6話
「ええ、ええ、・・・ああ、そうですか。いえ。それじゃあ、もし見つかりましたら・・・」
そう、電話をする神崎の横顔を、ぼんやりと眺める。
嘘です。ぼんやりと、なんてもんじゃない。ぼんやりとに見せかけて、がっつり見てます。膝の上でガッチガチに拳を握って、汗はだらだらです。緊張真っ最中です。
「お店の人には、届いていないそうです」
「あ、そ、そうですか・・・」
「探して、出てきたら、とりあえず僕の携帯に連絡が来るようにしてもらいましたから」
「す、すいません・・・」
「いえ、それじゃあ、今度は大家さんに電話してみますね」
そう言った後すぐに電話をかけ始めた神崎。すごい、大家さんの電話番号、なにも見なくても分かるんだ。
私、どこかにメモしたきり、そのメモがどこに行ったのかもよく覚えていない。携帯の連絡帳にも登録したはずだけど、何ていう名前で登録したんだっけ。
目につく大きな家具は、ローテーブルと、本でぎっしり埋まった本棚と、ベージュのソファくらいの、シンプルな部屋。ベッドなんかはきっと、隣の部屋にあるんだろう。間取りは、私の部屋と反対らしい。じろじろ見るのも失礼かな、と思って、お部屋観察はそれくらいに留めた。
視線を下げて、握った拳を見つめる。と同時に、は、と声もなくため息が出た。
ああ、どうしてこうなってしまったんだっけ。
「お店に連絡してみました?」
ごもっともな質問です。もちろん、私も連絡しようとしましたよ。でも、でも。
「・・・電池が・・・」
「ああ、切れちゃったんですか」
「・・・はい」
「携帯、僕のと一緒なら充電できますけど」
そう言って見せられたのは、残念ながら、私とは違うタイプの携帯だった。
無言で首を振った私に、そうですか、と少し落胆気味に返事を返してきた。
「ここにいれば身体も冷えます。お店に連絡してみますから、とりあえずその間、僕の部屋に避難しましょう」
「・・・え?」
今、何と言いました。僕の、部屋に?神崎の、部屋に?
「む、無理です」
「は?」
「あ、あの、大丈夫です。あの、雨、止んだら、コンビニに行こうと思ってたので、なので・・・っ?!」
そこまで言った瞬間、どこかへ行ったはずの雷様が、また戻ってきてしまったようで、地響きのような雷音が鳴り響く。
しゃがみ込みそうになったのを、神崎の前、と気持ちを奮い立たせ、とどまらせた。
「・・・雷の中?」
「か、雷、平気だって、言ったじゃないですか」
ここまで意地を張ることではないと、自分でもわかってる。でも、止められない。
「ありがとうございます。でも、気にしないでください。大丈夫・・・」
「意地っ張り」
カチャ、と鍵の開く音がする。顔を上げれば、神崎が自分の部屋のドアを開けているところだった。
「か、かんざき・・・さん?」
腕を取られる。
「え」
「心配しなくても、何もしませんよ」
「え、あの」
「コートがこんなに冷えてる。今何月だと思ってるんですか」
「え、さ、三月・・・」
「答えてほしいわけじゃないです」
「・・・・・・」
「雷のなか歩くのが危険だってこと、子どもでも分かることでしょう。とりあえず、中に入る。風邪をひきます。こんな時にまで意地を張らない」
雷のせいで固まっていた私は踏ん張ることもできず、あっという間に家の中へと連れ込まれてしまったんだ。
「・・・出ませんね。もう寝てるかな」
そう言いながら、神崎が携帯を顔から離した。
そうだよね、確かにもう遅い時間。こんな時間にいい迷惑だよね。結構お年を召されたおじいさんだし。
でも迷惑と言えば、それは大家さんにだけじゃなくて、目の前の神崎にだって、本当にそうだと思う。
「すみません、あの、本当にもうおいとましますので・・・」
「おいとまするって、ここを出てどこへ?」
「それは・・・」
こんな時間に急に行けるところなんて、限られてる。
「えと、さっき一緒にいた彼女の家に・・・。あくまで彼女がいいっていってくれたらですけど」
「ああ、堀田さんでしたっけ。彼女の電話番号は分かります?」
「いえ、その・・・分からなくて。携帯には入ってないるんですけど・・・。すみません」
「謝ることないですよ。携帯に登録しちゃうと、ついつい覚えるの怠っちゃいますよね。でも、それならどうする気ですか?直接もう訪ねていきます?」
さすがにそれは迷惑以外の何者でもないよね。いや、どちらにしろ迷惑なんだけど。
もう本当、今の私はみんなに迷惑かけすぎだ。それでもこの状況では自分でもどうにもできないから、迷惑かける以外に何もできない。ああ、考えれば考えるほどへこんでしまう。
「とりあえず携帯の充電器を買いたいなって。コンビニに行って、彼女に連絡して・・・。もし難しそうであればどこか街に出てホテルを探そうかな・・・」
いや、待てよ。そうだ、ホテル。その手があった。
ああ、でも今日は金曜日。空いてるホテルを探すのもきっと一苦労。迷惑を承知で比奈ちゃんに連絡するか、それともホテルを頑張って探すか。
もういい大人なんだもん、ホテルを探した方がいいのは分かってるんだけど、雨だからか、一人で知らないところに泊まりたくないのが正直なところ。でもそれはわがままだよね。
あーあ、どうしよう、と何度目かのため息をつきそうになって、無理やり窓の外に気をそらした。
雨はまだやむ気配がない。
・・・雨、といえば。
「傘・・・傘、まだないんですか?」
「ああ、見つかりましたよ、折りたたみ傘。でも今朝の天気予報では降るなんて言っていなかったから、家に置きっぱなしで」
そう言って苦笑しながら、いつの間に淹れてくれたのか紅茶を出された。
「すいません、もらいもののティーパックなんですけど」
「あ、いえ、そんな、お構いなく、本当に!お邪魔、してるんですから」
慌てて顔を上げて神崎を見る。そして、ようやく気付いたことは。
「か、神崎さん、風邪ひきますから!」
スーツが雨で変色したまま、ってこと。雨に濡れたまま私のことを色々やってくれて、そうだ、着替えてない。
私ったら、雨に濡れたって初めに会った時に聞いていたのに。自分のことでいっぱいでそんなこと考えもしなかった。
「着替えてきてください、風邪ひいちゃいます」
「暖房つけてるし、大丈夫ですよ」
「そんな、大丈夫じゃないです。私のせいで風邪をひかれたくないですし」
「もし引いたって自分の判断ミスでしょう?春川さんのせいにはしませんよ」
「そうじゃなくて」
ああもう。
「私がいることで着替えられないのでしたら、たった今出ていきますから」
そう言って立ち上がる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・分かりました」
しばらく無言で見つめ合う。
何分続いたか・・・ううん、せいぜい何秒、なんだろうけど、それくらい長く感じた。
初めに表情を崩したのは神崎。神崎は観念したように苦笑しながら両手を上げて。
「降参です。ここで意地を張ることでもないですね。着替えてきます」
そうしてそのまま隣の部屋へと消えていった。
ただのお隣さんに向かって、強く出すぎたかしらと思うけれど、でも風邪をひかれても困るのは正直なところ。今回は仕方ない、そうやって自分を納得させる。
「・・・・・・雷」
雷の音も光もしない。今度こそ遠くなってくれたみたい。
神崎が戻ってきたら、本当にそろそろお暇しなきゃ。
そう思いながら、出された紅茶に口をつける。アールグレイ、私が好きな匂い。
紅茶と一緒に出されたクッキー、包み紙は聞いたことのないお店のものだった。
口に入れてみれば、ココナッツの味が広がった。
「・・・美味しい」
「それはよかった」
振り向けばジーンズとニットセーターのラフな姿の神崎が部屋に戻ってくるところだった。
「それ、さっきもらったもので」
「さっき・・・ああ、さっきの集まりの・・・。職場の?」
「そうなんです」
すぐに思い浮かぶのはあの女の人。
「・・・仲、良さそうでしたね」
「え?」
「あっ、いえ、その・・・ええと、私は職場であんなふうに話す人はあまりいないので・・・」
「堀田さんとは仲が良さそうでしたけど、職場が一緒の方じゃないんですか?」
「あ、彼女とは前の職場が同じだったんです。今は違うところで・・・」
今の職場だって、周りの人と仲良くないわけじゃない。でも、比奈ちゃんほどじゃない。
「でも」
「はい?」
「堀田さんのような、職場が変わっても仲がいい人がいるのは、うらやましいですよ」
「・・・そうですか?」
「そうですよ」
そう言いながら、目の前に座る神崎。ああ、そろそろお暇しようと思っていたんだけど、タイミングを逃してしまった。
「実はさっきのは送別会で。僕、今度異動なんですよ」
「え?」
「次の職場に行っても、付き合いが続くかどうか」
コーヒーをそう言いながら一口含む。・・・あれ?神崎はコーヒーだ。
私が不思議に思っていることに気が付いたらしい神崎は、ああ、と呟く。
「もしかして、コーヒーの方が良かったですか?」
「え、あ、いえ・・・私は紅茶の方が。でも、どうして?」
「前駅前の洋食屋に行ったときに紅茶でしたよね?だから紅茶の方がいいのかなと思って」
ああ、さすがです。
見た目、できる男は、そうやって些細な事にも気がついて、そしてさりげなく実行に移すんですね。
今回に関してはありがたいけど、そのスマートさが何となく憎らしい。私がそういうこと得意じゃないから、少し悔しく思ってしまうのは許してほしい。私も色々気付ける女性になりたいです。
心の中で、む、としながらも表情には出さないように顔を上げて神崎を見てみれば、本当にそう思っているらしく、少しだけ寂しそうな感じだった。
「・・・・・・」
「・・・まあ、異動してからも、僕かも連絡をとればいい話なんですけどね」
そう言って笑う。今日はこの笑い方をよくする日だと思う。
「・・・続くと良いですね」
「え?」
「楽しそうでした。きっと続きますよ」
私の言葉に、神崎はなぜか少し驚いたような顔をして、それから今度はさっきよりも目じりを落として、ありがとうございます、と笑った。
「・・・あの、雨も雷も大丈夫そうなので、そろそろ・・・」
ようやく言い出すと、そうですね、と神崎が立ち上がってコートを羽織った。ん?
「じゃあ、行きましょうか。忘れ物は大丈夫ですか?」
「あ、多分・・・。そうじゃなくて、神崎さん」
「はい?」
「一人で行けま」
「今何時だと思ってるんですか?」
結局そのまま押し切られて一緒にコンビニへ向かうことになってしまった。ううん、私ったら、こんなに押しに弱かったっけ。
無事にコンビニで充電器を買って、そのまま少し充電してから立ち上げる。
ピローンと聞きなれた音がして、しばらくぶりに画面が明るくなった。
少し悩んで、とりあえず比奈ちゃんに電話することに決めた。迷惑かけちゃうけど、雷もあってちょっと辛かったから、今回はちょっと甘えたい気分なんです。ごめんね、比奈ちゃん。
「堀田さんは何て?」
「もうすぐ終電だから、早く来なさいって。駅まで、迎えに来てくれるそうです」
「駅からは近いんですか?」
「ほぼ駅の目の前で。線路沿いなんです」
「ああ、それなら大丈夫ですかね。本当はついて行けるといいんですけど・・・」
「え、いえいえ、そんな。今度は神崎さんが帰れなくなってしまうので。それに、そこまでしてもらわなくても・・・」
話しているうちに駅にたどり着く。ああ、結局駅まで送ってもらっちゃった。
「本当、今回はすみませんでした」
「気にしないでください。今、飲み会が多い時期ですから、酔っ払いもいっぱいいますし、気を付けてくださいね。とりあえず、比奈さんの家に着いたら、メールか電話をください」
「え?」
「これが僕の電話番号とアドレスです」
そう言って手にメモ用紙を握らされる。
「え、ちょ」
「着きました、の一言で良いですから。心配なんですよ、こんな時間に一人電車に乗せるのは」
「そ、そんな子どもじゃないですし」
「子どもとか関係ないです。ほら、電車が来ますって。それに、僕が春川さんの連絡先を知らないとお店から鍵があったと連絡が来た時に伝えられないでしょう?」
「そ、それはそうですけど・・・」
「ほら、早く行かないと」
背中を押される。
神崎のことも気になったけど、でも確かに電車がすぐにやってきてしまって、慌てて飛び乗った。
たまたま席が空いて、座る。発射した電車からは改札の向こうの神崎の姿はもう見えない。
手の中で知らないうちに握りつぶしてくしゃくしゃになったメモを広げてみる。
走り書きの文字。いつの間に書いたんだろう。
「もー、鍵落としたって、おばか・・・って、ちょっと梅子?」
比奈ちゃんの顔を見て、ああ、と思わずしゃがみ込んだ。
その拍子に落ちたメモ用紙。すぐに比奈ちゃんが拾ってくれて、手渡される。
同時に。
『心配なんですよ』
神崎の声がリフレインして思わず頭を抱えた。
「比奈ちゃん、どうしよう」
「梅?」
「私、なんかおかしい」
関わり合いになんてなりたくないのに。
もらったメモをもう一度、手の中でくしゃりと握りつぶした。