよく、短期間で日本語をマスターしてしまったのかもしれない。
(まったく、わけの解らないガキだな)
内心でボヤいて、別のことを口にする。
「で、あんたの姉さんってのは、いつ迎えにくるんだ?」
「え、ああ、姉さん? そうね、あと三週間と少しってところかしら」
「あ、そう……三――ゲホッ」
さらりと聞き流しかけた彼女の台詞の内容に意表を突かれた康平は思い切り息を吸い込み、それと一緒に変なところに入っていったトーストの欠片でむせた。ひとしきり咳をして、呼吸を整えてから、改めて訊く。
「ちょっと待て、三週間!?」
「うん、だいたい」
「姉さんはその間、何やってるんだ?」
「そうだね、時機を見てるのかな。――大丈夫、遅くともひと月後には、いなくなってるから」
――だから、何も言わずに置いておいて欲しい。
言外に、未明の目がそう語っていた。
この少女は、時々、やけに大人びた眼差しをする。黒目がちな栗色の――虹彩に金粉が散りばめられたように煌くその目でジッと見つめられると、妙に康平の胸は騒いだ。その目を真正面から覗き込むと、フッと吸い込まれていきそうな感覚に襲われる。
ふい、と康平は目を逸らし、ガリガリと頭を掻いた。そして深々とため息をつく。
「引き受けたからには、最後まで面倒見るさ。お前の姉さんが迎えに来るまでは、な」
「康平!」
康平の言葉に、パッと未明の顔が輝く。
その変化に、彼女が心の内に隠していた不安の強さを見せつけられた。
(ああ、くそ)
こうなったら、仕方がない。
声に出さずに呻いた彼は、本格的に観念する。
康平は、致命的に女性に弱かった。年齢に限らず、女というものに頼まれたら断れない。これはもう、どうしようもないことだった。
「康平?」
片手で目を覆って天井を仰いだ彼に、おずおずと未明が呼びかける。彼は指の隙間から彼女を見遣った。
「……まだしばらくいるんだったら、お前の服を買いにいくぞ」
「え?」
「それ」
康平は、ピッとフォークで未明の服装を指す。それは、康平のTシャツを被っただけの姿だった。ワンピースのように見えなくもないが、襟ぐりは広くて薄い胸が覗き込めてしまうし、裾からは仔鹿のような素足が伸びている。そしてもちろん、その下には何も着けていない。
未明との同居が始まった日、康平は彼女に自分の荷物はどうしたのかと尋ねたのだが、ケロリと「無いよ」と言われてしまった。
なんでも、未明の姉は『悪い奴ら』に追われているらしい。逃げる途中で持ち物は落としてしまい、着ていた服は汚れていたからここに来た時にすぐ捨ててしまったのだとか。
甚だ胡散臭い説明だが、康平も深入りする気はない。ろくに理由も確認せず人を匿うことなど、これまでにも何度もしてきた。
「ここにまだいるなら、もうちょいまともな格好しとけよ」
「別に、いいよ、このままで」
未明は自分の身体を見下ろしながらそう答えるが、即座に康平が却下する。
「俺が嫌なの」
「……もしかして、イケナイ気分になっちゃう?」
色気のいの字も持たないくせに、小首をかしげて彼女は言った。この辺りも、ネットで仕入れたネタらしい。
「あほ。なるかバカ。一ヶ月間、この部屋に閉じ籠っているわけにもいかないだろう? 外に出るのに、この界隈をそんな格好で歩いていたら、三十分で拉致られるぜ」
言いながら未明に目を遣ると、なにやら考え込んでいる。何か、気になることがあるようだった。
「どうした?」
「ん……」
「『悪い奴ら』が気になるのか?」
「まあ、ね。多分大丈夫だと思うのだけど……」
「意外に、人混みってのは隠れるのにいいもんだぜ? それに、そいつらが来たとしても俺がなんとかしてやるよ、ちゃんと」
康平の言葉に、未明がニコッと笑う。妙に賢しいが、こういう顔をすると、年齢相当に可愛らしくなる。
「そうだね。頼りにしてるよ」
そう、口には出していたが、未明の目の奥にある憂いを、康平は見逃さなかった。