3話
「それで?」
「え?」
「それで、その後、どうかなったの」
「どうかなった・・・ううん、どうもなってはないんだけど・・・」
そう返すと、一瞬で興味をなくしたように、あ、そうと軽くつぶやいてビールに口をつけた比奈ちゃん。
こうやって会うのは久しぶりです。前に一緒に飲んだのは・・・揺一に振られたとき以来、かな。
学校はもう少しで後期も終わり。成績もつけ終って、あとは修了式を待つのみというところで、ちょっと会わないかと比奈ちゃんの方から誘ってくれた。揺一のことがあったから、その後私がどう過ごしているか・・・落ち込んでいないか、やけになっていないか、なんてきっと、気にしてくれていたんだと思う。
八時にお互いの職場のちょうど中間あたりで落ち合って、会わなかったこの一か月ほどの間に起こったこと、特にはお隣さんのことなんだけど、それを止まる間もなく話し続けてようやく吐き出し終わったのが、ちょうど今。
比奈ちゃんは大人になってから知り合ったから、あいつのことを知るわけじゃないんだけど、それでも誰かに言いたくても言えなくて、ずっと溜めていたから少しすっきりした。
「あいつのことは、もういいの?」
あいつ、って・・・揺一のこと、だよね。
考えてみればこの一か月、さすがに振られてすぐはショックで沈んでいたけれど、それよりも神崎のことが気になりすぎて、揺一に振られたことばかり気にしてはいなかった気がする。気にする暇がなかった、というべきか。
比奈ちゃんがビールを片手に、じっとこちらを見ている。質問の答えを待ってるんだ。
・・・もういいのか、ということは、復縁したくないのか、ということ。それは・・・。
「・・・・・・分かんない」
「分かんない?何で」
「う、うん・・・あまり、考えてなかったから・・・」
「あのねえ・・・あんなに号泣しといて、あんた、その後はケロッとしてたわけ?」
「け、ケロッとしてたわけじゃないよ。でも、ほら、他にものすごーく気にしなきゃいけないことができちゃったから、揺一のことまで頭が回らなくて」
「頭が回らなくてって・・・ねえ。で、それで?」
「あ、あのね、復縁、したいのかしたくないのかは正直分からない、けど、でももう関係は終わっちゃったんだから。・・・今更どうもこうもないかな、とは・・・思う」
「・・・ふうん」
どういう意味の、ふうん、かは分からないけど、比奈ちゃんはそれ以上揺一のことは聞いてこなかった。
聞かれても、私も今は何だか、うまく答えられない。
それこそ神崎と出会って一日目、レストランで冷静でいられなくなるくらいには揺一と別れたことがショックでどうしようもなかったのに、その後はどうだったろう。
極力考えないように意識していたのもあったけれど、揺一のことよりも、頭の中は神崎のことばかりじゃなかった?もちろん考えていた中身は、あいつに外で会ったらどうしようとか、会ったら不自然にならないようにどう別れたらいいかとか、そんなどうしようもないことばかりだったけれど。
タイミングとしては、そちらに気が向いたことで揺一とのことに心が押しつぶされずに済んで、良かったのかもしれない。
そんなことをぼんやりと思いながら、おつまみの茄子の浅漬けを口に運ぼうとしたところで。
「それで、格好いいの、その初恋の人とやらは」
比奈ちゃんの言葉に、茄子をぼとりと落とした。あ、茄子よごめん、と思ったのも一瞬で、私は慌てて辺りを見回した。なぜかって?だって、あいつがいないかどうか、もう一度確かめないと。
いやね、さっきも一応確かめましたけど、その後入ってきたかもしれないし。というか、私は小声で話していたのに、比奈ちゃんたら普通のボリュームで話すんだもん。もしあいつがいて、聞こえていたらどうするんですか。・・・いや、比奈ちゃんには関係ないとは分かってますけど。
「・・・・・・初恋の人とか言わないでくださいませんか」
あいつの姿がどこにもないことを確認してから、テーブル越しに比奈ちゃんに顔を近づけて、小声でこっそりとそう返した。
「自分で言ったんじゃない。違うの?っていうか、茄子拾いなよ。落ちたままでかわいそうでしょ」
「あ、そ、そだね・・・。で、でも・・・!もう、好きとかじゃないもん、本当」
「今好きかどうかなんて一言も言ってないでしょうが。昔の話なんでしょ?ああ、それとも、そんな動揺したり、神経質になってるってことは、実は今でも・・・」
「全っっっ然、ち、が、う、か、ら!」
そう言って、私は頭を抱えた。何でそうなるの。その様子を見て、比奈ちゃんは頬付けをつきながらけらけらと笑う。
絶対わざとだ。わざと言って、私の反応を楽しんでるんだ。
「ひどい」
「何よ、あんたが自分から話し始めたんでしょ、初恋の人が隣に引っ越して来たって」
「う」
「漫画みたいじゃない。それで、何。初恋の人と再会、しかもお隣さんになりました。あんたはこれに、ちっとも運命的なものを感じないの」
「・・・・・・」
・・・正直に言えば、全く感じないわけじゃないです。いい運命か悪い運命かは別として。
でもね、そんなものいりません。全然、これっぽっちも望んでいないんです。
「『運命だわ、付き合いましょう』にはならないの?」
「絶っっっ対に、なら、ない!」
「どうしてよ。あいつと別れて、しかももう復活してて。そろそろ新しい恋をしてもいいと思うわよ」
「復活、っていうか・・・別に、復活したわけじゃなくて、状況が状況なだけに落ち込んでいられなかっただけだもん」
「状況が状況でも、落ち込めなかったわけじゃないでしょ。周りが目に入らないくらいにショックだったらね。でも、周りを見る余裕があったってことじゃない」
「・・・・・・違うったら」
「・・・・・・ま、いいけどね」
そう言って、比奈ちゃんはぐいっとビールを飲み干してから、ちょうど通りかかった店員さんにお代わりとおつまみを頼んでいた。
比奈ちゃんが言っていることは分かる。
でも、だって、だってね、揺一のことは大好きだったんだ。本当に本当に、好きだった。これからもずっと一緒だと思ってた。でも、それはもうかなわない。
ショックだったからこそ、あんなに涙が出た。
だけど、確かにずっと落ち込んでいたわけじゃない。今日、久しぶりに揺一のことを考えたな、と思うくらいには、落ち込んでいた時期は限られていた。
落ち込み続けるのが難しい、ということなのか、それとも・・・。
「ま、仕事が忙しい時期だしね」
なんて一応フォローを入れてくれた比奈ちゃん。
自分でも、自分の気持ちがなんだかよく分からなくなってきて、私はそれに、苦笑いで応えた。
「でもとりあえず、新しい恋はまだいいよ。特に、神崎は」
「あらそうなの。もったいない」
「だって」
「だって?」
「・・・・・・大嫌いなんだもん、あいつのこと」
「・・・・・・大嫌いなんだもん、って」
「多分、あいつも、私だって分かったら、すごく嫌がると思う」
どういうこと、というような表情で私の方を見る比奈ちゃん。
そうだよね、初恋の相手、とか言っておいて、今度は嫌いな相手とか、意味が分からないよね。
「好きだったんじゃないの。それとも大嫌いなの。どっちなの」
「・・・・・・どっちも」
「ああ、じゃあ何、好きだったんだけど、嫌いになるような出来事があったんだ」
声には出さずに、眉を寄せたまま私はゆっくりとうなずく。
「ああ、そう」
比奈ちゃんは、話し始めない私を見て、無理に聞き出そうとはしなかった。
私が話すまで待とうと思ってくれたのか、それともただ単に興味がないのか。
前者のような気がするけど、比奈ちゃんの場合、後者も考えられないわけじゃないから、どちらかは分からない。
「でもそれって、ええと、小学生の時なんだっけ?」
「うん」
「十何年も前の話でしょ。それで今は?嫌な人なの?性格悪いの?」
「・・・・・・ううん、分からない。表面上の付き合いしかしてないから」
言いながら、相合傘は表面上の付き合いなんだろうかとふと疑問に思う。
ゴミ出しで会ったときに話すのは、それに分類されるんだろう。でも、あれは?
少し考えて、私は頭をゆるりと横に振る。そして、あれは単に帰り道が一緒だったから一緒に帰っただけ、話もそんなにしてないし、と思い直した。あまり深く考えたくない。
「で、結局見た目は?」
「・・・・・・悔しいけど格好いいです」
「そこで悔しがる意味が分からないけど、ああそう。じゃあいいじゃない」
「え、何が」
「目の保養だと思えば」
「・・・え、ええ?」
「観賞用だと思って、疲れた時の目の保養として見ればいいじゃない。ほら、好きなアイドルを見る感じで。『ああ疲れた、でも○○くんの顔を見たから疲れなんて吹っ飛んじゃうわ!』みたいな」
「観賞用って・・・てか、それ、絶対嫌。だから好きでもなんでもないんだってば。アイドルと同じように、なんて」
「例えばよ、例えば。綺麗なものを見ると心が澄み渡るでしょ。そんなもの」
「・・・同列にはどうやったってならないと思うよ」
比奈ちゃんは時々変な思考回路になると思う。無理無理、と手を振る。
「ま、でも害がないならいいじゃない」
「う、うーん・・・」
「あんたが意識しすぎなんじゃない。嫌なことがあったって、どうせ小学校の時の話でしょ。相手、気が付いたって、ああそうだったんだ、くらいにしか思わないかもよ」
「・・・・・・そう、かな」
「そうそう。初恋とか、思い入れがあるから余計に意識しちゃうんでしょ。両想いだったの?」
「・・・残念ながら」
「そう。じゃ、相手こそ何も思ってないわよ。そんなこと気にするくらいなら、修了式後、子どもたちに最後何を言うかに頭使いなさいな」
考えるだけ無駄、と気持ちのいいくらいにバッサリと切られる。
でも、ああそうか、と少しすっきりした。考えすぎ、か。そうかもしれない。
だって、あの時からすでにもう、約二十年弱経っている。そんな前のこと、覚えている人の方がきっと少ない。
そうだそうだ、私の考えすぎよ、そんな、隣人なんかどうでもいい、もうすぐ今の子たちの担任は終わっちゃうんだからそれをまず一番に考えなきゃ、と自分に言い聞かせて、ビールのようにカクテルをグイッと口に入れた瞬間。
「五名様入りまーす」
店員の元気の良い声が聞こえてきた。
随分と繁盛しているようで、もう時計の針は十時を回っているのに席はほぼ満員だ。
こんな時間に来店、ということは、今来た五名は二次会だろうか。
通路際に座っている私の横を、店員含め、六名が奥へと歩いていく。それを何気なく目で追っていると、最後尾を歩いていた男性が、私の視線に気が付いてか、ふと振り向いた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・あ、やっぱり春川さんだ」
ここで口に含んだままだったカクテルを噴き出さなかったのを褒めてほしい。
驚いたような顔をした後、いつものように笑ってみせたのは、今の今まで話題にしていた神崎でした。