2話
私の願い事なんかで天候を左右できるはずもないわけで。
夜、外は見事にザーザー降り。そこまで強いわけでもないけれど、傘を差さないとびしょ濡れになってしまうくらいの雨。帰り道、最寄り駅まではどうにか帰ってきたけれど、この雨の中、家まで歩いて帰らなきゃいけないと思うと気が重い。
改札を出て、傘を開く準備をし始めたところで、前方に見覚えのある後ろ姿が目に入った。
神崎だ。
手には何も持っておらず、ただ雨の降る空を見上げているだけ。ああ、あまり会いたくない人を見つけてしまった。簡単な話は出来るようになったけど、やっぱり、できれば関わり合いになりたくない。
そう、回れ右をしようとして・・・足を、止める。
そして、は、と息をついた。
これはだって、仕方がないよね。
「神崎さん」
「え?ああ・・・春川さん。奇遇ですね。今帰りですか?」
「はい。神崎さんも帰りですか。帰り、これくらいの時間なんですね」
「いえ、いつもはもう少し遅いかな・・・。今日は雨が降る前に、と思って職場を出たんですけど、間に合わなかったみたいですね」
「ああ、そうなんですか。雨、結構降ってますよね。結局、傘はどうなったんですか?」
「あの後探しはしたんですけど、出勤時間になってしまって・・・傘、見つけられなかったんですよ」
そう、困ったように笑って、再度雨を見つめる。
同じように空を見上げようとし、ふと視界の端にコンビニが入り込んできた。
あれ?
「コンビニで傘売ってるんじゃないですか?」
暗に、買ったらいいんじゃないか、と伝えると、言いたいことが分かったようで、神崎はああ、と苦笑した。
「実は、こんな日に限って財布を忘れてしまって。朝ご飯を定期の磁気カードで買ったので、もう残金がほとんどないんですよ」
意外とドジなところもあるらしいです。へえ。
私はたまにあるけどね、目の前の神崎はしっかりしてそうだから、そういうことはないんだと思ってた。
「じゃあ・・・代わりに傘買ってきましょうか」
これはただ単に、ここまで聞いてしまって、それじゃあさようなら、とはいかないかなと思ったからで。特に意味はなく、自然に出てきた言葉なんだけれど。
「残念」
「え?」
「一緒に入りますか、とはならないんですね」
と言って、神崎が笑った。
一緒に、ということは、つまり相合傘しませんか、ということでしょうか。
「だめですか?」
「いや、だめといいますか・・・」
まさかそんな風に言われるなんて思ってもみなかったから、返事に困ってしまった。これはどうこたえるのが正解なの。
いやいや何を、と言いたいけれど、ここで拒否することで不審に思われないだろうか。
世間のお隣さんたちは普通どうするものなんだ。「傘入りますか」が普通なのか、それともやっぱり「いやいや買ってきますよ」が普通なのか。
ああ、普通って一番わからない。
そんなことを考えているから、気が付けば少し時間が経ってしまって。
今更、こんなに悩んで、結論がだめ、というのもただのお隣さんにしては重く考え過ぎかしらと思い、結局。
「・・・入りませんか」
そう、一言絞り出した。
そんなことを考えず、さっさと傘を買って、お金は後で大丈夫ですから、って言えば一番スムーズだったのではないか、なんて・・・一瞬頭をよぎったけれど、もうどうしようもない。
とりあえず、今自分が嫌な顔をしてませんように、と願った。
・・・落ち着かない。
傘の柄は神崎が持ってくれて、結局相合い傘状態になってしまった。こんなの大学の友だちとしたきり、数年ぶりだよ。その大学の時だって、同性の友だちとだしね。
距離が近い。近すぎる。
濡れるの承知でさりげなく距離をあけてみるも、気付かれて傘がさっと伸びてくる。それで、神崎の肩が濡れるのが見えて、仕方なく体を元の位置に戻すことになって。これをさっきから何度繰り返したことか。
・・・落ち着かない。
落ち着かなくて、腕時計をちらちらと頻繁に確認してしまう。もちろん神崎には気付かれないように。だって、そんな目の前で何回も見ちゃ、さすがに失礼だもんね。
時刻は十時。いつもより帰るのがちょっと遅い。でも、さっき、神崎はいつもより早いって言っていた気がする。結構もういい時間だけど、毎日こんなに遅くに帰ってるのかなとぼんやり考える。
「帰り・・・帰るの、遅いんですね」
「春川さんこそ。こんな遅い時間に、女性の一人歩きは危ないですよ」
「慣れてるから平気ですよ」
雨が強く傘を叩きつけていて、大きめの声でないと伝わらない。
「春川さんはどこにお勤めなんですか」
「えと、数駅隣の・・・」
つい、学校です、と言いかけて、その前にぱっと口を閉じた。
揺一の言葉が頭をよぎる。学校に勤めている、と言うことに、まだ抵抗がある。
言いたくない。
「会社、に」
まあ、わざわざ言うことでもないし。でも・・・やっぱりなんだか、変な感じ。
「こんな時間まで大変ですね」
「ざ、雑用が多くて‥」
そう答えた瞬間、突然、辺りが明るくなった。え、と思って空を見上げると同時に、今度は雷が鳴る。
近い。
今日は雷が多い日だ、と思う。あの、中休みの後にも、雷がしばらく鳴っていた。
正直、私も雷が怖い。これはもう、昔からずっと。わあわあと騒ぐ子どもたちの前で、そんな姿は見せられないけれど。
肩にかけた鞄のひもをぎゅっと握る。近付いてこないで、と心の中で必死に願った。
「大丈夫ですか?」
気付けば、すぐそこにじっとこちらを見ている神崎の顔があった。
は、として神崎を見つめ返す。
大丈夫か、とは雷のことだろうか。いや、この状況ではもうそれしかないよね。
でも、素直に怖いです、なんて・・・。
素性がばれてないとはいえ、弱みは見せたくない。
「何のことでしょう?」
「・・・・・・」
「もしかして、雷のことですか?」
「ええ、雷、結構近いようだから」
「そうですね、光と音、ほぼ一緒でしたもんね。でも・・・大丈夫ですよ」
ありがとうございます。神崎に、にこりと笑顔で応える。
嘘。全然大丈夫じゃないです。でもね。
今この瞬間にも雷は鳴っているけれど、正直心の中はびくびくしっぱなしだけれど、意地っ張りと言われたっていい、怖がる姿なんて神崎に見せたくないんです。意地っ張りは昔からなんですよ。
それに・・・雷、きっとすぐにいなくなるはず。少しずつ離れていくだろうから。大丈夫、大丈夫、と自分に心の中で言い聞かせた。
「そうですか。いえ、大丈夫ならいいんですが」
私の言葉に、神崎はそう笑い返し、前を向いた。
うまくかわせたかな、とほっとしているところで。
「・・・変わらない」
「え?」
「いえ・・・ああ、ようやく家が見えてきましたね」
よく聞こえなかった神崎の言葉に、視線を前に戻せば、雨の中ぼんやりと共同玄関のライトが浮かび上がっている。
ああ、ようやく着いた。いつもよりも長い長い道のりだったように思う。
屋根の下に入り、神崎から離れると、なんだかどっと疲れが出てきた。思っていたよりも随分と緊張していたらしい。知らず、詰めていた息が、ほ、と吐き出された。
傘についた雨の滴を落としていると、春川さん、と声をかけられた。
振り返って見れば、神崎が鞄をごそごそとあさっている。
「お礼、というほどのものでもないですけど」
今回も反射的に出してしまった手のひらの上にコロンと落ちてきたのは、三つのあめ玉。いちご味にレモン味が二つ。なんだこれ。
「え、き、気を遣わないでいいですよ」
「傘を買うのより安く済んだので。折りたたみは、またこれから探してみます」
「・・・はあ」
頭があまり働かずに呆けていると、それじゃあ、と神崎が今回も先に家の中に入ろうと背中を向けた。
慌てて、傘見つかると良いですね、あめ、ありがとうございます、ととりあえずお礼を言って、振り返った神崎に別れの挨拶をしてから、自分もあめ玉を握りしめたまま家の中に入った。
「・・・・・・」
部屋に入り、手のひらをゆっくりと開いて、出てきた三つのあめ玉を見つめる。
・・・のどあめ、か。
今日、大声を出し過ぎてのどが痛かったの、気付かれたんだろうか。・・・まさかね。
雨でただでさえ声が通らない中で、声の調子が変だとか、そんなこと気づくはずがない。
そんなはずはない、たまたま鞄に入っていたのがあめだっただけだと思うのに、どうしても、もしかしたら、という思いが消えないのはどうしてだろう。
何だか、もやもやする。そこまで考えたところで。
「っ?!」
特大の雷の音が、振動と共にビリビリと響きわたって、私はあわてて布団に潜り込んだ。