魔法学園126
「ジェレミア君、待って」
「どうしたの?」
ドアノブに手をかけたジェレミアを呼び止めると、ジェレミアは訝しげに振り向いた。
ここまでいつもヴィヴィを心配して助けてくれるジェレミアに、まだ伝えていないことがある。
ヴィヴィはすっと息を吸うと、自分の思いを口にした。
「確かに、どんなに正論を唱えても、世の中は間違ったことだらけで簡単にいかないわ。きっとジェレミア君にはこの先、多くの障害があると思うの。でも、私は信じてる。フェランドもマリルもアルタも、この学園の多くの生徒たちも、ジェレミア君を信じているから」
「ヴィヴィアナさん……」
「この八年間でジェレミア君が築いてきたものは、これからジェレミア君の力になるわ。八年前に偉そうなことを言った私は大して成長できていないけど、今のジェレミア君をすごく尊敬しているの。ジェレミア君、私と友達になってくれて、ありがとう」
もうすぐ卒業してしまえば、こうして気軽に話すことはできない。
いくらヴィヴィがバンフィールド伯爵の娘であり、王宮に一室を賜る研究者でも、ジェレミアとは大きな身分の差ができるのだ。
一抹の寂しさを感じながら、ヴィヴィはありったけの気持ちを込めて、ジェレミアに感謝の気持ちを伝えた。
するとジェレミアは珍しく驚きの表情を見せたが、次いで柔らかな笑みを浮かべた。
「……僕のほうこそ、八年前のひねくれた生意気な子供から何も変わっていないけど、ヴィヴィアナさんのことが好きだよ。友達になってくれて、ありがとう」
ヴィヴィとよく似た言葉を返し、ジェレミアはドアを開けてくれた。
本を二冊抱えたままヴィヴィはドアを通り抜け、生徒会室へのドアを開けようとして、ジェレミアに先を越されてしまう。
相変わらず紳士なジェレミアにお礼を言って生徒会室に入ると、執行部員たちは新会長と副会長しか残っていなかった。
ヴィヴィも仕事は終わっていたので、そのままジェレミアたちに別れを告げて寮へと戻る。
部屋に入ると私服に着替え、落ち着いてからヴィヴィはふと気付いた。――ジェレミアに好きだと言われたことを。
「……え? あれ?」
「お嬢様、いかがなさいました?」
「い、いえ! 何でもないの!」
ヴィヴィの混乱は、ベッドに入ってからも続いた。
さらには翌日も、翌々日も。
ジョアンナの言葉を思い出しては悩み、屋敷に会いにきてくれた時のジェレミアの言葉を思い出しては悩んだ。
そして三日目、ヴィヴィは生徒会室にいたジェレミアと遭遇し、どきどきしながら挨拶をしたが、いつもと変わらない様子で挨拶が返ってきた。
その日以降もまったく何も変わらない。
(これはひょっとして……私の勘違い?)
そう考えると、あの言葉はただの友情に思えてくる。
途端にヴィヴィは恥ずかしくて顔が熱くなり、一人悶えた。
(よ、よかった。誰にも相談しなくて……)
危うく恥ずかしい自惚れ女子になるところだった。
ジェレミアの前でヴィヴィも普段通りに過ごせたことが幸いだろう。
ベッドの中でひとしきり悶えたヴィヴィは、心の中の黒歴史ノートに記し、あとは忘れることにした。
それからあっという間に時は経ち、いよいよ卒業式の日。
しかし、この日は肝心の卒業式よりも、卒業パーティーが皆の関心を引いていた。
今年は例年にないほど、卒業生のパートナーに注目が集まっているのだ。
下級生男子の間では賭けまで行われているらしい。
一番の大穴はヴィヴィとランデルトの組み合わせ。
次いで、ヴィヴィとジェレミアの組み合わせもある。
しかし、結局は本命通り――というか、予想通りにヴィヴィはヴァレリオと、ジェレミアはジョアンナと出席した。
ところが、誰も予想さえしていなかったことに、フェランドとマリルがパートナーとなって現れたのだ。
皆の驚きに、ヴィヴィは自分のことではないが、悪戯が成功した気分で楽しかった。
自分の気持ちが落ち着き、ようやく正常な思考に戻ったヴィヴィが、マリルの悩みに気付いたのはひと月ほど前。
話を訊けば、フェランドからパートナーに申し込まれたと、マリルは打ち明けてくれた。
これにはヴィヴィもかなり驚いた。
卒業パーティーでのパートナー申し込みはプロポーズも同然なのだから。
しかも、フェランドが今さらマリルに軽い気持ちで申し込むわけはない。
ヴィヴィにしてみれば、ついにフェランドは自分の気持ちに正直になったかと思ったものの、マリルにとっては衝撃だったらしい。
「ずっと、好きにならないように気をつけてたの。だからこれで――卒業すればようやく解放されると思ったのに、今になってどうして申し込んでくるのか意味がわからないわ。だって、フェランド君はヴィヴィのことが好きだと思ってたから……」
「フェランドが私のことを? まさかマリルがそう思っていたなんて、そっちのほうに驚きなんだけど」
泣き笑いで怒りながら言う器用なマリルの話を聞いて、ヴィヴィは笑った。
実を言えば、一回生の頃はひょっとしてなどと自惚れた時期もあったが、すぐに気付いたのだ。
フェランドは色々な意味で、ヴィヴィを隠れ蓑にしていると。
だから誘い文句も気軽に流すことができ、そのまま利用されていようと思っていた。
そしてようやくフェランドは動いたのに、今までの行いのせいでマリルに信じられていない。
だが、ヴィヴィはあえてフェランドの行動については触れなかった。
これはマリル自身が決めることだと。
ただ、答えは予想できていた。
二人は八年間、ヴィヴィが見ていただけでも五年間ずっと、お互いを意識しながら、無関心でいようとしていたのだから。
「結局、相性には逆らえないってことなのかしらね……」
「相性なんて、かなり曖昧なものだよ」
マリルとフェランドを見つめながら呟いたヴィヴィの言葉に、ヴァレリオが反応する。
ヴァレリオは驚くヴィヴィから目を逸らし、ダンスや会話を楽しむ卒業生たちへ視線を向けて続けた。
「相性なんてものがあるなら、どうして人は心変わりするのかな? たった一人でいいだろうに、何人も妻を娶る奴の気も知れないよ」
「……お兄様?」
「あ、いや、すまない。こんなこと、希望でいっぱいの卒業生に聞かせることじゃなかったね」
「お兄様、私が希望でいっぱいに見えます? 失恋したばかりなのに?」
「えっと……ごめん」
今もまだ婚約者一人いないヴァレリオの言葉は、とても意味深だった。
しかし、ヴィヴィはそのことには触れず、わざと拗ねてみせる。
結局、二人で笑ってこの話題は終わらせ、ヴィヴィはジェレミアやフェランドと踊り、マリルやアルタたちとの会話を楽しんだ。
一部の者たちからの意地の悪い言葉、当てこすりにもヴィヴィは笑って聞き流し、ジゼラにだけは「結局、あなたも婚約者がいないのね」と言い返した。
ジゼラは親戚の男性と出席しており、噂ではまだジェレミアを諦めていないらしい。
こうしてパーティーは無事に終わり、例年より少ないが、ヴィヴィたちの代では七割以上の生徒が婚約者を得て卒業することになった。
翌日の昼過ぎ。
ヴィヴィは屋敷へと戻る馬車に乗る前に、八年間過ごした寮と校舎を感慨深げに眺めた。
入学した頃は、素敵な恋愛をして、素敵な婚約者を――自分だけを愛してくれる相手を見つけることに希望を抱いていた。
いわゆる婚活は残念な結果になったけれど、たくさんの経験を経て、多くの友人を得たヴィヴィは素晴らしい学生生活を送れたと思う。
今もヴィヴィを見送るために、多くの後輩たちが出てきてくれていた。
「ヴィヴィアナ先輩、また会えますよね?」
「ええ、もちろんよ。ジョアンナさんが素敵な学生生活を送って、社交界デビューした時にはどうぞよろしくね」
「はい! 今までありがとうございました。私、勉強も恋愛もいっぱい頑張ります」
「……私のほうこそ、ありがとう。楽しかったわ」
名残惜しい気持ちはいっぱいだが、前を向いていかなければならない。
ヴィヴィはまたたくさんの花束を受け取って、手を振りながら馬車へと乗り込んだ。
そしてヴィヴィが伯爵家に戻った翌日、樹脂の発見者として、レンツォの名とともにヴィヴィの名が発表され、世間をまた騒がせることになるのだった。