β.文化英雄は仮面がお好き
自由か死か、それは往々にして重要な問題である。
己がままに生きられぬと知った時、勇者であれば、後者を選ぶ事だろう。
けれど、助けを呼ぶ命は、その問題に解答を、行動を与えてくれる。
躊躇は無かった。
天高く端末を掲げると、彼は勢い良くその起動鍵を押したのである。
J・O=ネルレラク『未來のプロメテウス』「帰って来た虚空の恐竜」
♃
そしてヴィクター・ナイトは、夢を見た……様な気がした。
そこに確信が持てないのは、夢が余りに膨大な心的情景の塊として眠りの中に押し寄せて来たからで、一つ一つなんてろくに覚えていなければ、しかしそれはまるで現実の様に捉えられ――ドリーム・オピウム企都が提唱している様に――十五年ぶりの覚醒による雑多な情報を、有機的算譜機械である頭脳が処理しようとしているのか、昨日実際に見た者、物が大挙して現れたのが、その印象を加速してくれる。
例を上げて行けば、夢に出て来たのは摩天楼郡であり、心燈であり、電灯であり、自動車輌であり、シャワーヘッドであり、守護企神であり、自動受付嬢であり、青タイルであり、自動機械であり、フランク・レイニーであり、メアリであり――
それらがどの様な風だったか、自分はどうしたのか、なんて事は殆ど覚えていない。ただ、そういうものがあったと、消し炭の様に記憶の片隅に残っているだけである。
と、しかし一つ、たった一つ、鮮明に覚えている光景があった。
それはヴィクターが目覚めの半日の間に見聞きしたものでは無かった――何が想像を喚起させたかは明らかだが――それは荒野の風景だった。何も無い、何も居ない、岩と砂ばかりが続いて行く地平に、どんよりとした雲が立ち込め、黄ばんだ色合いで覆われている空――と、そんな天と地の間に何時の間にこそ現れたのが、彼の猛禽であった。
文字通りの一羽の禿鷹――造形自体はそれこそ何の変哲も無い鳥に過ぎなかったけれど、その縮尺はちょっとばかり桁が外れており、身の丈は大の男を軽く超えている。翼を畳み、岩の上に鉤爪を降ろし、背を曲げていてもそう見えるのだから、これが空を飛んでいたらどうなる事やら、という心配はしかし当分する必要は無さそうで、鷹は今、目の前の餌を貪る事に集中していた。彼が朝餉なのか昼餉なのか夕餉なのかは定かでは無かったけれど、その鋭い嘴に啄まれ、チュルチュルと腸をほじくり出されている無残な屍が自分自身である事を――外見的特徴の共通点は一切無いのに――ヴィクターは何故か知らないが知っていて、と、その時、ごろりと死体がこちらを向けば、光無き濃褐色の瞳が翡翠の瞳を覗き込み――そこで彼はかっと瞼を開け、がばりと上半身を起き上がらせたという訳である。
今のは夢か現か幻か――そう汗まみれになった胸元を押さえれば、心燈はそのままに、心臓は高々と脈打っていて、ヴィクターは吐息が荒くなっているのを感じるが、そこで小気味良い音と共にカーテンが開かれ見ると、淡い光を背にメアリが立っていて、
『お早う御座います、ヴィクター様……朝食の準備が整いました』
♃
この誘いを、ヴィクター・ナイトは素直に受けた――定かで無い夢は定かで無いまま、薄れ行くままに任せて――汗ばむ肌が気に触れば、先に冷たい水滴を全身に浴び、汚れと共に眠りの風景もさっぱりと洗い流し、それから食卓へと席に付いた。そこには既に朝食が並べられていて、朝餉、と、彼のどうもまだしっくりしない脳は、最後の一片を揺り起こしかねるが、それを抑えて、ヴィクターは食事を開始し――
「……なぁメアリ、これは何だ?」
半ばまで皿を片付けた所で、思わずそう口にした。
『……お口に合わなかったでしょうか?』
呼ばれてメアリは顔を出し、食べ掛けの食器をぐるり見渡してからヴィクターへとその視線を向けるが、彼はいやいやとその首を横に振るう――これまた十五年ぶりとなる朝食、もとい食事は、お口に合わない所か、実に美味なものだった。パンにサラダに肉にチーズに、と、単純で素朴な献立ではあったけれど、それだけに単体での味わいが良く解って――だからこそ些細な、だが確かな違和が嫌でも感じられてしまう。
何と言うべきか、どれもこれも正しくその食品なのだ――パンはパンであり、味も見た目も感触も匂いも何もかも、パン以外の何物でも無い――だがしかし、何か、何か本質的な所で、それはパンでは無い別の物に思えて仕方が無いのである。まるで得体の知れない何物かが、必死にパンという存在そのものを騙っている様な――その感慨は、サラダも肉もチーズも同様であれば、喉に刺さった魚の小骨の様にどうしても気になってしまい、一向に腑に落ちる気配を見せない。傍らに置かれたオレンジジュースで洗い流そうとしても、それすら違うと感じてしまうのだから、疑問を呈するのも致し方無く、
『それはまぁ……厳密に言えば、全て合成食材な訳ですからね』
そうしてそれはメアリの一言、たった一言によって、物の見事に解決される。
「合成食材ぃ?」
その耳に馴染まない単語に、ヴィクターが片眉を釣り上げつつそう唸ると、彼女は、はい、と首肯してから、最早馴染みと化した憮然たる表情を浮かべて、
『非合成食材の栄養価なんてたかが知れておりますし、手が入れられていない分、危険ですから。無論の事、そのままの形状では食欲が削がれるというのは、重々承知しております故、少々手の込んだ形質で出しましたが……いけなかったでしょうか?』
「いけないも何も……あぁ……まぁ、いいんだが、さぁ……」
ヴィクターも顔を顰めてからに不満を述べようとしたがしかし、途中でお茶を濁すに留めた――基盤が、土台が確固としたもので無ければ、後が続かない、なんてのも、もう大分お約束であり、彼はフォークで串刺しとした肉の一切れをじっと眺めながら、
「……故郷のまともな料理が恋しくなるね、本当に……」
そう零したのだが、ふと見れば、メアリの表情はますます怪訝なものになっていて、
『……お言葉ですがヴィクター様、貴方の故郷はここエル=ゼノであり、そしてエル=ゼノは、百年余り前から、流通している食材のほぼ全てが合成食材となっております……資料に寄ると、貴方の実年齢は肉体相応との事ですし、十五年を足しても百年には届きますまい。企都戦争にて外国へ行ったというならば、非合成食材が主流な企都は存在せず……社外の民とは接触が禁止されている筈で、また仮に食していれば、肉体の方に何らかの変調が発生すると推測されます……勘違い、では無いでしょうか?』
「……そう、なのかねぇ?」
そこまで一気に捲し立てられれば、今度はヴィクターが首を傾げる番だった。
故郷、故郷、故郷、と、フォークを回しつつ肉切れをじっと見詰める。
冷静に思い直せば――何故そんな言葉が出て来たのか、自分でも良く解らない。あの夢と似た様なものなのだろうか、合成食材の味に対して体が勝手に反応して? もしくは何処かで口にした事があるのだろうか――だが何にせよ、恐らくここでの食事とはこういうものなのだから、早々に慣れてしまう必要がある、と、彼はひくひくと鼻をひく付かせてから、そっとフォークを引き寄せ、肉を口の中へと放り込んだ。
広がる味わいは、相も変わらずの肉であり、また肉でないという代物であった。
♃
その様にして食事は終わり、締めとして出された珈琲を啜りながら――細かく刻まれた粉末が底に沈殿するのを待って上澄みを飲む方式だが、それも珈琲であって珈琲で無い味だ――ヴィクター・ナイトが一息付いていると、メアリが側へと近付いて来て、
『それではヴィクター様、先にこれをお渡しして置きましょう。現在の貴方に合わせて作りました特注品です……気に入って頂けるかと思いますが』
銀に輝く小さな筐体鞄を持ち出すと、彼の眼前で施錠を外し、ぱかりと開けた――中に収められていたのは、艶消しされた黒い樹脂で覆われた機械であり、その全貌は銃把だけの細長く角張った拳銃に見えた。右手で握り込んだ時の内側に【α'】【β'】【γ'】【δ'】……と打鍵が並び、切り取られた銃身の付け根には、紅く澄んだ水晶体が埋め込まれている。引鉄は丸く輪になっていて、人差し指を収めるのに具合がいい。
そして握り手の底には、例によって《黄金軌跡の♃》が刻まれている。
「……何だっけ、これ?」
良く解らないけれど興味深いという様子で、ヴィクターはしげしげと見詰めてから、それをそっと手に取った。ピリリという一瞬だが奇妙な感覚を掌に受けながら、彼はそれを握った。そういえばフランク・レイニーも似た様な物を弄っていたか、と、上から下から全身を眺める。まだ真新しく、傷一つ無い端末は、予想よりも幾分重かったけれど、大きさの方は測った様にぴったりであり、まるで最初から備わっていたかの様に、彼の右手へと収まり――と、そこでメアリが頷くと、彼女はそっと唇を開いて、
『多目的使役携帯端末・第四型です。企都で生きるなら誰もが、何かしらの型を所持している必需品であり、その名前通り使用範囲は多岐に渡ります。最も基本的な機能としては音声通信がありますが、他にも身分証明、代金支払、各種機械操作、等などが、付属部品無しに、体内電流だけで実行可能になっております』
「……そこまで付ける必要があるのか、と、ちなみに失くしたららどうなるんだい」
淡々と放たれる説明を、くるりくるり端末廻しに励みながら聞いていたヴィクターはそう唇を歪ませたけれど、メアリの方はあくまでも諭す様に言葉を続けて、
『紛失、破損時は一応再発行が可能ですが、金銭的にも社会的にも命取りとなるでしょう。端末が無ければ何も出来ず、そんなものを失くした人間の信用は如何ばかりか』
「そりゃまた……機能を分散させた方が余程安全だと思うが、ねぇ」
『利便の為です……それに、既に同じものを貴方がたは抱いているではありませんか』
「嗚呼、そうだった」
ヴィクターは、ぎゅ、っと把手を掴みながらに、もう片方の手で胸元に触れた。窓辺から差し込む光に寄ってその灯りは薄れて見えたが、しかし確かにある事は解る。
思えばこれも同じ訳だ、一度破壊されてしまったらそこでお終いという意味で――そんな何とも言えない苦い感慨が湧き出るや、彼は微笑にその苦味を加え、ポォンポォンと適当に親指で【ργ͵】と打刻し、カチと決定を示す引鉄を引いた――その瞬間、電気的振動と違和が、掌から五指の先に掛けてピリリと伝わり――赤い閃光が水晶体から溢れ出ると、大気を焦がす音と共に弾丸となって射出され、それは壁に当たり、見事に砕き、部屋と廊下とを繋ぐ新たな出入口を、大穴を拵えてから雲散する。
パラパラと残骸が、粉塵が穴の縁から零れ落ちる中、ヴィクターは背筋に生暖かい水滴が伝うのを覚えつつに、薄ら笑いを浮かべながらメアリの方を見た。
彼女は溜息を漏らす様な表情を眼と眉で作ってから、その色の薄い唇を開いて曰く、
『光弾の出力調整には末尾に追加譜号をお願い致します、ヴィクター様……』
♃
ともあれ活力も装備も万端と相成れば、一人と一機は昼日中の都市へと繰り出す。
今回の道連れに先の自動車輌は無い――この目的の一つはエル=ゼノ企都の空気を味わい、その土地勘を取り戻す事であり、それに必要なのは何よりも体感だった。心燈という存在になった人間が世界を感じるのに器へと収まらなければいけない様に、ヴィクター・ナイトは、自前の眼で、耳で、鼻で都市を感じながら、混凝土の道を己が脚で歩んで行く。
流れ遅い雲に覆われつつも、その隙間より光降り注がせる空の元で、繁華帯は夜間よりも人気少なく、穏やかな様子を見せていた――電飾に彩られた喧騒が、早々続いても困りものだろうが――とは言え、一応の『市場』であれば、賑わいはそれなりだ。夜に華が咲き誇れば、昼には果実が、枝葉があり、刹那的快楽よりも持続的充足を得るべき代物が、生活と嗜み程度の嗜好の品が、そこかしこの店に並んでいる。集まる買い手の何処かには携帯端末が、電気仕掛けの小筐が握られ備わっていて、売り手もまた同様なら、ピ、カチリ、ピ、カチリ、と電気音響かせながらの、盛んな商売が行われている。
その半分は人間――人間の素材と形態をしていたけれど、残りの半分はそうでは無い。肉と金属の混合も居れば、完全に機械であるものも居るし、その姿形も様々だ。元がそうなら扱いも楽なのか、人型が多く見られたけれど、非人型だって少なからずいる――縮小化した摩天楼郡を思わす車輪付き筐型、それを土台と四本、八本と脚を生やした多脚型がその主流か。また人型と言った所で、完全に、完璧に、人の輪郭をしている者は稀であり、重心や骨格が歪んでいたり、何れかの部位が妙に拡張されていたり、首から下はまとものでも、頭部だけ、顔面だけ一風変わった造形になっているなんて者も居る――目深に被った中折れ帽の下で、真っ赤な一つ目を輝かせている男(少なくとも男性型)とすれ違った時等、ヴィクターは思わず口笛を吹いてしまった程である。
曇り気味であるとは言え、その差異は月灯り、星灯りの下よりもはっきりと捉えられるものであり、ここまで来ると、非人型という呼称が適切なのやらどうなのやら――ちょっと間違えたら、非々人型でも通りそうな位――そして、そんな陽光に寄って燈の灯が陰り、人間と人形との差異が逆に捉え難くなっているのは、皮肉以外の何物でも無い。薄目で目を凝らしても心燈が見えない自動機械は、また人間に負けず劣らず居た……在ったけれど、傍目には実に上手く潜り込んでいて、意識しなければ意識も出来無い有様だ。
「なぁおい、メアリ。今ちょっと思ったんだが、」
と、脚元を平べったい蟲の様な機械が通り過ぎて行くのを見ていたヴィクターは、ふと意地の悪い考えに思いを巡らせると、先に進んでいたメアリに声を掛けて、
『何でしょうか、ヴィクター様』
「心燈の有無……が、人間と人形の見分け方だって、お前昨日言っていたよな?」
『えぇ、その通りです……それが、何か?』
そして振り返り、手に手に握っていた先よりも大きめの筐体鞄を地面に下ろしつつ、小首を傾げる彼女へ向けて、彼はにやりと唇を釣り上げながら、ぐるり探し、通りの反対側の電気屋が前に佇む影――八本の脚と、一対の腕部を皿状の本体から生やし、筒状の眼を伸ばしながら、備え付けの画面に映し出されている、良質芳醇な蛋白質で構築された筋肉をこれ見よがしに晒け出している大男と、のたうつ蛇の群れとしか言い様の無い機械体との異種拳闘を、食い入る様に見詰めている――を指差して、
「だったら、今はどうやって見分けを付けたらいいのかね? 心燈なんて良く見えないぜ? あの蜘蛛みたいな輩が人間か、或いは人形だって、どうやったら解るんだい?」
『決まっているではありませんか』
そう言ってどんな解答が返って来るか待とうとしたが、結果は一秒も掛からずに、
「ほ、う?」
『本人に直接聞けばいいのです、「貴方は人間ですか?」たったこれだけで済む話です……人形でしたら正直に否定してくれるでしょう、いいえ私は人形です、見ての通り、と……人間でしたら肯定した後、貴方を非難してくれるでしょうこの無作法者、貴方の眼は節穴か、と……簡単ではありませんか、何なら実践されてみたら如何ですか』
「あ、嗚呼……成程、ね? いや遠慮しとくけど……」
メアリは半目になってそう応えると、しどろもどろしているヴィクターを尻目にスカートと鞄を翻しながら、優雅に回れ右をし――もう一つ、と、首だけを軽く向き返し、
『あの機体の題材は蜘蛛で無く蟹ですね……新しい眼が必要かもしれません本当に』
再び前を向いて歩き出せば、いやはや、とヴィクターは髪を掻き毟り、その後ろ姿を、ぴんと張り詰めたままに途絶える事の無い背中を、眼で追い掛ける――蜘蛛も蟹も似た様なものじゃぁ無いか、と思うのだが、この娘にとっては違う様で――娘、というのも、その違いが通じるなら、間違っているという訳になる。彼からすれば正しいと感じられるものなのに、と、その為に地盤は、頭蓋は揺さぶられて混乱を来たし、無知な主人の愚かな疑問と、対する侍女の賢しげな訂正が、こうしてまたも繰り返される――
煙草、欲しいな、と、歩き歩き、人なのかそうで無いのか曖昧な者達とすれ違いつつ――結局、あの蟹型がどちらだったのかは不明のままに――掌で顎鬚と唇を弄りながらにヴィクターは思った――或いは珈琲だっていい、正真正銘、あの真っ赤に熟れた神の贈り物より造られた、魅惑的な飲み物をごくり飲りたい、と――けれどもしかし、かつて確かに味わう事が出来た筈の芳しい紫煙は、正に霞と消えており、影も形も在りはせず、思い出せば味わった事なんてある訳が無い未知の、神秘の液体は、その本物以上を謳う紛いものばかり大挙している――軒を連ねる店の前を通り過ぎる度、嫌でも目に付くのは、合成とか人造とか模倣とか、その様な文字を殊更に、誇りを持って書きこまれた看板であり表記であり、それが衣食住から各種娯楽に関わるもの全てにあれば――同時にそこに《黄金軌跡の♃》が刻まれていれば――手を加えられていない事がまるで罪悪である様な物言わぬ気迫……いや、気取りというべきか、ともあれ、そういったものが感じられ、ヴィクターはやがてすっかり辟易としている自分へと辿り着いた。
この困惑――いや、もっとはっきり言ってしまおう、嫌悪が何処から来るのか、彼は未だに解らない――脳髄なのか心臓なのか、何処かでは、メアリが言う事を正しいと感じているのに、同じ感慨を持って、間違っているとも感じている――一体何が常識なものか、と、ここまで来たら、その要因が十五年越しの覚醒とは全くの無関係で、寧ろ眠りに付く前から、こうだったのでは無いかと疑いたくなるのは当然であり――参ったね、どうも、とヴィクターはガシガシ頭を掻き毟りながら片方の眉と、片方の口端を同時に釣り上げた。
過ぎ去って、まだ帰って来ない日々が、この都市で新たに始まった日々に影響しているという奇妙さ――それは彼を内省に引き摺り込み、何か思い至らないものかね、これは、と自身の頭を指で小刻みに叩くだけの作業へと没頭させ――
『……お付き致しました、ヴィクター様』
そして気付いた時には、彼は、散策のもう一つの目的地へと到着していた。
そこは何の変哲も無い路地だった。建造物と建造物のその間、少々奥まった場所にあり、場所である為、人気に乏しい点を抜かせば、特徴らしい特徴はまるで無い――細部に眼を瞑れば、企都の、繁華帯の、至る所に同じ立地を見出す事が出来るだろう。
「ここが、か」
けれどヴィクターは息を飲み、周囲を見渡してから道の一点へと視線をやった。
彼の濃い緑の視線の先には何も無い。ただ舗装された道路が伸びているだけだ――が、それは現在の話であり、数カ月前余り前はまるで違う装いだった。
「ここが……最初の地という訳だね、メアリ」
ヴィクターはその様子を知っていた――勿論、当時の彼は器も無い心燈で、実際にそれを見た訳では無かったけれど、フランク・レイニーが、彼の依頼主が、教えてくれたのだ――脳裏にふと蘇る明け方の夢、その粗筋は夢で無く現実で行われたのだ、と。
そう、こここそが、最初に《禿鷹》が降り立った、殺戮のその跡地であった。
♃
その話はメアリから昨夜聞かされた。
《禿鷹》、猛禽、殺人鬼――決まって薄暮れ時の、繁華帯の盲点、人目に付き難い場所で、そいつの犯行は開始される――心燈を持っているならば、通りがかったならば誰であってもいいかの様に、道行く者へと襲い掛かり――悲鳴が、絶叫が被害者の存在を知らしめるけれど、人々と自動機械が到着する頃には事は既に終わっていて、後には有機無機の内臓と、命の灯火をほじくり出された抜け殻だけが、被害者から犠牲者となった民の屍だけが、そこいらに転がされている――人間が手を下すまでも無く、苦痛と恐怖が奇怪さに置いて完璧な整形を施したその顔は、全ての犠牲者が、心燈よりも先に内臓を抉られ、弄ばれ、放り出された事実を解剖するより前に明白に告げていて、否が応でも、ある事実を知らしめる――即ち、本質を得ても尚、肉体は不可欠である事を、神々がそうだった様に、殺せば人は死ぬのだという事を――知らしめる、どころか、教えるかの如く、この企都に似付かわしく無い、生臭い蛮行は繰り返される――ぐるりぐるりと、獲物を狙う鳥が円弧を描きつつ飛び回っている様に、それは間隔を、本人以外に定かで無い理由で空けられた間隔を持って行われ――懸命な警護と警邏の甲斐無く、その回数は既に十三人に達し、積み上がる遺体の数も同様ならば、それは未だに終わりを見せない――
♃
内に向けられていた思考が翻り、裏返り、憤慨が沸き立つのを感じながら、しかし感情に乏しい、仮面の様な表情で、ヴィクター・ナイトはこの場をじっと見た――どうやら公衆衛生を目的としている、カタカタと走り回る蟲の機械がここにも居れば、跡地は跡地に過ぎず、行為の名残等、何一つ遺されてはいない。全て記録に収められている以上、何時までも留めておく訳には行かないのは解るけれど、これでは言われなければ、知っていなければ、誰も気付きはしないだろう――ほら、丁度その辺り、メアリが立っているその脚元まで、細長い腸が引き摺り出されていたのだよ、なんて――
そうして、それは第二、第三、第四……と続いても、何一つ変わらない。目を瞑った細部へやれば、多少人気――自動機械の場合は何というべきか――があったり、袋小路になっていたりと、それ位の違いはあったけれど、後片付けが終わっているのは共通している。ほんの数日前に事の起こった現場であっても同様であれば、わざわざ出向く意味等無いとも言える――知識を得る、とその点に関して言えば。
けれども、散策の目的が知る事で無く感じる事であったならば、その意味も成果も十二分である――見えないもの、そこに無いものでも、しかし肉体は、付随する精神は、確かに見る事が出来るし、あると捉える事も出来る――そうするつもりならば、それこそ余計にであり、そしてヴィクターはそうするつもりだった。
かくして星座は地上へと舞い降り、ますますにその輪郭を鮮明にし、彼に、この事態に対する動機と鋭気の両方を、以前にも増してはっきりと与え――それは一人と一機が帰途を辿る間も尚一方という風であれば、広場、市民達に公的な触れ合いを、憩いを与えている広場の中を通って行く時も、ヴィクターの険しげな表情は崩れる事無く、
「なぁメアリ……また馬鹿な事聞くかもしれないが、いいかな」
『それを返すのが私の役割です……はい、何でしょうかヴィクター様?』
「えぇと、何だ……彼等に墓はあるのかね? その、殺された人々には……」
『――……』
「……メアリ?」
『……失礼致しました。余りに時代錯誤な単語であった為、算譜機械が混乱した様で……しかし墓とは……在る訳が無いですよ。肉体は素材として再利用され、死とは、彼その者である心燈が消滅する事であります……一体何の為に作るのです?』
「……まぁ、確かに……意味も無い、か……」
そう何時にも増して辛辣な響きがメアリの唇から溢れ出ても、酷い苦味は後を引き、左右対称で無い顔を、更にかけ離れた形にしてくれる程度のものであり、
『企都市民なら、そんな風に悩みません。まるで市外蛮族ですね、ヴィクター様』
「前から思ってたがね、そのヘレネスとバルバロイってどういう意味なんだい?」
『この二つの言葉の意味は多岐に渡り、厳密に定義する事は酷く難しい……が、あえて説明するならば、それらはこの様に言う事が出来るでしょう……即ち、ヘレネスとは《バルバロイで無い者》であり、バルバロイとは《ヘレネスで無い者》である、と』
「そりゃまた便利なのか不便なのか、良く解らない定義付けだ事で、」
だからこそ、事――突如車道から飛び込んで来た運搬車輌が、悲鳴を受けつつ広場の中央に躍り出る――事が起こってもそれは残り、ただ凍り付いたままであり――反射的にメアリの腕を引きながら、ヴィクターはその眼を大いに見開いた。
突然の闖入者に困惑し、立ち止まる人々、如何な反応を取るべきかと思案げな自動機械の意識の焦点、運搬用車輌は急停止の金切り音を上げつつ、広場の真ん中で停まった。と、溜息の様な音と蒸気と共に、その後部に背負った鋼鉄の輸送筐が物々しく開かれれば、中から現れたのは巨大な人型――大の男の背丈を軽く超える、筋骨逞しい形勢に、妙に角張った装甲と、爬虫類の頭蓋を思わせる一対の角付きの頭部を備えたそれは、仄かな陽光でもはっきり捉えられる真黄色の単眼を、十字架状の軸に合わせて上下左右と動かし、辺りを伺ってから――徐に、車輌の外へとその一歩を踏み出した。
ズン、という物々しい音が石畳を砕き、更にズン、おまけにズンと響き渡るや、周囲の市民達は、漸くとその事態を飲み込んだ――誰かが上げた金切り声を合図とするかの様に、彼等は脱兎の如く逃げ始める――追い掛け出す、金属の巨人を背に感じながら。
その様子を、ヴィクターの手から離れたメアリが、直立不動の姿勢でじっと見詰め、
『……陸戦用巨兵像、型式番号【ση͵】“ラドン”です。一機盗難されたと報告がありましたが、こんな所に在りましたか。かつての貴方の愛機でもあり……ヴィクター様?』
淡々と、何時もの調子でそう唇を開くが、しかしその聞き手はもう側に居なかった。
いつの間にか巨兵像へ向けて、ヴィクターは走り始めていた――制止するメアリの声を無視しつつ、腰元から取り出した携帯端末に【ργ͵】を、護身とは名ばかりの射撃譜号を打ち込みながら――その翡翠の眼に宿るのは、不運にも踏み潰された蟲型の残骸であり、そこから転々と続く足跡であり、今しもそれを形作っている巨人の姿であり、そしてその先にて威嚇の咆哮を上げている一匹の、いや一機の小犬型自動機械と、懸命に呼び止めてようとしている飼い主らしき女性の、見開かれた濃い茶色の瞳であり――
夢と現と幻が、三位渾然と一体に眼の前に現れるならば、衝動は熱を上げて氷を、理知を溶かし、溢れ出る本能に流されるままにして、ヴィクターはその引鉄を引いた。
カチ、という小気味良い音は、ギシュ、と紅く輝く光と成り、弾と化し、上代に滅び去ったいう竜を模した頭部へと当たり――そうして四散したのは光弾の方で、何らかの処理がされているのか巨兵像には傷一つ付いて居なかったけれど、しかし注意を削ぐ事には成功した――もう一発、更に一発と、追加譜号等付けずに撃ち続ければ上手い具合によろめきまで発生し、その隙に彼は、一人と一機と、巨兵像との間に割り込んで、
「おいあんた何してる、脚が飾りじゃないなら、その犬連れてさっさと逃げろっ」
そう名も知らぬ女性へ向けて言い放ち――その瞬間、眼前はくらりと揺れて、脳髄も一瞬空白と化し、彼はこの携帯端末の動力が何だったかをちらと思い出す――が、今はそんな事に煩わされている暇は無いと、頭を奮い立てて顔を上げれば、彼女も犬もまだそこに居て、逃げる所か、その素振りも見せぬままに眼を見開き、何事か叫んでいる――ヴィクターは半ば驚き呆れながら、もう一度叫ぼうとして、はっと影が過ぎったのに勘付いた。
体は反射的に振り返るけれど、今更ジタバタした所で手遅れだ。
風のうねり声――破砕音――そして意識も眩む、鈍い激痛。
ひ、っという悲鳴が耳に入り、数瞬の、だが完全な意識の喪失の後にヴィクターは、何が起きたのかを把握した――殴り抜けられた巨大な腕――罅割れ、砕けた脚元の石版――だらりと垂れた右腕と、流れ出る赤い雫――カンラカンラと弾き飛ばされて行く携帯端末――迫り来る巨兵像を収めていた筈の視界は上半身ごと反転し、口元を抑えている女性の方を捉えていて――そこまで来て、彼は、あ、とそれらが実は些事である事に、もっと重要で決定的な事実がある事に、迂闊にも漸くにして思い至った。
まだ、俺は、生きている……?
その思考は最初こそ半信半疑のものだったけれど、そう悩んでいる思考そのものが、苦痛に苛まれつつも原形を残している肉体があればこそ疑惑は確信へ変貌を遂げた。
活力が電流となって掌を伝えば、呆然と立ち尽くしたままの女性に向けて、彼は微笑みを浮かべ――盛大に捩れ回った格好では、本人が想定した様な効果を産むとは思えまいが――喝をする様に手首を二度、三度と払ってから、小指から親指へと順々に拳を握り込む。
それから、改めて振り向いた――相手からすれば耐え凌いだという事になるだろう、明らかな動揺が不審な挙動として巨体に現れる中で、彼は体を捻り返し――強引ながらも力強い体勢は速度を産み、勢いを呼び、そしてそれが頂点に達した所で一歩を、踏み込む様な一歩を刻めば、肉体の重みも共にして、ヴィクターはその拳を突き出した。
ゴン、という、金属に対する肉とは思えない打撃音が響き渡り――
遠巻きに眺めていた市民もメアリも、少女も犬も、眼の前の光景に目を剥いた。
巨兵像が傾き、倒れようとしている――一歩、二歩と、戻る様に後ろ向きの足跡を刻みながら――罅とまでは行かないけれど、その胸部の装甲に白く凹んだ痕を浮かべて――それでも、どうにか踏ん張り、耐え切った所で、その頭部に人影が過ぎる。
彼我の体格差を埋める為の跳躍は、石畳を砕け飛ばしてヴィクターの身体を天高く上げ、そうして放たれたもう一発の右手は、狙い違わずその単眼を打ち抜き――
彼が片膝を付いて降り立ったのと、巨体が大地に沈んだのは、殆ど同時の事だった。
仰向けに倒れ伏し、黄の光を消して沈黙した巨兵像を尻目に、ピリリ、ピリ、と刺激が右掌に迸るのを感じたヴィクターは、手を開いてじっと見詰めた――自分でも予想外の力だった。良く見れば既に血も止まっている。これは一体何だろう、と吐息乱しながら彼は首を捻ったが、しかしそれは実時間でほんの数秒の事――直ぐに疲労が、先の比では無い揺れを感じれば、やはり抗う事も出来ぬままに、彼はどさりと倒れ込んだ。
何処からか聞こえてくる騒々しい駆動音を耳にしつつ――銀の尾を振り振り駆け寄って来る子犬と、その後を心配げに付いて来る少女の姿を眼に映しながら――
何はともあれ、良かったんじゃないか、ね……虚ろに霞がかった頭の中で、ヴィクターはそう歯を向いて笑うと、正に電源を落とす様な唐突さで、その意識を失わせて――
♃
そうして目覚め、始めに彼が眼にしたのは、フランク・レイニーが社長室を青から白に変えた様なタイル張りの天井であり、壁であり、それを背後と、寝具に横たわるヴィクター・ナイトを見下ろしているメアリの紫水晶の瞳で――何処かで覚えのある光景に、彼はぼんやりとしつつも自分が服――眠った時と同じ服を着ている事を慌てて確認し、安堵の吐息を吐き出せば、その既視感に本音半分乗って見て、
「やぁメアリ……煙草、持ってないかい? 出来たらその、点火器も一緒に……」
そう微笑んだのはいいのだが、しかし彼女からの言葉は無く、反応はただ視線で戻ってくれば、その人間であって人間で無い造形に居心地の悪さを感じて彼は頬を掻いた、
『……貴方は知っていたのですか? 改造について』
「……何だって?」
そこで、先日聞かされた剣呑な単語を耳にして、彼はがばり起き上がってメアリを見詰める――合わせて一歩下がると、彼女は抑揚の無い声音で淡々と語り出した。
「改造について……もう解っているでしょうが、貴方のその肉体は、特別仕様です。企都生活に溶け込み、且つ、不意を付いて現れる犯罪者を相手取るべく設計されています……内面と外面は別物、という訳ですが、尤も、内に込められた力を発揮する為には、外付けの要素が、ある譜号が必要となっています。鍵として、日常に支障の無い様に……しかし、それはまだお教えしていない筈です。いざという時で無ければ、滅多な事で使って貰っては困る……それが貴方の肉体に与えられた力……本来であれば不必要で、分不相応な、しかし《禿鷹》を倒す為の力です。今回の場合は特殊な事例で、瀕死に陥ったからこそ、力の片鱗が覗き出た、という事でしょうが……貴方はそれを知っていたのですか?」
「あぁ、いや別に……その、そうか……そうだったんだな……」
そんなメアリの説明を聞きながら、ヴィクターは右手に視線を落とした――その表情は 半ば感心する様に、半ば誇らしげであったが、メアリの顔色は変わらず――その様な機能は搭載されていなかったが――寧ろ眼に眼に険しさを宿して、再度唇を開き、
『ではこういう事ですか……貴方は自分を知らず、何処にでも在る様な生体に収まった一市民の身と思いながら、戦闘用の強化機甲服に戦いを挑んだ、と?』
「……うん、まぁ……そういう事になる、ね?」
『貴方は一体何を考えているのですか、それとも何も考えていないのですか』
その底知れぬ剣幕に不承不承と頷けば、何時に増して辛辣な台詞が飛び出して、
「な、何……何、って言うと」
『貴方の行動は、複数の点に置いて不可解で、何ならお粗末と呼んでもいいものです。幾ら十年以上前に設計された機械とは言え……貴方がそれを知っていたとは思えませんが……巨兵像相手に無改造の個人が太刀打ち出来るなんて、まずありえません。偶然、相手が未熟で、偶然、武装を備えておらず、偶然、特例が発動したから良かったものの、そうで無ければ今頃どうなっていたものやら……しかも、貴方がした事は、本当の警邏員の仕事であり義務でした。放っておいても彼等が、専用の巨兵像を纏った彼等がどうにかしてくれた事でしょう……それに動機も不明瞭です。質問するまでも無くお解りだったかと思いますが、貴方が助けようと駈け出した人物は、心燈化しておりました……運が悪ければ分かりませんけれど、大概の場合、死とは程遠い位置に居ります。破損程度はしたかもしれませんが……加えてもう一機に関しては、人間ですら、人型ですら無い人形です。只の所有物であれば、身を投げ出す必要等あろう筈が無い……もう一度聞きましょうか? 貴方は一体何を考えているのですか、それとも何も考えていないのですか』
「なかなか酷い事を言うものだが……そう、だね……」
その後を追う様に、丁寧さで包んだ非難が続けば、ヴィクターは苦味を込めた笑みを浮かべて――これで侍女というのだから、そして自動機械というのだから驚きである――けれど直ぐに口元を一文字と切り結べば、何処か遠くを見る眼差しを浮かべて、
「……その質問に、逐一返す事は出来るね……例えば自動機械だからって破壊されてもいいというのは絶対間違ってると思うし、人間の場合だってそうだ、出来るのならそいつがするべき、じゃないかと……だが、それは今だったら言える事、だね……何も考えていなかった、それが正解だ。考えられる程、知識も時間も無かったから……ただ、やらなければならない気がしたのさ。心燈、じゃない……俺の胸がそう疼いたんだ……」
『――……』
「……お解り?」
我乍ら長々と、しかも、ろくな説明に成ってない事をべらべら良く語れるものだ――そうヴィクターは言い終えると、自身への嘲笑を浮かべながら、メアリの方を見た。
緑と紫の視線が混じり合い、絡み合い――
数秒経ってから、黙って聞いていたメアリは、ぼそ、っとその唇を僅かに開けて、
『そうでした……だからこそ、貴方が選ばれたのですね……』
仕方が無い、と、生体であれば溜息を漏らしている様な表情を作りつつ、彼女はシーツの上に筐体鞄を載せた――携帯端末が入っていたものより幾分長めに施錠が行われ、そうしてドサリと取り出されたのは、新聞と雑誌の山であり、
『成果をお持ちしました、ヴィクター様。結局の所、事が起これば掲載されていたでしょうから……まぁお読みなさったらいいのでは? 貴方がどの様に思われたか、を』
「これはまた……実は大分眠っていたみたいだな?」
『えぇ、数日程……しかし《禿鷹》は出てませんから、ご安心を』
そこで彼は、どれと気付かぬ間に経過した月日の内より紡ぎ出された、言葉の数々に目を通して行く――その数自体は沢山あったけれど、書いてある事は皆大概一緒であり、記事の大きさも、関心と興味の度合いを示す様に、小さくは無いが大きくも無い、というのが殆どで――白昼の恐怖、暴れ回る巨兵像――だが一人の市民が活躍――目撃者の証言曰く、たった二発の殴打により、接続者の意識を刈り取ったのである――によって、事件は始めって数分、石畳数十枚程度の破損で解決された――その市民の正体は不明であり、格闘の後、気絶した犯人を確保した本社に寄れば、詮索無用との事で(『レイニー社長からの通達です、敵を欺くには味方から、だそうで……普段の画像は残っておりますが』)――犯人の名はロブ・ウィルストン(百十二歳)、元本社付きの巨兵像遣いであり、窃盗及び破壊活動の目的は例によって快楽と供述――駆け付けた警邏隊隊長ビアース・ゴドウィンは珍しくも近隣及び自隊員の犠牲を出さずに事件解決を見た訳だが、越権行為と捉えかねない、本社の市民の対応には強い遺憾の意を示して、
「『事件は警邏隊が解決する、一般人の手出しは無用、と宣言。更に、』……色々と酷いね、これは。自分が愉しむ為に暴れ回るってのも、この都市じゃ普通なのかい?」
適当に選んだ雑誌《クロウ=カサス》の質の荒い紙に映される、如何にも歴戦の兵然とした口髭の男を見ながら、ヴィクターがそう苦笑いを浮かべると、がさごそと、何やら筐体鞄を漁っていたメアリは、見るとも無しに唇を開けて、
『そうですね。信頼は金銭を経ずに情報化され、物資の流通は本社の管理下、及び最低限の生活保障がされていれば、物盗りは殆ど無く、その様な罪が大半です。特に長い歳月、かつての平均寿命を軽く超えた者達に傾向が強く……歳月、と言えば、隊長の憤りもそこにあります。彼等警邏隊の賃金は、月賦に加えて危険勤務への従事時間に左右されますから。彼等にして見れば、報酬を横取りされた様なものでしょう』
「……誰が懸命な警邏だって? 世は正に青銅時代、って奴だな、それは」
『与えられた本性に則り、与えられた役割をこなしているだけです――時に軋轢を産む場合もありますが、それ自体は問題ではありません。寧ろ、貴方の態度の方が問題で』
「そんな事を言ったら、俺の場合だって、本性で役割だよ。特例警邏員、なんだろ?」
『特例と警邏で一つですからね、ヴィクター様……貴方の役割は鷹狩りです』
「だったら鷲を狙ったってじゃないか……蜘蛛と蟹が似ているのと同じ理屈さ、」
そうして、ちらと上目に向けられた紫水晶の瞳に対して、ますます苦味を加えながらヴィクターは、何とは無しにらりぱらりと頁を捲り――ふと彼はその指を止めた。
見開かれた頁にあったのは、淡い繊細な筆使いで単彩色と描かれた、建築物の間に佇み、両手を前と構えている光の巨人、いや巨神の姿であり、それと対峙している、全身を突起状の鱗で覆われ、焔を口に宿した二足歩行の竜の姿であり――何だこれは、と、ヴィクターが良く良く見れば、それはどうやら連載小説の挿絵であるらしいが、しかし何とも異様で、神秘的な光景で――心惹き付かれるものがある。
そこで彼は頁を戻し、そして作品の扉へ、題名へと辿り着いた。
J・O=ネルレラク作、フェリシア・ダルウィッシュ画――
『未來のプロメテウス』。
そこにはもう一つの絵、正方形に囲まれた焔を胸に抱く少女の輪郭があり、また同時に始めて読む人間の、つまりヴィクターの為の粗筋が、短く簡潔に纏められていた。
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それに寄ると――この作品の舞台はもう一つの宇宙、心燈が発見されず竜が滅んでいない世界であり、人々は生きて八十年、喰われて数年の命を抱えながら、捕食者にして敵対者たる竜から身を守るという形で発達した企都にて、日々懸命に暮らしていた。
主人公アンリ・カンデラもその様な市民の一人だったけれど、彼はある時、とっくの昔に竜に喰われて滅び去ったとされる神々の唯一の生き残り、火の神プロメテウスから、かつて神々が奮っていたという力、根源を統べる焔を授けられる。光の巨神とは、彼が力を使役する為に変貌――携帯端末を思わせる小さな棒状の機具フラッシュ・エルピスで変身した姿であり、彼は自身をアステリオス、『光輝なる者』と名付ければ、その人間が制するには余りに身に余る力を使って、企都を、愛する者達を護るべく、日夜現れる無数の竜との、終わり無い闘争に身を捧げて行く――
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荒唐無稽だな、というのがヴィクター・ナイトの読み終えた、嘘偽り無い感想だった。如何にも低俗雑誌の端っこに相応しい絵空事だ、と――だが、それでもその話は添えられた絵と同じか、それ以上に何故か気になる所であれば、なぁ、と彼は顔を上げ、はい? と有象無象の紙片を集め、筐体鞄に仕舞い直しているメアリの方を向いて、
「この……あぁ、プロメテウスって知ってるかな、メアリ?」
『――……また物珍しい名前を出される。それは古い神の名前ですね』
「実在するかい?」
『えぇ、勿論……曰く、技術と文化の提供者であり、かつて流れた虚言に寄れば、心燈も彼の神に由来するとかしないとか……また、塔唖重工の守護企神でもありました』
「ありました?」
『その企業は、もう存在しておりません。卓越した技量を持ちながらも精神的に腐敗していたとされ、四百年以上前の企都戦争の折、我が社を頂点とするエル=ゼノ企業連合が、その総力を上げて壊滅させたそうです。かつて退廃と繁栄を極めた企都自体は、今でも遺跡として健在ですけれど、言葉無き無法者の巣窟になっていて危険であり、付近への立ち入りは原則禁止とされております……そんな事よりヴィクター様、』
簡易な質問に木霊して情報の大波が返って来れば、何とまぁ、とヴィクターは、紙面に視線を落とした――この作者は一体何を想い、そんな縁起でも無い神の名を作品に関する事にしたのかと、思考を巡らせ――それを一言で、綺麗に纏め上げられてしまえば、彼はもう一度顔を上げ、一言何か言ってやろうとしたけれど、その言葉は、両手で差し出された携帯端末――先の巨兵像との戦いにて失くしたと思っていたものによって留められて、
「拾っていてくれたのか……と、しかしメアリ、こいつが何か?」
激しく打ち付けた筈なのに、傷らしい傷が見当たらないそれを感心しながら受け取った彼は、くるり人差し指を軸に回しつつ右手へと納めてメアリを見た。どうやらずっとそれを探していたらしい、筐体鞄を閉じながら彼女もヴィクターを見返し、
『貴方の態度を見ていて決定致しました……今ここで、譜号を教えて置きましょう。で無ければ、余計な手間を増やして、いざという時に働けない可能性がありますから』
そうして白い前掛けのポケットより別の、銀色をした携帯端末を取り出せば、彼女はカチリ、カチリ、と片手で握りながら片手で打鍵を押して行き――プシュ、と空気の抜ける音が微かに上がれば、ヴィクターの寝ていた寝具が畳まれ出し、慌てて立ち上がった所で、周囲の白い壁も、天井も段々と床へ消えてしまって――先と同じ意匠の広大な空間が、彼の眼前へと出現した。調度も無く、色彩にも乏しく、その癖、広さだけは有り余り、床と壁と天井の境すら定かでないという周囲の様子に、彼は困惑した様子でぐるりと辺りを見渡して、と、風景の模様替えの間も動かぬままであったメアリは、自身の携帯端末の内側、ヴィクターのもの同様、縦に九桁、横に四桁と並ぶ打刻鍵盤を翳して見せて、
『まず間違える事は無いでしょうが【ρ͵】の打鍵を三回、連続で押してから決定を下してください。そうする事で、貴方の端末は待機状態に入ります。その上で何か……何でも良いので言葉を発してください。音声が貴方のものと承認されれば、端末はある特殊な波形を、貴方にしか聞こえない音を発します……それこそが、貴方の力を解き放つ鍵となってくれるでしょう』
「つまり……こいつが俺のフラッシュ・エルピスになる訳だな、と……」
『――……申し訳ありません、今何と仰られましたか?』
そう説明がされている間にも、ポォンポォンポォンと打鍵を叩けば、水晶体は紅い点滅を上げ始め――小首傾げるメアリへ向けて、何でも無いと頭を降ると、彼は端末を口元へ近付けた。そこでふと唇を閉ざし、視線を右斜め上に向けつつ、さて何と言って見ようかと悩んで見たけれど、自分で紡いだ連想があるなら、その言葉は一つしか思い浮かばず、
「――……変身、って言ってみたり、ね」
照れ臭そうに笑みを零しながら、そうヴィクターが唱えるや、点滅は眼も眩まんばかりの閃光に――巨兵像を倒した時に感じた電流が、右手と言わず全身へと伝わって――
変化は、瞬きする間も無く完了した。
『……お加減の程は如何でしょうか? ヴィクター様』
《……悪くないね》
傍らに立ち、そう問い掛けるメアリに、ヴィクターはくぐもった声で返しつつ頷く。
それは眼に見えて解るものだった――視界は深く広いものとなり、立っているだけで、この空間の半分が見渡せる。活力が内と言わず外と言わず、肉体全てに迸るならば、その四肢は何処か蟲を思わせる、黒々と艷めいた装甲で覆われており――ぺたり触れた頭部もその装甲に覆われている事に気付いた彼は、厚みのある硝子の様な眼球を軽く叩きつつに、
《……鏡は、あるかな?》
ええ、ただいま、とカチカチ侍女が端末を操作する事で、床からせり上がり現れた、大きな縁無しの姿見の方へ向くと、ヴィクターは改めて、己が新たな姿を確認した。
そこに居たのは、巨兵像も自動機械もかくやという、人型であった――体躯は、ヴィクターの輪郭がままに、要所を銀の線で縁どられた、漆黒の装甲で覆われていて、胸元から浮き上がった心燈は、光の強さ自体微かであっても、その色合いによって強調され、確かな輝きを放っている。首の上には、半分以上を真っ赤な瞳に、水晶体に占められた顔面、いや仮面を備え付けていて――紅い光を返している眼は街路灯を思わせるも、全体の意匠はやはり蟲の複眼を思わせる意匠をしていて、
《……まるでホタルみたいだ……》
『ホタル――……とは何でしょうヴィクター様……貴方のお知り合いか何かですか?』
《いいや、別に何でも無い、気にするなって》
そう不意に溢れ出た感想に対する問い掛けを、ヒラヒラと掌で払い除け――自分でも良く解っていないのだから聞かれても困りものだ――彼は視線を、その手へ向けた。
黒い手甲を嵌められた五本の指――ぐ、ぱ、と開け閉めを繰り返した後で、彼はギリリと限界まで掌を広げると、それから一つ一つと、小指から順繰りに指を曲げて行き、親指まで到達した所で、軋みを上げる程に拳を握り込んだ。与えられた本性と役割を確かめる様に――それが仮令こちらの意思を無視したものであっても、与えたのがいけ好き様の無い企業の長であったとしても――確かに悔しいが――この体は彼の気に入る所であり、
《……ちょっと動いて見たい所だな》
『そう言われると予測しまして、この地下試験場にお連れしていたのです』
打鍵数回で鏡が仕舞われ、入れ替わりと四方八方のタイルが反転し、裏返った裏つまり表へと、黒字に人骨を思わせる白線が引かれた人型自動機械が大挙して現れれば、ヴィクターは仮面越しに笑みを浮かべ――カシャリカシャリと、金属音を上げながら機械達へ歩み寄りつつ、自分自身にだけ聞こえる様にこんな台詞を呟くのだった。
《……アステリオスの初陣、と……ちょっと一発洒落込もうかね……》
♃