魔法学園58
翌朝。
前もって服装も髪型も決めていたヴィヴィは、慌てる必要はないのに、なぜか心だけが焦っていた。
緊張で朝食もろくに喉を通らず、ミアを心配させたほどだ。
ちゃんと食べておかないと、ランデルトの前ではもっと食べられないのではないかとミアに促され、どうにかいつもの半分の量を口に入れた。
お腹が空くのは我慢できるが、間違ってもランデルトの前でお腹が鳴ることだけは避けたい。
あとはミアに全てを任せ、お化粧も薄く頬紅を叩いて、口紅もほんのり色づいたものだけにした。
学園では素顔で過ごしているので、少しだけいつもより可愛いと思ってもらえればいいのだ。
それに、これなら落ちても悲惨なことにならない。
髪の毛は一本の三つ編みを背中ではなく左側に流すことによって、女の子らしさがより強調されていた。
帽子をかぶるかは、行き先を聞いてから決めればいいだろう。
どきどきして部屋の中をうろうろとしているうちに、いよいよランデルトが到着したらしい音が聞こえた。
しかし、執事が呼びに来るまでヴィヴィが部屋から出ることはできない。
それが思いのほか長く感じられて、メイドの一人に様子を見に行くようにお願いした。
ミアは付き添いのために準備を整えて、ヴィヴィについていてくれる。
そして戻ってきたメイドは困ったように笑っていた。
「どうしたの? ランデルト様は到着されていたんでしょう?」
「はい。ですが、旦那様が書斎へとお通しになり、今はお話をされているようでございます」
「お父様が……」
ミアの問いかけに答えたメイドの言葉に、ヴィヴィはがっくりうなだれた。
あの親馬鹿が何を言っているのか不安で仕方ない。
よほど割り込んでいこうかとも思ったが、そんなはしたないことをすれば、ランデルトに呆れられてしまうかもしれず、ヴィヴィは何もできなかった。
そして、ようやく執事が呼びにやって来ると、ヴィヴィの心臓は飛び跳ねた。
それでも駆け下りたくなる気持ちを抑えながらゆっくりと階段を下りていく。
緊張のあまり震える足が階段を踏み外してしまわないように、必死に手すりを握って優雅に見えますようにと祈る。
初めて目にするランデルトの私服姿は予想以上にかっこよく、筋肉質の大きな体を際立たせていた。
「ヴィヴィ、すっかり待たせてしまったね」
「……お父様?」
ランデルトしか視界に入っていなかったヴィヴィは、父が傍にいたことにまったく気付かなかった。
父親である伯爵はかすかに落ち込んだ様子だったが、ヴィヴィは腹を立てていたのでスルーする。
「ランデルト先輩、こんにちは。今日はわざわざお迎えいただき、ありがとうございます」
「こんにちは、ヴィヴィアナ君。今日は誘いを受けてくれて、ありがとう」
「いいえ、とても楽しみにしておりましたから。それなのに余計なお時間をおかけしてしまったようで……」
あまり畏まらず、挨拶をしてこの場を和ませようとしたヴィヴィに、ランデルトも応えてくれる。
ヴィヴィは笑みを浮かべながらも、一瞬だけ父親を睨み、それから見送りと挨拶に出てきていた母に手を振って、差し出されたランデルトの腕に手を添えた。
「それでは、夕刻前には必ずお嬢様を送り届けますので、ご安心ください」
ランデルトは伯爵夫妻にそう告げると、ヴィヴィを馬車へと案内した。
そして乗り込むのにヴィヴィに手を貸してくれるばかりか、付き添いのミアにまで手を貸す。
ミアは戸惑っていたが、もちろん拒絶することもできず、顔を赤らめて馬車に乗った。
騎士道精神そのものの行動であったが、ヴィヴィは開いたドアからミアの婚約者がむっとしている表情が目に入り、唇を噛んだ。
いつも澄ましている執事見習いの珍しい姿に、笑っていはいけないと思いつつ、ちょっとだけおかしい。
だがそれも、ランデルトの大きな体が車内に入ってくるまでだった。
ヴィヴィは進行方向に、ミアはその隣に座り、ランデルトは向かいに座る。
馬車が走り出したものの、わずかな沈黙に耐えられなくなって、ヴィヴィは何か話さなければと口を開いた。
「あ、あの……どちらに向かっているのですか?」
「実は、ピクニックに行こうと思ってるんだ」
「ピクニック、ですか?」
「ああ、街へ行こうと誘っておきながら、勝手に変更して申し訳ないが、今の季節ならとてもいい場所があることを思い出したんだ」
「それは、すごく楽しみです!」
ヴィヴィの問いかけにランデルトはかすかなためらいを見せて答えた。
そのことを不思議に思ったヴィヴィだったが、その内容にはとても驚き喜んだ。
「そう言ってくれて助かったよ。正直なところ、街中についてはあまり詳しくない。先日はジェレミア君たちと街へ行ったんだろう? それなら違う場所のほうがいいかと考え、驚かせたくて内緒にしていたが、だんだん不安になってきていたんだ」
「だとすれば、先輩は大成功です! 私、ピクニックには一度も行ったことがないんです!」
学院には遠足や修学旅行などはない。
またヴィヴィの母があまり屋外を好きではなく、お茶会でさえ屋外開催のものはできる限り欠席するほどなのだ。
母いわく「虫がちょっと……」というわけである。
午前中に出かけ、夕刻までということは、当然お昼も外だろう。
今になって、ランデルトの座る座席の上に、大きなバスケットが置かれていることに気付いた。
(あれは、いわゆるピクニックランチ……!)
あまりじろじろ見てはいけないと思い、さっと視線を向けただけですぐに窓の外を覗く。
やはり馬車は郊外へと向かっているようだ。
「私、実は王都から出たことがなくて、こんなに遠くまで来たのも初めてかもしれません」
「そうなのか?」
「はい。母が父から離れるのを嫌って……」
王宮務めのために父はシーズン以外にもたいてい王都に滞在しているため、ヴィヴィは伯爵領地にさえ行ったことがなかった。
領地の運営は今までは管理人に任せており、今は長兄夫妻が管理している。
貴族の中には王都に滞在させる妻と、領地に滞在させる妻と分けている者もいるらしいが、ヴィヴィの両親は未だに熱愛中なのであり得ない。
ヴィヴィが幼い頃は、領地に父が戻らなければならなければいけない時は、母や兄は同行したがヴィヴィだけお留守番で泣いたこともあった。
「そうか。それで伯爵は……」
「お父様が何か?」
「あ、いや。その、実は行き先を尋ねられて、これから行く場所を答えると少々難色を示されて」
「まあ! 申し訳ありません!」
「いや、ヴィヴィアナ君が謝罪する必要はない。伯爵の心配もこれで納得ができた。だが、我が家の護衛もしっかり連れてきたし、伯爵も護衛をつけてくださったから安心だろう」
「え?」
ヴィヴィは馬車に乗り込む前に、コンコーネ家の護衛が二人いることには気付いていた。
しかし、今の話を聞いて思わず身を乗り出して窓の外を見れば、家紋こそつけていないが見慣れた護衛が二人いる。
「い、色々と……申し訳ありません」
「伯爵の心配は当然なのだから、気にしないでくれ」
「……はい」
王都はとても治安がいい。
その周囲も魔物の被害はここ近年なく、友達の何人かは長期休みには領地に帰っている話を聞いていたヴィヴィは羨ましくも感じていた。
ランデルトも安全だと知っているからこそ、ピクニックに連れて行ってくれるのだろう。
それなのに、この親馬鹿ぶり。
ヴィヴィは恥ずかしくなりながらも、ランデルトの言葉に頷いた。
そんなヴィヴィを励ますように、今までずっと黙っていたミアが静かにヴィヴィの膝を一度軽く叩いたのだった。




