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Π.火の神の導くままに

 Π


 ……鼻孔を擽る芳しい匂い――それが企都(ポリス)では嗅いだ事の無い、青々と大地に生い茂った草木が発する香りだと、懐かしく思い出すのに数秒を要しながら、呻き呻き瞼を開けると、眼前に広がっていたのは、青と赤の入り混じった薄紫の空であった。

 如何なる者の造形だろう、何とも絶妙な具合に雲と月と星々が、天を画布と配置されているならば、その素朴な美しさに、思わず吐息を漏らしてしまい――惚ける心が、これは夕だろうか朝だろうか、という些細な、余りに些細な疑問を浮かべると、それに応える様にしてすっと少女の白く整った顔が、紫水晶(アメディスト)の瞳が、彼の眼の前を覆い尽くし、

『お早う御座います、ヴィクター様……お加減の程は如何でしょうか?』

 そして告げられる鈴とした響きを理解するのにまた数秒を掛けてから、彼は……ヴィクター・ナイトは、あ、と慌ててその上半身を起き上がらせる――そこで解ったのは、今回もまたどうやら服は来ている様だという事であり、その服を纏っている器は、覚えている限り何一つ変わっていない馴染み深い代物であり、少し芯が残りつつも柔らかく温かいと後頭部に感じていたものの正体であり、ここが小高く盛り上がった草原の一角なのだという事と、自身の方位感覚に従って、今が明け方なのだという事であり――あれぇ、とヴィクターはまだ熱の篭ったままの髪に、手を伸ばした。そのままの姿勢で首を回すと、黒々とした雨雲と、妙に金ぴかな麦畑に覆われた、点々と光灯す灰色の塔と箱の群体が、遥か彼方に見出せて――思わず地表に出来た痘痕と連想すれば、直前の、最後の記憶が蘇り、彼は顎鬚擦り擦り、メアリの方へ振り返って、

「……正直何だか良く解らないな……とりあえずメアリ……無いとは思うが、煙草持ってないかな? 出来たら……ほら、点火器(ライター)もあると嬉しいんだが……」

 自分の中では挨拶の常套句と化した言葉を、精神の落ち着きも兼ねて口に出して見たのだが、しかし侍女は、じっとヴィクターから目を逸らす事無く首肯して見せて、

『そう言われると予見しまして……こちらにご用意しておきました』

 白い前垂れのポケットより、白地に金字で『JUNCUS(イグサ)』と刻まれた掌大の紙筐を取り出すと、驚き固まっている主へ向けて恭しく差し出して、

「……言ってみるもんだなぁおい……こんなの、どうやって手に入れたんだ?」

 暫しの衝撃から解き放たれたヴィクターは、手を伸ばしてそれを受け取り、手早く、慣れた手付きで封を切った。縦に横にと敷き詰められた紙巻の内の一つをひょいと摘み、その白く輝いて見える巻紙の、端から端へと鼻先を滑らせ、芳香を吸い込む。

 得も言われぬ快感が、その背筋を電流とばかりに貫いた。

本社楼(アクロス)から貴方を持ち出す際、ついで、と言っては何ですが、一緒に拝借して参りました……未開封とは言え、製造から大分日が経っていれば、味は保証致しかねますけど……貴方の中の喫煙違反者バルバロイが一人の所持品ですから、口には合いそうですが……』

「吸えるんだったら何だっていいさ……今は、ね……と、因みに点火器(ライター)は持ってるんだろうね? 煙草だけあって火が無いなんて、そんな冗談、笑えないぞ」

『ご心配なく……勿論ここに』

 思わず笑みを溢れさせながらヴィクターがそう尋ねると、何時もの調子に淡々と、だが今日は何処か熱を感じさせる視線を向けながらにメアリは頷き、もう一方のポケットから今度は真鍮製の点火器(ライター)を取り出す。その筐体の蓋をパチンと開けて、カチリカチリ、と何とも頼りない手付きで火打を弾けば、彼は今直ぐ代わって遣りたい衝動に駆られたものだが、折角だからと見守っている間に、その先に小さな炎が灯された。

『どうぞ……』

 消えぬ様にと片手を添えてメアリが火を向けてくれると、うむ、と濾過紙フィルターを咥えつつヴィクターは顔を近付けて――一人と一機の視線が、同じ一つの灯火に寄って混じり合うや、ジリジリと焦がされた葉先は熱を移され、紫煙を上げ出し――待ち焦がれた瞬間に瞳を細くさせながら、すぅと煙を吸い込めば、肺腑へ染み渡る香ばしくも甘い毒の味に、ヴィクターは、思わず、嗚呼……と嘆息を漏らす。それが肉体の何処に由来するのかは定かで無かったけれど、しかし歓喜は全身に満ち溢れ、彼はぎゅっと目を瞑って、それに浸った。

 やがて細胞という細胞がその喜びを享受すると、後からやって来たのは精神の落ち着きであり――うっすらと眼を開けながらに、彼はその唇をそっと開けて、

「……さて……何と無く整理が付いて来たから聞きたいのだが、ね……メアリ……」

『はい、ヴィクター様……』

「……ごちゃごちゃ言うのも面倒だ、一言で纏めよう……俺は、負けたんだな?」

 煙と共に言葉が空へと立ち上れば、侍女の返答は早く、その上辛辣な代物で、

『勝敗とは同じ立場に居る者同士での言葉と思いますが……あえて言うならば、その通りです、ヴィクター様。貴方は負けました、完全に完膚無きまでに……それは文字通り手も脚も、何もかも出せないものであったなら、貴方は捉えられ腑分けされ、そして保管されておりました……終わってしまった実験のの証拠として、或いは善意の名の下に与えられるかもしれない、新たな機会を待つ心燈(パイア)として……若しくはエル=ゼノを荒らしていた警邏隊の敵、アステリオスという名の真なる《禿鷹》として……』

「……なかなか……言ってくれるじゃないか、メアリ……」

『どういたしまして。喜んで頂けて幸いです、ヴィクター様』

「だったらもう一つ教えてくれ……そんな俺を、どうして君は助けたんだ、メアリ?」

 だからこそ、苦笑を抑えて出された返答への返答もまた単刀直入のものだった。

『――……』

「そこだけが解らない……君は俺の正体を知っていて……君に与えられた役目は世話役兼監視係だったそうじゃないかい……つまり君は、メアリ、企業の為に動いていた、そうだろう? だったら俺がエル=ゼノに楯突いた時点で、お役御免だと思うが、ね」

 指と指の間に挟んだ紙巻から紫煙をただ上がらせるに任せつつ、ヴィクターはそう尋ねる――値踏みする様に、この電気仕掛の侍女をじぃっと眺めながら。

『――……確かにその通りです、ヴィクター様……』

 そこで何拍かの空白を交え得たから、メアリは小さく、そっと唇を開けた――その表情は伏し目がちに、己が主人では無く風そよぐ大地を眺めたものであれば、変化自体は僅かなのにまるで違って見えるその顔付きに、お、とヴィクターは少なからずの驚きを覚え――言い返す事を忘れている間に、彼女はそれでも変わらない挙動と声音で持って、一つ一つ積み重ねる様、慎重に慎重にと、言葉を放ち始め、

『――……私は自動機械(オートマトン)です……貴方がたの様に心燈(パイア)なんて持っていなければ、ただただ設計された通りに動くのが目的の物であり、また道具に過ぎません……そして、私の中の算譜機械コンピュータを設計したのがエル=ゼノ社であれば、ええ、ヴィクター様、確かに貴方の仰られる通り、私は企業の為にこそ動きます……その企業が貴方の世話をしろというなら、私は貴方の世話を致しますし、貴方の監視をしろというなら、私は貴方の監視を致します……それ以上でも以下でも無く……ですが、ヴィクター様、ここに一つ、私の設計者達が見落としていた抜けがありました……或いは想定していたのかもしれませんが……私には思考力が与えられていたのです……企業が与えた目的を如何に効率良く適切に処理する為の……侍女として、身近に居る者として、主人に不足無い様、行動する為の……であればこそ、貴方が処理された時、私の中の算譜機械コンピュータは、この様に判断しました……“企業の与えた目的に則り、主人たる貴方を救い出す”と……これは、別命あるまで本社付きとして待機、という風に目的が変えられた今になっても、依然、算譜機械コンピュータの奥深くに植え付けられた強い目的、と、言う風に判断がされたもので……だからこそ貴方は今、《ヴィクター・ナイト》なる器を持ち、企都(ポリス)を逃げ出し、こんな所で煙草なんて生体ヴィオスに悪い物を、呑気に吸っていられるのです』

「…………」

『――……お解り頂けましたでしょうか? ヴィクター様』

 そうして最後の件を一気に言い終えて唇を閉ざせば、言葉の波に圧倒されているヴィクターへ向けて、再び視線が、紫水晶(アメディスト)の瞳が、強い眼力を持って差し向けられ、

「成程……ねぇ」

 そこで煙草を咥え直しつつ思い浮かべるのは、フランク・レイニーが述べていた心燈(パイア)の謎の一つであり――即ち、心燈(パイア)は何処から産まれるのか、だが、ヴィクターには、その答えが眼の前にある様に見えて仕方が無く――その一方で、果たして彼女の言葉を鵜呑みにして良いのかという疑いもまた鎌首を擡げていた。何せ昨日の今日の事である――昨日が何時で、今日が何時かは置いといて――何から何まで騙されていて、何から何まで奪われ掛けた、その記憶も生々しければ生々しさすら持ち得なかったかもしれない事実に正直ぞっとする所で――だからこれも、翻っての目的では無いかと、彼は考えたのである。企業に与えられた目的に則った目的に則った目的、と――……

 果たしてこれは心燈なのか、それとも――そうヴィクターは視線を覚えつつ、短くも長く感じる時の中で、与えられた脳髄の皺という皺を駆使して熟考に熟考を重ねた、

「……あ」

 そしてその挙句、彼は不意にこう悟ったのである。

 そんな事は悩むにも値しないものなのだ、と。

 命の灯火、究極の本質、絶対の真理――成程、今この時まで、無明とも気づかない無明の闇に囚われていた事を思えば、心燈(パイア)とは確かにその様なものかもしれない。フランクが、エル=ゼノの長が、そう称した様に――けれど、その男はまた同時に、《ヴィクター・ナイト》なる存在をして新手の自動機械(オートマトン)と呼んでいた――如何にして《彼》が産み出されたのかを思えば、それもまた真だろう――だが、数百年の歳月がその思考力を奪ってしまったのか、どうやらフランクは気付かなかったらしい――心燈(パイア)を持っていながら機械であるとするならば、一体どれだけの市民が人間で失くなってしまう事だろう。心燈(パイア)の有無こそは人間か人形か、生物か機械かを分け隔てる、唯一にして絶対の指標だった筈なのに――

 という事は、そもそもそれ自体が間違っていたと考えるべきで――心燈(パイア)が要なのは覆しようの無い事実としても、それが目に見える物である以上、どれだけ神秘的に思えても、どれだけ美しく感じても、自動機械(オートマトン)に置ける算譜機械コンピュータと何ら変わりはしないのだ。

 ならばこそ、その有無を兎角悩む方が、気にする方が愚かというもの――そこまで考えてからヴィクターは、だったら何をと考えて、直ぐにその答えを見出した。

 そう、見出す――それこそが答えなのである。

 命なんて本質なんて真理なんて――そんなものを今世の存在が直視出来る筈が無い、もとい、はっきりと見えてしまった以上、利用出来る様になった以上、それはただの物であり道具であり――虚偽に他ならないのだ。本物は、本当の心燈(パイア)とは、もっと解り難くて、目に入らなくて、それでも確かにあると思える――きっとこの煙の様なものに違いない。仄かに淡く紫と帯びながら、この狭間だからこそに垣間見える、薄明け時の空へと登って行く煙の様な――ヴィクターはそう感じた――感じた、と感じた。一体何処の四角四面バルバロイがこんな訳の解らない事を想起させたか知れないし、それが正しいかどうかなんてそれこそ解らなければ、誰かに説明出来るなんて思ってもいなかったけれど、

『――……ヴィクター様?』

 少なくとも彼にとってそれは真――そう思えるとすれば、ヴィクターは眼の前に居る少女を信じる事にした――心燈(パイア)を持たないと自称する、この電気仕掛の少女の事を――

「……何でも無いよメアリ、気にするな……俺も気にしない事になったんだから」

 まるでまた【非実在オフ】にされたかの様に押し黙って内省に耽っているのを見兼ねたメアリが、小首を傾げながらにそう訪ねて来るのをヴィクターは満面の笑みと共に返すと、煙草を挟んでいない方の手をそっと伸ばしてその白銀の髪をくしゃと撫でた――実はろくろく触れた事無ければ、それは生身の人間の頭髪とは明らかに違う、余りに艶やかで余りに鋭い人造毛であり、思った程心地良くは無いというか正直ちょっと痛い、下手をしたら肌を切りかねない様な感触だったけれど、だが算譜機械コンピュータの発熱が為か、彼女なりの温かみは感じられ、

『お戯れを……その様な機能は御座いますが、よもや朝からするおつもりですか?』

「五月蝿いぞメアリ……折角こう、何というか……いやいい、気にするな」

 けれど反応の程は然程でも無ければ、ゴホンゴホンと空咳を上げつつヴィクターは手を離した――そのままメアリの横を通り過ぎ、浅い傾斜を上へ上へ、草を分け入り進んで行けば、その背中を侍女は、紫水晶(アメディスト)の眼だけで追って行き、

『……私は別段構いませんが……それよりヴィクター様、どちらへと?』

「フランクと一緒にするんじゃない、お前は俺の侍女であって巫女という訳じゃぁ無いんだから……嗚呼、そうだな。煙草を貰って点火器(ライター)もあって、一服した……だったらその次は決まってるんじゃないかな、メアリ?」

『――……何をされるおつもりですか、ヴィクター様』

 登っていった先の開けた片隅に、自らを騎手とするあの自動二輪(オートサイクル)が、側車(サイド)も確かと備わっているのを認めると、ヴルンと近付いて来た黒い体躯を撫で撫でそう応え、それからゆっくりと振り返り――未だ小首を傾げたままのメアリを片隅と、エル=ゼノ企都(ポリス)の外観を中央とその翡翠(ヒスイ)の瞳に収めれば、大分短くなった煙草の先を都市へ向けて突き付けながら、挟んだ指を握り締めつつ――ふと見れば携帯端末(モバイル)は失くなっているけれど、だが目を瞑って感じる力は、それを不要と見出させ――彼ははこう真顔で言い放つ。

「勿論灰皿を探しに、さ……メアリ……後始末はちゃんと付けなくちゃ、ね」

 実際それは漠然としたものであり――見詰める侍女も首を戻せず――一体何から、何処から始めたらいいのやら、という所ではあったけれど――しかしヴィクターに後悔は無く、彼はその胸の内で、産まれて始めての本当の自由を、これを手放す位だったら、死んだ方がマシだと思える程度の気概を感じ取っているのだった――


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 ……この力を皆に分け与える事が出来ていたならば、どんなにか良かっただろう。

 くしゃり灰と化した大地を掴みながら、アステリオスは――アンリ・カンデラは、そう思わずには居られなかった。

 究極たる焔に不死の体――それをもし皆が持っていたならば……

 けれど仮定は仮定に過ぎず、輝く火の涙を拭い払って、彼はすっくと立ち上がった。

 そして歩き出す――東へと、今しも太陽が昇らんとする地平線へと向けて。

 宛なんか無かったし、目指す先は何処までも平らな灰が続いていたが、しかしアンリは止まらない――一人でもいい、一匹でもいい……何処かにきっと居る生存者を探す為に、彼はその脚を動かし始める。

 何故ならアンリは神なのだから――例えそれが眷属と呼ぶにも覚束無い紛い物であったとしても、例えその身が罪に塗れ、どす黒く汚れていたとしても――彼にはまだ力が残っており、そしてそれを行使せんとする意思があるのなら、彼は人であると共に神であり、その動機もまた揺ぎ無い。

 そう――神とは、民の為にこそ在る者なのだから……

  J・O=ネルレラク『未來の(フューチャー)プロメテウス』「東方への出発たびだち


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 ――やがて灯は(トゥ・ビィ・)また輝くだろう(コンティニュゥド)……


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