七食目・クロワッサン
「……っ!」
緊張の面持ちで石窯を見つめるチトセ。その表情は真剣そのものであった。
窯の鉄扉を開けると、熱気が一気に襲いかかってくる。
それに恐れず、窯から取り出したのは、
「くっ、また失敗かぁ」
パンだった。
しかし、失敗してしまったのか、形は歪でなおかつ若干焦げていた。
「チトセ、焦げたパンは流石に食べたくないよ」
「わぁってるよ。これは俺の昼飯だ」
「ふぅん。で、何作ってるの?」
「……パンだよ?」
「それくらい分かるよ! バカにしてるでしょ! そうじゃなくて、それ普通のパンじゃないじゃん!」
明らかさまにバカにされたミーナは、不機嫌そうにチトセに食って掛かった。
「クロワッサン」
「クロワッサン?」
「そう。これがまた難しいんだよな。層が均一じゃないと食べたときの食感が悪くなるし、バターがはみ出ると焦げ付くし。はぁ、クロワッサンを作るのは諦めるか」
チトセがそう言って諦めようとするのに、待ったをかけたのはミーナだった。
「チトセ、ダメだよ。そんな風になげやりになったら出来るものも出来ないよ。思い出してよ、あの時を! 料理人になろうとしたあの時を! チトセ! あんたはそんなことで諦めるような男じゃないよ!」
「ミーナ……」
ミーナの熱い思い。今までさんざんわがままでチトセを困らせてきたミーナも、諦める姿のチトセを見て、そんな姿は似合わないとチトセを叱咤激励――
「お前クロワッサン食いたいんだろ」
「うん。作って!」
では無かった。いつも通り。ただ自分が食べたいだけだった。
「結局いつもと同じかよ……」
ミーナはどこまでもミーナだった。
◇
屋台通りを歩きながら見て回るチトセ。
とりあえず明日の朝にもう一度チャレンジする事を約束したらしい。何度も、本当にしつこいくらい何度も念を押されたせいで、明日は失敗し辛くなってしまった。
それに、そこまで期待されたらなんとしてでも叶えようと考えるのが料理人だ。
多少の苦労ならするつもりである。
一台一台丁寧に屋台を見て回ると、まだ串焼きや切った肉をパンに挟むといった簡単な料理しか出していなかった。
食材が豊富になり、味付けのバリエーションが増えた屋台だが、調理方法自体はそれほど増えてないようだ。
「今度バーガー作ってみたら売れるかな」
パンにホットドッグよろしく肉を乗せてるのを見て、バーガーも需要があるかなと冷やかしていくチトセ。
左右を覗き込むも、何も買わずに足取りも一定のことから、どうやら目的地があるらしい。
たどり着いたのは店、それも空き店舗。つまり――
「やっぱりここかな……」
自分の店。店舗候補を下見に来ていた。市場より中心部寄り、もっと言えば富裕層と呼ばれる一部の住民が住んでいる場所に近かった。
もちろんお金はかなり、それこそ前金だけでかなりかかるが、それだけ払う価値はあると踏んでいる。
「もう少し、もう少しだっ……」
店舗を後にする背中には、強い、強い気持ちがにじみ出ていた。
◇
目を閉じ、精神統一。
静かに目を開くと、そこはすでに戦場。
冷やした生地を取り出すと、均一に、ムラ無く正方形に伸ばしながら整える。
生地がバターの大きさの二倍ほどになったら、生地の上に菱形に乗せて包む。
四辺をきっちりと。はみ出さぬようにきっちりと。
出来たのは生地inバター。
それを、伸ばす。
均一に、一定に、平らに、ムラ無く。
一心不乱。
心は乱れずただ伸ばすのみ。
横に長く、一辺が縦の三倍ほどに長くなった生地を、三つ折りに畳む。
右、左。折り目を合わせて狂いがないように。
三層
更に伸ばして畳み込む。
九層
更に伸ばす。
二十七層
八十一層
そして――
二百四十三層
薄い生地の中には、二百四十三層の驚きの扉が待っている。
後は、焼き。
二等辺三角形に切り分けられた生地の底辺を少し切り込み、くるくるくると巻いていく。
夜空に浮かぶ二対の月、欠けた朱月の様に。
三日月。そう呼ばれていた月の様に。
溶き卵でコーティングした後は、焼く。
石窯にセット。
火加減を調節し、全身全霊神経を集中。
出来る。出来る!
信じろ。自分の腕を!
扉を開けろ!
「綺麗……」
三日月の形をしたパン。
朱月の形をしたパン。
見るものによってその見え方は違うが、その姿を見たときの感想はただひとつ。
美しい。
層が幾重にも重なり、バターの風味を閉じ込める。
漂う気品は、極上。
王に献上する至玉の逸品
「食べるのが勿体ないよ、チトセぇ」
「いいから食べな。まずはそのまま。ジャムもあるからそれをつけても美味いぞ」
ごくりと唾液が喉を通り抜ける。
割ると心地いい音と共に、香りが通り抜ける。
サクッ。一口。
サクッ。二口。
サクッ。サクッ。
まるで、秋の街路樹が並び立つ道。
ゆっくりと二人で手を繋いで歩く。
足元の落ち葉は、二人が歩くたびに穏やかな合奏を奏でており、隣で肩を並べる恋人はその音色に聞き入っていた。
それが気に食わなくて、少し、ほんの少しだけ繋ぐ手に力を入れると、相手も少しだけ強く握ってきた。
秋のひととき。
恋人達のシンフォニー
サクッ。サクッ。
「これはもう、パンじゃないよチトセ。これはクロワッサンだよ。パンじゃないよ!」
「落ち着け。言いたいことは分かるけど、とにかく落ち着け」
「結婚して毎日このクロワッサンを焼いて下さい」
「断る!」
「じゃあ、結婚しなくていいから毎日このクロワッサンを焼いて下さい」
「ミーナ、お前はとにかくクロワッサン食いたいだけだろ」
「うんっ!」
◇
洗い物を片付けてるチトセとミーナ。
互いに無言だが、穏やかな時間が流れていく。
すると急にチトセが話しかける。
「なぁ、ミーナ」
少しだけ真剣な声。
からかうような響きは一切含まれてない。
「ん、どしたの?」
ミーナは気づかない。いつもと同じ。そうでは無いことに。
「俺、もうすぐここを出てくよ」
「……え?」
「店を出て自分の店を持つんだ」
「チト、セ?」
「だからもう少し、もう少しだけよろしくな」
もうすぐ、冬が来る。
次話で跳ね鼠編終了の予定です。
第二部はもう少しプロットを練って更新したいと思います。