1話
目が覚めた。
ああ、頭がギンギンする。二日酔いもいいところだ。
横になったまま、ゆるゆると昨日のことを思い出す。・・・昨日じゃないか。日付が変わって何時間もした、ついさっきの今朝のことだ。
今朝、閉店と同時に飲み屋から出て・・・。・・・ああ、そうだ。結局、お酒を飲み過ぎて、足下がふらついて歩けなかった私を、比奈ちゃんはアパートまでタクシーで送ってくれたんだ。そう、タクシー、って、あれっ?そういえばタクシー代ってどうしたんだっけ。私、払ったかな。うわ、比奈ちゃんが払ってくれたんだったら本当申し訳ない。後でちゃんと確認しよう。
ずっとへらへら笑っていた私に時々渇を入れながら、それでも肩を貸してくれた優しい比奈ちゃん。しっかりしなきゃと思うのに、結局はいつも世話になってしまう。本当、もうちょっと自分に渇を入れなきゃだなあ。
『大丈夫?』
『らい・・・だいじょうぶ!だいじょうぶ!』
『・・・やっぱり私、泊まって行った方が・・・』
『だいじょうぶだから!まかせて!』
『・・・あんた、さっきからしゃべり方がたどたどしすぎるから。自分で分かってる?』
『わかってる!だいじょうぶ!』
『・・・やっぱり心配だわ・・・』
『いーの!それより、あきらさんがまってるんでしょ?はやくいかなきゃ』
『・・・晃とのデート邪魔したあんたが今更そんなこと心配しないの。でもまあ、いいわ。本当に大丈夫なのね?』
『うん!』
『それじゃあ、私帰るからね。いつまでもくよくよしてないで、あんな男はさっさと忘れなさい。男なんて、日本にも海外にもごまんといるんだからね。男が全てじゃないし』
『・・・うん、そうだね。そうだよね・・・。ありがとう、ひなちゃん』
『それじゃ、また』
『うん、またげつようび!』
そんなやりとりの後、ドアがガチャリと音をたてて閉まったところまで覚えている。その後、壁を伝いながら、どうにか寝室までよろよろ歩いて、ベッドに倒れ込んだんだ。
それ以降の記憶は、全くない。
手首の辺りが痛い。重い瞼を開けて見ると、さっきからゴツゴツと手首の内側に当たっていたのは、ピンクゴールドの時計だった。私、外さないまま寝ちゃったんだ。
ああ、この時計もどうしようかな。昨日捨てちゃえば、なんて比奈ちゃんに言われたけれど。確かに、見る度に遥一の顔を思い出すんだ。興奮していたのが落ち着いたからか、比奈ちゃんの前で出し尽くしたからか、今は涙はこみ上げてこないけれど。でも、似合うな、と笑ってくれた遥一の顔から始まって、遊園地に行ったり、お家デートしたりと、楽しかった思い出が次々と浮かんでくる。息が詰まりそうになって苦しい。胸が痛い。
捨てたほうが私にとっていいのかなあ。捨てるまでしなくても、誰かにあげちゃうとか・・・。そうは思っても、簡単に手放すことができない。高価な物だし。・・・といってもまあ、購入した当時の私にとって高価だっただけで、今の私にとってはそれほど高価なわけではないんだけど。分かってる。こんなのただの言い訳だ。これを手放したら、一緒に遥一との関係も手放してしまうみたいに思っているから、だからまだ手元に置いておきたいんだ。遥一とのことを、まだ終わらせたくないと、信じたくないと思っているから。自分でも往生際が悪いと思う。だけど、初めてできた彼氏だったし、前ぶりもなくあまりに突然だったから、今の状況が未だに納得できなくて・・・。
はあ、とため息をつく。頭も痛いし、ああもう嫌。どうしてこんなことになっちゃったの。
「うう~~~」
うなりながらベッドの上をごろごろと転がる。仰向けになったとき、壁掛け時計が目に入った。そういえば、今何時なんだろう。
ええと、針が12と9にあるから、12時45分?ああ、お昼過ぎか・・・。
そう思って、瞼を閉じる。・・・・・・あれ、今短い針どっちだった?
もう一度目を開けて、時計を見る。短い針は、9。ってことは、9時。9時?
慌てて、上半身を起こす。さっきは見なかった腕時計の文字盤を凝視する。
「・・・・・・9時。9時!?はっ!?9時-!?」
ベッドを飛び出した。遅刻だ!
9時、9時ならもう1時間目がとっくの昔に始まってるじゃない!ちょっと、携帯のアラームって掛けてなかったんだっけ!?そうだ、飲んでいる最中に電源が切れちゃったんだ。充電だってしてないし、帰ってきてすぐにベッドに倒れ込んだし。ああもう、私ったら!どうする、どうする!?どうすればいい!?
とにかく、学校へ行かなきゃ。今着てるのはぐちゃぐちゃだから、きれいな服を着なきゃ、ああ、あとジャージを持たなきゃ、あと、あと・・・。
タンスとクローゼットを引っかき回して、急いで通勤服に着替える。今日が何度かなんて、天気予報を見る時間なんてもちろんない。今日って何も大事な行事とか会議とかなかったよね、でも一応かっちりした服で行ったほうがいいかな。
ふと横に置いてある全身鏡を見ると、ひどい顔の私がこちらを見つめていた。目も腫れているし、化粧もぐちゃぐちゃ。私ったら、化粧落とさないで寝たんだっけ?
着替えをしながら考える。そうだ、私、珍しく化粧をしたまま寝ちゃったんだ。寝室に向かっている途中に洗面所に行って化粧を落とそうか一瞬考えたけれど、もう失恋したんだから老化したっていいやってそのまま顔も洗わずに寝たんだ。化粧をしたまま寝るのって肌の老化につながるっていうから、今まではすごく気をつけていたけれどな。
それにしても、あんなに泣いたんだから、化粧もどうせ落ちてるだろうと思ったんだけど・・・落ちてるというよりは、マスカラのせいで頬が黒くなってるし、アイシャドウがまぶたをはみ出したりしてるし、ひどい状態になってしまっている。洗って落ちるかな、クレンジングでやんなきゃ落ちないかな。やっぱり寝る前に落としておけば良かった。落としてる時間がもったいない。
そうフル回転で考えながら、急いでタンスの中から引っ張り出したジャージを鞄に詰める。よし!次は洗顔だ!そうして、私は洗面所に走った。
洗面所に着いて、ヘアバンドで前髪を上げる。さあ、水を出してクレンジングだと、蛇口に手を掛けたその時。
ピンポーン。
部屋に、チャイムの音が響いた。
なんかさっきもこの音聞いたような気がする・・・。そうだ、さっきも聞いた。この音で目が覚めたんだ。
だけど今出られるような状態じゃないから、ちょっとごめんなさい、居留守で!
そう思ってクレンジングを始めたけれど、時間を置かずして、ピンポーンとチャイムがまた鳴った。
もう、いないんだってば!こっちはクレンジングと洗顔に忙しいの!
顔洗ったら、もう出なきゃいけないんだから。すぐに出なきゃいけないんだから・・・?
「・・・・・・どうしよう」
出て行こうとしたときに、まだいたら困るな。
留守じゃなくて、無視してたことがばればれだ。どうしよう。かなり都合が悪いぞ。
そう考える最中もまた鳴るチャイム。ああしつこい!普通一回二回鳴らして出なかったら諦めませんか!?
こうなったら、すいません今忙しいからって言って、いなくなってもらおう。
急いでタオルで顔を拭き、すっぴんのまま、ドタバタと玄関に向かた。
またもや、ピンポーンと鳴るチャイム。はいはい、本当にしつこいですね!4回目だよ、4回目!今出ますからちょっと待って!
「はいはーい」
本当はこんなことしている暇なんてないんだけどね!
だけど、都合が悪かったり、後々面倒くさくなりそうなことは回避しておくに限るから。
サンダルを引っかけて、最近少し開けづらくなってきたドアを開ける。
「はい、何ですか」
どうせ配達のおじさんとか新聞の勧誘のおじさんとかそんな感じだろうと思っていた。だから、急いでるんで後にしてくださいって言えば、すぐに用事は終わると思っていた。
だけど、真っ先に目に入ってきたのは、ここによく配達に来るおじさんが履いているスニーカーじゃなかった。きれいに磨かれた黒い革靴。それに少しかかった長めの黒いスラックス、視線を上げていくと、水色のワイシャツが見えた。
しかも、おじさんによくいる、中年腹なんかじゃない。おなかはどこも出てない。平らだ。いや、ワイシャツに余裕があるから、むしろへこんでる?
あれっ?
思わず視線を上げると、そこにおじさんの顔はどこにもなかった。そこにあったのは、想像していたよりも二十くらい若い、男の人の顔。歳はきっと同じくらい。
「・・・・・・ええと、どちらさまですか?」
本当、どちらさま。朝っぱらから若い男が何の用ですか。
「はじめまして、隣に越してきた神崎秋です」
「・・・・・・あ、え、隣?」
「はい、あ、荷物は今日持ってくるんですけど」
「あ、ああ、そういえば・・・」
隣に住んでいた人が二週間くらい前に出て行ったんだった。
音楽が好きらしくて、夜遅くにもがんがん音を出して音楽聞いたり、ダンスをしていたのか物音もたくさん立てていた人。まあ、私は寝るのが大好きで、どんな時でもどんな場所でも寝られる体質だから、騒音届けは出さなかったんだけど。あの人がいなくなって、この二週間はむしろ静かすぎてそわそわしちゃっていた。
でも、そうか、次はこの男の人が入ったのか。
「これ、ささやかですが、よかったら。前に住んでいたところの、人気の洋菓子店のお菓子なんですけど」
そう言って紙袋を差し出してきたから、反射的に受け取った。中を見ると、きれいに包装された四角い箱が。
引越の挨拶なんて、最近の人はあまりしないと思っていたから珍しいなと思う。見た目も清潔だし、挨拶もしてくれたし、しっかりした人なのかもしれない。
「すいません、なんだか気を遣ってもらって・・・。でも、ありがとうございます。有り難くいただきます」
チャイムは確かに鳴らしすぎだとは思うけど、まあ、お菓子に賞味期限があるから、早く渡そうと思って鳴らし続けてくれたのかもしれない。・・・いや、本当のところはよく分からないけど。だけど、いい人そうだし、それはまあいいか。いやね、別にお菓子をもらったとか、そういうんじゃないから。全然違うから。
お礼を言って、お辞儀をする。ふと、ピンクゴールドの時計が目に入った。9時10分。あ、まずい。
「す、すいません、私これから出勤しなきゃいけなくて・・・」
「ああ、そうなんですか?すいません、忙しい時間に来ちゃって。でも土曜日にも仕事があるなんて大変ですね、それじゃあ・・・」
そう言って一歩後ろに下がった男性。あれ、今なんか聞こえた。・・・土曜日?
「・・・・・・土曜日。今日って、土曜日?」
「・・・?はい、今日は土曜日ですけど」
「・・・・・・そんなあ・・・」
その場にしゃがみ込んだ。どおりで、完全に遅刻なのに学校から電話がこないわけだ。
そうだよね、昨日は金曜だった。金曜だから、遥一と会って、それで、まあ振られたわけだけど。ああ、また思い出しちゃった。
安心したからか、遥一のことを思い出したからか、いなくなったはずの二日酔いの頭痛が戻ってきた。いたた。
「大丈夫ですか?」
「えっ?あ、ああ、すみません」
しゃがみ込んだままの私に、声を掛けてくれる。ああそうでした、人がいたんだった。初めて会った人の前でしゃがみ込むなんて。恥ずかしい。急いで立ち上がった。
「すいません、土曜日って教えてくれてありがとうございます」
「はは、もしかして平日と勘違いしてました?」
「勘違いしちゃってました。おかげさまで、間抜けにならなくてすみました」
「お役に立てたなら良かったです」
にっこりと笑う。あ、笑うと目尻に皺ができるんだ。
なんだか雰囲気もいいし、好青年っぽい。これからも何度か会うだろうし、隣に住んでいれば付き合いも何かあるかもしれないし、いい人だといいなあ。
ああそういえば、私まだ自己紹介してなかった。
「私、春川といいます。何かあったら・・・何か困ったことがあったら、何でも言ってくださいね。一応、このあたりは大体知ってるので。ええと・・・」
名前。神崎・・・神崎、秋さん。神崎、秋?
「神崎、さん」
「はい、ありがとうございます。じゃあ、今日は荷物の搬入などで物音とかうるさいかもしれませんが、よろしくお願いします。それじゃあ」
そうして、ドアが音もなく閉まった。
ドアに鍵を掛けなきゃと思うけど、腕が動かない。
あれ?神崎?神崎秋?
「まさか」
こんなことって。漫画じゃあるまいし。
だけど、閉まる直前に見えた、右目の眉上の、縫ったような小さな傷。
「神崎」
あの傷は間違いない。神崎だ。
私の大嫌いな、私の初恋の人、だ。