5話
駅に着いた。今日は綺麗な星空が見えるかも、と天気予報で言っていたのに、見上げれば曇空。
星なんてどこにもない。天気予報、はずれじゃない。
ああ、なんだか嫌な予感がする。雨が降らないうちに、早く帰ろう。
鞄を抱き込んで、私は早足で家に急いだ。
「ない」
さああ、と顔が青ざめるのが、鏡で見たわけでもないのに自分でも分かる。
ない、ない、ない。
外廊下ということにも構わず、鞄の中身を一つ一つ確かめながら出していく。
「・・・・・・」
これが最後の一つ。携帯をコトリ、と床に置く。
まずい。これは、本当にまずいんじゃないか。
「鍵、どこ」
白い鍵ケースが、どこにも見当たらない。鞄をひっくり返しても何をしても、どこからも出てこない。
もしかして、どこかで落としてしまった?
そ、そうだ、朝、鍵をかけずに出てしまったんじゃ。そう、決して良くはないことだけど、それに期待をしてドアを引いてみた。でも、やっぱりびくともしない。
「え・・・え、でも、どこで?だって、鞄の中身なんて・・・」
今日、鍵を入れておいたポケットから何かを取り出したことなんて、ない。さっき出した財布だって、内側の違うポケットだ。
そこまで考えて、はた、と思い至る。もしかして。
「あの・・・転んだ、時?」
確かあの時、鞄を持ったまますっ転んだ、ように思う。それじゃあ、あの時に?
ああ、それじゃあとりあえずお店に電話を・・・。探してもらわなくちゃ。
焦って震えそうになる手で、携帯を持ち上げる。電源を入れた瞬間、右上のマークが点滅しているのが見えた。
これは・・・もしや、電池マーク?
なんですと。
「お、落ち着いて、落ち着いて。大丈夫。とりあえず、電話番号を」
出さなくっちゃ、って、通話履歴を見るけれど、それらしき番号が見当たらない。そうだ、予約してくれたの比奈ちゃんだった。ということは、番号がすぐに分からない・・・ってこと。
じゃ、じゃあ、あれだ。比奈ちゃんに連絡を、と電話帳を呼び出している途中で、ジジ、と一瞬砂嵐のように画面が揺れる。あ、と思う間もなく、パチン、と画面が暗くなった。
「・・・・・・」
真っ暗な画面に映るのは、これまた真っ暗な私の顔。私の目の前も真っ暗です。
ああ、どうしよう。
とりあえず、だ。コンビニに行こう。そうだ、それがいい。
心臓がどくどくとうるさい中、床に並べたものを、とても丁寧とは言えない手つきで鞄の中に突っ込んでいく。
コンビニに行って、携帯の充電器を買って、比奈ちゃんに事情を説明してお店の電話番号を聞いて。そして、お店に電話して鍵がないか聞いて。なかったらお店までの道のりを探して。これからのことを一つ一つ、心の中で確認していく。
あ、でも今は真っ暗だから探すのは明るくなってからの方が見つかりやすいかな。あ、そうだ、大家さんに電話すれば、どうにか対処してくれるかも。
でも、それにはまず、携帯の充電器を。
そう、ようやく中身を全部入れた鞄を持って立ち上がった瞬間。
バリバリバリ――――――!
「きゃああああっ」
立ったのも一瞬、またその場にしゃがみ込んでしまった。
頭を両手で抱えたまま横を見やれば、せっかくさっき鞄に入れたものが辺りに散乱してしまっている。
でも、それをもう一度拾って鞄に入れなおすことは、今は絶対に無理。
だって。
「――――――っ」
雷が、鳴りはじめたから。ああ、どうしてこのタイミングで。
携帯の電池がないのが、つらい。携帯さえ使える状況なら、たとえメールや電話をしていなくたって、誰かと繋がっているような安心感がある。でも、電池がない今の状況じゃ、誰とも繋がりが感じられなくて、これが思った以上に怖い。
頭上ではずっと、空間を裂くような音が引っ切り無しに鳴っている。
怖い。
「も、やだあ・・・」
ぎゅっと瞑った目の端に、涙がにじんだ。
どれくらいそうしていたのか。
「・・・川さん」
「・・・え?」
「春川さん」
「・・・・・・?」
呼ばれたような気がして、のそりを顔を上げると、そこには、できれば今は特に顔を合わせたくなかった相手が立っていた。
そうだ、この人がいたんだった。ここに、こうやっていれば、会うに決まっている。だって隣の部屋に住んでいて、さっき会った居酒屋から私が先に帰ったんだから。後から来るって、どうして私、気が付かなかったんだろう。それくらい気が動転していたんだ。
「か、神崎さん」
ああ、外廊下にしゃがみ込んでいるなんて、なんて間抜けな姿。さっきはさっきで、すっ転んだ瞬間を見られたし、本当に今日はついていない。
見えないようににじんだ涙を袖で拭ってから、慌てて立ち上がる。
「え、・・・っと、今、帰りですか?」
「ええ、雷がすごくて駅で避難してたんですけど、ちょっとだけおさまってきたので走ってきたんです。そのおかげで、少し濡れちゃったんですけど」
言われてみれば、スーツの裾が少しだけ色が変色していた。ああ、雨も降ってたんだ。外を見れば確かに、ざああ、と音を立てながら雨粒が地面を打ち付けている。水たまりもできていた。
雷ばかりが気になって、雨が降っているかなんて考えなかった。
「春川さんは」
「はい?」
「どうかしたんですか?」
「ど、どうかって・・・?」
「中にも入らないで」
「そ・・・それは」
そうですよね、変ですよね、こんな中にも入らず外でしゃがみこんでるなんて。
へら、と笑ってごまかそうとするけれど、神崎は引いてくれない。私の答えを待っている。
でも、できれば気にしてほしくないんです。気にしないでください。面と向かっては言えませんけど、まさに今、近付きたくない相手ナンバーワンなんですよ、あなた。知らないでしょうけど。
何かうまいことを言って、早く家の中に入ってもらおう、と考えるけれど、雷は今鳴っていないはずなのに心臓がバクバクしているし、頭も全くまわってくれないし、何より口が強張っていつものように話ができる気がしない。普段通りに、何事もないように、振る舞える自信がない。それに、この前の傘の時に雷なんか怖くないと言った手前、雷が怖いっていう素振りは見せたくないのに、今は一瞬でも気を抜いてしまうとすぐ態度に出してしまいそう。
「・・・春川さん?」
「あ、は、はい?」
「・・・鞄、中身が・・・」
そう言って、今度は神崎が、私がさっき投げた鞄の近くにしゃがみ込む。そして、散乱した中身をおそらく拾おうと鞄に手を伸ばしたところで、ようやく私は我に返った。慌てて自分もしゃがんで、神崎から奪うように、中身や鞄自体を抱き込む。
「だ、大丈夫、です。すみません、ちょっとさっき、慌てちゃってて、その、落としちゃって」
「・・・・・・」
「あの、自分で、できます。なので、あの、服も濡れちゃってるじゃないですか、風邪を引いてもいけないですよ、だからあの、私のことは、気にしないで・・・」
傍から見れば、明らかに挙動不審でおかしい様子だと思う。
でも、雷のせいか、神崎のせいか、どちらか分からないけれど、何か言わないとどうにも落ち着かなくて、どうにか離れてもらおうと、私は必至だった。
神崎が現れた瞬間、まずい、と思うと同時に、電話を借りられないか、という考えも浮かんだのは確か。でも、ただでさえもともと関わり合いになりたくないと思っている上、さっきの居酒屋から何だか私はおかしくて。
神崎の顔を、見ることができない。
居酒屋で、まだ、入店して会った時には大丈夫だった。もしかしたら、この落ち着かなさは、転んだところを見られてあまりに恥ずかしかったことが理由かもしれないけれど。でも、本当にそれだけ?・・・分からない。
これ以上本当に関わっちゃいけない、と頭の中で何かが警鐘を鳴らしている。勘と言えばそれまでだけど、でも、それに逆らってまで、積極的に関わろうとは思わない。
思わない、のに。
「鍵」
「えっ?」
「鍵、なくしたんですね」
「え・・・えっ?」
ど、どうしてそれを。さああ、とまた、顔が青ざめた気がする。
「どこで落としたか、見当はついてますか」
「・・・え、と。何のこと、か」
「春川さん」
「・・・は、はい」
何だろう、神崎の声が、怒っているように感じる。今までより、押しが強い。ごまかしたり、歯向かってはいけないような雰囲気を感じる。
少しだけ細くなった瞳が・・・少しだけ、怖い。
その瞳に向かって、私に関わらないで、早く家の中に、なんて。
「さっきの飲み屋?」
「・・・・・・はい」
言えませんでした。
ああ、もう。私のバカ。