4話
白い面があらわになったお皿の上に、ゆっくりとスプーンを置く。そっと置いたはずなのに、コトリ、と小さい音がなった。
「美味しかったー・・・」
思わず頬が緩む。どうして美味しいものを食べると、笑っちゃうんだろう。
一口目を食べてから、最後の一口まで、ついつい集中して食べてしまった。
いつも混んでるレストラン。並んでも食べたくなるのは、やっぱりみんな美味しいって分かってるからなんだろう。
さあ、食べ終えたことだし、口を拭こうとナフキン入れに手を伸ばす。と、視界に青い色が映った。
いや、これまでもずっと視界には入っていたんだろうけど、食べるのに夢中で意識の外にやっていたんだろう。
顔を上げた、そこには。
やっぱり、一見爽やかに見える神崎の顔がありました。
「・・・・・・」
とりあえず、手を伸ばしたまま固まるのもおかしいと思い、そのままナフキンを一枚手に取った。そして、口元を軽くふき取る。
見れば、神崎も同じように口元をナフキンで拭っていた。
「美味しかったですね」
「え?あ、はい。とっても」
「この店、有名なんですか?」
「そうですね・・・このあたりじゃ、美味しいって通う人が多くて。私も、まだ数回しか入ったことないんですけど。いつも混んでて、なかなか入れないんです」
「じゃあ、今日はラッキーでしたね」
「そうですね」
神崎の前のお皿も、空っぽ。美味しかった、というのはきっと本当なんだろう。
別に言葉を疑っているわけじゃないけど、なんだかこうやって、神崎とこんなところでご飯を食べて、会話しているのが、どうしてもおかしな感じで、素直に受け止められない。
相手はきっと、私のことなんて気づいていないか、もしくは覚えてもいないのかもしれないけど。
とにかく、もともとはスーパーに寄って早々に帰るはずだったんだから、ここはもうさっさと引き上げないと。
「あの」
「ああ、ちょっと待ってください。―――あの、すみません」
「え?」
視界で何かが揺れたと思ったら、神崎の手だった。
話も止められ、何、と思ったすぐ後に、店員さんが近寄ってくる。
「食後の飲み物をお願いしたいんですが」
「かしこまりました」
「僕はコーヒーと、春川さんは?」
「え?」
「食後に。コーヒー、紅茶、どちらが好きですか?ああ、ソフトドリンクでも・・・」
「あ、や、じゃ、じゃあ紅茶を・・・」
「ホットになさいますか?アイスになさいますか?」
「ホ、ホットで・・・」
あれよあれよと、あっという間に店員さんは注文をとっていなくなってしまった。
私、頼む気なんてなかったのに、つい。さっさと引き上げようと、思った直後だったのに。やってしまった。
聞かれると、ついつい答えてしまう、私のばか!
「話、さえぎってしまいましたね、すみません」
「あ、いえ・・・」
「何でしたか?」
「え、えと・・・わ、忘れちゃいました」
「そうですか?それは・・・なんだかすみません」
「い、いえ・・・」
ああ、会話しなきゃいけない時間が伸びてしまった。
さっきは食べているのに夢中になっているから、会話がなくてもおそらく不自然じゃなかった。
でも、その方法は今は使えない。だって、オムライスはとっくに食べ終えてしまって、食後の飲み物も注文したばかりで、ここには水しかないんだから。
ああもう、何を話せばいいのか分からないよ。
何か話して気をそらしたいと思うのに、ずっと緊張していたためか、なんだか疲れてしまって頭が回らない。
ふと、神崎から目を離して、店内の様子を見まわしてみる。と、女の子と目が合った。しかも、一人だけじゃなく、他にも数人。
何か私、変なところでも、と気にしかけて、ああ、と思う。彼女たちの目当ては、この男か。
そうして、再度、神崎に視線を戻す。
確かに、見た目、爽やかだもんね。ここまでの持ってき方は爽やかというよりは強引だったけれどね。
彼女たちには、私たちはどう映っているんだろう。まあ・・・カップル、だよねえ。こんなレストランに男と女が来たら、大体そんなもんだ。
ふと、気になって聞いてみる。
「神崎さんは・・・」
「はい?」
「彼女はいないんですか」
「・・・急に、どうしました?」
私の問いに、不思議そうに首をかしげる。それを見ながら、ああ、しまった、と思う。
これでは、聞きようによっては、彼女に立候補したいんですけど、と取る人もいるかもしれない。
慌てて弁明しようと口を開いたその時、タイミング悪く店員さんが飲み物を持ってきてくれた。
仕方なく会話を中断して、飲み物をいただく。会釈をして顔を上げれば、店員さんも他の女の子のように、ちら、と神崎の顔を素敵な笑顔で見返していた。もちろん、店員さんは女だ。
これにも、ああ、と思う。
「あ、あの・・・」
「タイミング、ちょっと悪かったですね」
「そ、そうですね・・・」
店員さんが行ったのを確認して、運ばれてきた紅茶を一口、口に含む。
焦れば、余計に変に思われるんだから、落ち着いて話さなくちゃ。そう思って、ゆっくりと口を開いた。
「ここ、カップルの人がよく来るので・・・」
「ああ、確かに多いですね」
「だから、その・・・もし彼女さんがいるなら、誤解されたら困るかな、とか・・・他の人にも今、その・・・」
「ああ、そう思われているかも、って?」
「えと、は、はい」
なるほど、と神崎がうなずく。
「じゃあ、春川さんは?」
「え?」
「僕がちょっと強引に誘ってしまったからでしょうが、ここに一緒に入って。ご迷惑じゃありませんでした?彼氏さんとか・・・」
神崎の言葉に、私は無意識に時計を触っていた。
この店に初めて入ったのは、他の誰でもない、揺一だった。目の前の神崎のように静かに、ではなく、にぎやかに美味しさを表現してたっけ。
それから揺一がオムライスにはまって、私はしばらくオムライスを作らなきゃいけなくなったんだった。
思い出が次々と浮かんでくる。でも、不思議と、昨日のように涙は一滴も出てこない。あまりに出しすぎて枯れてしまったのかもしれない。
だって、強引に誘ったのはご自分でしっかり分かってるんですね、なんて心の中で突っ込む余裕があるんだもの。
紅茶に口をつける。ああ、美味しい。レモンもせっかくだから頼めばよかった。まあ、ストレートも好きだけどね。
「・・・春川さん?」
「彼氏は、いません」
「そうな・・・」
「昨日、別れたんです。振られてしまって」
「・・・・・・」
神崎が口をつぐむ。そうだよね、会って初日の人にそんなこと言われて、何て言えばいいか分からないよね。困っちゃうよね。
そんなの分かってるのに、軽くかわさずあえて言葉にした私は、いじわるだ。
この会話だって、私から始めたのに。この話題を出せば、少し考えれば私の方にも話を振られるなんてこと、すぐ分かるのに。
前言撤回。余裕があるんじゃない。心の中で揺一の部分だけシャットアウトして、感じないようにしてるだけ。でも、完全にできてないから、少しのきっかけで溢れ出しそうになってしまう。
もう一度、紅茶を飲んで、昂りかけた気持ちを落ち着かせる。コップの底に少しだけ残して、私は立ち上がった。
神崎に、にこりと笑顔を向ける。
「春川さん」
「もう出ましょう。あまり遅くなると、主婦の方々のラッシュと重なって、ゆっくり買い物できなくなりますよ」
「それじゃあ」
ガサリ、とスーパーのレジ袋が腕の動きに合わせて揺れる。
出発前はうろたえていて、エコバックを持っていくのを忘れてしまった。いつも持ち歩いているのに、失敗失敗。
エコバックの方がその名の通りエコだし、手持ち部分が太いから手も痛くなりにくいから、身体にも優しいんだよね。手のひらを広げてみれば、袋を持っていた箇所が赤くなっていた。
神崎とは買い物を済ませた後にスーパーの出口で落ち合うことに決め、それぞれで買い物を済ませた。だって、ずっと一緒っていうのもどうかな、って思って。
神崎も、さっきのことで、ちょっと申し訳なさそうにしていた。会話の端々で、気を遣っているような感じがして。だから、神崎にとっても、きっとずっと一緒の空間は息が詰まるだろうから、別行動を私から提案したんだ。
玄関先で、二人でレジ袋をもって、それじゃあ、と挨拶する。
「今日はどうもありがとうございました」
「いえ、あの、こちらこそ結局ご飯奢られてしまって」
「美味しいお店、教えてもらえて良かったです。引っ越してきて初日に、いい思いができました。付き合ってもらって、ありがとうございました」
「いえ、そんな」
「それじゃあ、これからもよろしくお願いします」
そう言って微笑む神崎。これからもって・・・そうですよね、お隣ですもんね。
忘れたくても忘れられない事実。
まあ、こんなに二人で濃密な時間(少なくとっても私にとっては濃密すぎるくらい)を過ごすことは今後ないだろう。今日だけ、特別、特別。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
頭を下げて、じゃあ、と自宅のドアに手を伸ばした、その時。
「ああ、ちょっと待って」
引き留められた。すでに背を向けていた神崎に、何か、と少し緊張しながら振り返る。
まさか、思い出した?そんな思いで。
「まだ、何か・・・」
「これ、今日のお礼です」
目の前に何かを差し出され、反射的に出した手の上に、小さな袋が乗った。
あたたかい。
中を見てみれば、小さなたい焼きの詰め合わせだった。そういえば、スーパーの前に移動販売の車があった気がする。スーパーの入り口中まで、甘いにおいが漂っていた。
神崎の方が先に買い物を済ませていたから、その時に買ったのかもしれない。
「何味が好きか分からなかったので、いろんな味の詰め合わせにしてもらいました」
「してもらいました、って・・・そんな、わ、悪いですよ」
「どうして?」
「だ、だって・・・。すでにお菓子をもらってて、お昼ご飯も奢ってもらって、さらにこれまで、なんて・・・。私がもらいすぎです」
「洋菓子は引っ越しのご挨拶、お昼ご飯は外食の気分でないところを無理やり連れてってしまったお詫び、鯛焼きはスーパーの場所を教えてもらったり、一日付き合ってくれたりしたお礼です。ほら、お礼、かぶってませんよ」
「そ、そういうことじゃなく、ですね」
「困りましたね。受け取ってもらえないとなると・・・。でも僕はそんなに食べられませんし。ああ、もしかしてアレルギーが?」
「そ、それはないですけど・・・でも」
「それじゃあ大丈夫ですね。では、また」
その言葉と変わらぬ微笑みを最後に、神崎はさっさと新居へと入っていってしまった。あまりにあっさりとした去り際に、残された私はぽかんと口を開けたまま立ち尽くす。
置いてきぼりをくらった私は、姿が消えてしまった先のドアを、あきらめきれずにしばらく見つめていたけれど、いくら待っても神崎は出てこない。
「・・・・・・」
手のひらに感じる熱に、もしかしたら、と思う。
もしかしてさっきの、揺一のことを聞いてしまったことのお詫びなのかな、と。
何となくそう思いながら、仕方なく自分も、さっきつかみ損ねたドアノブを今度こそ握って自宅に入る。
ガシャン、と立ててしまったドアの内側。
靴も脱がないまま、目玉が大きくてちょっぴり間抜けな顔の鯛焼きを一個つまんで、口に入れてみると。
ほんのりと甘い、いちごミルクの味がした。