ジェレミア1
物心ついた頃の僕は、世界は僕中心に回っていると思っていた。
優しい母に、傅く使用人たち。
父はめったに会うことはなかったが、お行儀よくしてさえおけば後で母に褒められる。
勉強と魔法の習得は面倒ではあったが、たいていは簡単にできた。
ただ一つ嫌なことを言えば、三日に一度、とても苦しい薬を飲まなければいけないこと。
これに関してはどんなに我が儘を言っても、誰も許してはくれなかった。
そんな人生が一変したのは四歳の時。
僕に弟が生まれたのだ。
その日を境に優しかった母は常に苛々していて、僕が何か失敗をすれば叩かれるようになった。
そして周囲の使用人や家庭教師が入れ替わる。
だが結果を出せば母は機嫌が良くなったので、今まで適当だった勉強や魔法も努力するようになった。
すると、周囲も僕を褒め称える。
やっぱり簡単だ。
しかし、また僕の人生に転機が訪れた。
僕専用の侍従としてアントニーが雇われたのだ。
アントニーは今までの侍従や使用人とは違った。
ただ黙って僕の命令に従うことはなく、面倒そうにしている。
それなのに、母や他の使用人の前では侍従の鑑のように礼儀正しく接してくるのだ。
だから母にアントニーを解雇してほしいと何度お願いしても聞き入れてくれなかった。
それどころか、母はアントニーほど優秀な者はいないのだから大切にするようにと、逆に僕が叱られてしまった。
「殿下、悔しければ力をつけることですね。誰からも信頼されるほどの実力を備えれば、きっと殿下の言い分を皆が聞いてくれますよ。今はまだ、殿下は私よりも信頼されていないということです」
「だが、僕はこの国の王子だぞ! インタルア王国待望の王子なんだ!」
「そうですね。国王陛下が最初のお妃様を娶られてから、五年経ってようやくお生まれになったのでしたね。そして二年前までは唯一の王子殿下でいらっしゃった。ですが今はもう、替えのきく王子殿下ですね。弟殿下が二人もいらっしゃるのですから」
「無礼だろ! 僕は第一王子だぞ!」
「第二も第三もいらっしゃいますがね」
不遜なアントニーの態度には本当に腹が立った。
だから、どうにかしてアントニーを解雇しようと、こっそり隙を見て部屋から抜け出した僕は、ちょっとした優越感に浸っていた。
僕がいないことに気付いて、アントニーが慌てればいい。
母や他の使用人たちに無能だと責められればいいのだ。
六歳だった僕は、何もわかっていなかった。
豪華な部屋に贅沢な食事、専用の庭は僕だからこその特権。
それらは全て〝第一王子〟を生かすための箱庭だった。
気がつけば、目の前に広がるのは血の海。
美しく咲いていた花々は全てが真っ赤に染まっていた。
初めて決められていた区域から出た僕は、よくわからない場所へと迷い込み、見知らぬ男たちに追われ、逃げ込んだどこかの庭で襲われたのだ。
剣の稽古ではとても優秀だと騎士団長に褒められた。
魔法の才能も申し分ないと、王宮専属の魔法使いに褒められた。
だが何の力も発揮することもできず、ただ立ち尽くす僕の前に突如現れたアントニーが男たちをあっという間に屍に変えていく。
「冒険は楽しかったですか?」
僕を気遣うことも、抜け出したことを怒るでもなく、アントニーは血のついた剣を転がった死体の服で拭い、鞘に収めながら淡々と問いかけてきた。
この時、僕は全てを悟った。
アントニーは僕を守るために雇われているのだと。
そしてこれは、僕への教訓。
僕はアントニーの手のひらの上で転がされていたのだ。
きっと、幼い頃から飲まされていた苦しくなる薬は毒なのだろう。
「……楽しかったよ」
「それはようございました、ジェレミア様」
ただの負け惜しみでしかなかったけど、アントニーは仕えてから初めて、満足そうな笑みを浮かべて答えた。
しかもアントニーは僕のことを〝殿下〟ではなく〝ジェレミア様〟と名前で呼んだのだ。
両親以外に今まで名前で呼ばれたことはない。
その父と母でさえ、めったに僕の名を呼ばないのに、この日からアントニーは僕のことを名前で呼ぶようになった。
それは僕自身を認めてもらえたようで嬉しく、もっと認められたくて必死に頑張った。
それから五年。
相変わらず両親とアントニー以外に僕の名を呼ぶ者はいない。
どんなに努力しても、僕が将来の国王となるためにはまだ足りないと母は詰る。
僕は第一王子として優秀で当たり前、失敗すれば陰で嘲笑される日々にうんざりしていた。
もうすぐ魔法学園に入学することになるが、そこでも僕は楽しくもないのに笑顔を浮かべて過ごさなければならないのだろうか。
媚びへつらってくる奴らの相手をしながら、将来の妃を――母や父上の他の妃のような女たちを何人か選ぶのか?
「……なあ、アントニー。僕の弟たちは元気にしてるのか?」
「はい。ジェレミア様ほどではないようですが、無事に生き延びながら、魔力や勉学にてその才能を発揮されているようでございます」
「そうか……。では僕が学園で落ちこぼれても、この国の将来は安泰ということだな」
「さようでございますね」
「アントニーは僕が王位継承争いから脱落すれば、今の職を辞すか?」
「私がお仕えしておりますのはジェレミア様ですからねえ。王位などは関係ございません」
「お前を辞めさせるにはどうしたらいいんだろうな」
「いつでも機会はございますよ」
アントニーのその言葉は、いつでも僕を見限るということだった。
要するに僕はまだ、それだけの人間でしかないということだ。
「悔しいな。僕は、僕よりもお前を信頼している。だがいつか、お前に辞めさせないでくれと言わせてみせるからな」
そう宣言すれば、久しぶりにあの満足げな笑顔が返ってきた。
今はそれで我慢するしかないだろう。
では、学園に入学したらどうしようか。
その考えも決まらないうちに、僕は入寮することになった。
寮では母から解放されて喜んだのも束の間、たったの二日でがっかりしていた。
新入生はもちろんのこと、上級生までが僕のことを〝殿下〟と呼び、気を使う。
この学園の大原則はどうしたんだと言いたいのを我慢したまま入学式を迎えた僕は、世話係の八回生を置いて一人で登校した。
さっさとくじを引いて決められた席に座る。
何人かが挨拶にやってきたが、窓の外へと視線を向けたまま無視をしていれば、すぐに去っていった。
それからしばらくして、女子生徒が隣の席に鞄を置いた。
できれば隣は男子がよかったなと思いながら、女子が何か挨拶をしていたがまた無視をする。
すぐに諦めるかと思ったが、先ほどよりも大きな声を出したのはきっと、僕が王子だと気付いていないからだろう。
「ねえ、聞こえてる? 私、隣の席になったヴィヴィアナ・バンフィールド。よろしくね?」
ちらりと女子生徒へ顔を向け、また外へと視線を戻したのは、気付いているが相手にする気はないという意思表示だ。
ところがその女子生徒は僕の前の席にどすんと座り、ぐいっと身を乗り出して僕の顔をじっと見つめた。
「ねえ、あなたの名前は? ご両親か家庭教師に教わらなかったの? 挨拶されたら、きちんと挨拶を返しましょうって。無視するとか、どれだけ失礼かわかってる? そして、あなたがそんな態度だと、ご家族に迷惑がかかるってわからないの?」
「……ジェレミアだ」
「ジェレミア、何?」
「ジェレミア・インタルアだ。お前なんかと馴れ合うつもりはない」
名乗れば僕が王子だとすぐに気付くと思ったが、彼女は僕の予想を裏切った。
僕が入学することは前もって通達されていたようだが、彼女は知らなかったらしい。
「あら、失礼ね。ジェレミア・インタルア君。……ん? インタルアってこの国の名前じゃない!」
「……そうだな」
「ってことは、あなたって王族なの?」
「……第一王子だ」
「って、本物か!」
「は?」
「あ、いえ。何でもないわ」
先ほどから密かに感じていたが、彼女の態度は貴族令嬢らしくない。
それでもようやく僕が王子だと気付いてか、彼女はにっこり笑顔を向けてきた。
今度は媚びてくるのか。
「ねえ、ジェレミア君」
うんざりした気分でいれば、驚くことに彼女は僕の名前を呼んだ。
しかも、〝様〟ではなく〝君〟と。
アントニーでさえ、〝ジェレミア様〟と呼ぶのに!
「ジェレミア君? お前、僕はこの国の――」
「お前じゃなくて、ヴィヴィアナよ」
「誰がお前の名前なんか――」
「あら、まさかジェレミア君はこの学園に入学するにあたって、入学書類にある教育方針や規則を読まなかったの? 全てをしっかり読まなくても、普通はざっと目を通すわよね? そうすれば、一番大切な規則が何かはわかったんじゃない?」
「読んだに決まってるだろ!」
「ふ~ん。それで、その態度なんだ。ふ~ん。この学園では生徒は皆平等。これが大原則よね。そのためにも家名ではなく、個人名で呼び合うようにって書いてなかった? まあ、たまに家名を笠に着て威張り散らす生徒もいるって、お兄様に聞いてはいたけど、本当にいるのね。ふ~ん。しかもこの国の王子様がねぇ」
「お前、僕を馬鹿にしてるのか?」
「あら、まさか。ただ驚いているだけ。ひょっとして、今は反抗期とか?」
「ち、違うに決まってるだろ!」
絶対に僕のことを馬鹿にしている。
反抗期だなんて子供っぽいことを誰がするか。
急いで否定すれば、彼女は僕を冷めた目で見つめ、はあっとため息を吐いた。
それからの彼女との会話は驚くことばかりだった。
別に国王になりたいとは思っていない。
だが、彼女と話しているうちになぜか悔しくなってきた。
僕と同じ年のはずなのに、まるでアントニーと話している気分になる。
「おま、……ヴィヴィアナ、さんの言うことはわかった。確かに、ゲームだと思えば面白そうで悪くはない。ただヴィヴィアナさんが一番信用できないな。子供らしくない」
そのままの気持ちを言えば、彼女は嘘臭い笑顔を浮かべた。
これは僕がよく浮かべる笑顔だ。
「信用してくれなくていいわよ。まあ、昔から大人びているとか、子供らしくないとか、家庭教師の先生にもよく言われたわ。可愛くないって。でも残念ながら、学力も魔力も普通なの。これで優秀で美人だったら、完璧なのにねぇ」
「美人は関係ないだろ?」
「大ありよ。男子なんてね、どんなに性格が悪くても頭が悪くても、美人には弱いんだから。性格重視とか噓よ、噓。所詮は顔なのよ!」
彼女はなぜか美人という言葉に反応して力説していた。
それは今までの大人びた雰囲気を壊し、ちゃんと同じ年に思える。
その態度がおかしくて思わず笑えば、彼女は――ヴィヴィアナは気まずそうに下手な笑顔を浮かべた。
「えっと、そろそろ人も増えてきたし、席に戻るわ」
そう言って本来の自分の席――僕の隣の席に戻るヴィヴィアナの顔は赤く、ちょっとだけ楽しくなる。
本当は王位なんてどうでもよかった。
だからこの学園で好きなように生きるつもりだった。
だが、彼女の言うゲームをするのも悪くない。
別に今すぐ答えを出さなければならないわけではないのだから、しばらくは彼女の提案に乗ってみよう。
結論を出した僕は、次から挨拶してくる生徒たちには笑顔で答え始めた。
そして六か月経った今、ゲームはとても面白いことになっている。
ヴィヴィアナが僕を名前で呼び続けたからか、気がつけば僕を〝殿下〟と呼ぶ生徒はもういなくなっていた。
また彼女の言った通り、僕の態度にころりと騙されている者、怪しむ者とそれぞれいて、彼らの心情を読むのが楽しい。
さらには僕の笑顔が気持ち悪いとはっきり言ったフェランドとは、それなりに本音で付き合えている。
ただ問題が一つ。
ヴィヴィアナは僕にだけでなく、誰に対しても分け隔てなく面倒見がよく、一部の女子を除いて好かれている。
僕たちはまだたったの十歳で、魔力の相性とかはどうでもいい。
それでも僕はヴィヴィアナを誰かに渡すつもりはない。
だから牽制は必要だ。
入学から三か月後の席替えの時には、ヴィヴィアナの後ろの席になったクラスメイトにくじを交換してもらった。
ヴィヴィアナの両隣と前の席は女生徒だったから、後ろの席の男子生徒に頼んだのだ。
二度目の席替えでは隣の席になった男子生徒にくじを交換してもらう。
もう一方のヴィヴィアナの隣は女子で一番後ろのため、後ろのことは気にする必要はなかった。
失敗したのは、ヴィヴィアナの前の席がフェランドになってしまったことだが、諦めるしかないだろう。
たとえ席が離れていてもフェランドは横やりを入れてくるのだから。
他の男子生徒に牽制できただけ十分だと思うしかない。
これから何年か経って、ヴィヴィアナが僕を選ばなかったら――。
その時は、このゲームを終わらせてしまえばいい。
僕はそれまで精一杯、ヴィヴィアナの提案したゲームを楽しむつもりだ。