夢見草
春の夕暮れは独特のほの暗さがある。冬ほど暗くはないが、五時になれば薄い闇が空を覆う。今日は生暖かい風が吹いていた。この時期、強風の後なんかは特に、気持ち悪いくらい暖かくなる。
桜の時期は大勢でごった返す近所の公園も、桜が散ってしまった後、それも夕暮れ時なんかは、地続きの異界のように、ふっと人の気配だけが途絶える。
大きな池を覗きこむと、この間の雨の日に散らされてしまった桜の花びらが、寄り添うように浮かんでいた。花びらが夜空に舞っているようだと、群青色の池を見て思う。
ーー夢見草。
桜の別名だ。幻のように美しくて、夢のように儚いから、そんな名前がついた。
枝にはまだ少しだけ花が残っている。それでも、もう花見の時期は過ぎた。来年になるまでは、見向きもされなくなるのだろう。
ぼんやりと見上げた視界の端で、公園の自然物にはない、橙色の物体がこそこそと移動しているのに気づいた。桜に気をとられているふりをしてーー距離を縮めてから、突然走り出した。
慌てて逃げ出すが、もう遅い。橙色のパーカーを着た肩を、しっかりと叩いた。
「次は高広が鬼だよ」
高広はちぇっ、と毒づいて、ぶっきらぼうに尋ねた。
「何を見てたんだよ」
「桜を」
「ああ、もう散ったんだな」
花になんてまるで興味を示さないで、次の鬼になった高広は細長い橋を渡って去っていった。
要は高広とは反対の方向へと進み、小さな橋を渡って、弁財天のお堂のところまでやってきた。ここにも桜の気がある。すでに葉桜になって、今年の役目は終えたとばかりにくつろいでいるようだ。花を愛でることはあっても、この大きな幹を眺めることは少ないのではないか。そう思って、幹に触れた。労るように撫でてみる。
しばらくそうしていたけれど、やがて次の鬼から身を隠すために、お堂から離れた。お堂の裏は隠れるのに絶好の場所だけれど、ここの弁財天は気難しいと聞くから、余計なことはしないのが一番だ。
ふと、あたりに広がる黄昏の闇を見て、古い記憶がよみがえった。
黄昏時、人気のない公園、隠れ鬼。神隠しの条件が、そろっているのだ。
そんなことを考えていると、いつの間にか足音が増えていた。自分の足音と、もう一人、誰かの足音が、背後から聞こえてくる。振り返る勇気はない。というより、振り返れない。振り返ってしまったら、また「あの世界」に迷いこんでしまう。
振り返えらずに、水面を覗きこむ。要の背後に、同い年くらいの少女が立っていた。
水を介して、視線が絡む。
「ーー何してるの」
君は誰、と尋ねる前に、先を越された。
「隠れ鬼を」
「ね、私も混ぜて」
少女が要の顔を覗きこむ。これで、振り返らずにすむ。雛人形のように黒々としたおかっぱの少女が、蠱惑的な笑みを浮かべていた。
「構わないけど」
少女の手を引いて、高広を追いかけた。
「おーい、要」
小さな橋と大きな橋を渡った先で、高広と他の仲間たちを見つけた。
「藤岡、もうすぐ門限だってさ。次の一回で最後にして、俺らも帰ろう」
「わかった。この子も入れてほしいって言うんだけど、いいよね」
一斉に視線が少女に移る。高広もちらりと見ただけで、頓着なさそうに答えた。遊んでいる最中に知らない子が混ざるのは、子どもの遊びではよくあることだ。そこに時折、人でないモノが混ざるのも。それに気づくのが、要だけなのも。
「いいよ。名前は?」
少女が僕を振り返る。要はとっさに思いついた名前を口にした。
「ーーゆめ」
少女の目が嬉しそうに輝いた。
「じゃ、最後は藤岡が鬼だからな」
五人の子どもが一斉に散り散りになる。今度は少女が要の手を引いて、走り出した。
「要が名前をつけてくれた」
「気に入ったなら、良かった」
「でも、どうしてゆめなの?」
「桜のことを、夢見草って言うから」
少女はクスクスと笑った。
少女が走る先には、弁財天のお堂がある。予想通りだったから、驚くことはない。
「春じゃなくても、ここに来て、私を見てくれる?」
「会いに来るよ、きっと」
ゆめは満足そうににっこりと笑った。
闇がますます深くなる。帰るぞ、と要を呼ぶ仲間の声が聞こえてくる。隣にいたはずの少女は消えて、代わりに桜の花びらが降ってきた。春の夜は、こんな出会いが多い。