2話
「だって、私何もしてないじゃん」
「はいはい」
「ねえ、ひなちゃん、だって、だってねえ」
「はいはい、分かったから、あ、店員さんちょっとお水一杯お願い―」
「きいてるのひなちゃん!」
「あんた飲み過ぎなの。いい加減になさい酔っぱらい。水ぶっかけるわよ」
「・・・・・・」
容赦ない。
思わず黙った私の顔に新しくもらったらしいおしぼりを痛いくらいグリグリ押しつけて拭いているのは、私と同期の堀田比奈。ウェーブの掛かったボブが似合う、リスのように小柄で可愛い女の子。いや、女の子って言える年齢じゃないか。5月が来れば、この容姿でなんと30歳だ。
私よりも二つ年上の彼女、私と二人で歩けばだいたい私の方が年上に見られる。それにずうんと落ち込めば、大人っぽくて美人ってことじゃんかとフォローになっていないフォローを入れてくれるけど。比奈さん、大人っぽいっていうのは大人には使っちゃいけない言葉だと思うんだよね。とは言わないけどいつも思っている。
パステルカラーの似合う、ふわふわしていて可愛い彼女だけど、中身はよくある天然なんてキャラじゃなく、面倒見の良い姉御タイプだ。そしてたまにうっかりさん。それがまた可愛い。ギャップだらけの比奈ちゃん。そしてもちろん、私も同じく、天然とか抜けているとかそんなことはない。自分で言うのも何だけど。
だって、彼女と私は小学校の先生だから。
抜けていたら、先生なんてできないでしょ?いや、私生活で抜けていても仕事で抜けてなきゃ別に良いんだけどね。
最初の採用の時、私たち同じ学校で同期だった。そして今はお互い二校目。
比奈ちゃんは、正規採用になる前に二年間講師をしていたらしい。だから、二歳差。でも年が違うからといって何がどう変わるわけでもない。私たちは友人だ。
初めて会ったときには、ほわほわした雰囲気と可愛い外見に騙されて、話しかけるときには色々オブラートに包んで話したりしていたんだけど、パキパキタイプの比奈ちゃんにはその話しかけ方は合わなかったらしく。「もうちょっと早送りで話せる?」とか、「はい二倍速頑張ってー」とか「はっきり言っちゃおう。で?」とかよく突っ込まれた。言葉だけ聞けばきついように聞こえるけど、裏がなくて爽やかに堂々と言っちゃってくれるもんだから、嫌な感じは全く受けない。私も気が楽になって、今では何でも話せる親友!と勝手に思っている。
あまりにゴシゴシと強く顔を拭かれるもんだから、グラスの中のビールがダップダップとあふれ出しそうだ。そう思ってグラスをテーブルに置くとき、袖口からちらりと見えたのは、ピンクゴールドの時計。針は5時50分を指してる。もちろん夕方じゃなくて朝方のね。
比奈ちゃんは優しい。だって、私が電話したのは夜の9時47分だった。そして掛けたときには多分彼氏の晃さんと一緒だった。それなのに「今どこにいるの。すぐ行くからちょっと動かないで待ってなさい」なんて言って本当にすぐに駆けつけて来てくれた。
きっと私が泣きそうになっていたのを、というかもう比奈ちゃんの一声を聞いただけでぼろぼろ泣き始めたのを見過ごせなかったんだ。そして、私はきっと来てくれると分かって電話した。晃さん、デートの最中ごめんなさい。でも今夜だけは一人でいたくなかったんです。
そして、私の失恋を癒す会が今に続く。
ピンクゴールドが蛍光灯を受けて、ひっそりと光る。時計を見れば見るほどまた涙と怒りがこみ上げてくる。鼻がツンと痛んだ。
「ちょっと、何また泣きそうになってるのよ。全部流したんじゃないの。どこに貯蓄してたの、それ」
「ううーだってー」
「だってって・・・ああ、ちょっと鼻水はおしぼりでは拭かないでよ。今ティッシュ出すから」
「ひ、ひっひなちゃんの、やさしさがめにしみる」
「心にしみるでしょ」
「ひっ、だって、ね、ぴんくごーるど、あいつが、にあ、にあうって」
「ああーじゃあゴミ箱に捨てちゃえば、時計」
「だよねえ、そうだよねえ、すて・・・すて?」
捨てる。捨てる?だってこれは、比奈ちゃんと初めて会った時に、先生なんだから少しは見た目に気をつけるようアドバイスされて買った時計なんだよ。あちらこちらのお店を巡って、嫌みじゃなくて、高価すぎず、自分相応のものを探して、初めてのお給料で買った、大事な大事な・・・。
「だって、見れば思い出すんでしょ?」
「・・・・・・」
「梅子だって、今ならもっと素敵な時計も選択肢に入れられるはず。でしょ?」
「・・・・・・そうだけど」
「嫌で悲しい気持ちになるものを身につけていれば、幸せは飛んで来にくいんじゃない?ほら、十二月のボーナス、まだそんなに使ってないでしょ?新しいの探してきたら」
丸くて可愛い私の時計。お気に入りの時計。4年間一緒の、私の時計。
「・・・ちょっと考える」
「そうね、自分で決めなきゃね。ほら、もう6時よ。お店も閉まるから行きましょう」
立てる?と手を差し出してくれたから、反射的にその手を取る。
比奈ちゃんの手は思った通りやっぱりあたたかくて、心がなんだかじんわりした。優しくて、大好きな比奈ちゃん。今年度から違う学校になってしまったのに、それでもこうやって何度も話を聞いてくれる。今回も彼氏を置いて、私の一大事と駆けつけてくれた。嬉しい。こんなに大切で大好きな友人がいる。失恋がなんだ。私は十分すぎるくらいに幸せだ。
そう思うとまた色々とこみ上げてきたけれど、また泣く!と怒られそうだったから、こっそりと一つ涙をこぼした。