3話
目の前で立ち上る白い湯気。私の息に合わせてゆらりゆらりと揺れている。
その、暢気で気楽で悩みも全くない(あるわけないんだけど)姿がなんだか腹立たしくて、私は思いきり睨み付けた。
カップの中の紅茶に映る私の顔は、鬼の形相だ。ああこわい。
「お待たせしました」
「あ、大丈夫です。すみません、奢ってもらってしまって」
背後から声がかかり、すかさず笑顔を作って振り返った。
まず視界に入ってきたのは、爽やかな青いシャツ。そう、神崎秋だ。
「気になさらないで。僕が付き合わせてしまってるんですから」
そう言いながら、テーブルを挟んだ向かい側に座る神崎。
距離が近い。近すぎる。思っていたよりも近い距離に、思わずのけぞりそうになるのをどうにかこらえた。
そう、ただいま神崎とランチ中。
近づくことをあんなに遠慮申し上げたいと思っていたのに、どうしてこうなってしまったのか。
フィナンシェをベランダから下に落としてしまった私。そしてそれをしっかりと目撃していた神崎。
無視することもできず、仕方なく私も外に出て、フィナンシェを拾いに行った。その、落としたであろう場所に着いたのは、神崎がティッシュでフィナンシェを拾っているまさにその時だった。
フィナンシェをティッシュに包み終わった神崎がこちらに気がつき、目が合う。その瞬間、なぜだか嫌な予感がして、今すぐ来た道を引き返したくなった。
でも姿を見られている以上、それじゃ、ときびすを返すのは明らかに変だ。
と、とにかくフィナンシェを落としたことを詫びて、それをもらって、さっさと家に戻ろう。そうしよう。
嫌なことは、躊躇するより、すぐ実行するに限る。よし。
決意を固め、思い切って、止まってしまっていた足を一歩進めた。
「す、すみません、あの・・・それ」
「ああ、やっぱり春川さんでしたか。そうかな、とは思ってたんですが」
「はい。あの、そのフィナンシェ・・・落としてしまって」
「はは、その瞬間僕も見てました。これ、もう食べませんよね?土もついてしまったし・・・」
「あ、その、・・・ごめんなさい。せっかくいただいたのに・・・」
「ああ、別に責めてるわけではなくて。むしろ、早速食べていただいて嬉しいです」
「す、すごく美味しかったです。クッキーなんか、もう全部食べちゃって・・・」
「全部?すごい。女性は本当に甘いものが好きなんですね」
「あ、えっと・・・甘いものは昔から好きで・・・。あ、でも、甘いからだけじゃなくて、本当に美味しかったんです。手が止まらなくなっちゃって。ごちそうさまです。残りのお菓子も、美味しくいただきます」
「今度は落とさないように気をつけてくださいね」
「あ、は、はい」
「それじゃあ、これはもう処分してしまいますね」
「い、いえ!私が落としてしまったので、食べかけですし、私が・・・」
「どうせ引越のゴミもいっぱい出るので、一緒に捨ててしまいますから、お気になさらず」
「そ、そうですか?それじゃあ・・・すみませんが」
そう、ここまでは変な流れではなかったと思う。ここで会話が終了し、それぞれがそれぞれの家に戻っていったのなら。
「そうだ」
「え?」
「春川さんに聞きたいことがあったんです」
「き、聞きたいこと・・・?」
ひく、と顔がひきつる。
まさか私のことを思い出した・・・?思わず握りしめた拳に汗がにじむ。
「スーパー」
「・・・は」
「この辺りに、食料品が買えるスーパーや、商店街があれば教えていただきたくて」
「あ、ああ、スーパー」
「引っ越してきたばかりで、この辺りのことがよく分かっていなくて」
「はあ」
「春川さんさえよければ、案内をお願いできればと思うんですが」
「はあ。・・・え、案内?」
「この辺りに住んでいる知り合いもいなくて、困ってたんですよ。せめて昼ご飯や夕ご飯だけでも調達できたらと。ああ、でもこの後予定が?」
「え?あ、ないです、け、ど・・・」
「ああ、でも、さっき会ったばかりなのに、こんなことお願いするなんて図々しすぎますよね」
「あ、だ、大丈夫です」
「本当ですか?良かった、助かります」
それじゃあ、出かける準備をしないとですね。そう言って、私の前をすたすたと通り過ぎ、先に歩き始めた神崎。私はと言えば、呆然とその後ろ姿を見送ることしかできない。 あまりにポンポンと話が早く進みすぎて、私、ついていけてないけど、え、何?どういうこと?
私はこれからどうなるの?神崎と一緒にスーパーへ?あれ、私いつの間に了承したっけ。ああ、いや、そうだね。大丈夫って言ったもんね、私。
でもさ、あんな風に言われたら、大丈夫ですってつい答えちゃうよ。でもそれは社交辞令だよ、気づこうよ、神崎。
そんなことを思いながら神崎の青いシャツを見つめたまま突っ立っていると、神崎が突然振り返った。思わず体がびくりと震える。
「どうかしました?」
「あ、い、いえ・・・」
「今日は太陽が出て少し暖かいけれど、ずっとここにいると冷える。風邪引きますよ」
「は、はあ」
「さ、行きましょう」
にこりと笑ったまま、私を待っている神崎。私が追いかけるまで、そうしているつもりなのかな。
だって、言うとおりに神崎のところに行けば、一緒に出かけなきゃいけなくなるんでしょ?ああ、行きたくない。
もういっそ根気比べよ、なんて思ってその場で少し粘ってみたけれど、神崎は動かない。
笑顔のまま、全く動かない。
「・・・・・・」
風が吹いて、ぶるりと体を震わせる。神崎の言うとおり、これじゃあ風邪を引いてしまう。
仕方がない。心の中だけでため息をつき、私は重い重い一歩を踏み出した。
そこまで思い返して、はあ、とため息をつく。いや、つきそうになって、慌てて飲み込んだ。だって、ため息をついたら、この距離だもん、聞こえるに決まってる。そうして、神崎が言うんだ。どうかしましたかって。
スーパーの場所だけ伝えて、それじゃあ、と別れたい。
出会っても、会話のきっかけを作らないようにしたい。会話を極力広げないようにしたい。少しでも少しでも少しでも接点をなくして。
願わくば、付き合いの薄いただのご近所さんのまま永遠に。
そう、強く強く思っているのに。
スーパーに行く前に昼食をとりたいなんて言い出した。
やめてくれと強く思って、さっき食べたばかりだからとか、外食はあまり好きじゃないとかそんな感じでやんわりと断ろうとしたけれど、こちらの気持ちは汲み取らずに引かなかった神崎。
他に、納得させられるような上手い言い訳が思いつかず、結局断ることができなかった私は、せめてもの悪あがきで駅前の洋食屋を指定した。そこだったら食べてもいい、と。
いつも混んでいる、大人気のお店。
大抵は来店しても、数十分待ち。これまで並ばずに入ったことが一度もない。今日もきっとすぐ入店できなくて、仕方がないですね、やっぱりスーパーで買い物して帰りましょう、という流れに持っていきたかったのに。
なのに、どうしてこういうときに限ってしっかりと席が空いているんでしょう。
そう思ううちに、またこみ上げてきたため息。今度こそ我慢できそうにもなくて、スプーンいっぱいのオムライスを頬張ることで、出かかったため息をどうにか飲み込んだ。