一食目・オムレツ
腹減ってきた
朝焼けから薄靄が漂い出した頃、王都バルトグラムの一日が始まる。
大通りには数多の屋台が並び、そこかしこで肉や野菜、果物が売られていた。
その大通りを、この国では比較的珍しい黒髪の男が歩いていく。
左手では野菜がつき出している袋を抱え、右手に串に刺さった肉を頬張っている。
道行く人はその髪色に一瞬目を止めるが、自分達と同じ様な、下手したら自分達よりも馴染んでいるその姿に、すぐさま目的の物を探しに歩みを進めていた。
「この鳥肉は固ぇな。確かに歯応えは良いけど、明らかに焼きすぎだろ、あのオヤジ」
黒髪の男、チトセは文句を言いつつも、すべて平らげる。固さはともかくとして、味は良かったらしい。
「さてと、とりあえずこんだけありゃ大丈夫だろ」
一通り店を見て回ると、買い忘れがないか一応確認する。袋の中身を確認していると、横手から声をかけられた。
「お、ギリムんとこの居候じゃねぇか。お使いか?」
「買い出しじゃボケ! っておっさんかよ。それと居候じゃなくて、店員だから!」
「あん? 変な料理ばっかり出そうとする店員なんてしらねぇなぁ」
「あぁん? 次に奥さん来ても助けてやらねぇぞ」
「正直、すまんかった」
軽口の応酬。どうやら、顔見知りらしい二人。言葉ほど刺々しい感じはせず、いつもこんな話をしていることを伺わせた。
「つかその変な料理をバクバク食ってるおっさんも変人だろうが」
「んなもん最初に見たときは気味が悪かったに決まってるだろうが。ただ、なぜか味はいいんだよなぁ」
「知ってるか? 最近おっさんも気味の悪いもん食ってる変人って言われてるんだぜ」
「うそだろおぃ……」
チトセの情報に神は死んだとばかりに天を仰ぎ見る。
心なしかその目には光るものが見えた気がした。
◇
「ただいまぁ」
「おかえりチトセ。どうだい、いい買い物は出来たかい?」
細身だか引き締まった肉体に、穏和な表情で話しかける壮年の男性。
この酒場のマスター、ギリム・ガーラント。
元は上位の冒険者だったが、十数年前に怪我をして引退。引退後は冒険者時代のつてを使い、酒場を開店していた。
「ギリムさん、はよっす。なかなかいい買い物出来ました。確認してもらっていいですか?」
「ああ、もちろん」
ギリムの前に袋を置くと、一つ一つ取り出していくチトセ。中身は色とりどりの野菜中心に、各種取り揃えていた。
「おや、レムの実があったのかい?」
「ああはい。珍しく市場に出回ってたみたいで、何個か買ってみました」
それにギリムはふむと頷く。頭のなかには、今日のメニューが浮かんでいるのだろう。
「じゃあこれは保管しときます」
言いながら調理場に入っていくチトセ。床上四十センチほどに埋まっている保冷庫を開けると、その中に今日買ってきた品物を入れた。
◇
「あ、チトセ、おはよ!」
元気に挨拶をしている少女の名前はミーナ・ガーラント。
年齢は十四歳。明るく活発な少女であり、この酒場の看板娘でもあったりする。
ちなみに姓の通り、ギリムの娘である。
「はよ、ミーナ。水汲みか?」
「うん!」
裏庭にある井戸から汲んできた水を瓶に移すミーナ。
なかなかの重労働だが、その表情は辛そうには見えなかった。
「ねね、今日の朝食はなに? またあの卵料理食べれる?」
こっそりと聞いてくるミーナ。どうやらお腹が空いてるらしい。
「うーん、そうだな。卵も余裕あるし。今日はオムレツ作るか」
「やったぁ! あれふわふわしてて大好き!」
オムレツ。
卵料理としては世界的に有名なその料理。
名前は違うが同じような料理は、調理方法や材料を変えて各国に存在する。
日本で同様のものといえば、やはり卵焼きだろう。
他にもスペインのスパニッシュオムレツでは、卵にハムやチーズ、みじん切りした玉ねぎを入れて焼いており、その多彩な味わいから世界中にファンがいたりする。
◇
フライパンを高火力で熱する。熱々に熱されたフライパンに植物性の油を加えると。心地いい音と共に中の油が踊った。
縦、横、斜め。ゆっくりと油を馴染ませるようにフライパンを傾けると、そのフライパンからは今か今かと待ちわびるように食材を催促さているようだ。
だが、まだ早い。
十分に油が馴染み、熱されたフライパンに投入されるのはバター。
落とした瞬間、花開くようなバターの香りが、待ち構えている胃に刺激を与えている。
広がるバター。香るバター。手を伸ばすのは、卵。
よくかき混ぜた卵はその器を傾けるたび、その姿を現してくる。
ジュッ
卵とバターの結婚
とろとろの卵がバターと出会い、そして一つになる。
正にそれは奇跡だった。
そして流れるような動き。固まる前に素早く混ぜられ数秒。その動きが止められて数秒。
フライパンの片側に丸められた木の葉型のそれは卵料理の王様。
そう、オムレツだ。
「これはもう、卵という名の宝石だよチトセ。今ここに、トパーズよりも価値のある黄金色の宝石があるんだよ。ああ、私はこの料理があるのを神に感謝しますだよ」
頬に一滴。涙が流れる。
それは、渇いた砂漠の中にある、オアシスに出会った人のようだった。
「冷めるぞ、さっさと食えよミーナ。あと、なんか口調変になってるぞ」
「もうちょっと感傷にひたらせてよ!」
その出会いを邪魔されたミーナは怒りつつもスプーンをオムレツに近づける。
抵抗なくその黄金色の宝石をすくうと、先程よりもバターの香りが強くなった。
ごくりと思わず喉をならす。今からこれが駆け巡るはず。
口のなかは準備万端。
キスをするように慎重に近づくスプーン。
そして
「ふわあぁぁぁぁ」
思い描いていた、いや、それ以上の感動。
甘味とかすかな塩気。とろっとろの卵は舌で溶けると口の中をするりと通り抜け、残ったのはバターの香りと感動。
そこには、新たな世界があった。
「これをかけるとまた味が変わるぜ」
チトセが持ってきたのは赤い液体。
そう、
「ト、トマト、ソースですって……」
トマトソース。
角切りトマトをふんだんに使ったそのフレッシュなソースは、その甘味でオムレツをアシストする。
無意識のうちにゆっくりと伸ばされる右手。
だが、それを止めたのは理性の残っていた左手。
ミーナは分かっていたのだ。それをかければもう戻れないことを。
悪魔の誘い。
今のままで十分美味しい。これ以上の美味しさなどない。
トマトソースなど邪道、そんな誘惑には乗れないと。
だが心の中とは裏腹に、右手は止まってはくれなかった。左手は徐々に力を緩め、右手はチトセの持つ器に伸ばされる。
そして、誘惑に負ける。
中のトマトソースをオムレツにかける。少しだけ、そう少しだけなら。
赤と黄色のコラボレーションはさらに食欲を掻き立てられる。
もう少し、もう少しだけなら。
さらに横手からかけられるのはみじん切りしたパセリ。
顔をあげると、悪魔が微笑んでいた。
赤、黄、緑。奇跡のグラデーション。
震える右手はスプーンに。
すくう。持ち上げる。
そして、食べる。
また一つ、世界が誕生した。