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γ.電気仕掛けの節度ある鳥葬

『認めてしまえ、そうすれば楽になる……どれだけ殻を纏おうと貴様は最早人間では無い……彼奴等の眷属で……そして彼奴等がそうであった様に……我等の……』

 そう途絶えがちな思念と共に血反吐を零れ出すと、白竜はぐったりと息絶えた。

 その蒼く美しい、だが光無き瞳に見詰められながら、アステリオスは頭を振るう。

 解っている、解っている――解っている、と……

  J・O=ネルレラク 『未來の(フューチャー)プロメテウス』「例え何億回裏切られようと」



 そうしてヴィクター・ナイトは洒落込むと、見事《禿鷹》を打ち倒したのだった。



 ――頁を戻すのは勝手だが、無駄な徒労とお勧めはしない。容易い、呆気無い幕切れなのは認めるけれど、事実は一つだけであり、そこに疑念の余地等無いのだから。

 即ち彼は彼と出会い、彼は彼を制した――それで事態は由緒正しき云々、である。



 見渡す限り白タイルで覆われた地下空間での試験運用を、相対する自動機械(オートマトン)の半壊――算譜機械コンピュータが収められた頭部には一切手を付けずの、駆動部のみの破壊――で片付けたヴィクター・ナイトは、その時より、本格的な依頼従事へと乗り出した。

 彼の日常は概ね鍛錬と警邏に当てられた――昼間は摩天楼郡(ビルディング)の地下に篭もり、改造された肉体が何処処までの精度を誇るのか、多目的使役携帯端末(ドゥロスモバイル)第四型(タイプ・デルタ)とやらには他にどんな譜号(コード)があるのかを実際に試し、そして日が暮れ、空が薄紫に染まり出せば、彼はメアリを連れ出し、猛禽を求めて都市の路地という路地を巡り巡った。

 それら自体はある意味短調であり、変化も少なかったけれど、しかしヴィクターは、もとい、アステリオスの活躍は、至る紙面に飾られた――侍女が同業が市民達が何と言おうとも、事件がそこにあるならば、彼は介入せずには入られなかったのである。

 表面上は軽快に軽妙に、鼻歌交じりに譜号(コード)を打って変身すれば、太陽と月と星々の下、その改造を施された大いなる――根源(アトム)を統べる、とまでは流石に行かなかったけれど、しかし大したものであるのは間違いない――力を駆使して、並み居る悪党と、並み居る不良機械とぶらり戦い、その都度ヴィクターは、勝利の栄冠を飾った。

 やがて謎の仮面付きの噂は、市民達の間で持ち切りとなった――心燈(パイア)を持ち、声と態度から装甲の中身が男性であり、そして自称アステリオス(それがとある低俗(パルプ)雑誌(マガジン)に掲載されている小説の主人公である事は、直に知れた)である事の三つは判明していたが、それ以外は定かで無い為に、誰も数日前に起きた広場破壊未遂の乱入者と彼を同一視なんてしなかったけれど、それでも話題になるのは好ましいものでは無い筈である――が、しかし、エル=ゼノ本社から、フランク・レイニーから特に警告も来なければ、最早黙認気味となったメアリを引き連れ――変身し、それを解除する時になって知ったのだが、装甲は彼の内側から展開するもので、その際に放たれる熱により衣服は灰と消えてしまう、彼女が持っていた筐体鞄(スーツケース)の中身は、大半が彼の替りの衣だった――次第に自警批判の声を高まらせて行く警邏隊隊長を尻目に、ヴィクターは宵の口から夜の都へと飛び込んで行く。

 それが己の仕事であり義務であり本性であり役割である。

 ヴィクターはそう信じて疑わなかった――



 そんな日々が暫く続いた後、ヴィクター・ナイトは遂に《禿鷹》と遭遇したのである。

 この所は、もう少し詳しく語っておこう――事と次第は、結末は、何も変わりはしないけれど――一人と一機が、もう一人と出逢ったのは、例によって例の如くの薄暮れ時、何処にでもありそうな狭い路地の中でだった。

 周囲からは殆ど死角となっている上に、明かり乏しいという、襲い所としては実に優秀なそこを彼等が歩いていた時、不意を付いて、何かがばさりと落ちて来たのである。

 メアリの先を行く様になっていたヴィクターは、片腕でその歩みを制止させた。

 そして窺う――一瞬、それは塵か何かじゃないかと、彼は思った。薄汚れて黒ずんだ布切れ、継ぎ接ぎだらけの外套――だが、そこから木々生える様に腕が、脚が、背が伸びて行けば、現れたのは異形の人型で――ヴィクターよりも頭一つ小さな体躯を更に猫背と曲げていて、朽ちた翼の如く裾を垂れ流した腕先からは骨と皮ばかりの青褪めた左手と、鋭い嘴に似た、赤錆だらけの鉄の右手が覗いており、その顔は、頭巾付きの上に仮面――異様に高く突き出した鉤鼻の黒い仮面で覆われており、妖しげな呼吸音を上げながら、血走った琥珀(コハク)色の双眸を、爛々と輝かせている――その印象は鳥と案山子の間の子に見えたけれど、何にせよ、この企都(ポリス)に相応しい風貌では到底在り得ず、

「……次の獲物は俺、という訳かい……そっちから出て来てくれるとは、ね……探し回った甲斐があったのやら、無かったのやら、良く解らないな……」

 額から一筋の汗を垂らしつつ、ヴィクターはそう言うと、メアリへ向けて退がる様に合図する――その間、カタ、コリと言葉も無く右に、左に首を傾け、回している姿から一切眼を逸らす事無ければ、そっと懐から携帯端末(モバイル)を、彼のエルピスを取り出して、

「まぁ、それも今日でお終いだね《禿鷹》……嗚呼、そうさ、」

 お前を倒してお終いだ――そう呟き、ポォンポォンポォンと、【ρ͵(100)】の打鍵(キー)を素早く打ち終えるや、重心低く、殆ど這う様な姿勢で走り始めた猛禽へ向け、自分もだっと駈け出して――待機状態(スタンバイ)を示す水晶体(レンズ)の点滅が周囲を、真横の顔を紅く照らす中、彼は言葉を端末へと唱えた――何時しか羞恥等消し飛び、当たり前と出る様になった言葉を。

 即ち、

「――変身……っ」



 アステリオスと《禿鷹》の宿命付けられた戦いの火蓋が切って落とされた。

 けれど、傍から見たその様相は、宿命とは言い難い、いや、下手すれば戦いとも言い難い代物であり――邂逅の流れは、殆ど一方的に、ヴィクター・ナイトが握っていた。

 それは拳振るう彼自身、全く以て思いも寄らない展開だった。

 確かに、《猛禽》の動作は、恐ろしく素早かった。小柄である事を敏捷さに繋げ、巧みに近付き、華麗に退けば、まるで壁が床であるかの様に掛け上がり、と思った時には、本当に羽根があるかの如くに滑り降りて、カシャリと鋭く、前方へと突き伸びる機能の付いた金属の右手で持って、アステリオスの、ヴィクターの胸へ瞳へ襲い来る。

 が、しかし、《猛禽》のする事はそれだけなのだ。それだけで、しかも哀しいかな――と相対する側が考える程――彼の右手は、身体に張り付く薄い、だが確かに強固な黒い装甲に阻まれて臓器抉る事叶わず、所か、その表面に傷一つ付けられない。

 しかもヴィクターには余裕が、出していない技術が、まだまだまだまだ、山と遺されていたのである――例えば、強化された身体にとってやはり護身用等名ばかりの光弾(ブラスター)は、【ρϛ͵(106)】と打つ事で、威力を弾数に回した連射形式にする事が出来たし、【ρμγ͵(143)】であれば、弾丸では無く光刃を成す事が可能である。語尾に追加譜号(コード)を打ち込んでやれば、刃の形状だって思いのままだ。他にもあらゆる局面へ対応する為に、アステリオスの外見、形態そのものを速度重視、出力重視、その他諸々重視と、変更してしまう譜号(コード)なんてものもあり――これなら勝てる誰にも負けない、とヴィクターは、その与えられた諸機具(デヴァイス)を地下で試し、使い熟す様、訓練を重ねたのだ――まるで玩具で遊ぶ児童の様に嬉々として、である。

 ならばこそ、この《禿鷹》――この猛禽、この殺人鬼の弱々しさは、拍子抜けを通り越して落胆すら覚えてしまう程で――けれど大きく嵌め込まれた真っ赤な水晶体(レンズ)の下、鮮やかに緑な眼の前に、死者達の顔、顔、顔が、点在する星に似て浮き上がるならば、余力有り余らせても容赦等在る筈が無く――強者対弱者の印象は、更に強いものになって行く。

 と、そこで先に、殆ど、と付けた様に、一度だけ、優勢が揺らいだ瞬間があった。

 それは何十回目かの接触が、アステリオスの強固な受けからの一撃と、《禿鷹》のそれだけは見事な回避で終わった後の事――グルングルンと、距離を跳んだ猛禽が、行き成りその身を沈めてから、脱兎の如く走り出すや、ヴィクターは当然の如く迎撃の構えを取って――けれど彼は、眼の前の敵を完全に無視した。振り下ろされる拳から身を捻りつつも両脚は止まらず、ヴィクターの横を素通りし――メアリ目指して駆けて行く。

 はっとして、その狙いに彼が気付いたのと、甲高い悲鳴が上がったのはほぼ同時であり――振り向いた時には、遠くに離れていた筈の侍女の体が、眼の前に迫っている。

 ヴィクターに選択肢は無かった――だんと、混凝土(コンクリート)に跡を残しながら、彼は背後へ跳んで――軌道は、水平がかった放物線を描きつつ落ちて来る彼女のそれと重なり――

 諸共に地面へと叩き付けられながら、一人は一機の身をしかと抱き留めた。

 硬く結んだ腕をそっと開け、大丈夫かと問い掛ける――と、そこには照れも怯えも無いメアリが真っ直ぐ上目に見詰めていて、ヴィクターは思わず安堵の吐息を吐き出し、

『――……そんな事よりヴィクター様、奴が逃げますっ』

 瞳が見開かれると共に叫ばれたその言葉で、自分が先まで何をしていたのかを思い出すや、そう慌てて振り返る――見れば、既に《猛禽》の姿は遠く、遠く、路地の彼方であり、正に這々の体と、ヴィクターから、アステリオスから、脇目も振らずに腕を、脚を奮って必死と逃げている真っ最中で――その余りにも無残な姿に、無防備に晒された背中に、昂っていた戦意はがくり崩れ落ちそうになるも、十三人の人々を思い起こしてどうにか振るい立てば、メアリをそっと降ろして、彼は彼の後を追い掛けて行く――



 瞬間はこれで過ぎ去り、そしてもう二度戻っては来なかった。

 その後には落ちが――盛大で身も蓋も無い落ちが待ち受ける。

 走り、走り、走りながら、ヴィクター・ナイトは携帯端末(モバイル)を握った。やはり動作だけ速ければ、離れずとも近寄り難い《禿鷹》の背中を紅々と浮かび上がる両眼で追って――そこで視線逸らさずと打ち込む譜号(コード)は指が覚えてしまった【ργ͵(103)】であり、本当なら使いたくなかったけれど、しかしそうとも言っていられなければ、ざっと片脚を曲げ、滑る様に膝を付き、片腕を支えと端末の先端を、銃口を向け、路地を出た先の通り、心燈(パイア)電飾(ネオン)に寄って彩られた縦と伸びる夜景の元、揺らめく裾に狙いを定めて――

 そして、いざ引鉄を引こうとした正にその瞬間、《禿鷹》の体が、行き成り消えた。

 眼前から標的の代わりに夜の街並みが現れ、ヴィクターは端末を下ろす。

 正確に言うと、極限まで高められた視力に寄って、彼は猛禽が消える瞬間を目撃していた――だが脳は、変身前でも後でも変わっていない神経の中枢は、余りに信じ難い、唐突な光景に、その事実を一瞬飲み込む事が出来なかったのである。

 ヴィクターがアステリオスの真っ赤な眼を透して見たのは、《禿鷹》が遂に路地を抜けて大通りへと飛び出した瞬間であり――その横から、筐というよりも塊と、或いは壁と呼んだ方が適切に思われる運搬用自動車輌(オートカート)が現れ、その小さな体を轢き飛ばした瞬間であった。

 パン、という強烈な、しかし些か拍子抜けの音もまた聞こえ――

 暫くの間、彼は呆然と、その場に立ち尽くしていた――避ける暇も無ければ身を守る事も出来ずと、通り過ぎる車輌にぶち当たり、正に鳥と飛んで行った殺人鬼の影を頭の中で反芻する様に――が、直ぐに甲高い急停止音と共に人々の悲鳴が、ざわめきが耳に飛び込んでくれば、ヴィクターもまた再び動き出し、大通りへとその身を晒す。

 周囲には市民と車輌がごった返していた――人型も居ればそれ以外も当然と、素材も肉に鉄にと様々で、自前乃至車輪付きの脚を止めて屯していれば、アステリオスの姿も然程異様なものでは無く――時々指差され、意味深に囁かれながらも、彼は人集り掻き分け、その中心、油の様にどす黒い血を流しつつ仰向けに倒れている《禿鷹》へと近付いて行く。

 側には、手入れの行き届いているとは言い難い色合いの、鉄製の缶に手と眼と心燈(パイア)を付けた様な機体(マキナ)の市民が、耳障りな電気音で近くの野次馬へと声を張り上げていた――『俺ジャナイッテ、俺ノ粗製体(ポンコツ)ノセイナンダッテ』――けれど、そんな彼(多分)を黙らせる様に円筒状の胴体を押しやり、ヴィクターは《禿鷹》の前へとやって来た。

 その姿に、漸く彼が昨今話題の人物である事が判明して来たのか、視線が、指先が、ざわめきが一層と増し始めるけれど、しかしアステリオスは佇んだままである。

 紅くなった瞳に映るのは、死に体の殺人鬼――技術技能が擬似的な不死を齎した企都(ポリス)にあって、無辜の魂を、心燈(パイア)を、十と三つも永殺(テロス)した、恐るべき存在――である筈だけれど、とてもそんな風には見えなかった。この弱々しく息絶え、正に風前の灯火と心燈(パイア)だけを輝かせている者と《猛禽》、そしてその所業を一致させるだなんて、ヴィクターには到底不可能な事であり――交わされる声、声、声と混じって、力強い駆動音も上がっていれば、事実そうである様に、彼等の方が余程殺せる事だろう――在り得ない、在り得ないという想いも一杯と、自分でも意図せぬままに、彼はその片膝を付いた。

 そして、一目顔を拝めば納得もするかと、両の手を近付けて――

《とうとう尻尾を現したな、アステリオス――手を頭に跪け、お前を拘束する》

 物々しい脚音と共に、背後から声が響き渡ったのは、正にそんな時だった。

 ヴィクターは、そのくぐもっていても荒々しさが伝わってくる壮年の男性の声に覚えが無かった――部屋には投映筐テレビ演奏筐ラジオも無かったのだから――けれど、ズンズンと同様に続く駆動音はかつて聞いた事があり、はて何処だったか、と考える間も無く、群衆と代わって何機もの巨兵像(ギガント)――愛機にして敵機であったラドンよりも小型且つ小振りであり、白と黒の双彩色ツートーンをした装甲は嫌に軽そうではあったけれど、銘々、体格に見合った銃剣付き旋条銃(ライフル)で武装している――が周囲を取り囲むならば、答えは明白であると言わざるを得ず――何でこんな時に限って、と、彼は仮面の内側で表情を歪め、そう舌打ちした。面倒になる事請け合いだから、これまで遭遇しない様気を付けて来たのに、合わせてあちらも、その手際の悪さを存分に発揮してくれていたというのに……

《……ちょっとは余韻に浸ったっていいんじゃないかい、ビアース・ゴドウィン警邏隊隊長? お互い、ちゃんと逢うのはこれが始めてなんだ、水を差せる様な関係じゃないだろ……と、それに俺は、捕まる様な真似をしでかした覚えはないぜ、全く》

 少なくとも今世では――そう言うとも無く付け足しつつ、ヴィクターは、先の警告を無視して、すっくと立ち上がった。高低差僅かな動作でも動揺が広がれば、がたりと無数の銃口が向けられ、彼は、はぁと吐息を漏らす。彼等の、警邏隊の言い分は《クロウ=カサス》で良く知る所だったから、やっぱりな、としか思わなかったけれど、破顔一笑と、野太い笑い声が耳障りに木霊すれば、ビアースの意外な指摘がその後に続き、

《誰か一人が皆の邪魔をするか、邪魔になる事を罪と言う。お前相当俺等邪魔なんだぜ提灯野郎カンデラ……だが、そこは許してといてやるよ、何せ俺達は寛大だからな……だがアステリオス、こいつは駄目だぜ、え? 蕪湖の市民を害すなんて……心燈(パイア)は無事みたいだがね……とてもじゃないがぁ、見逃してなんてやれないね、なぁ、おい》

《おいおい、それは、》

 誤解だ、と返そうとして、ヴィクターは唇を噤んだ――本当にそれが誤解なのか、自分でも良く解らなくなったのである。視線を落とした先に倒れている小汚い男の素性を疑ったのは、疑っているのは、他ならぬ自分ではあるまいか……

《それが何だか知らないが、話はじっくり署で聞くさ……覚悟しろよ》

 そこで紡ぎ出される沈黙を同意と見なしたのか、ズン、ズンと脚音を響かせ、巨兵像(ギガント)達が近付いて来る――首を廻し、体を動かし、輪を閉ざそうと迫るそれらを見ながら、さてどうしたものかとヴィクターは考え――そうして猛烈な爆音が、排気音が包囲網の外でから迸れば、内なる思考より引き摺り出されて、彼ははっと顔を上げた――衆人も警邏隊も、誰もがそうである様に――動きを止めたままに、音の出処へと瞳を向ける。

 鉄と鉄の格子をヴルルンと抜けて、道の彼方にヴィクターが垣間見たのは、一台の自動二輪(オートサイクル)だった――黒く鋭利な体躯の前に、双眸を思わせる切れ長の灯光を紅々と宿し、車体の右側には側車(サイド)が、形成も色彩も本体同様に備え付けられている――乗り手の顔こそ、黒い覆いの兜で覆われ、見る事は叶わなかったが、しかしはためく白いエプロンドレスは、容易に、少なくとも彼にとっては容易に正体を伺わせるものであり――それが風を切り、音を超えて、人間と機械と車両の間を抜ける様に大通りを突っ走って来るならば、立ち尽くしたままの警邏隊を尻目にヴィクターは混凝土(コンクリート)を踏みしめて――

 捻りを加えながら宙を跳び、脇を通り過ぎようとする二輪の側車(サイド)へと飛び乗った――と回りが気付いた時には既にしてその影は遠く、来た時と同じ速度で去っている。

 一瞬の間の後に《何をぼさっとしているさっさと行け》なんて怒声が上がるや、巨兵像(ギガント)達は慌てて脚部内臓の車輪を繰り出し、白い裾を追い掛け始める訳だけれど、地力に加えて先行時間が重なれば、距離は縮まるどころか、刻一刻と離れるばかりで――

《助かったよメアリ……そういえば、こいつを使うのは始めてだったな》

 側車(サイド)の中で身を捩りつつ、後ろへ、後ろへと徐々に見えなくなって行く巨兵像(ギガント)を眺めながら、ヴィクターがそう言うと、メアリは前傾姿勢のまま、兜越しに顔を向けて、

提供者(スポンサー)から一言御座いまして……専用の算譜機械コンピュータまで載せたのだから、一度位は活用してくれ、と……恐らく、この機を逃せば、二度と使う事は無いでしょうから……勿論、貴方が私を無視して《禿鷹》を仕留めれば、その前にお蔵入りだったのですけれど……』

《誰が誰を無視出来るって? ……いや、そんな事はどうでもいい、か……》

 その視線を、仮面越しに見返してから、ヴィクターはぐたり座席の中で姿勢を崩す。

 実は操縦卓ハンドルを握られているだけの、体を預けられているだけの二輪が、与えられた思考範疇の中で、ヴルル、ヴルルと咆哮を上げながらに次から次へと車輌を追い抜いて行くのを感じつつ、彼はカシャリ、アステリオスの仮面を外し、

「では、これで終わった訳だね……俺は、猛禽を仕留めた訳か……」

『ええ勿論その通り……おめでとうございます、ヴィクター様』

「……どういたしまして、メアリ」

 侍女の言葉に、そう力無く応えるのだった――光り無き兜をぐてっと高速で流れる地面に近付け、もう一方の手で汗ばんだ顎鬚を、硬く結ばれた唇と共に撫でながら――



 ――こうして責務は、二度目の生の目的は、見事に成就を見せたのである。

 自足する人々にこそコングラッチ幸福は属すのである(ェレーション)、ヴィクター・ナイト。

 そう、それは変わらない、何一つ変わらない事実という奴である――彼が、ヴィクターが、そこに微塵の納得も見出せなかった事は、付け加えて置いた方が良さそうだが。

 それは追手を切り抜け、繁華帯(アゴラ)の中の隠れ家――まさか警邏隊も、こんな渦中に居るとは思っていまい、なんて言う事は、度重なる逃亡の末に判明している――に辿り着き、アステリオスとその他諸々の提供者(スポンサー)、フランク・レイニーからお褒めの言葉を授かった後でも、それこそまるで変わらぬ感慨だった――それ自体は始めて聞く、だが態度に寄って、携帯端末(モバイル)越しでも誰だか解る声を耳にすれば、寧ろ増して行く一方で――



 ――やぁ、ヴィクター・ナイト、久方ぶりだな、元気にしているかな……


 ――お陰様で、ぴんぴんしてるよ、フランク・レイニー……あんたは、余り元気が無さそうだな? まるで年老いた……失礼、それがあんたの普段()だったっけか……


 ――そういう事。いぶし銀と思わないか? ヴィクター……


 ――声だけは、ね。だが喋り方があんた丸出しだぜ、フランク……


 ――手厳しい事を言うなぁ君は。心燈(パイア)が一緒なら、思考も一緒。そうだろう……


 ――悪いね、そういう性分で。ま、そんな事は解っているよ……


 ――いや、いいさ、解っているならね。ともあれ、では本題に移ろうか……


 ――そうしようかい。全く、通信費用も安くあるまい……


 ――本社に費用なんて無い様なものなのだから気にするな……メアリから、そしてさっき投映筐テレビで知ったよ。《禿鷹》を倒してくれたね。おめでとうそしてありがとうっ……これで企都(ポリス)の平和は護られた……全ては君のお陰だ、本当に感謝するよ……


 ――これは一度言ったけれど、もう一度言っておくね……どういたしまして、フランク。だが、捉える事は出来なかった。奴さんの身柄は、警邏隊の所かな……託宣(ニュース)じゃ、一体どう言ってるんだい? 生憎と、こっちは這々の体で逃げて来たばかりでね……投映筐テレビなんて便利なものも、ここには置いて無い訳だし……


 ――ははぁ、君の暮らしは質素だったからな、これが終わったら物を揃えて見るのも悪くはあるまい……それでは質問に答えよう。確かに君の活躍は大いなる誤解を産んでいる様だ……嘆かわしい限りだよ、アステリオスの名が堕ちるのは。だがしかし、英雄に中傷は付き物さ、ヴィクター、気にする事は全く無い。仮令誰が何と言おうともに我々は、君がどれだけの骨折りをしてくれたかを、存分に知っているから、ね……


 ――それはどうも、フランク・レイニー・エル=ゼノ社長……


 ――もっと喜んでくれて良いのだよ、我等せいぎ英雄みかたよ。嗚呼、それと《禿鷹》の身柄だが、確かに警邏隊が確保している様だ。後で遣いを出すとしよう。重大事件の重要犯人だ、本社直々と扱わねば行くまい……粗雑に扱ってくれて無ければ良いが、ねぇ……


 ――……フランク、その《禿鷹》について聴きたい事があるんだが……


 ――嗚呼、メアリが言っていたね。アレの強さについて、だろう? ヴィクター……


 ――そう、そいつだ……あいつは、びっくりする程弱かった。猛禽どころか、ありゃ雛鳥だ。で無けりゃ病気持ちの……誰だってあんなのが十三人も手に掛けた殺人鬼とは思わないさ……俺だってね。なぁおい、あいつは本当に《禿鷹》だったのかな……


 ――質問を質問で返す非礼を許してくれ給え、ヴィクター……もし君がアレを《禿鷹》で無いと思うならば、その無法者は何だと考えるね? 時間もぴったり場所もばっちりと襲い来る……加えてその外見と来たら……おぉ、何とおぞましい姿の事かっ……


 ――……悪いねフランク、それを言われると、答えに窮すしか無いさ……


 ――そうだろう、そうだろう? 詰まる所、君が感じているのは負い目なんだよ、ヴィクター。余りに簡単に済んでしまったものだからね。だがそれは、我々の技術と、君の心燈(パイア)が、実に素晴らしいものだった証左でもある……念には念を入れた結果が、度を超えてしまったというだけに過ぎんよ。何、気に病む事なんてまるで無いさ、ヴィクター。もし仮に……仮にだよ? アレが《禿鷹》で無かったとしても……君は一つの悪を制したんだ。その事実は、胸を張って誇るに足る代物だよ、間違いない……


 ――ならいいが……そうそう、それで俺はこれからどうしたらいいのか、な?……


 ――いや全く……うむ、過ぎ去った事は忘れて、これからの事を話そうか。君は我々の期待に応え、目的を成し遂げてくれた。君が誤って手に掛けてしまった心燈(パイア)と、アレが不当に手に掛けて来た、そして手に掛けて行くだろう心燈(パイア)の数を思えば、その働きは、君の大罪を清めるに十二分のものである。寄って、我々は君への恩赦を完遂する。君に与えた物一切はそのままに、今回の報酬として相応の額を与え……それから、君が喉から欲していだろうものを惜しまず与える。君は自由だ、ヴィクター・ナイト……


 ――……自由……


 ――嗚呼そうだよ……もう一度言おうか? 君は自由だ、ヴィクター。先に言った仮でも無い限り、我々から関与する事は最早あるまい。再出発としては些か手間取ってしまったが、何、死は遠く、在るか無いかの代物さ。これからは、その有り余る時を、君の好きに生きるがいい。アステリオスの汚名を返上し、再び人々と都市の為に戦うも良し、或いは、他に何か仕事を見つけたって構いはしないさ。選択は無限だよヴィクター……何を戸惑っているね? 自由は、勇者が最も欲するものの筈だがなぁ……


 ――……いや、えぇと……何だろうな……嗚呼そうだ、メアリはどうなるんだい……


 ――ソレについては君の一存に任せようヴィクター。その自動機械(オートマトン)に関しても、君に与えた物一切の内の一つだから、ね……こう言っちゃ何だが、美しい人形だろう、メアリは? サンドアイズ社の器造りは芸術の域だからな。当然、中身まで完璧さ、愛でて良し、食べて良しだよ、素晴らしい……まぁ、君が気に入らないというのなら仕方が無い。家の前にでも出しておいてくれ給え、業者が回収してくれる事だろう……


 ――……あんた、もしかして巫山戯てるかい?……


 ――いいや全く……どうやら君は人形愛好家(ピグマリオン)の気があるらしい。否定はしないが、お勧めもしないな。心燈(パイア)も無い輩に入れ込むのは、人として健全とは言い難いよ……


 ――放っといてくれよ社長? 選択は自由そして無限……そうじゃないか?……


 ――これはこれは……はは、確かにね。私が悪かった、許してくれヴィクター……


 ――いいや全く……気にするなって、フランク、お互い様だろう?……


 ――そう言ってくれると有難いね……と、では済まないが、そろそろ切るよ。改めて言うが、本当に感謝してるんだヴィクター……君の前途に、灯が在らん事を……


 ――そちらこそ、フランク……あー……あんたの前途に、灯が在らん事を……



『……社長は、何と仰られておりましたか? ヴィクター様』

 そして携帯端末(モバイル)の引鉄を前へと押し、思わず吐息を漏らしながらヴィクター・ナイトは、そう一心と、変わらぬ表情で見詰めてくるメアリに向く事無くに唇を開けて、

「大した事じゃないさ……俺は用済み好きにしな、と……」

 答えてから、そして君も、と付け加えそうになり、ぐっとその言葉を飲み干し、

「とりあえず……何も変わらないかな。何も、変わらない……これまで通りさメアリ」



 ――けれど、実際の所そうでは無く、ヴィクター・ナイトは自由を持て余していた。

 フランク・レイニー曰く、それは勇者が最も欲するものであるらしいが――しかしヴィクターは勇者では無い。未だ半信半疑のままの十五年前ならば兎も角――ただしその一端には、自ら引導を渡してしまっている――今の彼は、莫大な資金と、過ぎたる性能と、ただ一つの霊魂を持った、迷える一人の企都(ポリス)市民、自動機械(オートマトン)の主人でしか無い。

 そして良く良く思い返して見ると、数週間前に目覚めてから、彼はこれまでろくに先の事を、未来の事を考えては来なかった。その最初の一瞬からして、メアリが居てフランクが居て、そして《禿鷹》が居て――エル=ゼノが在ったのである。まずはこの企都(ポリス)の為、猛禽を打たねばならないだろう――そんな想いが、指針が先行して来たのが当たり前の状態だったならば、突然無くされても戸惑いしか感じない。

 しかも弱った事に、ヴィクターには当分の間――それが百年先か、二百年先か、更にもっと先なのかは定かではなかったけれど――今の生活を楽々送って行けるだけの資金を、エル=ゼノ本社から与えられていたのである。携帯端末(モバイル)を通して数字記号(イオリア)を投影してから、そこに込められた意味合い、つまり何が一体どれだけのお値段であるかをメアリに聞いた時、帰って来た答えに、度肝を抜かしてしまう程の――フランクはそれを相応の額と称したが、しかしヴィクターにはとても信じられない程の額を貰ったのだ。

 人生に置ける大局的目的も無ければ、労働の必要も無いという状況に置かれ、さてどうしたものかと、ヴィクターは困惑する――未来が駄目でも過去ならば、と言いたい所だったが、しかしピンボケな頭は未だに十五年前の自身を浮かべてはくれず、今ここに居るメアリはと言えば、正しく彼の一存で、返って来るのは紫水晶(アメディスト)の瞳ばかり――

 ヴィクターがその日々を無為に過ごし始めたのも、宜なる哉、という所であろう。

 《禿鷹》を下したその翌日から、彼の日課は変わった――昼間、専ら赴いていた地下試験場は、最も縁遠い場所と成り、代わって、喫茶店(カフェ)簡易食堂(タヴェルナ)、そして広場が、太陽降り注ぐ彼の馴染みの場と化した。ぶらぶらと当て所無い散歩に繰り出せば、機体(マキナ)用の蓄電槽と並んで供される、実に美味しそうに盛り付けられた料理の写真付き合成材食――シャキン、サキンと歯応え充分過ぎる、白く濁った棒状の未加工品――の、方向性だけはばっちりな、だが外見と感触はやはり料理の要だと痛感させられる味わいを堪能し、人造珈琲の化学的な芳香でぐいっと洗い流す、もとい、後味を上塗ってから、今にしてその手間暇が解ってしまった――それでも慣れた訳では、認めた訳では決して無い――メアリの夕食が出来上がる時まで、広場の長椅子にでんと横たわり、人目も憚らぬの昼寝か、《クロウ=カサス》含む低俗(パルプ)雑誌(マガジン)の読書へと勤しんで行く――

 そうして薄暮れ時が音も無く近付き、夜の帳が天を覆えば、見た目も噛み応えも完璧な、しかし何処かでやっぱりおかしいメアリの料理を堪能したヴィクターの舞台は、繁華帯(アゴラ)の大通り、電飾(ネオン)心燈(パイア)に彩られた人々の活気溢れるものへと変わって行って――悪辣な煙と揶揄される煙草(と、おまけに点火器(ライター))は、やはり手に入らなかったけれど、酒と女は、ちょっとうんざりする程転がっている。その二つが醸し出すシャトー・(デュ)ジュン()ヌの守護(ニソ)企神()の宴が具合は、当たり前の様に管理、運営されたものではあったが、しかし陶酔出来る事実には変わりなく、ちびりちびりと模倣果実酒レッシナ啜りつつとヴィクターは、形成された神聖巫女(オラクル)の群れへと招き寄せられ、覚束無い前世の記憶がままに、ふらふらゆらゆらと手を伸ばして――幾度目かの呆然が自失を迎える頃には、天井は見覚えのある白漆喰に、巫女は電気仕掛の侍女になっており、何の奇跡か、グラスの中の酒すら何の変哲も無い人口水と変わっていれば、軋む頭はそれを欲し、合わせてぐいと空にする――

 これがヴィクターが送る毎日であり、その昼と夜との繰り返しの中で、彼の秘められた力が、アステリオスが出る幕は余り、いや、殆ど無いと言っても過言では無かった。

 少し距離を置いて始めて実感出来たのだけれど――自分の体だってそうなのだから、これは迂闊としか言い様が無い――心燈(パイア)化した市民は実に死に難かったのである。

 勿論心燈(パイア)を破壊されればそれまでだが、しかしそんな事は、誰も彼もが知っている事実である。胸部の造りは強固なものだし、その立ち振る舞いも自然と心燈(パイア)を護る動きが身に付いて行く。貧弱と罵った《禿鷹》すらそうだった様に、自動車輌(オートカート)に轢かれたり、全身を強打したりする位では――もっと極端に言って、四肢を切断されたり、頭部を粉砕されたり、内臓を抉られたりする位では、彼等はびくともしないのだ――勿論それは生体(ヴィオス)での話であり、機体(マキナ)ともなれば、正に言わずもがな、である――その際に生じる苦痛は不快には違いないが、しかしそれだけであり、心燈(パイア)が脅かされる事は稀と言って構うまい。

 だからこそ、猛禽が十三人の心燈(パイア)を手に掛けたのは異常であった――あくまでそこが焦点であり、屍体の散乱は二次的なものに過ぎない――訳だけれど、しかしフランクが認めた所の犯人が捉えられた事で、そんな凄惨な事件もぱったりと途絶えてしまっている。こんな状況なら、都市の治安は警邏隊だけで充分で――実際これまで充分だったのだ。確かに、その行為は遅々として進まず、その癖、傍目の損害も酷いものだったが、中身まで、心燈(パイア)まで損害を与えない、与えさせないという意味では警邏隊の活躍は一貫しており、その評価も一定のものを保っている。外見まで気にし、不可欠では無い介入を行って来たヴィクターの方が市民からすれば風変わりで、それ故に話題と上がっていたのである――猛禽がそうであった様に……。

 ならばこそ、《禿鷹》の消えた今となっては、その対抗者たるアステリオスの存在も消えざるを得ず――と同時に、その気概すら、ヴィクターの中から消え掛けていた。

 その原因は直接的というよりも間接的なものであり――エル=ゼノ社の長から、自身を『人形愛好家(ピグマリオン)』と評されて以来、彼はますます持って、市民達の自動機械(オートマトン)に対する態度が、或いは、自動機械(オートマトン)の市民達に対する算譜が、気になって仕方が無くなっていたのである。

 殆ど同じ姿なのに、同じ態度なのに、心燈(パイア)の有無に寄って価格が変わる巫女に、心付けすら貰えない給仕達――道行く人々、そして店々の前から放たれる、人型生体(ヴィオス)乃至人型準拠である事のさり気無い自負――辛辣な皮肉を、批判を交えながらも、その実、こちらの意を常に伺い、その行動に反映している紫の瞳――そして無造作に踏み潰され、誰にも顧みられる事無いまま、同属に回収される運命を待つ、虫型公衆清掃機械――

 それらの様子は、縦令陽光に呆けていても、酒気と淫気に溺れていても、まるで変身した時の様に視界の、意識の何処かに引っ掛かって取れず――混凝土(コンクリート)の上で平たく伸びている機械の残骸を見る度、ヴィクターはこう思い出さずには居られなかった。

 即ち――広場での巨兵像(ギガント)騒動の時、石畳は数えられ、この機械は上がらなかった。誰も何処も、こいつを損害とすら考えなかったのだな、と――何故瑣末な、正しく虫けらの様な機械に対してそんな風に思うのか、自分でも良く解らないままに――



 こうしてヴィクター・ナイトは、自己と周囲の両方に対して悩みを抱き、答えを出す事叶わぬままと、ただただ在るがまま、無用のままと、その時を消化していった。

 はっきり言ってそれは、仔細に書く必要も無い日常であり――もし、このまま何事も無く続くならば、物語はここでお終い、由緒正しき云々と締めるべき所であったろう。

 だが結局の所、運命は、彼を放っては置かなかった。

 転機が訪れたのは、太陽も後は沈むばかりとなった昼過ぎ、今となっては先の事件の痕跡なんて何一つ残ってはいないあの広場にヴィクターが赴いた時の事で――何時もの様に、美味には違い無いが味気無い食事を公衆食堂タヴェルナで済ませた後、他の市民達の中に混じって、お気に入りの長椅子に座り、《クロウ=カサス》の頁を捲っている所だった。

 その雑誌(マガジン)の過半はくだらない託宣(ニュース)が主であったけれど、しかしそんな所に興味は無い――何時の間に撮っていたのだろう、倒れ込んだ《禿鷹》に歩み寄るアステリオスの姿が眼に入れば、記事も確かめずに頁を捲り、捲り、捲って行き、辿り着くのは最後も最後――白地に黒字と刷り込まれた、『未來のフューチャープロメテウス』の頁である。

 単彩モノと描かれた扉絵は、何時もの少女も居なければ正方形も存在しない、ただ焔だけが描かれたものであり、相変わらずの流暢な筆使いを一頻り堪能してから、さて、あれからどうなっただろうか、とヴィクターは、打ち刻まれた文字へと眼を落として行く。

 自分でも不思議ではあったが過去の号を取り寄せる程にのめり込み、すっかり愛読書と化していたこの作品も、気付けば佳境に突入していた――前回の挿話では、最初期よりその存在を仄めかせつつも一向に姿を見せなかった、全ての竜を司る王テュポンが遂に現れ、その圧倒的な力で企都(ポリス)を壊滅状態に貶めるという絶望的な流れの中、我等が主人公アンリ・カンデラがその正体を、自分こそが光の巨神アステリオスである事を恋人に打ち明ける、正にその瞬間までが描かれており、実に良い所で寸止め状態にあっていれば、今か、今かと、最新号が出るのを彼は待ち遠しにしていたのである。

 そうして声も無くと読み始めれば、止まっていた時は動き出し、恋人は、扉から物語へと入っていった少女は、一瞬の間を開けてから微笑みを浮かべると、知っていたわ、とアンリに取っては意外な、ヴィクターに取っては予想通りの台詞を漏らして、彼の口元をにや付かせると共に、文字を追う速度を早めさせ――脚元にくんくんと、金属質の固い感触が触れて来たのは、それから暫くしてであり、ヴィクターは雑誌(マガジン)を脇に、視線を向けた。

 そこに居たのは、一匹の、いや一機の子犬型自動機械(オートマトン)だった。光沢のある銀色の外殻で意匠化した頭部と四肢が覆われている様子は何処か覚えのあるもので、向けられる紅い単眼と揺れ動く尻尾を見詰めながら、はて何処だったろうかと彼が首を傾げた時、

「ヴィクターっ」

 そう己が名を呼ばれて顔を上げるや、こちらに寄って来る一人の女性と対面する。

 思わず、声を出したのは、ヴィクターと彼女、両方共だった――何処にでも居そうな――実際この広場にも同型がいる――愛玩機械(ペット)だけでは解らなかったが、女性の驚きに開かれた濃褐色(ブラウン)の瞳と向き合えば、この出会いが再会であるのは自明の理であり、

「貴方……前に、ここで……その、私達を助けてくれた人、ですよね?」

「ああ、うん……その人で間違いは無い、よ……まぁ、最後の最後で気絶しちゃったから、助け切ったとは言えないがね……無事だった様で、何よりさ」

「いえそんなっ……こっちこそ、ちゃんとお礼も言え無くて……その節は、ありがとうございました。貴方が居なかったら、一体どうなっていたものか……」

 そう言って畏まり、本当にありがとうございました、なんてお礼を述べる女性へ、ヴィクターは慌てて立ち上がれば、いやいやとばかりに頭を振るう。正体を隠しているとは言え、アステリオスでの活動ですら、こんな風に感謝を述べられるはしなかった――皮肉と非難と好奇の言葉ならば、直接でも間接でも、嫌という程貰った――し、あの時は無我夢中で、殆ど何も考えてはいなかっただけに、何とも気恥ずかしい想いばかりが先行するが、それでも嫌等ある訳が無く、ヴィクターは思わず綻ぶ口元を手で覆って、

「所で、何であんた、俺の名前を知ってたんだい? 確か名乗っちゃいない筈だが」

「え? ……名前、ですか……?」

「嗚呼そうさ……『ヴィクター』って、さっき言ってなかったっけか?」

「あ、ああ……貴方ヴィクター、さんと……すみません、違うんですよ」

「何だって?」

「この子……この犬の名前が、ヴィクターなんです。奇遇ですね、一緒だなんて」

 そして、ヘッ、ヘッ、と舌ベロ代わりに単眼を点滅させているもう一機のヴィクターを抱きかかえながらに返って来た女性の言葉に、ドクリその心臓を高鳴らせた。

「へぇ……そう、なのかい」

 等と応えながらも、だがヴィクターの心音は昂ったままで、その鼓動が耳に木霊すれば、それが余計に彼の不安を、動揺を、疑問を誘う――実際何故ここまで心揺り動かされるのか、彼自身不思議だった。別にヴィクターなんて名前、珍しくも何とも無いだろうし、それが犬の模造品に付けられていたって、構うものでも無いというに……

「はい、私の兄も同じ名前で、寧ろそこから……奇遇と言えば、そこも、ですね」

 ある意味では、この時点で何か察していたのかもしれない――そうヴィクターが、自省に耽っている間にも、女性は言葉の先を紡いで行く――銀色に煌く毛並みを撫で摩りながら子犬を見守るその視線は、何処か遠く、別の何か、或いは誰かを見詰めていて、

「……そこ?」

「貴方の見た目、ですよ。最初に会った時、ちょっとだけ驚きました、余りに兄そっくりだったんですから……おかしいですよね。眼の色が違いますし、髭だって生えてなかったですし……別に外見なんて、幾らでも変えられたりするっていうのに……」

「それはまた……聞いて良いか解んないけど、その兄さん、っていうのは、今?」

 波打つ黒い髪の元で、印象的な光を帯びた瞳に招かれた彼は、自身より眼を離しつつ、そう彼女へと問い掛ける――ドクリドクリと、血潮の寄せる音を背景に、意味も定かでないこの不安定さから少しでも逃れようと、顎鬚へとそっと掌を寄せながらに、

「あ、や、別に死んだりなんてして無いですから、ご心配無く……筈、ですけどね。良く解らないんですよ、数年前にエル=ゼノを飛び出して、それっきりなんで……」

企都(ポリス)を、飛び出した?」

「えぇ。全く困った兄で……俺はこんな一つの企業になんて縛られない、世界市民(コスモポリタン)になってやるんだぁ、って突然言い出して……あの、私、何か気に障る事を?」

「いや、そういう訳じゃないさ……ただちょっと……腑に堕ちた、ものでね、」

 そこで示された答えは、問い自体適当な、誤魔化しあってのものだったのに、意外や意外、ヴィクターの内面に深く合致する代物で――企都(ポリス)を出る、そういう選択もあるのかと、彼は密かに、眼から鱗を落とした。《禿鷹》の件が消化不良であった所為か、そんな考えに至りもしなかったけれど、だが別に、エル=ゼノが唯一無二の都市――世界である筈が無いのだし、外への扉だって閉ざされている訳では無いのである。行こうと思えば何時だって行けるのだ、此処以外の何処かの場所へ――成程成程、と彼は独り、そう唸り声を漏らす。気が付けば潮騒は遠く、彼方へと引いていれば、ヴィクターはしたりと頷いて、

「……そうだな。《禿鷹》ももう捕まったんだ……君の兄さんを真似たっていい、か」

「……ハゲ、タカ? ……何ですか(・・・・)それ(・・)?」

 そして転機が、驚愕が、稲妻となって彼の身を貫いた。

「……え?」

「あ……えっと、すみません、変な事を言っちゃって……」

「いやいや全く、変じゃないよ……だが、ちょっと教えて欲しい、んだがね……君は《禿鷹》を知らないのかい? 鳥の事じゃなくて……いや、確かに鳥の事ではあるんだが……その殺人鬼の事だよ。十三人もの心燈(パイア)を砕いたっていう……今、話題の……」

「あの……そう、ですね。私が世間に疎いからかもしれないですけど……でも……はい、聞いた事無いです。そんな恐ろしい犯罪者が……話題、なんですか?」

「……そういう事になっている……らしいね」

 少なくとも俺が聞いた限りでは、とヴィクターは、不安げにこちらを見る女性を見返しながら、唇一文字とそう付け加える――怒涛の如く心臓が脈打ちを再開するのが自分でも解ったけれど、どうした訳か、頭の中は異様なまでに冴え渡っており、彼女の返事も、仔細無く受け取る事が出来れば、彼は目覚めてからこれまでの記憶を思い起こす――決して短い歳月で無ければ、それは多岐に渡ったけれど、だが要点は一つに纏める事が出来た。

 ありとあらゆるものへ烙印された、とある記号に――

 それが連想させずには居られない、とある個人に――

「あ、あの……ヴィクター……さん? どう、されましたか?」

「……ん、いや別に、何でも……そういえば君の名前、まだ聞いていなかったね?」

「え? あ、あぁ、はい、メアリと言います、が……」

「……メアリ、ね……嗚呼メアリ、こちらからも感謝するよ。君のお陰で色々腑に堕ちた……堕ち始めた、って所かな? まだまだ良く解ってはいないんだが……でも、目標というか目的というか……指針は見えたよ。ありがとう、本当に君のお陰さ」

「はぁ……どう、いたしまして?」

「いや全く……それじゃ俺はそろそろ行くよ。御機嫌ようメアリ?」

「あ、はい……御機嫌ようヴィクターさん」

 そうして覗き込まれる茶色の瞳のその奥に、感情を失った自分自身の顔が映っていれば、ヴィクターはにやりと笑みを浮かべながら――けれど翡翠(ヒスイ)の眼まではどうしても変わらなくて――読みかけの《クロウ=カサス》を棒と丸め、大通りへ向けて歩き出し、

「と、そうそうもう一つだけ、聞きたい事があったんだが、いいかな?」

「? ……ええ、はい、どうぞ?」

 その途中でくるり振り返り、不思議そうに視線を送っていたもう一人のメアリと、合わせて尻尾を振るっているもう一機のヴィクターを見返してから、彼はこんな事を尋ねて見た――何故かは知らないが尋ねなくてはならない、そう感じた問い掛けを……

「ヴィクター……君の兄さんの方のヴィクター、だがね……眼の色が違うって、メアリ、彼も君と同じ眼をしていたのかな? その、君みたいな琥珀(コハク)色の瞳を……」


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