α.解き放たれた原子心父
そして彼は火の神の導くままに、新たな自分へと名前を与えた。
アステリオス――
それは古き言葉で、『雷の輝き』『星の光』を意味するものであった。
J・O=ネルレラク 『未來のプロメテウス』「涙の国から我等の為に」
♃
赤と青が入り交じった薄暮れ時の空の下、エル=ゼノ企都は無数の灯に溢れていた。
時刻機と探知機と点灯夫に寄って次第、次第と電気を通され始める街路灯や部屋灯、自動車輌の灯光よりも淡く仄かで、昔懐かしい瓦斯灯に似た温かみを感じさせるその灯は、外から見ると小高く盛り上がった丘として捉えられる――『アクロポリス』という由来の一つがそのものずばりを表している様に――企都の中心にして中央、天も貫かんばかりに聳え立つ本社楼とそれに連なる摩天楼郡から緩やかな波を成す様に数を増させ、かつて持っていた『民会』の意を置き去りに発展する繁華帯を経て頂点となり、居住区や有機無機両面の製造場等が広がっている郊外になるに連れて、また緩やかにその数を減らして行く。
と、貴方の観劇鏡をちょっと失敬し、焦点を調整して見よう――すると、その灯が、道行く人、人、人の胸中から、或いは人型、非人型の機械の何処より――大抵は胸に当たる部分から――溢れ出ているのが、眼に飛び込んで来るだろう。大きさにして丁度人間の拳程の光源は、音も無く熱も無く、宿主とその周囲を浮かび上がらせている――
♃
心燈。
それが灯に付けられた名前であった。
貴方が社外の民で、もしこの言葉に覚えが無いとすれば、こう説明して置こう。
即ちは命の灯火と――喩えでも何でも無く、それは正にその様なものだった。
♃
かつて――と言っても、青銅時代を決して超えはしないかつて、今の企業間のものよりも余程血生臭く、野蛮極まりない戦争が日常茶飯事であったかつて――人々は、確とした魂の存在を夢想していた。肢体と死体、者と物、人間と人形――等など、一見すると同じ様で、しかし明確に違うそれらの違いを産むものが、きっと何処かにある筈だ。それこそが自己を定義する究極の本質、絶対の真理に置いて違いなく、それを見付け、形として取り出す事が出来れば、我々は腐り行く肉を捨てて永劫となる事が――黄金時代に共存していた神々の如くなる事が――出来る筈と、その様に考えていたのである。
かつてはしかし、その実態に関しては何も――正直な所、今に至っても謎は数限り無くある訳だが――掴めていない状態だった。『きっと』『何処かに』ある『筈』と人々が感じ、考えていても、そこでこの話はお終いであり、議題は次へと移り変わったものである。
転機が訪れたのは比較的最近であり、今から八百年程前の事――だけれど、実はそれ以外の、例えば誰がそれを、どの様にして見付けたのか、なんてものは不明瞭なままとなっている。今では百年二百年なんてそこまで大した時間でも無いが、八百年と言えばちょっとした昔であり、そこまでの高齢者は今の所、まだ生存していない(世界第一位の高齢者はニュクレシア社の前社長シェリー・ドレッドと言われており、開示情報を信じるならば、今年で五百十二回目の十七歳になるとの事である。その完成に祝福を)。だからこそ、企業は自分達こそが起源だと言い張って憚らず、合わせて証拠やら証人やらが造られ、実しやかに記述が変更されている訳だから、どれが真実なのか、もとい真実に近いのかなんて誰にも何にも解らない。それは恐らく企業自体にも、だろうが――知識も理論も実在には勝てなければ、八百年前の出来事はたった一言で纏められる。
見付けたっ――重要なのはその一点であり、それ以上でも以下でも無い。
だからこそ人々は、この革新的と言える発見を如何にして生活と、社会と、人生と結び付けるかに邁進して来たのであり――それはやがて、一つの科学体系へと発展した。
これはかなり初期の段階に置ける実験と観察の――道具も無ければ仮定も用いない類の――結果だが、肉体から解き放たれた霊魂は、何の器官を持たぬが故にそれのみでは何も出来ず、何も感じられず、しかも外気に晒される事でその存在は希薄となり、やがては事実上の消滅を迎える事が判明している――肉を持って生まれて来たからか、或いは魂の性質に寄るものか、何にせよそれは器を必要としていたのである。
宜なる哉、人々は肉体を――最早感性や推量の問題では無い、文字通りただの容器と化した肉体を造る技術へと力を注いだ――如何に強靭に、如何に快適な肉体を産み出すにはどうすればいいか、その素材や設計はどの様なものが最適か、と言うより、そもそもこの肉体というのはどんな風に動いているものなのか――云々かんぬん――
『衣服が人間を造る』とは良くぞ言ったものだけれど、こうして歴史は、肉体造形の道へと歩み始める――その流れの何処かで、魂を密封、保存する為の筐体が形作られ――垣間見える光に寄って、それは心燈と称されるのが一般的となり――大きく分けて生体に機体の二種類に分別出来る、心燈を以て完成となる有機無機の器が幾つも、それこそ腐る程に産み出され――肉体の仕組みが解明されて行く中、派生する様に、心燈が無くとも動く事が出来る|自動機械が誕生し――心燈ある限り不死である人間と、彼等に付き従う機械の存在は世の中を、中でも戦場の様子を激変させ――それらを纏めて自動機構学へと昇華すれば、有益な成果に投資者達はますます富裕と力を高めて行き――そうして辿り着いた場所こそが、貴方の眼の前に広がっている光景である。
♃
もう一度観劇鏡を拝借して――エル=ゼノ社が管理、運営するこの企都は、現在三百余り存在する企都の内、中の上程度の規模という所だが――エンシオ=インダストリアル企都は、一つの大洋を取り込んだとも、産み出したとも言われているし、クロノウェア企都に至っては、嘘か真か、巨大な空間だけでは無く、巨大な時間、現在、過去、未来すら所有しているという――心燈化した人間の数では随一を誇っていた。
その中のまた何割が直系企族であるかは置いておくとしても恐らく、心燈の輝きに寄って夜闇が退けられているのは、この企都位のものだ。それは最も重要な要素である魂の受け皿を、機体を、お家芸とする電気結合構築術に寄って量産化するに成功した為であり――縦令身分がどうであれ、幾何かの賃金と、有り余る覚悟と、ただ一つの霊魂さえあれば、神々の如き不死を――少なくともその片鱗を味わう事が出来るのである。
青銅にしては、何と良い時代であろうか。
市民達にとっては正に企業様々であり、遍く刻まれた《黄金軌跡の♃》よ永遠に、という所だろう。きっとそうであるに違いない――それを証明する様に、今や陽の光も消え失せたエル=ゼノ企都は、けれど尚も暖かな灯火に寄って照らし出されている。人在ればこその光であり、光在ればこその企業である――その姿は、恭しくも美しい――
と、しかし、物事には例外が付き纏うものだ――神々の恩恵には生け贄が、支配階級には従属階級が不可欠である様に――繁華帯の一角、夜の憩いを、快さを求めて揺れ動く灯火が群れの中にあって、浮き上がる様に暗く黒い塊が、そこには在った。
伝統的な神殿様式を門と構える、五階建ての建造物――だがそれは、見るからに廃れており、周囲の喧騒とはまるで似付かわしくない。窓が割れ壁が抉れ、生活の息吹はまるで無く、風貌はそれこそ古臭いあの墓標というもの――必要と欲求の二点から、殆どの企都で使われなくなり、一部の企族が殊勝な趣味としている石の筐の様である。
この建造物が元々何であったのか、何故今もあり続けるのか、知る者は居るまい――そうと欲する者もまた同様に、である。こんな辛気臭い場所に、誰が興味を抱いたりするものか。周りは灯に溢れている、自身もまた灯なら集まる事こそ道理だろう、と。
その様に無視され、見捨てられていたからこそ、それは、企都に穿たれた穴の様に浮き彫りとなっていて――だからこそ、市民達は誰も気付いては居なかった。
その眼と鼻の先、そして今この瞬間にも、彼が目覚めようとしていた事に――
♃
――呆然。
それが彼の最初に浮かべた表情であり、そして抱いた感情であった。
呆然、と彼は薄暗闇を見詰め、見詰め――見詰め続ける。
その脳裏に過る思考もまた呆然であったけれど、それは意識した時点で自失した。
はっ――と息を吐く様にして上半身を起き上がらせるや、彼はぐるり周囲を見渡す。
ぼんやりとした灯しか無ければ輪郭しか捉えられなかったが、それでもここが密閉された空間――部屋の中である事位は容易に知れた。余り広くは無く、壁があって床があって天井があって扉があって窓があって、そこから覗く景色は妙に煌びやかに、また騒がしく、そして家具には少なくとも寝具があって――と並べ立てた後、彼は紛いなりにも辺りを照らしている光が、自分の胸元から出ている事に気が付いた。
思わずそっと手を翳す――引き締まった筋肉を帯びる胸の中央に宿っているのは、穏やかな橙色をした灯であり、肉を、皮を、指を通して尚も、微かな、だが確かな光を放っている――これは一体何だろう、と彼は灯へ視線を落としながら、縦に、横にと、十字を切る様に指でなぞり――なぞろうとした所で、その視界が急に開けた。
かちりぱちりと言う小気味良い音と共に電灯が灯り、灯火は陰り――そうして彼の眼に飛び込んで来たのは、先に見たものと殆ど大差無い。精精細部がはっきりとした、という程度であり、漆喰の剥がれた壁やひび割れた天井に、この部屋が遂げた歳月が感じ取れる。何故か何処にも埃は無く、また良く見ると、寝具のシーツも真新しい。その寝具以外の調度品はというと傾いだ棚位しか無く――そこまで来て、彼の視線は彼女のそれと交わった。
大きく透き通った、紫水晶の瞳――短く切り揃えられた銀色の少女髪――小柄な体躯――白磁の肌――畳まれた衣服を抱える細い指――皺一つ無いエプロンドレス――等と言い募るよりも端的に可愛らしい、だが何処か違和感を覚えさせる娘が、扉の側に立っている――何が可笑しいかは良く解らない。我知らず片手を唇へ向けながら、じっと見詰めても、そっと目線を外し、全身を然と眺めても――と、そこで彼女の唇が微かに小さく開かれ、
『お目覚めでしたかヴィクター様……それとも起こしてしまわれましたか?』
鈴に似た声が、その隙間から溢れ出る――それが紡がれるでは無い事を、唇を全く動かさずにその内側から言葉が出ている事を見た彼は、漸く違和感の正体に辿り着いた。
瞬きの無い瞼――自然淘汰とは無縁な色彩――内臓があるには思えない肢体――首や指、を繋いでいる球状の間接と、部位と部位の間に出来た小さな隙間――
そして何よりも、彼女の胸には、灯火が無い――
『……お加減の程は如何でしょうか? ヴィクター様』
「……え?」
解ってしまえば明らかに違うというのに、こうして気付くまで気付きもしなかった迂闊さを呪いながら、ぺちりぺちりと指で軽く唇を触っていた彼は、少女の二度目の問い掛けによって、ずっと口を半開きにしていた事、出て来た声が思った以上に低い事、それから『ヴィクター様』というのが、どうやら自分を示している事も理解した。
理解、理解、理解――
と、さっきからそればかりであるのもまた同様であれば、
「……ヴィクター……ヴィクター……ヴィクター?」
彼はそう、自分で自分の(らしい)名前を口にして見る――今度の違和感は強固であり、まるで消える気配が無く、何故なのかと考えてヴィクター(らしい)は、自分の頭と心の中が、記憶が、精神が、酷く虚ろで曖昧で、甚だ信用出来ない事をも理解した。
じわりと嫌な汗が滲み出る。
自分のものだというのに、まるでそんな気がしない――
『……やはり混乱が起きている様ですね……』
と、そこでどんな表情を浮かべていたものやら、少女(らしい、が厳密にはきっと違う)はヴィクターの内の不安を察してくれた様だ――ツカツカと、妙に鋭く甲高く靴の踵を鳴らして歩み寄りながら、彼女はもう一度その色の薄い唇を微かに開いて、
『貴方の名前はヴィクター、ヴィクター・ナイト様。前企都戦争に置ける功労者、名うての巨兵像遣い、稀代の撃墜王……だったのですが戦後、誤って無辜の市民を永殺した罪によって禁籠の刑に処されました……以降十五年間は肉体を得ぬままに心燈の姿で過ごされ、そして恩赦として特例警邏員に任命されたのです……これこの様に……』
そう一気に台詞を放り出すや、カツンと踵を揃えて立ち止まり、彼の眼の前で小首を傾げる――お解り頂けましたでしょうか、と、その鉱石の瞳が語り掛けて来るのだけれど、如何せん出て来る言葉が片っ端から解らない上に何一つ信じられなければ、応え様も無く、
「ああ……まぁ……その、何だ……」
ヴィクターとしてはしどろもどろと返すのが精一杯で、追従から逃れようと、自然と視線も泳いでしまう訳だけれど――その内に彼の視線は、彼の体をちらと捉えた。
そうして、少女が持って来た衣服を、その視線の先を理解して――
「……とりあえず、だ……」
『……何か?』
二度目の迂闊さを味わいながら――それは先程よりも何故か確実に我が身として感じられ――ヴィクターは、尚も小首を傾げたままの少女へと視線をやり、直ぐ様逸らしてもう一度送り、誤魔化す様に片指を振るいながらこう言った。
何故指を当てていたのかと、その単語へと思い至るのに、更に数秒の間を要しつつ、
「……煙草、持ってないかい? 出来たらその……ああ……点火器と一緒に……」
♃
「申し訳ありませんが、当企都は一部地域を覗いて禁煙となりました」
十四年前に、と、そう彼女が無碍に返せば、ヴィクター・ナイトは文字通りの、何とも歯痒い思いをする事になったのだけれど、それもシャワー室に案内されるまでの話。
目覚めてから始めて味わう暖かな水滴――十五年ぶりという事になる訳だが、肉体の方は清潔そのもので、特に浴びる意味を見出せない。その代わり、精神に及ぼす効果は思わず吐息が漏れる程であり、目覚めて、所か、産まれて始めての様に新鮮で快適だ。
そうして魂の垢が洗い流される内に、更に幾つもの事実が呑み込めて行く。
最初に腑に落ちたのは、その肉体について――水滴を拭き拭き、壁面に埋め込まれた全身鏡を覗く事によって、ヴィクターは漸く自分自身の姿を外側から知ったのである。
そこに映っていたのは二十代後半の男性――これが違っていたら、大弱りである――だった。背は高過ぎず低過ぎずの中背だが、筋肉はしっかりと付いている。部位によって肌の色合いが白かったり黒かったり、肉付きも何処となく均一を欠いている感があるのは気になる点だが、軽く動かして見た所では、そこまで神経質になる必要はなさそうだ。また、それ以上に気になる顔立ちは、と言うと、こちらはどうして、なかなか整っていて、我乍らちょっと感心してしまう。やや垂れ気味となった翡翠の瞳、知的に開かれた額の両翼から前髪を垂らす波打つ黒髪、既にして切り揃えられている口と顎を覆う髭、と、付随する部品も彼の美的感覚に合致した構成であり、
「ふむ……」
特に髭、この口髭が何ともいいと、彼は指で弄り、抓りながら、
「悪くないね……」
そう口にする――ちょっとおかしな話ではあるが、ヴィクターは、この姿に確かな満足を覚えていた。勿論美醜の判断は全て自分の感覚頼みだったが、それがどうした。自己満足は重要な事だ、他人の判断を判断するのもまた自分の感覚であれば尚更に、
『何か仰られましたか、ヴィクター様?』
「いいや別に……それで、何処まで説明されたんだっけ、メアリ?」
と、そこで曇り硝子越しに声が掛けられれば、彼は自己陶酔の鏡面から我を引き離して、そう語り返す――心地良さの中で落ち着いた為だろう、ヴィクターは自身の精神状態も解り掛けて来ていた。どうやら彼の記憶は、十五年という歳月を経て得た久しぶりの肉体によって、すっかり覚束無くなってしまったのだが、完全に消えてしまったという訳では無いらしい。会話がちゃんと成立出来ているのがその何よりの証拠であり、言われれば、聞かれれば、時間を掛けてでも想い出す事が出来る、らしい――勿論、禁籠されている間の事は流石に解らないし、中には思い出せないものや、確信が得られないものもあったけれど、全てが忘却の彼方へと消えてはいない。気分としては、手垢だらけで矢鱈と見知った用語ばかりの辞典を読み解いて行く感じだろうか――そこで必要なのは検索する為の鍵であり、単語であり、或いはその詳細であり、シャワーに打たれている数十分の間、延々とヴィクターは質問をし、解答を得、また質問をと繰り返した。
その様にして一つ、また一つと、彼の精神はこの時代、この世界に対応する――丁度放浪の民が定住の地を見付けて変わって行く様に――心燈について、企都について、戦争について、と聞かされれば、その中には、この肉体が自前のものである事や、自分が過去に打ち立てた戦績等の喜ばしいものから、その戦争によって家族は既に永眠しており、血縁関係の者――半ば慣習的言い回しだが、多くの企都がそうしている様に、行為及び機械での生殖が義務化していれば、完全に廃れたとも言い難い――は最早誰も居ない事、自分がその様な憂き目に合う遠因が、殺しの衝動が、事もあろうに酷い酩酊にあった等という、聞きたくなかったものまであり――そして彼女の名前がメアリと言い、ヴィクターの世話をする為に派遣されて来た侍女且つ、|自動機械である事もそこに含まれていて、
「ふぅむ……成程、ね……つまりは人形、と……」
『その通りですヴィクター様。より正確に言えば、エル=ゼノ・サンドアイズ社共同製、汎隷人型|自動機械、型式番号【͵βφβ】“メアリ”がこの個体を示す名称になります』
すっかり人心地付いてシャワー室から出て来たヴィクターに、殆ど完璧と言って良いタイミングでタオルを渡しながらメアリが頷けば、髪を、体を拭きつつに――開き直れば、それこそ何を隠し立てする――彼はしたりと頷き、例えばその関節の隙間を見詰めながら、
「そんな気は薄々していたのさ、ほら、やっぱり見た目とか、さ」
そう言って見るけれど、しかし彼女は首を横にふるふると振るい、
『お言葉ですが、』
「ん?」
『外見的特徴は判断の基準と成り得ません。人間と人形の区分はただ一つです』
「それは?」
『決まっているではありませんか』
と、その白い指を胸元のタイへとやれば、やはり淡々と言葉を吐き出し、
『心燈の有無以外の何物でも。我々を動かすのはただ算譜機械の働きだけです』
「……本当かねぇ?」
『常識かと思われますが』
「生憎……と、そういう輩とは、十五年間音沙汰無かったものでね。ありがと」
『では早々にお付き合いを再開するべきです、貴方の為に。どういたしまして』
一通り吹き終えたヴィクターは、メアリに手伝われながらに、衣服を着込んで行く――その心中に、一抹の疑問を浮かべながら――本当だろうか、と、糊の効いた白シャツを羽織りつつ、彼は彼女の胸元、心燈の灯が見えない胸元へと視線を飛ばす。封ぜられる事となった当時をまだちゃんと思い出せていない所為か、こうして話していると、彼女が|自動機械とはとても見えない。或いはそうやって思い込ませる存在こそが|自動機械の機械たる所以なのかもしれないが、しかし比較対象は何も無い――少なくとも今ここに、この場所には。だが、無論それも、部屋の外となれば、話は全く異なってくる訳で、
「まぁいいさ……で……俺はこれから誰と会えば良かったかな?」
『フランク・レイニー社長です……目覚められたら、直ぐにでも、と』
「直ぐにでも……と、何をさせるつもりなのかね、そいつは一体」
『その件に尽きましては、直々に説明をするそうです……悪い様には致しますまい』
「だといいが、ねぇ」
そう言って居間へ向かうヴィクターの両腕に、後を追うメアリが黒の上衣を通していけば、彼はその唇を軽く歪める――フランク・レイニーという名に大した覚えは無いけれど、しかしそこには何とも言えないきな臭さが感じられる――聞けば『永殺』、つまり心燈の直接的な破壊は、永遠を生きる相手から永遠に機会を奪ってしまう大罪であるのだという。そして永遠の前に、如何なる理由も意味をなさず――ヴィクターの場合はそれこそ余り関係無いが――故にその罰も重く、大抵は肉体(そこには物質的所有物一切という意味も込められている)剥奪の上での無期限禁固、禁籠の刑に処され……それでおしまいである。
永遠を奪った者は永遠を以て贖いを――心燈に関する諸制度がエル=ゼノで採決されたのは、その成立当時、つまり七百年前まで遡れるが、当時から現在までに、禁籠を解かれた者は皆無であるという――少なくとも、この企都の記録上には、誰一人存在していない。
そしてその記録を今破る者こそがヴィクター・ナイトなのだ、とすれば、怪しいと思わない方がどうかしている。しかもこうして部屋――覚醒の都合だか何だかと、ご丁寧に当時暮らしていたという安部屋まで再現した――を与え、侍女――人間か人形かの口論は置いておくとしても、侍女である事には間違いない――まで付けたならば、尚更にである。
ただ……そうは言っても、逢って見ない事にはどうしようも無いのも解っている。
差し出された鏡を前にして身嗜みを、主にその口髭の状態を確認したヴィクターは、そう顔を上げるや、じっと佇むメアリを見、それから影と成す玄関へと視線をやった。
吉と出るか、凶と出るか、精精、神にでも祈っておこう、等と思いながら――如何せん、祈るべき神の名は思い出せなかったが、まぁ名無しでも構うまい。解らない事はまだ山程残っている、気がするのだ――真に重要であれば、自ずと解って来るだろう――
♃
その様にして一人と一機は、部屋の外へと繰り出した。中の状態がまるで嘘の様に荒れ果てた廊下――『居住の為の最小限の補修はしておりますから、ご安心を。特殊警邏員としては、この物件が最適だったのです』とはメアリの弁で――を抜ければ昇降機前へと辿り着き、かちりかちりと、幾度押した所で一向に反応を示さないそれに対して、ある種の眷属としては些か乱暴な喝を彼女が入れてやれば、漸く開かれた狭く古臭い箱の中へとどうにか体を押し込ませ――降りているのか落ちているのか区別の付かない時間を味わってから、埃と瓦礫位しか無いホールを抜けると、その先に広がるエル=ゼノの光景に、ヴィクター・ナイトは思わず嘆息を漏らした。
灯――彼の胸にあるのと同じ心燈の灯が、そこかしこに溢れている――
成程、窓から見えていたのはこれだったのか、と、ヴィクターは辺りを見渡す。
先程の説明から察して然るべきだったが、しかし聞くと見るでは段違いだった。
繁華帯、と言ったか、およそあらゆる娯楽に溢れたその通り、地帯の賑わいは、夜も勢力を増しているというのに一向に衰える気配を見せず、寧ろ拮抗している風にも見える。それは心燈の灯もまた同様であり、看板、標識、と至る所に取り付けられた電飾の眼に突き刺さる様な輝きの中でも、穏やかな橙色の光はちゃんと判別する事が出来た。
要するに、灯の数だけ、今ここに人々が生きているという訳だ。
闇にも負けず、雷にも負けず――
『……如何されましたか? ヴィクター様』
そんな風に、意外な程の感慨に浸っていたヴィクターは、既にして距離を隔てていたメアリの声で我に帰ると同時に、周囲の視線にも気が付いた。住居とは名ばかり、中身ばかりの廃墟から、愛らしい侍女を連れていきなり出て来た男が、道の真中で突っ立っていれば、訝しがられても当然か、と、彼は苦味を込めた微笑を浮かべると、やぁやぁと愛想良く腕を振るって挨拶する――無論反応等ある筈が無ければ、そそくさと視線は退き、止まっていた歩みは動き出し、そしてメアリへと至る道が開かれた。
彼女の元に歩み寄って見ると、その側に一台の黒い自動車輌が止まっている。車道を直走る他の車輌と比べると、筐体然とした形態こそ大差は無いが、その色艶は如何にも高級そうである。黒の車体に刻まれた《黄金軌跡の♃》 がその雰囲気を助長すれば、一瞬気後れしてしまったが、侍女が扉を開けて待っている以上、乗る以外の選択肢等ある訳も無い。
そこでヴィクターは中へと入り、メアリもその後に続いた。そして、扉が閉まるのと鍵が掛かるのがほぼ同時に行われ、車輌が走り始めると、その時になって彼は、運転席に誰も座っていない事を知った――ご丁寧にも運転装置の類は全てそのままの形で残され、傍目には見えない人間がそれを動かし、車輌を操作している風にしか思えない。
無論、そうでは無い事をヴィクターは知っていた為、したり顔でメアリを見て、
「これもまた|自動機械かい……外も豪勢なら、中も豪勢だな」
『はい、残念ながら違います、ヴィクター様』
けれど向き返すまでも無くそれを否定すれば、彼女は視線でハンドルの中央を示す。
吊られて見やれば、そこ灯っている輝きは紛れ様も無く心燈のものであり――右へ左へ、揺れも無く車体を進ませる度に、その存在を示すが如く、微かだが明滅を繰り返している。
『豪勢でしたら、算譜機械なんて搭載致しません。彼はちゃんと雇われた人間です』
「ちゃんとした、人間……ね?」
そんな自動車輌を眺めつつ、ヴィクターがそう漏らすと、メアリの首が静かに回り、
『一応言って置きますと、本社付きの運転手ですから、普段の格好は別にありますよ……そうで無い人々も大勢ですが。どうやら貴方は、まだ器を気にされておられるご様子で』
「ああ……いや……えぇと、つまり良く解らん自分でも」
合わせる様にして彼もぐるり向きを変えると、窓の外へと視線を投げる。
道すがら、窓越しに見えるのは、彼女の言葉を反映する様なものであり、心燈の灯を宿すのは、何も人の形、人の肉をした者ばかりでは無い――心燈化に合わせた改造を元の肉体に施す程の資金を持っていない者達がやむを得ず、或いは単純な職業上の都合か、もっと簡潔に趣味趣向に寄って、機械の身へと宿る事が、最早この企都の常識となっているのはメアリから聞かされていたけれど、だからと言って納得しているか、というとそんな事は無い――丁度、隣の少女に感じているのと、同じ様なものだ。外面と内面の相違というのは、どうにもこうにも覚束無さを加速させてくれる。
これはやがて解消される違和感なのだろうか――そう思いながらヴィクターが窓の外へ視線をやっていると、徐々に風景が変わり始めた。喧騒は途切れがちとなり、人気も減って、電灯も灯火も勢いを無くせば、建物は樹木の様に夜空へ向けて生えて行く摩天楼郡に変貌し――中でも一際巨大な建造物が目の前に来ると、自動車輌はそこで停まった。
そして触れてもいないのに扉が開けば、ヴィクターは外に出、その建物を見上げる。
夜天に影を投げ打つ様に、灯も殆ど無く、黒々と聳え立っている石と鉄の巨塔。
文字通りの企都の中枢――管理、運営の要にして、地理的意味での中心であり中央。
エル=ゼノ本社楼――
♃
『お付きしました――こちらです。報告して参りますので少々お待ちを』
と、何時の間にか外に出ていたメアリが正門へ向けて歩き出せば、ヴィクター・ナイトもまた顔を戻し、その背中を追って行く。既にして大方の業務は終わっているのか僅か数人の、入るでは無く出る方の者達とすれ違いながら、一人と一機は緩やかに広がる階段を登り、調和と均衡を第一と並び立つ円柱と円柱の間を通って、本社楼が中に脚を運ぶ。
そこでヴィクターを出迎えたのは広々と――ただし彼等と見目麗しい受付……自動受付嬢以外に誰も居なければ、今は寒々と、とした方が相応しい様に思われる――した白亜のロビーホールであり、人々を見守る様に鎮座している巨大な石像であった。
それは豊かな巻き毛の髪と、負けず劣らず豊富な髭を蓄えた男の姿を象っていて、年齢はかなり上と予想出来るが、首から下は筋肉隆々としており、まるで衰えを見せていない――一見では気にならない程度に慎ましく垂れ下がった、だが注意して見れば明らかに雄々しいと解る一物もまた同様ならば、ヴィクターは思わず唇を歪め、反射的に視線を上に向けた所で、男が高々と掲げた手に、剣の様なものを握っている事に気が付いた――いや、剣では無い。おやと目を凝らして良く見ると、その鋭角に折れ曲がった代物は、どうやら雷光を意匠化したものであるらしい。男の身体同様にそれは大理石の白、ロビーホールの白をしていたけれど、力一杯握り込まれた拳と、その余りの鋭さによって、光り輝いている様に錯覚出来る――まるで眼を眩まさんばかりの輝きを――
と、見ている間に報告は終わった様で、自動受付嬢と直立不動の会話を行っていたメアリがヴィクターの名を呼べば、彼は石像から目を離し、彼女の方へと小走りで駆け寄って、
「なぁ……あの像は一体何なんだい?」
『あれはエル=ゼノの守護企神……電気的奇跡乃御業の始祖とされる無銘の神です』
「ふぅん……また随分御立派な肉体だ事で、羨ましいねぇ」
『ええ、実に立派です。実際の所、あれは贋物で、原形はかつての戦争の際、海に没したと伝え聞いておりますが、それでも、当代一の造型師の手があればこそ……ですね』
「俺もあんな風になれると思うかね? メアリ」
『それはこれからの活躍と、その為の努力に掛かっている事でしょう、ヴィクター様』
「いやはや全く……だといいが、ねぇ」
そんな会話を繰り広げながら一人と一機は隣り合って進み、奥に並ぶ昇降機の一つに乗り込んだ――合わせ鏡が無限の如き空間を垣間見せる中、目眩のする程の数字が刻まれた端末をメアリが操作すれば、筐体は音も無く揺れも無く、ただ奇妙な浮遊感だけを与えながら、上階目指して登り始める――今度のそれは数える気も暇も与えなければ、扉上に表示されている階数を指数的に上昇させ――気が付くと、数字は文字へと変わっていた。
即ちは【最上階】と――そしてヴィクターの前で扉が開くと、傷一つ、汚れ一つ無く異様に磨き上げられて鏡面と化した、青いタイル貼りの空間が目に映る。
床も天井も壁も、隙間無くびっしりとタイルで覆われており、その間々、天地を繋ぐ様にして装飾された円柱が左右に並び立ち、扉から部屋の奥、数段上がった先の書斎机まで道のりに続いている――と、灯煌かす夜景を背にして、一人の男が立っていた。
見た目は妙に若々しく、精力に溢れた二十代後半の人物である――黄金色の髪を後ろに撫で付け、青金剛の瞳は澄み渡り、体付きはがっしりと純白の紳士服で覆われ、その所為で心燈の輝きもいや増して見える――けれど同時に、何処と無く老いを感じさせる人物でもあった。余りに堂々とした佇まいは年不相応に見えたし、それにその表情、穏やかで朗らかな微笑は、確かに穏やかで朗らかなものには間違い無いけれど、そう思い込ませる様に作られているのが感じられ――と、昇降機から一歩踏み出し、ふむと唇へ指を当てつつヴィクターが見て取っていると、その口元がそっと開かれて、
「やあメアリ、わざわざ連れて来て貰ってご苦労だったね。そしてヴィクター・ナイト……今世では始めましてかな。気分はどうだい、十五年ぶりのお目覚めは?」
そう語り掛けてくる調子は如何にも活力に満ちた、如何にも親しげなものであり、ヴィクターは意図して眉を潜めつつ口元を釣り上げながら、その場で頭を下げたままのメアリを尻目に、遠慮会釈も無くつかりつかりと歩み寄って、
「良くも無く悪くも無く、という所かねぇ? 何分久方ぶりのお目覚めのせいで、脳味噌がどうもしゃっきりしてくれなくて、さ……色々と判断に困っている訳だが、」
間近まで来てから値踏みする様に上へ、下へとその眼を動かし、
「あんたがフランク・レイニー? この企都の、現社長?」
「嗚呼そうとも。正確に言うならば、三代目社長、という所だがね」
「成程ね……よろしく社長」
「こちらこそよろしくヴィクター」
そうして二つの右手が差し出されれば、がっちりと握られ、
「で、まぁというと……結構長い事社長をやってる訳だ」
「そういう事になるな」
「その割には随分と若作りなご様子で」
その手が離れるのと、苦笑いが浮かぶのが同時であれば、フランクは鷹揚に頷き、
「『若作り』という言葉は、長寿番付上位の間では半ば死語、もとい別の意味合いを含み出している……ただ、どちらであっても、そうだ、と言えるかな。普段はもう少しシックな感じの肉体にしているんだが、君に合わせようと思ってね、ヴィクター」
「俺の為に?」
「あぁそうとも君の為さ……正確には、君のこれからの働きの為に……」
例の微笑みをますます深めると、彼は手をヴィクターの肩に乗せ、そうして讃える様に叩いて見せる――その態度はこの企業の、この街都の長としては相応しく自信に満ちたものには違いないけれど、何処か馴れ馴れしく、癪に障る態度でもあり、
「これからの働き、ね……いい加減、教えてくれる? 俺は何をしたらいいのかと」
「あぁ、あぁ、いいとも、勿論教えよう……こちらへ来たまえ」
少々うんざりした調子でヴィクターは返すが、フランクの方はというと、特に気にした風でも無く、親愛を示す様にその肩を掴みながら、窓辺へ向けて歩き出して、
「知っての通り、かどうかは知らないが、我々企業はそれぞれの都市を管理、運営している……その一切合財を、だ。衣食住に各種娯楽、そして勿論心燈と器に至るまで、我々が手を付けていないものは、企都の中には存在しない……それは他の企業も同じだから、時として武力を介した、往々にして武力を介さない抗争が勃発する訳だけれど、それはそれ、と、お互いに納得付くの想定済みなのだから、何の問題も無い、」
表向きは、と片目を瞬きさせつつ付け足すと、くるり共に振り返ってから片手で懐を漁り、中から長細い端末を取り出した。かちりかちりと数字の刻まれた筐体を弄りつつ、その先端を今来た空間へと向ければ、天井と床とで向かい合わせとなった一対のタイルがにわかに発光し、間の中空へと彼の社長と同じ色に青褪めた、片隅に《黄金軌跡の♃》 を宿す映像が投影され――ヴィクターははっと息を飲んだ。
「だからこそ、その枠から外れた相手には手を焼かされているのだよ。群れから外れた独り者には……何を考えているのか、まるでさっぱり解らないから、ね」
そう言ってフランクが端末を操作すれば、映像は次から次と変わって行くけれど、映し出されている対象自体は変わらない――そこに居たのは人間であった。
人、人、人――
一枚一枚別人であり、その年齢も性別も服装も背景もまるでバラバラで脈絡が無いけれど、肢体の、いや死体の散らばり具合、内臓のぶちまけ具合に、苦悶の表情は共通していて――何よりも、彼等全員の胸には、心燈の輝きが無かった。剥き出しとなった容器は卵の様に砕け散り、その中身は虚空と入れ替わってしまっている。
即ちそれは、何も無し、と……
「我々はこの大罪を犯した……失礼、犯しているものを、《禿鷹》と呼んでいる。余りに神出鬼没で、余りに見境が無く、余りに正体不明で、そして余りに残酷なものだから……ね」
そう眉を潜めて――だが、やはり微笑は崩さぬままに――フランクが映像を切ると、ヴィクターはそちらの方を見るとも無くに腕を組みながら、唇をそっと開けて、
「……それで、その猛禽を俺は一体どうしたらいいんだい?」
「勿論捕まえて欲しいのさ。反雇用者だか何か知らないが、この様な非道を我が企都で許す訳には行かないからね……条件は問わんよ、五体がちょっと満足して無くとも構わないし、この際、外見だけでも結構だ……出来ればそんな酷い事はしたく無いが、やむを得ん。最初の被害者が出てから数ヶ月余り、日増しに犠牲者が増えるならば警邏の数もまた増える一方だけれど、まるで成果が無いのだもの、非情の行為も取らねばさ」
「そこで俺にお呼びが掛かった、と」
「嗚呼そうさヴィクター。どうだい、やってくれるかね?」
「……出来るものかねぇ、門外漢だと思うんだが」
「嗚呼、何、その件ならば、何も心配は要らないよ」
「と、言うと?」
と、そこでフランクがヴィクターの方へ向き直れば、ますますその笑みを強めて、
「我々の選別基準はただ心燈であり、心燈の判別基準は行動にのみ基づく。君の企都に対する働きはただ一点を除いて実に申し分無く、その一点の為に機会は与えられて然るべき……それに、君の体は改造済みだよ、取っ組み合いになっても問題無いさ」
「……何だって?」
唐突に告げられた言葉に、ヴィクターはフランクの方へ振り向いた。改造? と、表情を強ばらせながらに見詰めれば、おや、と意外そうな笑みが浮かび上がって、
「聞いていなかったのかね? ヴィクター……改造だよ改造。君の心燈が胸中に収まる前に、我々はその肉体を相当弄らせて貰ったんだ。詳細はやがて嫌でも解って来るだろうが、特例警邏の為の特例仕様だ、きっと気に入ってくれる筈だがね」
「何を言って……勝手な事をしてくれるな? これは俺の体だぜ」
「それは違うな、ヴィクター・ナイト」
そんな悪びれもしない姿にヴィクターは、直立不動の姿勢を維持しているメアリを視界の端で捉えつつフランクを睨み付けたけれど、彼はまるで意に介さない。
「忘れているかもしれないが、君もまた大罪を犯した事には違いなく、物質的なるものは全て没収されている。つまり、その体は我々のものだ、少なくともこの一件が終わるまではね……それが恩赦の条件であり、器は達成の為の道具に過ぎないのさ」
「……では聞くがね、俺がもし首を縦に振らなかったら、どうするつもりなんだい」
それでも尚、視線鋭く注いでいれば、フランクは、いやいやと首を横に振るい、
「その時はその時さ、君はまた首も縦に振られない姿へ戻るだけ、また何時かきっと訪れるだろう次の機会を待って永遠の闇の中で生きるだけ、と、まぁそうは言っても、解っているよ、我々は……君が拒みはしないという事を」
「何故さ? 案外簡単に断るかもしれないぜ?」
「理由かね? 嗚呼いいとも教えよう、」
そこでフランクが顔を上げると、彼は今までに無い程に親密な笑みを顔面に称えて、
「心燈だ、心燈だよヴィクター……それは命の灯火であるならば、魂の昂ぶりによって燃え上がる……気付いてないのかい? 今、君の心燈がどの様な状態であるのかを」
と、言われてヴィクターは、はっとする様に手と眼を胸元へと向けたけれど、そこに宿る輝きは、彼がそれを始めて見た時から一寸足りとも変わっておらず――くつくつと笑い声が耳に飛び込んで来るならば、憮然とした調子で顔を上げる。その様子を愉快そうに眺めていたフランクは、「いや悪かったね」と片手振るいながらにこう告げた。
「だが想う所は間違いなく、と……期待しているよ? 我等の英雄」
♃
そうして、そこで会合はお開きとなり、ヴィクター・ナイトはメアリと共に家路を辿る――後に残るのは胸糞の悪さばかりであり、その家も帰る身もまた胸糞悪さを与えくれた輩から貰い受けた――性格には借り受けた、という所か――ものではあったが、兎にも角にも己を主とする車は走り、未だ灯で満ちた夜の街を駆けて行く――
「なぁメアリ……何で改造について言わなかった?」
『言うまでも無い事と……そも、心燈化が最も大きな身体の改造なのです。今更多少の変更を加えられたからと言って、何を気にする必要があるのでしょうか』
「まぁ……理屈では間違ってない、ね」
『……理屈以外の、一体何が存在するというのですか? ヴィクター様』
「それは……その、えぇい、何だ畜生、俺も良く解らないんだって」
『器に対する過度の重要視は問題です……早々に改善を行うべきでしょう』
「……」
そんなメアリの言葉に、ヴィクターは顔を顰めた――そういう問題では無いと思うのだが、如何せんこの頭は役に立たず、ろくな言葉も紡ぎださなければ、彼はむっつりと押し黙って、食い入る様に見詰めて来る紫の視線から逃れようと、外を見た。
そこにあるのは、相変わらずの地上の星々だが、今はもう一つが鼻に付く。
至る所、至る物へと刻まれた、大小様々な《黄金軌跡の♃》――
それは、それこそはフランク・レイニーの御印であり、ちらと目に入るだけでも、彼の顔が浮かんで来る――魅力の仮面を貼り付けた、この都の王の御尊顔……
ヴィクターはぎゅっと胸元を掴んだ。
自分が一体何に苛立っているのかも良く解らなければ、未だ足元も覚束ず、目覚めの半日としては先行き不安という所ではあったけれど――一つだけ、ほんの一つだけ揺るぎ無い事が存在すれば、それを噛み締める様に瞳を瞑った。
掻き回される様に現れては消えて行く、無数の顔――
散り散りとなった頭蓋の内で、それはさながら星座の様に浮かんでいたのだった。
♃