夢買い(2)
家を出る頃には、完全な夜が地上を支配していた。妖たちの時間と交錯して、どこでもない空間が形成される。路地裏には既に濃密な「人でないもの」の気配が漂っている。春の宵は、殊更境界が曖昧だ。
妖が見えなくても、月のない夜の路地は想像力を掻き立てそうなものなのに、隣を歩く高広は機嫌良さそうに鼻歌を歌っていた。高広と自分を「普通」という言葉で線引きしようとしていた要だが、最近はその線引きに自信がなくなってきている。
夕暮れから明け方にかけて、路地裏は妖の行き交う道になる。その途中に夢買いがいるのだという。
「要もよく通る道なのか?」
「まさか。何がいるかわからないような所は、避けるのが一番いいんだ」
「つまらないやつだなあ」
「いいものばかりじゃないからね」
「そりゃそうだけど」
「まあ、好きにしたらいいよ。もしかしたら、高広が出逢うものは全部いいものかもしれないし」
「はは、やっぱり変わってるな」
要は小さく肩をすくめた。
「そういえば、嫌な夢ってどんなのだった?」
「あー、なんか暗い洞窟にいてさ、どす黒い水に腰まで浸かってたんだよ。気持ち悪いから早く脱出しようとするんだけど、水の中から女の腕が伸びてきて、腰に絡みついてくるから動けなくなってさ。そうしているうちに、水の中からゆっくり女の顔が現れてーーってとこで、目が覚めた」
「たしかに怖いね」
「でもさ、それだけだったら、俺は怖いと思わないはずなんだよ。最初からーー女が出てくる前から、これは悪夢だって思ってたんだ。洞窟から出られないことよりも、夢から逃げられないのが怖かった……ような気がする」
「意識と無意識、眠りと覚醒の間で抵抗があったんでしょうね」
それまで黙って前を歩いていた千羽夜がぽつりと呟いた。
「難しいことはわからないけど、そんな感じだな」
「悪夢なんて買い取ってもらえるの?」
千羽夜の背に尋ねると、彼は前を向いたまま答えた。
「その人にとっては悪夢だったというだけです」
「今の夢は誰にとっても悪夢だと思うけど」
千羽夜が声を立てずに笑ったような気がしたけれど、なんでそう思ったのか、自分でもわからない。
「誰にとっても、なんてことはあり得ませんよ。一定数の物好きはいますから」
見た目は幼く見えるが、間違いなく、要よりも長い時を生きている千羽夜の言葉だ。そうかもしれない、と要はあっさり認めた。
「もうすぐですよ、要様」
「様なんてつけずに、要って呼んで欲しいんだけど」
「地主神様の大事な人を、呼び捨てにするなど」
「あの人と僕は、もう何の関係もないよ。あの村を離れた瞬間に、縁なんて切れちゃったんだから」
相変わらず千羽夜は前を向いたままだけれど、要の頑なな心を感じ取ったのか、しぶしぶではあるが折れてくれた。
「要」
「うん、そっちのほうがいい」
「要は、人外の者とは話したくないのだと思ってた」
少し話しにくそうにしながら、千羽夜はそう言った。
「今はそこまで気にしていないけど、普通の人間でいたかったからね」
それに、あの人のことを忘れたかったから。
要は心のなかで、そっと呟いた。
暗い路地が永遠に続くのかと思い始めた頃、三人はようやく目当ての夢買いを見つけた。露店の脇に「夢買い」と書かれた看板があり、その看板のすぐ横に、背の高い男が立っていた。
夕暮れの地面に落ちた長い影のようなシルエットだ。学生帽を目深に被り、詰襟の上に黒いマントを羽織っている。
「人間の客は久しぶりだな」
男は三人の姿を認めると、切れ長の目をさらに細くして言った。