呼ぶ声(1)
「ここでは普通の子どもらしく振る舞うのよ」
新しく住むことになった町を前に、母は再度、要にそう言い聞かせた。
母が要の手を引いて、生まれ育った村から逃げるように飛び出したのは昨日の夕方のことだ。
夜行列車に揺られて、見知らぬ土地へと流れ着いた親子には、当然頼れる知り合いなどいなかった。文字どおり右も左もわからないまま、人の波に乗って、気がついた時には郊外の町に足を踏み入れていた。
大きな公園のある町だった。郊外とはいえ、やはり首都だけあって、要が暮らしていた村の何倍も人が行き交っている。要にはもはや何が「普通」なのかもわからなくなっていたが、自分の「普通でない」言動になど、誰も見向きもしないように思われた。
「うん、わかってるよ」
それでも、こう答えるしかなかった。自分のせいで、母は生まれ故郷を捨てたのだ。他にも夜行列車のなかでいくつもの禁止事項を言い渡されていたが、その全てに、要は大人しく頷いた。
普通の人間には見えないものは無視すること。その存在を他人には言わないことーー。この二つが最も重要だった。村では生け贄だの呪われた子だのと蔑まされていたが、そんなのは古い因習なのだという。普通なら、精神病と診断されるらしい。そのどちらでもないと証明する手だてがなかったから、二人は町を出るしかなかった。
「住む場所を決めないと。それに、働く場所も、要が通う学校も……」
明るく言おうとして、失敗したらしい。母の声がか細く消えていく。
「疲れちゃったね……」
母は坂の上に続く石段に座りこんだ。少しでも母を刺激してしまわないように、要は息をひそめて、うつむいた母の頭を見つめ続けた。
ーー要さま。
ふと、誰かに呼ばれたような気がした。階段の向かいにある赤い鳥居に、犬の面を付けた着物姿の少年が立っていた。おいで、おいでとこちらに手招きしている。要は返事をしかけて、慌てて口を押さえた。
ーーお困りなら、どうぞこちらへ。
要はうんざりして目を閉じる。どうして彼らは自分を呼ぶのだろうか。そっとしておいてくれれば、普通に生きられるかもしれないのに。
要が応えないとわかると、少年はちょっと首を傾げて、それから踵を返して立ち去った。
母はずっとうつむいて、自分の足を両腕で抱えている。要は自分の頼りない手を見つめた。いつか大きくなったら、母の肩に手を置けるだろうか。
「あらあら、どうしたんだい。こんな所に座りこんで」
突然降ってきた声に顔を上げると、要の母より二回りほど歳上の女性が立っていた。長い黒髪が腰のあたりでうねっている。艶やかな緋色の着物に椿が咲いている。夕日を背に立っているせいか、妙な威圧感がある。細い切れ長の目が、値踏みするように要と母を見下ろしていた。
人間ではない雰囲気だったけれど、母にも見えているのだから余計なことは言うまいと、要は自分に言い聞かせた。
ーー遠くからこの町にやって来て、住む場所を探しているんです。母が心細そげにそう言うと、その女性は心得たとばかりに頷いた。
「ちょっと訳あり物件だけど、それで良かったら紹介してあげるよ。ついていらっしゃい」
「本当ですか、ありがとうございます」
久しぶりに人の優しさに触れたためか、母は警戒することなく、女性の申し出に飛びついた。
要は一瞬ためらったが、黙ってついていく他なかった。
鳥居を振り返ると、あの犬の面の少年がじっとこちらを見ていた。要がじっと見つめ返すと、少年は一礼を残して霞のように消え去った。