トイレのハナコさん ~七不思議対策委員会活動日誌~
わたしの学校にも他の例に漏れず、七不思議の噂がある。六つまでは知っている人もいるらしいが、七つ目は誰も知らないのだとか。七つ目を知るとどうなるのだったか――?
わたしは中学生にもなって怪談を面白がるセンスを内心でダサいと思っているから、実は噂の内容をほとんど知らない。どうせ、音楽室のベートーベンの肖像画が血の涙を流すとか、理科室の骨格標本が動くとか、そんなところなのだろう。
だから、わたしは何の疑いもなく、第三校舎三階の北側女子トイレを利用してしまった。しかもよりによって、入り口から数えて三つ目の個室を。そこに何が棲んでいるのかも知らずに――。
この中学校は別棟の体育館の他、一年生から三年生までの普通教室が入っている第一校舎と第二校舎、職員室や理科室・音楽室等の教科専用教室の入っている第三校舎からなる。第三校舎も昔は普通教室が入っていたらしいが、今は少子化の影響でいくつもの教室が使われないまま施錠されている。特に第三校舎三階はほとんどの教室が未使用で、中を覗くと埃ばかりが目立つような有り様だった。
わたしが今日、この第三校舎三階に来たのはテニス部の先輩と会うためだった。夏の部活引退時期を目前にして、高校受験のために塾の時間を増やした先輩とは会う時間が減ってしまい、わたし達はどうしたものかと苦慮したが、ある時、校内で秘密に会える場所を発見した。第三校舎三階の施錠してあるはずの、とある教室のドアの鍵が壊れていたのだ。そのことを発見して以来、わたし達は部活前のわずかな時間をここで過ごした。
部活のみんなには付き合っていることは秘密にしているので、今日もこの教室で会った後は先輩には先に部活に行ってもらい、わたしは少し遅れて向かうことにしていた。
しかし、先輩が教室を出て十分ほど経った後、わたしも教室を出ようとした瞬間に、なぜか急にお腹の調子が悪くなり始める。
「最悪……」
第三校舎の作りは他の校舎と違って随分と入り組んでいる。わたしは悪態をつきながら、トイレを求めて曲がりくねる廊下を進む。ようやく女子トイレのマークが付けられた入り口扉が見え、早速その扉に手を掛けようとして、わたしはふと動きを止めた。
「あれ……?」
女子トイレのプレートが掲げられたその扉に、わたしは既視感があった。
(ここ使ったことあったっけ――?)
記憶を巻き戻そうとするが、うまく思い出せない。何回か先輩とあの教室で会った時にもトイレに行ったことはなかったはずだし、それ以外に第三校舎三階には来たことがないはずだけど――。
とはいえ、同じ敷地内の女子トイレの内装はみな同じようなデザインなのだから、見覚えがあるような気がしてもおかしくはないだろう。
わたしは既視感を無視することにして、キィキィと嫌な音をたてる扉を押し開けて中に入った。後ろ手でドアを閉めると中は暗く、しかも、饐えたような生臭さに満ちていた。
「きもちわる……」
それでもお腹の調子の悪さを考えれば、ここのトイレを利用するしかなかった。
とりあえず入り口近くの電灯のスイッチを押してみる。だが、反応がない。イライラしながら何度かパチパチと繰り返すが、電灯が点く様子はなかった。
「なにこれ!」
怒ったところでお腹の調子は待ってはくれない。仕方なく、わたしは暗いトイレの中をそのまま進んだ。ほとんど利用されないトイレだから、電気が切れていることに誰も気付いていないのかもしれない。
入り口と対面の一番遠い壁に小さな窓があり、僅かに日が差しているため全くの暗闇というわけではないが、十分な明るさからはほど遠かった。わたしは注意深い足取りでタイル張りの床を進み、一番手前の個室に入りかけて、ハッとする。
「紙がないじゃん!」
二番目を覗くも、こちらも心許ない量の紙しかホルダーに掛かっていない。イライラと不安に苛まれながら三番目の個室を覗くと、今度は新品同様のトイレットペーパーがホルダーに掛かっていた。わたしはホッとしながらこの三番目の個室に入り、中から鍵を閉めた。
「ふう」
安心して一息つく。
その瞬間、わたしはびっくして目線を下に落とした。ぐるぐると不機嫌な調子を訴えていたわたしのお腹が急におとなしくなったからだ。調子が悪かったのが嘘だったように。
「どういうこと……?」
問いかけても答えがあるはずもない。念のためしばらく待ってみたが、本当になんともないようだった。
(なにこれ……。わけわかんない。大丈夫そうなら早く部活に行こうっと)
腑に落ちない気持ちはありつつも、わたしは溜息をつきながら扉を開けようとして固まる。
「あれ?」
スライド式のトイレの鍵が動かなかった。
「なんなの、これ!」
壊れそうなくらい激しく動かしてみてもビクともしない。
わたしは暗いトイレの個室の中で途方に暮れた。焦って動いたのと夏の蒸し暑さのせいで制服のシャツがぐっしょりと濡れて、不快だった。
壁をよじ登ろうか。
けれども、なぜかここのトイレの個室は他の校舎のものよりもやたらと壁が高いように見えて、飛び上って縁に指を掛けるのも困難に感じた。
(どうしよう……)
その時。
――カツン、カツン……。
近くで床を蹴る足音が聞こえた。
(誰か来た?)
足音は少しずつわたしのいる個室に近付いてくるようだった。
わたしはほっと胸を撫で下ろす。少し恥ずかしいけど、この人に頼んで扉を開けるのを手伝ってもらおう。それで開かなかったとしても、最悪は先生を呼んできてもらうことができる。
わたしは「すみません」と声を掛けようとして、ハッと口元を手で押さえた。
(ちょっと待って……。女子トイレの扉が開く音、したっけ?)
確かわたしはこの女子トイレに入ったとき、電気のスイッチに触る前に入り口のドアをきちんと閉めたはずだ。
(誰か元々いた? でも、確か全部の個室の扉は開いていたし……)
しかも、足音は入り口側から近付いてくるように聞こえる。
わたしは思わず唾を飲み込んだ。その間にも、足音は近づいてくる。そして、その足音はぴたりとわたしのいる個室の前で止まったのだった。
暑さのせいではない汗がダラダラとわたしの背中を流れて――その時、声が聞こえた。
――ハナコさん、遊びましょう。
澄んだ少女の声で、童歌の調子に合わせてその言葉は歌われた。わたしの喉が奥の方でキュウと鳴り、心臓が鼓動するペースを上げた。
――ハナコさん、遊びましょう。
ただの童歌だ。
それなのに、どうしてこんなに嫌な感じがするのだろう。不安になるのだろう。
――ハナコさん、遊びましょう。
外にいる人物は尚も歌い続ける。わたしは我慢ができなくなって叫んだ。
「誰なの……!」
外の人物は答えない。わたしはトイレのドアをドンと叩いた。
「そこに誰がいるの! ふざけるのはやめてよ!」
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
わたしの叫びを無視して続けられる童歌。わたしは怖くなって、腰が抜けたように個室の中でうずくまる。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ケタケタケタケタケタ……。
言葉に混じって笑い声が聞こえた。
「なんで笑うの! やめて、やめてよ!」
気持ちが悪い。吐き気がする。
わたしは耳を塞いでぎゅっと目を閉じた――。
ハッと目が覚めると、わたしはどこかの教室で椅子に座っていた。
「大丈夫? 気分が悪くはない?」
目の前に男の子がいた。とても綺麗な顔をした男子生徒。夏なのにきっちりと長袖のシャツを着て、目が隠れるくらい長い前髪の隙間から黒縁眼鏡が覗いている。それだけだと暗そうな雰囲気だが、穏やかな笑顔のおかげか爽やかな雰囲気を纏っていた。
「え……?」
わたしはその男の子に見惚れつつ、状況がわからなくて呆然とすることしか出来ない。
「あなた、この階の女子トイレで倒れていましたのよ」
男子生徒の隣に座る女子生徒が言った。これまた綺麗な女の子だったが、長い髪を二つの三つ編みに結い、薄いフレームの眼鏡に長袖シャツ、スカートは膝丈、黒のストッキングと、いまや珍しいくらい真面目な格好をしていた。彼女は男子生徒とは対照的に、冷たい無表情だった。しかし、二人とも腕にはお揃いのロゴが入った腕章を付けている。
「ここは……? あなた達は?」
「ここは第三校舎三階の第二視聴覚室。僕の名前は柏原北斗で、七不思議対策委員会の委員長だよ」
「同じく、副委員長の松平美南ですわ」
わたしの問いに、男子生徒はにこりと暖かく微笑みながら、女子生徒は冷たい表情を変えずにそう答えた。
「七不思議対策委員会……?」
「この委員会名を聞くのは初めてかな? まあ、仕方がないね。僕達の委員会は公式にはないことになっているから」
柏原北斗と名乗った男子生徒は苦笑しながら言う。
「表の委員会では処理できない案件を処理するのが僕達の仕事。いわば裏委員会ってところだね」
「わたくしたちのミッションは、この学校の七不思議への対策。七不思議に招かれた人物のケアをすることが活動内容ですわ」
松平美南という女の子はそう言って、パッと見にはわからないくらい小さく口角を上げて微笑んだ。
わたしはといえば、眉間に皺を寄せて二人を見つめ返す。突然そんなことを説明されてもおいそれと信用できるものではない。
しかし、委員長の彼は機嫌を損ねることなく、穏やかに笑った。
「疑いたくなる気持ちはわかるよ。でも、君、ついさっき『トイレのハナコさん』に遭遇したばかりじゃないのかい?」
「え……!」
絶句するわたしを、委員長はにこやかな笑顔で、副委員長は無機質な表情で見つめる。
さっき体験したことを思い出して心臓が急にドキドキと激しく動き始めたが、わたしは悪い記憶を吹き飛ばすように頭を大きく横に振った。
「あんなの……あんなの、誰かのイタズラか、夢か何かを見たんです……!」
「そう? でも、震えてるよ? 本当に大丈夫……?」
柏原委員長は低く優しい声で言いながら、わたしの方へ手を伸ばす。そのまま髪を梳くようにしてわたしの頭を優しく撫でた。
黒縁眼鏡の奥の黒い瞳がじっとわたしを見つめている。
途端に頬から耳の辺りにかけてが熱くなったわたしは、委員長から視線を逸らした。
「北斗さん、彼女、戸惑っていらっしゃいますわ」
「あ、ごめんごめん」
彼はクスクスと笑いながらわたしの頭から手を退けた。わたしはホッとする反面、彼の手がわたしから離れたのを少し残念に感じる気持ちを否定することができなかった。部活の先輩はスポーツマンで少し俺様なところがカッコいいと思っていたけれど、大人っぽい雰囲気の柏原委員長を見ていると途端に先輩が子供っぽい人に思えてくるから不思議だ。
「北斗さんは調子がいいからいけませんわ。特に女子には甘くて」
「美南は手厳しいなあ」
ツンと澄ました顔の松平さんに、柏原委員長は苦笑いした顔を向ける。それがやけに親しげな顔で、しかも彼女を呼び捨てで呼んでいるので、わたしは少しだけ面白くない気持ちになった。もしかして、この二人は付き合っているのだろうか。
「まあ、僕のことはともかくとして、君の身に起こったことを考えないと。君は『トイレのハナコさん』に出会った。今後、何らかの霊障に見舞われる可能性もあるよ」
そう言って、柏原委員長は心配げにわたしの顔を覗き込む。
わたしは再び疑り深く彼を見つめ返した。この人は何者なのだろう。本気でトイレのハナコさんなんていう都市伝説を信じているのだろうか。
確かに、あのトイレでの体験は本当に怖かったけれど――それでも、わたしは所謂心霊体験というものを信じ切れずにいた。心配してくれるのは素直に嬉しいのだけれど。
「ご自分で体験なさったことが信じられないだなんて、珍しい方ですわね」
ツンと澄ました松平さんの言い方にはやはりカチンとくる。七不思議みたいなものを信じている松平さんの方が「珍しい方」のはずなのに、失礼な女だ。
もしかしたら、柏原委員長は松平さんに言いくるめられてこんな委員会の委員長をしているのではないだろうか。例えば、松平さんとの付き合いをやめさせてわたしと仲良くするようになれば、七不思議なんていう妄想から離れて普通のカッコいい男の子になって、そうしたらわたしと……。
「美南、そんな言い方は失礼だよ。彼女だってこんな体験、初めてなのだろうし」
柏原委員長の言葉にハッとし、わたしは脳内に広がっていた想像を一旦押し留めた。
「ねえ、君さ、信じられないのも仕方がないけど、何かあったら大変だから。もしこれから少しでもおかしなことがあれば、この第二視聴覚室を訪ねておいで」
委員長はわたしの顔を覗き込みながら穏やかに言った。わたしはその綺麗な顔をぼうっと見つめながら、虚ろに問い返す。
「なんでもないことでも、来てもいいんですか……?」
「もちろん。気になることがあればおいで。僕達は放課後はこの場所で委員会活動をしているから」
わたしは改めて室内を見渡す。普通の教室であれば黒板があるべき場所に白いスクリーンが設けられたこの教室は、窓に暗幕のかかっているせいか、照明が点いていてもどこか薄暗い印象だ。室内には七不思議対策委員会の二人とわたししかおらず、つまり、いつもは二人きりでこの場所にいるということなのだろう。
そんなのはダメだ。
「話をしているうちに、なんだか怖くなってきちゃいました。また明日とかに相談に来てもいいですよね?」
「いつでも歓迎するよ」
彼が嬉しそうに微笑んだのを見て、わたしの心が躍った。
「そういえば、君は何年生なの?」
「二年生です」
「ならタメ口でいいよ」
柏原委員長はそう言って朗らかに微笑んだ。彼も二年生なのだろうか。わたしは少し仕掛けてみることにする。
「じゃあ、北斗くんって呼んでもいい?」
「どうぞ」
ちらりと隣の松平さんを窺うと、ほんの少しだけ口の端を上げて笑っているように見えた。でも、それが微笑みなのか、苦笑なのかは読み取れなかった。
「わたくしも北斗さんとは同級ですから下の名前お願いしますわ。その方が親しみやすいでしょう?」
「いいの? じゃあ、美南ちゃんもよろしくね」
「ええ、よろしく」
どこか人形めいた表情の松平さん――美南ちゃんの感情はよくわからない。わたしが北斗くんと仲良くなっても彼女は気にしないだろうか。とりあえずは要観察ということで保留。そうだとしても、今日の戦果は悪くない。
「じゃあ、何かあったらまた来るね」
「うん。いつでもおいで」
そう。北斗くんに会いに来る口実ができたのだから。
「それじゃ、またね」
「うん。またね」
「ごきげんよう」
わたしは二人に手を振りながら第三校舎三階の第二視聴覚室を後にした。心の中で舌を出しながら。
(何もないだろうけど、また来るよ)
この機会を得られたのも「トイレのハナコさん」のおかげ。ハナコ様様だ。
部活へ向かうわたしはニヤつく口元を手で隠しつつも、軽やかになる足取りを抑えることはできなかった。
そんな風に、この時のわたしは、第三校舎三階北側女子トイレ三番目の個室での出来事を軽く考えていたのだけれど――それは大きな間違いだったことにすぐ気が付くことになる。
「昨日テレビ見た? びえの津下ちゃん!」
「めっちゃ笑ったー!」
「面白いけど、可愛いんだよね」
「ねー」
いつもの女子の会話。昨日は変な体験をしたけれど、今日の教室も友達もいつもと変わりはなかった。当然のことだけれど。
「ねえねえ、トイレ行こうよ」
「うん、いいよー」
みんなで連れだってトイレに行くのもいつもと同じ。わたしのクラスは第一校舎一階にあり、わたしと友達は笑い声を上げながら一階南の女子トイレに向かった。
出迎えるのは女子トイレの扉。昨日の第三校舎三階北側女子トイレと同じような外観をしていて、わたしはその扉に手を掛けるのをどこか憚られる気持ちが少しあった。
「どうしたの?」
「う、ううん、なんでもない!」
頭を振って笑顔を作り、思い切って扉を開く。入ってみれば、昨日の第三校舎とは違って電気もちゃんとついているし、嫌な臭いもない。わたしは少しほっとしながら一番目の個室に入った。
中から鍵を掛けて――念のため、動作に問題がないことを確認して小さく息をつく。
だが、和式便器の所定の位置に着こうとすると、ぴちょん、と、水の滴る音がした。
(なに……?)
洗浄レバーから水が漏れている気配はない。
(まさか天井から漏水とか?)
視線を上げて、わたしは思わず固まった。
(誰か、いる……)
個室の扉の一番上のところに指が掛かっていた。しがみつくように、両手の細い指が扉の縁を掴んでいる。
(なんなの……? みんなのイタズラ……?)
友人達がわたしを怖がらせて喜んでいるのだろうか。そうだ、きっとそうに違いない。悪ふざけも大概にしないと、わたしでも怒るんだけど。
そう考えても、体はわたしの意思に反して震え始めていた。心臓が嫌なリズムで動き始めた。あの指を見たくないと思っているのに、わたしは個室の縁に掛けられた指から視線を外すことができなかった。
指がぴくりと震えるように動いた。
それを合図としたように、個室の扉上部の縁に女の子のものらしき頭部が少しずつ覗き始める。艶のないパサパサした質感の厚い前髪が少しずつ露出する面積を増やしていく。
(やめてよ……やめてよ……なんなのこれ!)
トイレまで一緒に来た友人達にはあんな風な前髪を作っている子はいないし、みんな髪のケアはしっかりしている。
(ふざけないで! ふざけないでよ……!)
自分が何に対して怒っているのかもわからないまま、わたしは心の中で叫んだ。
その間にも扉の縁から覗く頭部は徐々に面積を増やしている。ぶ厚い前髪の下、影のかかった昏い瞳がついに露わとなり、その目がわたしをジッと見据えた。
(ひぃ……)
わたしは声も出せずに個室の中でしゃがみ込む。暗い視線に射抜かれて、体中から汗が溢れだし、心臓は苦しいくらいの激しさで動いた。
ものを言わず、じっと私を見つめる真っ黒な目。その目に見つめられたのは数十秒だったのか、それとも数秒だったのか。
(なんなの! なんなの! なんなの、これ! もう嫌!)
混乱しながら、わたしが目を瞑った瞬間。
再び目を開いた時、そこにいた「誰か」はきれいさっぱり消えていた。昏い目も、パサパサの髪も、壁の縁に掛かった指も、煙のように消えてなくなっていたのだ。
(は……?)
何度も目を瞬かせる。何度も目を擦る。けれども、そこには何もいない。
(目の錯覚? イタズラ? それとも……)
ゾッとして体が震えた。
用も足さずにわたしはふらふらとトイレを出る。
「あれ? どうしたの? 顔色が悪いよ?」
友達が心配そうにわたしの顔を覗き込んできた。
「あ、あのさ。わたしがトイレ入ってるとき、変なことなかった……?」
「変なこと? 何それ?」
友達のキョトンとした顔。わたしは慌てて頭を振る。
「ううん。なんでもない! 忘れて!」
「でも本当に気分が悪そうに見えるよ。保健室行く?」
「だ、大丈夫! ありがと!」
「ならいいけど……」
尚も心配そうな友達を振りきるように、わたしは率先してトイレを出て、教室へ向かった。
数学の授業が始まって十五分ほどが過ぎた。
先生は課題の数式について解説しながら板書している。チョークが黒板を叩く音と共鳴するように、教室にはシャーペンがノートを擦る音が響いていた。
けれども、わたしはただノートと教科書を広げているだけで、まったく先生の言葉も頭に入ってこないし、ノートに文字を書く気にもなれなかった。さっき友達に見せてしまった醜態を思い出しながら、手で顔を覆う。
ダメだ。変なところを見せるのはよくない。仲の良い友達でも、怪談の妄想にハマってる変な奴だなんて思われたら危険だ。何がキッカケでハブられるかわからないのだから。
(まあ、うちのクラスは恵まれてて、今までイジメらしいイジメもなかったけど……)
そんな風に考えて溜め息をついた瞬間。
突然、耳鳴りがした。
――ハ……さん……び…………。
耳鳴りと共に、小さく誰かの声が聞こえた。
「え?」
不快感に顔を歪めつつも、わたしはその声に誘われるまま耳を澄ましていた。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
昨日聞いたばかりの言葉。童歌のメロディーに乗って聞こえてくるあの言葉。
気付くとわたしはガタンと大きな音を立てて立ち上がっていた。
「どうした?」
教壇に立つ数学教師が不思議そうな顔でわたしを見る。クラスメイト全員も同じ表情でわたしを見た。
「あの声……歌声が……」
「歌声?」
戸惑うような教師の顔とみんなの顔。
(誰もこの変な声が聞こえてないの……?)
やはり嫌がらせの類ではないということなのか。
「い、いえ。なんでも……すみません……」
カッと恥ずかしさに頬が熱くなるのを感じながら、わたしは小さくなって席に着いた。
「体調が悪いなら遠慮せずに言いなさい」
「だ、大丈夫、大丈夫です……」
俯くわたしの腕を、隣の席の友人が心配そうな顔でつついてくる。
「やっぱり気分が悪いんじゃないの?」
「ううん。気にしないで。本当に平気だから」
わたしは懸命に笑顔を作って返事をした。わたしにはそれしかできない。そしてこれが精いっぱい。
だって、先生と話している間も、友人と話している間も、耳の奥で響き続けていたのだから。今もまだ聞こえているのだから。あの嫌な声が……。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
放課後、わたしは第三校舎三階の第二視聴覚室へ向かった。部活の先輩には、今日は体調が悪いから先に帰ると伝えてある。扉を開けると、既に北斗くんと美南ちゃんが席に着き、何かのファイルを覗いているところだった。
「北斗くん……わたし……」
わたしが力なく話しかけると、北斗くんは気遣わしげな表情でわたしの顔を覗き込む。
「大丈夫? 顔色が悪し、なんだか泣いてるみたいに見えるよ?」
「今日、すごい変なことばっかり……」
わたしは昨日と今日に体験したことを七不思議対策委員である二人に話した。北斗くんは身を乗り出しながら、美南ちゃんは冷たい表情でわたしのたどたどしい話を聞いていた。
聞き終ると、美南ちゃんは薄いフレームの眼鏡の位置を直しながらわたしに問いかける。
「その声は今も聞こえていますの?」
「うん……時々、忘れた頃になると、また聞こえてくる」
「これはもう誰かの悪戯なんていうレベルではなさそうですわね」
美南ちゃんの言葉に北斗くんも腕を組みながら頷く。
「そうだね。これは本腰を入れて取り組むべき案件だ」
北斗くんは表情を引き締め、わたしに向き直って座る。
「ねえ、君はこの学校の七不思議は知っている?」
「あんまり知らないの」
「じゃあ、『トイレのハナコさん』も知らなかった?」
「うん。名前くらいしか」
「そうか……」
北斗くんは口元に手をやりながら、背表紙に「トイレのハナコさん」と書かれたファイルめくる。
「うちの学校の場合、『トイレのハナコさん』は第三校舎三階の北側女子トイレ、入り口側から数えて三番目の個室に棲んでいると言われているんだ」
「この階の教室が使われていた頃は、女子生徒達はわざわざ別の場所のトイレを使っていたそうですわ。今もよほどの情報弱者でもない限り、あのトイレを使う物好きはいないようですけれど」
美南ちゃんの言い様に少しムッとするが、言い返す気力も今のわたしにはない。北斗くんが苦笑を浮かべながら説明を続ける。
「音楽室の肖像画が血の涙を流すとか理科室の動く骨格標本とかはまあまあ目撃証言が残っているんだけど、実は『ハナコさん』については、あまりそういうのがないんだ」
「だから『ハナコさん不在説』などという噂が学校内で流れたこともあったのですわ。でもこうして実体験者のサンプルが現れて、わたくし、今興奮していましてよ?」
珍しく、美南ちゃんはにこりと微笑んだ。でも、実験動物扱いされたような気分で面白くはない。
「美南。そんな失礼な言い方ダメだろ。ごめんね。美南が失礼なことを言って」
「ううん。いいの」
北斗くんはホッとした表情になる。わたしはサラッと注意できる北斗くんと美南ちゃんの関係性に面白くない印象を持ちつつ、北斗くんがわたしを気遣ってくれたのは純粋に嬉しかった。
「ねえ、わたし、どうなっちゃうの?」
上目遣いを意識して北斗くんの顔を覗き込むと、彼は戸惑うような顔で視線を逸らした。
「それは……それはね……」
言いづらそうな北斗くんの代わりに美南ちゃんが答えてくれた。
「この学校の噂では、あのトイレの三番目の個室を利用すると、『ハナコさん』から話しかけられると言われておりますのよ。話しかけられた人物は『ハナコさん』に連れて行かれてしまうとか」
「連れて行かれる……?」
「細かいことはわかっていませんわ。でも『ハナコさん』は幽霊なのでしょうから、魂を引き抜かれて死んでしまうとか、そういう類のことでは?」
血の気の引いたわたしの顔を見て、北斗くんは軽く美南ちゃんを睨んだ。
「美南、そんな変に怖がらせることを言わなくてもいいだろ。あくまで噂は噂だよ」
それでも美南ちゃんは肩を竦めただけ。北斗くんは少し困った顔をしたが、咳払いをしてからわたしに向き直る。
「とりあえずは、『ハナコさん』と君との因縁について調べてみるのがいいと僕は思うんだ」
「因縁?」
「君、第三校舎三階を通りかかったら急にお腹の調子が悪くなったって言ったよね? そして、あの三番目の個室に入った瞬間、調子が元に戻ったって」
「うん……」
ちなみに、部活の先輩と会っていたことは話していない。北斗くんにわざわざ言う必要もない。美南ちゃんは何か勘付いている気配があったけれど、わざわざこの校舎にいた理由を問いただすような無粋はしなかったのは幸運だった。
「それって、『ハナコさん』が君をあのトイレに誘い込もうとしたんじゃないかな」
「え!」
わたしが驚きの声を上げると、美南ちゃんが薄いフレームの眼鏡の位置をスッと上げながら北斗くんの言葉を補足する。
「いくら『トレイのハナコさん』とはいえ、縁もゆかりもない人に対して、体調をコントロールするほどの影響を与えられるとは思えませんわ」
「わたしが『トイレのハナコさん』と知り合いだってこと? そんなわけないよ!」
「そうかしら?」
「だって、わたし、あのトイレ、この前初めて使ったんだよ!」
「本当に?」
静かな声でそう問いかけてきたのは美南ちゃんではなく北斗くんだった。長い前髪の隙間から覗く黒縁の眼鏡、その奥の黒い瞳がわたしをじっと見つめていた。勢いを削がれて言葉に詰まるわたしに、北斗くんは尚も言う。
「よく思い出してごらん。本当にあのトイレに行ったのは初めてだった?」
「初めて……のはず……」
でも、そういえば、あのトイレに行ったときわたしは既視感を覚えた――いやいや、学校の敷地内のトイレなんて、みなほとんど同じ内装なのだから、そんなの気のせいに決まっている。
「本当かなあ?」
北斗くんは僅かに頭を傾げる。わたしは信じてもらえないのが悲しくて下を向くと、北斗くんがわたしに向かって手を伸ばしてきた。
「ちょっとリラックスしてお話しようか」
そう言って、北斗くんはわたしの頭をゆっくりと撫でる。わたしがびっくりして視線を上げると、優しく微笑む北斗くんがいた。
「もしかしたら、何かの時にたまたまこの校舎に来たことがあったのかもしれない。それでトイレに入ったのかも。それをちょっと忘れているだけかもしれないだろう?」
穏やかな声で話す間も北斗くんはわたしを優しく撫でる手を止めなかった。わたしは頬が熱くなり、心臓がドキドキ言うのを止められなくなる。
「僕、実は催眠術が得意なんだ。と言っても、お遊び程度のものだけれどね。でも、僕の催眠術で忘れていたことを思い出したっていう人もいるんだよ? 君の役に立てるかもしれない」
北斗くんは穏やかに微笑みながらわたしの顔を覗き込む。眼鏡の奥の黒い瞳がじっとわたしを見つめている。
「どうかな、僕の催眠術、受けてみない?」
「あ……うん……」
わたしは魅入られたように頷いていた。
「よかった。じゃあ、美南、ちょっと席を外してくれる? できるだけ他人のいない環境の方が催眠術にかかりやすいんだ」
「わかりましたわ」
美南さんが席を立って廊下に出ると、北斗くんはわたしの正面に腰掛ける。
「それじゃあ、目を瞑って」
北斗くんはわたしの髪を優しく梳きながら低い声で囁くように言う。わたしはドキドキしながらそっと目を閉じた。
「スリーカウントで君が昔、第三校舎三階の北側女子トイレに来た時に戻るよ。リラックスしてね。いいかい? 三、二、一……」
北斗くんがパチンと指を弾く――。
「ハナコさん、遊びましょう。ハナコさん、遊びましょう――」
クラスメイトの女子達は第三校舎三階北側女子トイレで、扉の閉まった三番目の個室に対してその童歌を繰り返していた。それは何かをバカにするような声音を含んでいた。
「あんたさ、そこにいるのはわかってるんだよ。出てきなよ」
「教室で一緒に食べる相手がいないのはわかるけど、こんな外れにある校舎の、しかもトイレで弁当食べるとか、めっちゃ汚くない?」
「惨めだよね。わたしだったら絶対ヤダ!」
そんなことを言いながら、クラスの有力な女子達はおかしそうに笑い合った。
こういうのはくだらないなあとは思いつつ、敢えて正義漢ぶって目立つつもりもないので、わたしは囃し立てる彼女達の後ろで静かにしていた。これも女子の付き合いとして必要なこと。
とはいえ、トイレの中の子が特別可哀想とも思わない。嫌なら嫌だと言えばいいし、最初からクラスの女子に馴染む努力をきちんとしていればこんなことにはならなかったのだから。
「ねえ、あなた、友達いないから知らないだろうけど、この第三校舎三階の北側女子トイレって『トイレのハナコさん』が出るんだよ」
「しかも、あなたが入っている三番目の個室が丁度そうなんだって。ねー?」
楽しそうに彼女達は嗤う。
「もうあなた、呪われちゃったかもねー?」
「やだ、こわ~い~!」
ひとしきりキャラキャラと笑うと満足したのか、クラスメイト達はトイレを立ち去り始めた。わたしもやれやれと思いながらそれについて行く。
と――。
「今日からあなたのこと、『ハナコ』って呼ぶことにするから。トイレで食事するあなたにはお似合いでしょ?」
彼女達のうちの一人が、捨て台詞みたいに閉ざされたままの個室に向ってそう言った――。
ハッとして目が覚めると、目の前には穏やかに微笑む北斗くんがいた。
「どうだった? 何か思い出した?」
「ハナコ……が……?」
わたしは混乱していた。
今見たものは、わたしの記憶に全くないものだった。けれども同時に、確かにわたしはそのことを体験したはずだという実感もあった。
記憶にないのに、確かにそれはあった気がするという矛盾。ちぐはぐな感覚。
足元がぐらつくような不安感に、わたしは思わず自分の体を抱きしめた。
「大丈夫?」
「うん……」
「どんな記憶が甦ったの?」
「あのトイレの個室に女の子が閉じこもってて……たぶん、うちのクラスの女子なんだけど……ハナコって呼ばれてて、他の女子達が囃し立てるみたいなことをしてた……」
「ふうん」
相槌を打つ北斗くんを見て、わたしはハッとする。
「あ、違うよ! わたしは参加してない。見てただけだから!」
「わかってるよ」
北斗くんが優しく微笑んでくれたので、わたしはホッと胸を撫で下ろす。
「その個室に閉じこもってた子が誰かはわかる?」
「わかんない……というか、名前も思い出せない。でも……確かにあんなことがあったような気はするけど、だけど、全然実感がないっていうか……嘘みたいな気がするの。それにウチのクラスはずっとイジメらしいイジメのないクラスだし」
「ふうん……?」
少し不審げに首を傾げた北斗くんを見たわたしは、思い立ってスマートフォンを取り出す。
「ちょっと、クラスの子に訊いてみる!」
わたしはメールアプリを起動し、さっき甦った記憶で一緒にトイレに行っていたクラスメートに宛てメッセージを送った。
『ねえねえ、みんなで第三校舎三階のトイレに行ったことってあったっけ?』
ほどなく返信が帰ってきた。
『ないと思うけど、どうしたの?』
わたしは変な感じにならないよう、文面をよく考えて送り返す。
『いや。なんか、ハナコって子がね、わたし達がそのトイレにいたとかなんとか文句みたいなこと言ってるみたい』
『ハナコ? 誰それ?』
『ニックネームみたいな? わたしもよく知らない。ハナコのこと知ってる?』
『知らない』
『だよね。わたしも変だと思ったの。だったら無視するよ。ごめんね、変な事聞いちゃって!』
『大丈夫?』
『うん。大丈夫。今度また一緒に遊びに行こ!』
『おっけ~。連絡待ってる』
わたしはスマートフォンを仕舞い、北斗くんに向き直る。
「クラスメイトも、そんなこと覚えてないって。ハナコも知らないって言ってたし、やっぱりわたしの記憶がおかしいのかな」
「うーん……それにしては今回のことと色々と符号が合い過ぎてるんだよね。何か恐ろしいものの陰謀を感じるなあ」
低い声で呟かれた北斗くんの言葉に、わたしは背筋が凍り、目に涙が滲んだ。
「ごめん。君を怖がらせるつもりはなかったんだ。大丈夫だよ」
北斗くんはわたしの方に腕を伸ばして、涙の溜まった目元をそっと指で拭ってくれた。優しい笑顔を浮かべている北斗くんを見ていると、胸がドキドキする。
やっぱりわたしは、この人を好きになってしまったのかもしれない。
「北斗くん……わたし……」
わたしが言葉を続けようとした時、第二視聴覚室の扉が開いた。
「あら、お二人とも仲がよろしいのね」
二つの三つ編みを揺らしながら教室に戻ってきた美南ちゃんは、僅かに口の端を持ち上げて皮肉げに笑っていた。わたしは内心の舌打ちが気付かれないよう、必死に表情を取り繕った。
「それで、どうしますの?」
「とにかく、『トイレのハナコさん』のことと、それから彼女の思い出した『ハナコ』と呼ばれていた子のことをもっと調べるべきだと思うんだ。そうすれば今回の現象の原因がわかって、何か対策を打つこともできるだろうから」
「わかりましたわ」
美南ちゃんは机の上に並べられたファイルを手に取り、パラパラとめくり始める。
「悪いけど、今日はもうこれ以上の情報は僕達もないんだ。君は今日は早く帰った方がいいよ」
「うん……」
わたしは頷きながら、チラリと北斗くんと美南ちゃんを覗き見る。
「あの……あのね。一人で帰るのが怖くなっちゃって。できれば一緒に……」
(できれば北斗くんと二人で帰りたいけど、無理だろうな)
だが、美南ちゃんはファイルから顔を上げて意外なことを言った。
「北斗さんが家まで送って差し上げたらいいのではなくて? 調べ物はわたしがやっておきますわ」
「え、美南……!」
北斗くんが狼狽したように美南ちゃんを見る。わたしも内心とても驚く。だが、美南ちゃんはそれ以上わたし達と話をする気がないらしく、ファイルから顔を上げようともしなかった。
「仕方ないな。それじゃあ行こうか」
そう言うと、北斗くんは制服のブレザーを羽織ってからカバンを担いだ。この暑いのに上着を着るのかとわたしがびっくりしていると、北斗くんが苦笑した。
「僕、肌が弱いから。日光に当たるとすぐブツブツが出ちゃうんだよね」
「そうなんだ」
わたしと北斗くんは連れだって第三校舎を出て昇降口へ向かう。ブレザーを着た北斗くんは汗一つ掻かずに終始穏やかな笑顔を浮かべ、わたしを家の前まで送ってくれた。
◆
第三校舎三階北側女子トイレで弁当を食べているのを発見されて以来、「ハナコ」はしばしばクラスの女子から目に見えてひどく扱われるようになった。
「ねえ、大丈夫?」
彼女達がいない場所でわたしがそうやって「ハナコ」に声を掛けてたのは、ただの気まぐれだった。たまたま話し相手がいなかったから話しかけてみただけで、あまり深い意味はない行為だった。
でも、「ハナコ」にとっては天地がひっくり返るほどの意味があったようだ。
「あ、あり、ありがとう……!」
震えながら「ハナコ」はそう言った。
その日以来、わたしと「ハナコ」はクラスメイトのいない場所で少しずつ話をするようになった。
「ね、ねえ。前に欲しがってたよね、これ。よ、よかったらあげる!」
その日、「ハナコ」がわたしに差し出してきたのは人気の猫のキャラクターがついたペンケースだった。この辺りの店には売っていないし、普通のペンケースよりは随分値が張る商品だった。
「え、いいの?」
「うん。い、いつもありがとうの……プレゼント……」
少し照れたような笑顔でわたしを見つめる「ハナコ」に、わたしも笑顔を返す。それはとても穏やかな時間のように見えた。
わたしは「ハナコ」との交流を深めていくうちに、時々、彼女がわたしのことをじっと見つめている時があることに気が付いた。
「どうしたの? わたしのこと見てさ」
「う、ううん。なんでもない……!」
何回か同じように尋ねてみたが、「ハナコ」はその度に同じように答え、顔を赤くしてわたしから目を逸らすのだった。だから、わたしはある時、率直に訊いてみることにした。
「もしかしてわたしのこと好きなの?」
わたしの言葉に「ハナコ」の顔がさらに赤く染まり、わざとらし過ぎるほどに頭を大きく横に振った。
「ち、ちが、違うよ……!」
「わたしは別にいいけど」
「へ……?」
「あ、ごめん。気持ちに応えられるって意味じゃなくて、別に好かれてても気持ち悪いとかはないよってこと」
「ほ、ほ、本当?」
わたしが頷くと、「ハナコ」崩れてしまうのではないかというくらい大きく息を吐き出し、机に突っ伏した。それから顔を少しだけ上げてわたしの顔を覗く。
「あ、ありがとう……いつも、私のこと……り、理解してくれて……」
キラキラと、少し潤んだ瞳で「ハナコ」はわたしを見つめていた。
◆
ぱちりと目が開くと、わたしは自分の部屋のベッドの中にいた。
「夢……?」
今見た夢の内容をわたしは反芻する。わたしが「ハナコ」と話をするようになった経緯と、「ハナコ」との交流――。
そんなことがあったのだろうか?
――無かったと思う。
――いや、あったような気もする。
けれども、夢の中に出てきた「ハナコ」はクラスメイトのどの顔にも当てはまらなかった。彼女をトイレでからかっていたのは、確かに今のクラスメイトだったのに。
見覚えのない顔。でも、どこかで見たような気もする顔。
わたしはベッドから静かに降り、机の前の椅子に座った。目を閉じ、息を吐きながら机の引き出しを開ける。
「あ……!」
目を開いたわたしは短く叫んだ。
そこには夢の中で「ハナコ」から渡されたペンケースが置いてあったのだ。
あのペンケースがわたしの家の机の中にあった経緯を、わたしは全く思い出すことができなかった。その後再び眠りにつくこともできず、わたしはベッドの上でじりじりしたまま朝を迎えた。
学校に来れば今日も耳鳴りとあの声が聞こえ、トイレでは昨日ほどはっきりとではないけれど女の子の影を見た。
わたしは一人震えた。頭がおかしくなりそうだった。
昼休みには友達が誘ってくれたので、気分転換も兼ねて図書室について行くことにした。
だが、そこでたまたま部活の先輩に会ってしまう。目配せされたので、わたしは友達から離れて先輩のところへ行かざるを得なくなった。
「体調は大丈夫なの?」
北斗くんとは違ってよく日に焼けた顔に健康的な笑顔を浮かべた先輩が言う。わたしは曖昧に頷いた。
「うん。もう大丈夫なんだけど……」
「あ、悪いけどさ、今日は俺、塾の模試があるから速攻帰らないといけなくてさ。だから、今日も会えないんだよね」
「そうなんだ」
「それと、なんか塾の時間が変わるっぽくて、今みたいに会えなくなると思う。ごめんな」
「ううん。気にしないでいいよ」
内心、面倒が遠ざかったことに幸運を覚えながらわたしが微笑むと、先輩は「そういえば」と言って首を捻った。
「昨日、体調悪いのに、お前なんですぐに帰らなかったんだ?」
「え……?」
「いや、俺が部活してたらお前がさ、五時間目から結構経った頃に第三校舎から出てくるのを見たから」
まさか、北斗くんと一緒に帰ったところを見られた……?
「いや、もしかして、俺に会えると思ってあの校舎に行ったのかなって。それなら悪いと思ってさ。顔色悪そうなのに一人で帰ってて可哀想だったし」
セーフ。
わたしは内心でホッと息を吐く。でも、北斗くんとわたしはずっと隣同士で歩いていたはずだけど……?
「あ、友達待たせちゃまずいよな。じゃあ、またな。今度はどっか、遊びに行こうぜ」
「うん」
湧き出した疑問を考える間もなく、わたしは先輩に手を振って別れた。
放課後、わたしは第三校舎の三階、第二視聴覚室に向かった。得体の知れない恐怖をなんとかしたいのと、北斗くんに会える期待とで、意識しなくても早足になる。
だが、扉を開けると、室内は真っ暗だった。暗幕用の黒いカーテンが引かれているうえに、電気も消されていたのだ。
「北斗くん? 美南ちゃん……?」
声を掛けると、視聴覚室の正面側、白いスクリーンが掛かっている方の照明だけがぼんやりと点灯した。
「お待ちしていましたわ」
ノートパソコンの前に座った美南ちゃんがにこりともせずにそう言うと、その隣の北斗くんが朗らかに微笑んだ。
「美南が色々面白い情報を集めてくれたんだ。今からスクリーンに映すから、その辺に座って見てみてよ」
「面白い情報……?」
わたしは戸惑いながらも言われたとおり、スクリーンの前の席に着いた。
「まずはこの学校の防犯カメラの映像を秘密裏に入手しましたの。それに面白いものが映っていましたのよ。ご覧になって」
美南ちゃんがそう言いながらパソコンを操作する。
(あれ? うちの学校に防犯カメラなんてついていたっけ?)
そんな疑問がわたしの頭を掠めたけれど、口にする間もなく美南ちゃん達を照らす照明が消え、プロジェクターがスクリーンに動画を映し始めた。
映像はどうやら第三校舎三階の廊下を映したもののようだった。
と、向こうから二人の人物がやって来て――。
その映像に、わたしは思わず席から立ちあがる。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
映っていたのはわたしと部活の先輩だった。二人で手を繋ぎ、寄り添いながら廊下を歩いている。カメラはわたし達が鍵の壊れた教室に入るところも捉えていた。
「な、なんなの! どういうつもり!」
美南ちゃんの嫌がらせだとしか思えない。
でも、わたしが怒鳴りつけても、美南ちゃんからは何の反応も返ってこなかった。部屋が暗いせいで、彼女も隣の北斗くんもどんな顔をしているのかはわからない。
わたしが恨みがましい目でスクリーンを睨んでいると、画面が早回しされ、二十分ほど経って教室から出てくる先輩を映した。続いてその数分後に出てくるわたし。
それからわたしの後ろ、少し離れた場所に、いつの間にか一人の女子生徒が立っているのが映った。その女の子は突っ立ったまま、画面の中のわたしをじっと見つめている。
わたしは嫌な予感に、背筋がぞくりと粟立つのを感じた。
「この女の子、拡大しますわね」
美南ちゃんが動画を一時停止し、女の子の顔を拡大した。
「『ハナコ』……」
わたしは思わず呻いた。それは昨晩の夢に出てきた、あるはずのないペンケースをくれたあの女の子と同じ顔をしていた。スクリーンに映ったその子は、粘つくような目で画面上のわたしのことを見つめている。
映像は再び標準サイズで再生が再開された。
(「ハナコ」はやっぱり、うちの生徒ってこと……?)
だが、わたしが廊下の端へと消えた瞬間、画面に映っていた「ハナコ」らしき女の子の姿が消えた。どこかに移動した様子もないのに、煙のようにスッと――。
わたしは震えながら呻く。
「何……これ……?」
「こんなことが何回もありましたのよ」
美南ちゃんは冷たい声で言い、再び別の映像を再生した。先輩と二人であの教室に入るわたしと、先輩とは別に一人で帰るわたし、そしてわたしをじっと見つめる「ハナコ」らしき女の子の映像が、ダイジェスト映像のようにいくつもいくつも短くまとめられていた。
「もう……もう、やめて……やめてよ!」
わたしが叫ぶと、ようやく映像は止まった。
「ねえ、君はこの『ハナコ』さんが誰か、本当に覚えていないの?」
暗闇の中から優しい声で問いかけてきた北斗くんに、わたしはやや俯き加減に頭を横に振る。
「わかんない……。クラスメイトだった気がするけど、でもクラスメイトにはこんな子いないし。話したことがあるような気はするけど、そんなこと全然覚えてなかった。もうわけがわかんない!」
「そう……」
「それに、もし『ハナコ』が本当にいるんだとしても、わたしはその子に親切にしていたはずだもん。こんな風に呪われる理由がないよ!」
わたしは暗闇の中にいるはずの七不思議対策委員会の二人に向かって叫んだ。すると、闇の中、僅かに身動ぎするような気配があった。
「本当にそうなのかな?」
「あなた、あの『ハナコ』さんに何をしたか、本当に覚えていませんの?」
北斗くんの穏やかな声と美南ちゃんの冷たい声が言う。二人の声は、なんだかとても恐ろしいもののようにわたしの耳には聞こえた。
「な、何……まだ何かあるの……?」
わたしの震えた声に合わせて、プロジェクターが再び駆動音を響かせ始めた。
『持ってきてくれた?』
スクリーンに映されたわたしが、誰もいないどこかの教室で「ハナコ」に問いかける。
『うん。こ、これ……』
少しはにかんで笑いながら「ハナコ」はわたしに封筒を差し出した。スクリーンのわたしが中身を改めると、中にはいくらかの紙幣が入っていた。
『こんなにお金を用意させちゃって、ごめん。うち、両親がいないから生活が苦しくて。そんなの恥ずかしいから今まで誰にも相談できなかったんだ』
『き、気にしないで』
『でも、こんなに大丈夫なの?』
『大丈夫! 私、あ、あなたのためなら何でもするよ。だって……だって、私を助けてくれたし……わ、私にとっては、だ、大事な人だから……』
そう言って、「ハナコ」は無邪気に微笑んだ。
プロジェクターがスクリーンに投影する光が消えると、辺りは再び暗闇に覆われる。
わたしは狼狽えながら叫んでいた。
「ちょっと待って……。ちょっと待ってよ! なにこれ! こんなの覚えてない! それにこの映像、なんなの、これ! 防犯ビデオじゃ、こんなの撮れないでしょ! どうしてこんな映像があるの!」
暗闇の中にいるはずの七不思議対策委員会の二人は、わたしの問いには答えずに沈黙している。そのせいか、二人の気配を感じない。本当にそこにいるのか疑わしくなるほどに。
我慢できずにわたしが二人に近付こうと立ち上がった時、再びプロジェクターが稼働し始めた。
「ハナコ」のいなくなった教室でわたしが封筒の中の紙幣を数えていると、扉が開いてクラスメイトの女子達が入ってきた。
『いくらもらえたの?』
『千円札いっぱいだけど、合計三万円くらいかな』
わたしは封筒に視線を落としたまま答えた。
『よくそんなに出させられるよね』
『うちの両親に死んでもらっちゃった。本当はピンピンしてるんだけどね。でも、笑っちゃうくらい同情してくれて面白かったよ』
『ひっどー!』
『前も言ったけどさ、「ハナコ」はレズなんだよ。わたしが好きだから、何でもしてくれるんだってさ』
『この前、「ハナコ」にエロ画像撮って送らせてたじゃん。あれはどうやったの?』
『えっとね。「わたしが女の子を好きになる適性があるか確かめたいから、裸の写真を見せてくれない?」って言ったの。そしたら「ハナコ」ってば期待が膨らんだらしくて、絶対秘密だよって言ってわたしに送って寄越してきた』
『でも、こっちはばっちり共有しちゃってますよ~って感じ?』
わたしと彼女達は楽しげにケラケラと笑った。
『そのお金どうする?』
『週末みんなで遊園地行こうよ』
『賛成!』
そのままみんなで楽しく遊園地の計画を立てていると、ふと視線を感じてわたしは顔を上げた。
『げ……』
教室の扉の窓から廊下に立つ「ハナコ」がこちらを覗いていた。蒼白な顔をしている。
わたしの声と視線から他のみんなも「ハナコ」の存在に気付く。ヤバイという顔をする人と、ニヤニヤする人と半々くらいの割合だった。
わたしは溜め息をつきながら「ハナコ」のいる方に向かった。乱暴に扉を開けると、彼女はビクリと体を震わせ、手に持っていた何かを床に落とした。
『あのさ……もしかして、全部聞いてた?』
わたしが問いかけると、「ハナコ」は目に涙を溜めた真っ青な顔でわたしをしばらくの間見つめていた。口をパクパクして何かを言おうとしていたが、何の言葉も出てこない。とうとう彼女は諦めたように唇をキュッと噛みしめ、踵を返して廊下を走り去っていった。
残ったのは彼女が落としていったものだけ。おそらくはさっきわたしに渡しそびれて、改めて持って来たものなのだろう。それは「ありがとう」のメッセージカード付きの手作りクッキーだった。
再び第二視聴覚室が暗闇に落ちる。
「嘘……嘘だよ……こんなの……」
わたしは呻くように「嘘だよ」と繰り返す。
こんな記憶はわたしにはない。でも、こんなことがあったような気がするのを否定することもできない。確かな既視感がわたしの中にあった。
そんなわたしを嘲笑うかのように、暗闇の中にいるはずの七不思議対策委員の二人はスクリーンへの投影をまた再開する。
「いつもの場所で待っています」というメッセージカードを『ハナコ』から受け取ったわたしは、『ハナコ』との待ち合わせに使っていた教室のドアを開けた。だが、異様な光景を目にして立ち竦む。
『嘘でしょ……「ハナコ」……』
そこにはいつものように「ハナコ」がいたが、彼女の姿は変わり果てていた。右手にカッターを持ち、左手首がザクザクに切り裂かれていた。その状態で彼女は机に突っ伏しており、辺りは机も床も彼女の制服も、すべてが血の色に染まっていた。
『終わりだ……』
わたしは誰にともなく、呆然と呟いた。
しばらくの間、第二視聴覚室を闇が覆っていた。やけに重く苦しい暗闇だった。
「思い出した?」
北斗くんの穏やかな声と共に部屋の正面の照明がぼんやりと灯り、七不思議対策委員の二人の顔を照らした。
「わたし……わたしは……『ハナコ』を……」
わたしはようやくすべてを思い出していた。わたしがしたことも、「ハナコ」がしたことも、その後に起こったことも。
「思い出したようでよかったですわ。あら、『ハナコ』さんがまた会いに来てくださったようですわよ」
美南ちゃんがそう言って冷たくクスリと微笑むと、前方の白いスクリーンに黒い染みのようなものが映し出された。それは少しずつ形を変え、やがて制服を着た女子生徒の形を取る。
そこに映っているのは、血塗れの制服を着た「ハナコ」だった。スクリーンの中の「ハナコ」は一歩ずつこちらに近付いてくる。
わたしの心臓が嫌なペースで鼓動を刻み、全身から冷たい吹き出した。
それでも当然「ハナコ」の歩みは止まらない。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
今や聞き慣れた童歌を「ハナコ」が歌うと、わたしの意識がフッと途切れた。
わたしは特段「ハナコ」が嫌いだったわけではない。でも、別に好きな友達というわけでもない。
だからわたしは「ハナコ」とクラスの有力女子を天秤に掛けた。当然それは後者の側に傾く。わたしは「ハナコ」を裏でおちょくるというサービスを提供することで、彼女達との親睦を深めた。
それが、血塗れになった「ハナコ」によってすべて崩れ去った。
わたしは血を流しながら机に倒れ込んでいる「ハナコ」の口元に恐る恐る手を近付けてみたが、彼女は既に息をしていなかった。
「このままじゃ、わたしの人生が終わる……」
そう思ったわたしは、とにかく、「ハナコ」の身体をどうにか処分しなければならないと考えた。
けれども、何かいい考えが浮かんだわけではない。むしろ、ひどく混乱していたせいで頭がおかしくなっていたのだと思う。
わたしは「ハナコ」の身体を後ろから抱きかかえ、引き摺りながら教室を出た。火事場の馬鹿力が出たものか、わたしは人気のない第三校舎三階の廊下を「ハナコ」を引き摺って彷徨い続けた。引き摺れば引き摺るほど「ハナコ」の手首から出た血が廊下を汚し、わたしは泣いて逃げ出したかったけれど、もう後戻りはできないような気がして「ハナコ」を引き摺り続けた。
入り組んだ第三校舎を彷徨ってどのくらい経ったのだろうか。最終的にわたしが到達したのは、あの「トイレのハナコさん」が出るという第三校舎三階北側女子トイレだった。
わたしは「ハナコ」を引き摺ってトイレの中に入り、手前から数えて三番目の個室に彼女を放り込んで扉を閉めた。それだけで鍵がかかったように扉ががっちりと填まって動かなくなったのは今考えれば不思議なことだったが、その時はそれどころではなかった。
ふらふらになりながら廊下に這い出したわたしは、「ハナコ」が手首を切った教室からこの女子トイレまで、蛇行した赤い線が途切れることなく続いているのを改めて目にすることになる。とても掃除しきれるものではなくて、心が挫けたわたしはそのまま学校から逃げだした。
だが、翌日、おかしなことが起きた。
学校中、いや、おそらく世界中から「ハナコ」が生きていた形跡が失われてしまったのだ。
まず、わたしの教室から「ハナコ」の席が消えていた。彼女の後ろの席から順繰りに前へ詰められた形で座席が埋め直されていたのだが、誰もそれを不審に思っている様子がなかった。
「あのさ……『ハナコ』の席ってどうなったの……?」
「え? ハナコ? 誰それ?」
わたしが息を止めながら問いかけても、友達はみなキョトンとした顔を見せるだけだった。
おかしなのはそれだけではなく、学校の名簿からも『ハナコ』の名前は消えていたし、教師もそれをおかしいとは思っていなかった。確認はしていないが、「ハナコ」の家族も彼女が消えたこと――もっと言えば彼女が生きていたことを認識しなくなったのではないだろうか。
わたしは怖くなって、第三校舎の三階へ向かわずにはいられなかった。そして、三階に着いた途端、わたしの体は凍りつく。
「ハナコ」を引き摺ってついたはずの血の跡が廊下からきれいさっぱり消えていた。拭き取ったレベルではない。あの血塗れの教室すら、すっかり元通りだったのだから。
心臓がバクバクと痛いくらいの鼓動を刻む中、わたしは「ハナコ」を押し込めたはずの女子トイレへ向かった。
ぎぃぎぃと嫌な音をたてる入り口のドアを開けて中へ入ると、閉じていたはずの三番目の個室の扉が開いていた。わたしは震えながら、そっと中を覗く。
そこには何もなかった。
便器とトイレットペーパーとそのホルダーと汚物容れだけで、他には何もない。当然血の跡もない。
わたしはその場にホッと崩れ落ちた。
何がどうなったのかはわからないが、どうやらわたしの人生は終わらずに済んだらしい。みんなが、世界が、「ハナコ」のことを忘れてしまったらしい。
わたしは大きく安堵の溜め息を溢した。
その瞬間。
わたしもまた、「ハナコ」のことを忘れてしまったのだった。
わたしは随分とたくさんのことを忘れていた。
部活の先輩と会っていたあの教室もそうだ。あそこは先輩と秘密に会うために見つけたと思い込んでいたが、それは間違いだ。
あの教室の鍵が壊れていることを最初に発見したのは「ハナコ」だった。クラスに居場所のない彼女が、昼休みに逃げ込むために見つけ、後には、わたしと会って話すための場所となり、最後には「ハナコ」が自分の手首を切ることになった教室。わたしはそのことを忘れ、先輩と会うために使っていたのだった。
今、わたしはすべてを思い出した。
同時に大きな疑問が湧いてくる。
この事実を突きつけてきた、七不思議対策委員の二人は一体何者なのか――。
緩やかな揺れを感じてわたしが目を開けると、北斗くんの顔が目の前にあった。ハッとして状況を確認すると、北斗くんは所謂お姫様抱っこの形でわたしを抱き上げ、学校の廊下を歩いているようだった。
「え、ちょっと、え……?」
北斗くんはいつものように優しく微笑んではいるが、視線を前方に向けてわたしの方を見ようともしない。北斗くんの視線の先には美南ちゃんの後ろ姿があって、わたし達を先導するように歩いていた。
「いったいなんなの……? ねえ、降ろしてよ、北斗くん!」
「この学校の『トイレのハナコさん』は寂しがり屋なんだ」
わたしのお願いには応えず、北斗くんは穏やかな笑みを浮かべたまま低い声で言った。
「あの場所でずっと『お友達』が来てくれるのを待っている。そして、一度捉まえた『お友達』は決して離さないんだ」
随分と辺りは暗くて静かだった。そんなに時間は経っていない気がするのに、外で部活をしている生徒の気配も感じない。
「君達がいじめていた『ハナコ』さんって人、あの場所でお弁当をよく食べていたから、すでに半分『トイレのハナコさん』に魅入られた状態だったんだよ。でも、君と仲良くすることでそこから脱し始めたんだけど……」
「最終的にあなたが再び奈落に突き落として、ついでにあの場所まで運ぶ運び屋までしてくださったものですから、『トイレのハナコさん』も喜んでおいででしたわ」
前を歩いていた美南ちゃんが振り返り、薄い笑みを浮かべながら言った。
(何を話しているのだろう、この人達は……?)
わたしは状況が飲み込めず、嫌な汗が止まらない。
そのままの状態で、わたしは女子トイレの扉が見える位置まで運ばれた。それは第三校舎三階北側の女子トイレだった。
「ちょっと、ねえ! どうする気なの!」
わたしは叫んだが、北斗くんは優しく微笑むだけだでわたしを降ろすつもりはないようだった。普通だったらうっとりと見惚れる北斗くんの笑顔が、なぜだかとても怖かった。
先導する美南ちゃんが女子トイレの扉を開けると、北斗くんはわたしを抱えたまま中に入る。
「ちょ、ちょっと、どういうつもりなの!」
わたしは北斗くんの腕の中で暴れたが、平均的な男子よりも華奢な体型に見える北斗くんはびくともしなかった。彼はそのままトイレの中を進み、手前から数えて三番目の個室の前で止まる。
「まさか……! ねえ、ちょっと、やめてよ!」
わたしの叫びは無視して、北斗くんは穏やかな微笑みを浮かべたまま、わたしをその個室の中へと放り捨てた。
「痛い……!」
壁と床に打ちつけた頭と尻をさすりながら、そういえばと、わたしは今さらながらに頭に浮かぶことがあった。
この学校に「第二視聴覚室」なんていう名前の教室がそもそも存在しただろうか。
改めて記憶を辿ると、そんな教室名をわたしは二人に会うまで一度も聞いたことがなかった。だとしたら、あの教室は、あの教室にいたこの二人は……。
「あ、あなた達は、いったい……! いったい何なの……!」
わたしが震えながら叫ぶと、北斗くんは血のように赤く染まった唇を歪めて嗤った。彼の隣に立つ美南ちゃんも同じような顔で嗤う。
「君は、僕達が人ではないことに気付いてなかったの?」
「北斗さん、悪夢に飲まれて判断力を失った方にわたくし達のことに気付けと言う方が酷ですわ」
「それもそうだね」
北斗くんは苦笑しながらわたしの顔を覗き込んだ。長い前髪の隙間から覗く黒縁眼鏡の奥の瞳は真っ黒だった。すべての光を吸い込んでしまったかのごとく、月も星もない夜の闇のように黒々としていた。隣の美南ちゃんの瞳も北斗くんとそっくり同じで、わたしは背筋に虫が這うような感覚を覚えた。
「僕達こそがこの学校の七つ目の七不思議。不幸に愛された生徒を七不思議に招き、七不思議に閉じ込める存在」
「あなたは色々と不運が重なったようですわね。ご愁傷様。それでは、ごきげんよう」
美南ちゃんが踵を返すと、綺麗に編み込まれた三つ編みが名残を惜しむ様に揺れた。だが、彼女自身は振り返ることなくトイレを出て行ってしまう。
わたしはハッとして拳を握る。
(このままじゃ、まずい!)
本能的にそう思って、わたしは立ち上がろうとする。だがその時、耳鳴りとともにあの童歌が聞こえてきた。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
――ハナコさん、遊びましょう。
同時に誰もいないはずの背後に何かの気配を感じた。わたしの後ろにいる誰かは、わたしが立ち上がるより早く、わたしを羽交い絞めにするように抱きしめてきた。わずかに見えた誰かのその横顔は「ハナコ」にそっくりな女の子だった。
「いやああああああ!」
振りほどこうともがくが、どうにもならない。「ハナコ」はギリギリとものすごい力でわたしを圧迫し続ける。苦しくて呼吸もままならないほどに。
そんなわたしの様子を、北斗くんは個室の壁にもたれかかりながらしばらくの間見ていたが、やがて体を離して個室の外へ出ると、細長い指を添えてドアをゆっくりと閉め始めた。
(待って、待って! 扉を閉めないで!)
そう叫びたいのに、言葉が口から出なかった。
この扉が閉まってしまえば、もう二度とここから出られないような気がした。わたしは後ろから抱き着く「ハナコ」を引き剥がすために必死に暴れた。だが、「ハナコ」はわたしをガッチリと掴んで離さない。
その間にも扉は無情に閉まっていく。
「さようなら」
わずかに開いた扉の隙間から、北斗くんが優しく微笑むのが見えた。それを最後に、ついにバタンとドアが完全に閉まり、北斗くんの顔は見えなくなった。
わたしの視界には薄汚れた白い塗装の扉だけが広がる。スライド式の個室の内鍵が、何もしていないのにするりと動いて施錠された。
そんな、そんな……。
絶望と混乱に頭がおかしくなりかけながら、それでもわたしは必死にもがいた。
(この扉を開ければ、まだ戻れるかもしれない!)
でも、わたしがもがけばもがくほど、「ハナコ」の腕の力が増すような気がした。
――あなたのことが好き。好き。大好き。
そう言いながら、「ハナコ」は異常に強い力でわたしを抱き締める。
――大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。
背中が熱い。首回りも胸の辺りも熱い。「ハナコ」が触れている部分が異様なほどの熱を帯びていた。それは今にも発火しそうなほどに。溶けてしまいそうなほどに熱かった。
「ああ……!」
ついに、わたしと「ハナコ」の触れ合っている部分の輪郭が溶けた。
わたしと「ハナコ」の体の表面が融解して、その部分が混ざり合っていく。まるで赤と青の絵の具を混ぜるみたいに、わたしと「ハナコ」が混ざって何か別のものへと変わっていく。
混乱と恐怖が心の中で大きな渦を巻いたが、同時に別の感覚がわたしを侵していた。体の芯から頭にかけて強烈な光が貫くように、痺れるような快感が走り抜けていったのだ。
「な、なに、これぇ……ああっ……ああん……!」
わたしは我慢できなくて、無様に腰を振るようにして体を捩った。それは甘く痺れるような感覚で、「ハナコ」と溶け合う部分から発生し、わたしの体を優しく嬲り続けた。
「……や、いやああ、ん……こ、怖い……のに、 う、んん、あああ! き、気持ち、気持ちいいよお……!」
溶け合う部分が増えるごとに、快感もまた増していく。その感覚が強すぎて……何がなんだかわからない。もう、すべてがわからない。
わたし、私は、わたしは……私はいったい誰――?
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
私はパチリと目を開けた。白い壁、タイル張りの床と便器。閉じられていた個室の扉がゆっくりと開き始めていた。
そうだ。私の名前は……ハナコ。
ずっとずっと昔からここにいて、ずっとずっと「お友達」が来てくれるのを待っていて、「お友達」を抱きしめたら二度とは離さない。
ねえ、誰か、一緒に遊びましょう――?