花宿
桜が散る頃、近所の神社で春の祭りが催された。
高広が誘いに来たとき、要は窓を開けて空を眺めていた。母は仕事で家におらず、一人で暇をもて余していたところだった。
「なんだ、空でも眺めてたのかよ」
家に上がりこんだ高広は要から麦茶を受けとると、風にはためくカーテンをちらりと見て言った。常に落ち着きのない高広にとって、ぼんやりと空を眺めるなんてことは拷問に近いのだろう。麦茶を飲みながら、相変わらずじいさんみたいなやつだな、と軽く眉をひそめた。
「まあね。風も気持ちいいし」
「風が気持ちいいなら外に出ればいいだろ。今から祭りに行こうぜ」
空を眺めるのも好きだが、本当はどこからともなく聴こえてくる声に耳を傾けていたのだ。その声が、高広が来たよ、と教えてくれたから、実は高広がアパートにたどり着く前から、近所の祭りにでも誘いに来たのだろうと察していた。
神社は苦手だけれど、せっかくの誘いを断るのはもったいない。今日は本当にいい天気だ。
「そうだね、行こうか」
要が頷くと、嬉しそうな笑い声が、窓の外から聴こえてきた。
神社には神がいる。その眷属がいる。眷属たちは要が近づくと、にわかに騒ぎ始めるのだ。
どこぞの神に愛された子だ、と。
神隠しにあった痕でもついているのか、どうしたって気づかれてしまうのだ。だから、普段はあまり近づかないようにしている。
高広が射的に興じているのを後ろで眺めていると、ふいにシャツの裾を引っ張られた。
「要さま」
見れば、要の腰ほどの小さな少年が、いつの間にか横に立っていた。犬の面を被った、白い着物姿の童子。
「ようこそ、我が神社の祭りにおこし下さいました」
要が返答に困っていると、高広が目当てのブリキ缶のおもちゃを手に振り返って、不思議そうに犬の面を見つめた。
「知り合いか?」
少年は高広にも一礼した。
「花宿にご案内いたしましょう」
「花宿?」
高広が聞き返したけれど、要は答えなかった。花宿とは、春祭りにやってきた神々が泊まる宿だ。
「いいよ。この近所に住んでいるから、わざわざ泊まらなくてもーー」
「面白そうじゃん、行こうぜ」
要の声を遮って、高広が了承してしまった。面の下で少年が満足そうに笑ったような気がする。自分はともかく、高広を人でないものに関わらせるのは抵抗があった。
「やめておこう」
「なんでだよ」
「そんなに簡単について行くと、いつか神隠しにあうよ」
「そんなの迷信だろ」
要の生まれ育った村では、そうではなかった。そして、神隠しにあった子どもはーー。
震えが走って、要は強く首を振った。
「じゃあ、俺一人で行くよ」
「ああもう、わかったよ。ちょっとだけだよ」
要が観念したように言うと、高広はにっと厄介な笑みを浮かべた。
「ーーこちらです」
少年に導かれて神社の奥へと進み、見たことのない小道を通って庵にたどり着いた。
「ずいぶん歩いたな。神社の外か? あれ、あの犬の面のやつはどこに行ったんだ?」
「……さあね」
満開の桜の木々に囲まれた草庵には、外界から隔離されたような静けさが漂っている。高広は桜を不思議そうに見つめ、次に近くを流れる小川に興味を示した。
「その川の水には、触れないほうがいい」
「なんでだよ」
その質問に、要は答えられない。初めて出来た友人に不気味なものを見るような目を向けられたらと思うと、足がすくんでしまう。
高広は追及せずに、草庵のなかへと入った。
用意されていた上生菓子や葛湯を口にしながら、庵から見える景色をぼんやりと眺めた。
しばらくは要と同じように外を眺めていた高広だったけれど、長い間じっとしていられない性分だ。
「なあ、いつもこうなのか?」
「こうって?」
「俺にも上手く言えないけどさ、今日みたいに人間じゃないやつが迎えに来て、不思議な場所に行ったりしてるのかってことだよ」
驚きのあまり、呼吸が止まった。
「気づいてたんだ」
「そりゃあ、だって、なあ。お前って時々、何もない所をじっと見てたり、独り言を呟いたり、変な行動が多いからさ。普通には見えないものが見えてるんじゃないかって思ったんだよ。さっきの犬の面のやつは、俺にも見えたけど」
「高広も物好きだね。僕みたいなのとつるんで、家に帰れなくなったりしたらどうするんだよ」
「お前は友達を見捨てるようなやつじゃないだろ」
その言葉を呑み込むのに、しばらく時間がかかった。
「それに、たまにはこういう不思議なことも、いいんじゃねえの?」
「それは、一人じゃないから言える言葉だね」
「そりゃそうだろ。遊びだって、一人じゃ出来ないから面白いんだろ」
高広の言葉が、じわじわと胸に染み渡っていく。今日は、ここに来て良かったと思えた。