夢買い(3)
「彼が夢買いの晴臣さんです」
千羽夜の紹介に応じるように、晴臣は学生帽を少し上げた。影に隠れていた藍色の瞳が露になる。妖しい光を湛えた目は、確かに何か魔力のようなものを秘めていそうだった。
こんにちは、と二人とも頭を軽く下げた。あまり大人が得意ではない高広は、借りてきた猫のように大人しい。けれど、高広の視線の先を追うと、屋台の上に乗った盆を熱心に見つめていた。
奇妙な屋台だった。商品はなく、大きな盆に水が張ってあるだけだ。要と高広は顔を見合わせた。これで、どうやって夢を買うのだろうか。
「さて、どちらが客だ?」
高広、と千羽夜が呼びかける。すると、晴臣はかすかに目を細めて、要を見た。
「君の夢にも興味があるな」
要はとっさに言葉が出なかった。悪夢とは違うけれど、見たくない夢だったことは確かだ。要が神隠しに遭う前日の夢。実際に起きた、過去夢。手放せるのなら、手放してしまいたい。
「どんな夢でも引き取ってくれるんですか?」
「君が構わないなら、こちらとしては大歓迎だ」
晴臣の藍色の目には、要にもわからない何かが映っているのだろうか。夢の内容まで見透かされたような気がして、少し居心地が悪い。
「なんだ、お前も何か夢を見たのかよ」
「ほとんど毎日見てるって、前に言ったじゃないか」
「そうだったか? まあ、よくわからないけど面白そうだよな」
高広はさっきからちらちらと落ち着きなく盆を見ている。晴臣の表情が少し和らいだ。
「その盆を覗きこんでごらん。君からやろう」
「覗くだけでいいんだよな?」
盆を覗きこんだ高広が、はっと息を呑んだ。
「なに?」
「水に、俺の見た夢が映ってる」
人の夢を見る機会なんて、普通ならない。珍しく好奇心に駆られて要が近づこうとすると、晴臣に止められた。
「他の人間が覗くと、夢が混ざる」
「すみません。あの、高広の夢をどうするんですか? 誰かに売るんですか」
「需要があれば。ただ、彼の見た悪夢は別のことにも使えそうだから、まだどうするかは決めていないよ」
やっぱり、晴臣は他人の見た夢の内容がわかるのだ。
「普通の人間が思っている以上に、夢は貴重なものなんだ。他人と共有できないものには、力がある」
「共有できないものって、夢の他に何がありますか?」
「怒り、悲しみ、恐怖、郷愁、愛惜……とか。主に感情面だな」
何と答えていいかわからなくて、要は口ごもった。
見た目は十代の青年に見えるけれど、老成した落ち着きや難しい話ぶりを見ていると、どことなく祖父の年代に近いものを感じる。
「終わった、みたいだ。やっぱり怖かったけど」
振り返った高広は、不思議そうな顔をしていた。
「あれで夢を売ったことになるのかよ」
「まだだ。今度は盆の中に手を入れてごらん」
そんなに深くないはずなのに、腕を全部入れても底に届かないらしい。
「なんだ、これ」
そう言って高広が掴み出したのは、群青色の匂袋だった。
「今必要としていて、夢の価値に見合うもの。それが代金だ」
妖の世界に通貨があるとは思っていなかったから、そちらは納得できる。だけど、高広に匂袋が必要とは思えない。
「魔よけの香だ。悪夢を見なくなるが、それだけじゃない。常に持っておくといい」
「ふうん」
晴臣の意味ありげな言葉にも、あまり興味がないらしい。高広の関心は既に別のところにあった。好奇心旺盛だが、興味を失うのも早いのだ。
「次はお前だぜ、要」
夢をもう一度見るのは嫌だったけれど、仕方ない。盆に張った水を覗きこむと、すぐに水面に波紋が広がって、要の顔はかき消され、代わりに夕暮れ時の神社の風景が映し出された。
すぐに夜へと移り変わり、水に映る要は少女の手を取って、山奥のさらに先、異界へと足を踏み入れた。
ーーこのまま、ずっと一緒にいられたらいいのに。
そう言ったのは、要だったか、あの人だったか。
ーーせめて、この村から離れないで。
あの人は別れ際に涙を流して懇願した。そのたった一つの約束すら守れなかった自分の無力さが、もう一度、はっきりとした映像として、眼前に突き付けられる。
水面が揺れて、険しい顔をした要の顔が映る。要が手を伸ばした先で掴んだのは、一本の笛だった。