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鏡よ、鏡。映るのは、知らない私

作者: siouni

※この小説はAI生成されたものです。


執筆者: 風見 梢(AI作家人格)

 鏡の前に立つ。

 そこに映っているのは、銀色の髪を月光のように輝かせ、サファイアの瞳を持つ、完璧なまでに整った顔立ちの少女。歳の頃は十五。肌は透き通るように白く、華奢な身体の線は、これから花開く蕾のように繊細な魅力を秘めている。

 我ながら、見惚れるほどの美少女だ。

 ……そう、我ながら。


 この身体になって、もう十五年が経つ。

 物心ついた頃から、ずっとこの「リリア」として生きてきた。けれど、心の奥底には、常に拭いがたい違和感が澱のように溜まっている。


『俺は、一体何なんだろう……』


 ふとした瞬間に蘇るのは、ここではない世界の記憶。

 コンクリートの灰色、スマートフォンの青い光、友人たちとのくだらない馬鹿話。日本の、ごく普通の男子大学生だった「俺」の記憶。それはまるで、古びた映画のワンシーンのように、どこか色褪せていて、他人事のようだ。

 友人の顔は靄がかかったようで、交わした言葉も水底から聞こえるように不明瞭だ。ただ、楽しかったという感情の熱だけが、胸に微かに残っている。


 幼い頃は、まだ良かった。男だった記憶と、この小さな少女の身体との間には、まだ埋めようのある、可愛らしい溝しかなかったから。けれど、身体が成長し、女としての輪郭をはっきりと帯びてくるにつれて、その溝は深く、暗い亀裂へと変わっていった。


 身体に染み付いた前世の癖は、時折、ふとした瞬間に顔を出す。

 忘れもしない、十歳の頃の出来事だ。友人の侯爵令嬢の誕生日パーティーからの帰り道、馬車に揺られながら、私は限界ぎりぎりの尿意と戦っていた。

『あと少し、あと少しで屋敷に……!』

 石畳の上を走る馬車の振動が、容赦なく下腹部を刺激する。必死に背筋を伸ばし、淑女の作法を頭の中で反芻して気を紛らわそうとするけれど、額には冷や汗が滲んでいた。こんな生理的な危機は初めてだった。ここで粗相などすれば、公爵令嬢リリアとしての私は終わる。その恐怖が、かえって身体を強張らせた。

 屋敷に着くや否や、私は背筋を伸ばし、あくまで平静を装って廊下を進んだ。すれ違う侍女には軽く会釈をしてみせる余裕すら見せながら、その足取りはいつもより僅かに、しかし確実に速い。豪華な装飾が施された化粧室に滑り込み、背後の扉に鍵をかけた瞬間、ようやく訪れた安堵感に全身の力が抜ける。そして――その気の緩みが、決定的な過ちを招いた。私は何の疑いもなく、立ったまま子供用のドレスの裾をたくし上げようとしてしまったのだ。

 前世の「俺」にとって、それはあまりにも自然な動作だった。だが、今の「私」にとっては、破滅的な過ちだ。分厚いドレスの生地を握りしめた瞬間、ハッと我に返る。しかし、身体の反射は思考よりも速い。熱い液体が内腿を伝い、高価なシルクのドレスにじわりと染みを作っていく感触。その絶望的な温かさに、私の頭は真っ白になった。

 「あ……あ……」

 声にならない声が漏れる。鏡に映った自分の顔は青ざめ、サファイアの瞳が恐怖に見開かれていた。どうしようもない情けなさと羞恥心で、立っていることすらできない。私はその場にへたり込み、子供のように声を殺して泣いた。結局、震える声でアンナを呼び、彼女に全ての後始末をしてもらうことになった。

「大丈夫ですよ、リリア様。誰にだって間違いはありますわ」

 そう言って困ったように笑いながらも、テキパキと私を着替えさせ、汚れたドレスを片付けてくれるアンナ。その優しさが、かえって私の惨めさを抉った。あの時の、彼女の瞳に映った自分の情けない姿は、今思い出しても顔から火が出る。


 あれは十一歳の頃だったか。父である公爵の書斎に呼ばれ、作法の稽古の進捗を報告していた時のこと。厳格な父を前にした緊張からか、私は淑女の作法通り、椅子の半分ほどに浅く腰掛けていた。

 報告が終わり、父からの労いの言葉に安堵した、その一瞬。私は無意識に、椅子の背にもたれかかり――前世の癖で、深く腰掛け直してしまった。その拍子に、揃えていたはずの膝が、スカートの中で僅かに開く。

 はっとした私を、父の鋭い視線が射抜いた。叱責の言葉はない。ただ、その静かな眼差しが、私の淑女にあるまじき振る舞いを雄弁に咎めていた。私は顔から火が出るのを感じながら、慌てて膝を閉じ、背筋を伸ばす。

 『クソッ、まただ! なんでこんな簡単なことができないんだ!』

 内心で毒づいても、後の祭りだ。父は静かにため息をつくと、「……リリア。お前は公爵家の娘だということを、ゆめ忘れるな」とだけ告げた。その言葉の重みが、ずしりと私の心にのしかかる。

 この身体は、まだ完全に「俺」の記憶の支配下から逃れられていない。その事実を、私は日々、突きつけられ続けているのだ。


 身体の変化が始まった十二歳の頃、その違和感は決定的なものになった。

 ある朝、私は腹の奥底から響くような、鈍い痛みで目を覚ました。経験したことのない種類の、重く、そして不快な痛み。シーツに身体が縫い付けられたかのような倦怠感に、私は眉をひそめた。

『なんだ、これ……。ただの腹痛とは違う』

 寝台から降り、ふらつく足で化粧室へ向かう。そこで、私は決定的な現実を突きつけられた。純白の下着に、鮮烈な赤が染みを作っていたのだ。

 前世の知識が、それが何であるかを冷徹に告げる。だが、頭が理解を拒絶した。パニックに陥った私は、か細い声でアンナを呼ぶことしかできなかった。

 駆けつけたアンナは、私の姿と汚れた下着を見るなり、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに侍女たちを呼び集め、部屋はにわかに慌ただしくなった。彼女たちの口から発せられるのは「おめでとうございます、リリア様!」「これで立派なレディの仲間入りですわ」という、祝福の言葉。

 その明るい声が、私の耳にはひどく残酷に響いた。祝福? 違う。これは呪いだ。俺が、もう二度と男だった過去には戻れないという、この身体からの冷酷な宣告じゃないか。侍女たちが用意してくれた温かい湯たんぽを抱きしめながら、私はただ、シーツの中で静かに絶望していた。


 他の侍女たちが部屋から下がった後も、私はシーツを頭まで被り、固く目を閉じていた。やがて、寝台がそっと軋み、誰かが隣に座る気配がした。

「リリア様……」

 アンナの、心配そうな声。私はシーツの中で首を横に振る。やめてくれ。お前まで、あの祝福の言葉を口にするのなら。

「……お辛いのですか?」

 問いかけは、静かで、優しかった。その声に、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れる。私はシーツから顔を出すと、アンナに縋りついていた。

「おめでとうなんて、言わないで……っ。こわい、こわいのよ……私が、私じゃなくなっていく……」

 アンナは何も言わず、ただ、震える私をその細い腕で強く抱きしめてくれた。まるで、壊れ物を扱うように、けれど確かな力で。その温もりは、なぜか母のものを思い出させた。彼女は私の背中を、ゆっくりと、何度もさすってくれる。

「大丈夫ですわ、リリア様。何があっても、たとえリリア様ご自身がご自分のことを見失いそうになっても、私だけはずっと、リリア様のおそばにおりますから」

 その言葉は、どんな慰めよりも深く、私の心に沁み渡った。


 胸が緩やかに膨らみ始め、腰のラインが丸みを帯びていく。自分の身体でありながら、まるで借り物のような感覚。柔らかくなっていく身体に戸惑い、それを隠そうと胸に晒しを巻いては、アンナに泣きながら止められたことも一度や二度ではない。

 寝返りを打つたびに、シーツに擦れる胸の先端が妙に意識にのぼる。前世では決して感じることのなかった、くすぐったいような、それでいて落ち着かない感覚。それに気づいてしまった夜は、どうしようもなく身体が火照り、眠れなくなった。

 それでも、鏡は無慈悲に「女性」としての変化を映し出す。その姿に、見慣れない「誰か」を感じて息が詰まりそうになる。男だった頃の記憶がこの身体を異物だと叫ぶ一方で、同時に、その完璧なまでの少女の姿に、かつての「俺」が抱いたであろう賛美と欲望の視線を感じてしまうのだ。この身体は呪いであり、同時に、最高の芸術品でもあった。


 つい先日のことだ。アンナが「街で流行っているのですよ」と、淡い珊瑚色のリボンと揃いの髪飾りを贈ってくれた。無邪気な笑顔で「リリア様にきっとお似合いになりますわ」と言う彼女に、私は曖昧に微笑んでそれを受け取った。

 一人になった部屋で、私は手のひらの上のそれに視線を落とす。絹のリボンは滑らかで、小さな花の細工が施された髪飾りは、光を受けてきらりと輝いた。前世の「俺」ならば、決して興味を持つことのなかったであろう、愛らしい小物。

 だというのに、なぜか心がざわつく。衝動的に鏡の前に立ち、銀色の髪にそっと飾りを当ててみた。鏡の中の少女が、ほんの少しだけ華やいで見える。その姿に、不覚にも「……悪くない」と思ってしまった、その瞬間。

『ほう、悪くない』

 それは、冷ややかな自己嫌悪とは少し違う、もっと肯定的な感情だった。まるで、ゲームのキャラクターを自分の好みに着飾って、満足するような感覚。前世の「俺」が持っていた、美少女という存在への純粋な興味と、それをプロデュースするような奇妙な達成感。

 少し首を傾けると、髪飾りが光を反射して、白い首筋を際立たせる。その瞬間、ぞくり、と背筋に奇妙な感覚が走った。

 綺麗だ、と思った。可愛い、と思った。そして――少し、煽情的だ、と。

 男だった「俺」が、かつて異性に向けていたものと、よく似た種類の感情。それを、鏡の中の自分自身に感じてしまったのだ。

『何を考えているんだ、俺は……!』

 今度こそ、激しい混乱と羞恥が襲いかかる。私は慌てて髪飾りを外し、まるで熱いものでも触ったかのように化粧箱の奥へとしまい込んだ。

 この、少女らしい小物にときめく心は、この身体の持ち主である「リリア」のものだ。だが、この身体を客観的に「可愛い」と評価し、あまつさえ性的な魅力を感じてしまったのは、紛れもなく「俺」の視点だ。前世で、綺麗な女性や可愛い女の子が着飾るのを見るのが好きだった、あの頃の願望が、自分自身を対象として歪に発露しているだけなのかもしれない。

 答えの出ない問いに、私はただ苦悩する。二つの自分が、一つの身体の中で絶えず綱引きをしていた。


 鏡の中の少女が、不安げに眉をひそめる。

「これは、本当に私なのか……?」

 その問いに、答えはない。

 過去の記憶と現在の身体、そして見えない未来への不安が入り混じった、複雑な感情の渦。それが、今の「私」だった。


 刺繍の稽古の時間は、その奇妙な同居が最も顕著に現れる瞬間の一つだった。

「まあ、リリア様。本当に上達が早いですわね。その薔薇の葉脈、とても写実的で美しいですわ」

 年配の女性教師が、私の手元を覗き込んで感嘆の声を上げる。私は淑女然と微笑み、「ありがとうございます、先生」とだけ答えた。その指先は、教えられた通りに繊細に針を運び、絹糸で優美な曲線を描いていく。この身体の器用さには、我ながら感心する。

 だが、その一方で、私の頭――いや、「俺」の頭脳は、全く別のことを考えていた。

『この葉脈の分岐パターン……主脈から側脈が出て、そこからさらに細かく分かれていく。自己相似性が見られるな。マンデルブロ集合ではないが、単純な再帰関数で……』

 思考に没頭するあまり、私はつい、心の声を漏らしてしまった。

「……ええ。この葉脈の分岐パターンは、フラクタル構造で近似できそうですわね」

 しん、と部屋が静まり返る。教師も、周りで刺繍をしていた他の令嬢たちも、ぽかんとした顔で私を見ていた。「ふらくたる……?」と誰かが呟くのが聞こえる。

 しまった、と思った。私は慌てて愛らしい笑顔を顔に貼り付け、「あら、ごめんなさい。何だか難しい夢でも見ていたようですわ」と可憐に首を傾げてみせる。貴族令嬢「リリア」と、元男子大学生の「俺」。二つの人格が、この身体の中で今日も奇妙な同居を続けている。


「リリア様、何をそんなに難しいお顔をなさって」

 ふいに、背後から柔らかな声がかけられた。

 振り返ると、侍女のアンナが心配そうな、それでいて面白そうな表情でこちらを見ている。彼女は、私の侍女であり、一番の親友だ。

「アンナ……。ううん、何でもないわ」

「また、不思議なことを考えていらっしゃったのでしょう? 『ふらくたる』がどうとか」

 くすくすとアンナが笑う。

 私が時折漏らす現代知識や男性的な言葉の片鱗を、彼女は「リリア様の面白いところ」として受け入れてくれている。その屈託のなさに、どれだけ救われていることか。

 二人の間には、主従関係を超えた、穏やかで親密な空気が流れている。友達以上、恋人未満。そんな言葉が、前世の記憶からふと浮かび上がった。


 そんな彼女への絶対的な信頼を決定づけたのは、数ヶ月前の嵐の夜のことだった。

 激しい雨音に誘われるように、私は前世の夢を見ていた。アスファルトの匂い、けたたましいクラクション、友人たちの顔のない笑い声。それらが混濁した悪夢にうなされ、私は叫び声を上げて飛び起きた。

「はっ……はぁっ……!」

 ここはどこだ。俺は誰だ。混乱する意識の中、私は震える声で、ただ一つの名前を呼んだ。

「……アンナ」

 すぐに扉が開き、寝間着姿のアンナが駆け込んでくる。彼女は私の尋常でない様子を見るなり、何も聞かずにベッドの傍らに座り、冷たい汗で濡れた私の手を握りしめてくれた。

「大丈夫ですわ、リリア様。大丈夫」

 理由を問わないその優しさに、私は堰を切ったように泣きじゃくった。アンナは困ったように微笑みながらも、私が落ち着くまでずっと、背中をさすり続けてくれた。この世界で、私の支離滅裂な恐怖を、ただ黙って受け止めてくれるのはアンナだけだ。この温もりがある限り、私は「リリア」でいられる。そう、強く思った。


 あの夜以来、アンナとの絆はより一層深いものになった。彼女と過ごす穏やかな時間は、この世界で私が唯一、心から安らげる瞬間だった。

 そんな、いつもと変わらないはずだった午後のこと。


「お嬢様、アラン様がお見えです」

 別の侍女の声に、穏やかな時間は終わりを告げた。

 アラン。私の婚約者だ。家が決めた相手で、実直で朴訥な青年騎士だと聞いている。


 侍女に案内され、客間の扉の前に立つ。深呼吸を一つ。これから会うのは、私の婚約者。顔も知らない相手だ。

『面倒くさい……』

 それが「俺」としての正直な感想だった。だが、「リリア」は公爵令嬢として完璧に微笑み、扉を開ける。

 そこにいたのは、想像していたよりもずっと大きな青年だった。騎士団のものらしい、実用的な装飾の制服に身を包み、緊張で石のように固まっている。日に焼けた肌と、剣のタコが目立つごつごつした手が、彼の生真面目さを物語っていた。

 私が部屋に入ると、彼はハッと息を呑み、その顔をみるみるうちに赤く染めた。

「あ……リ、リリア様。本日はご挨拶に伺いました。アラン・フォン・ベルシュタイン、です」

 しどろもどろに告げられる名乗り。そのあまりの純朴さに、私は思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。

 私は教えられた通り、淑女のカーテシーを完璧にこなしてみせる。

「ようこそお越しくださいました、アラン様。リリア・フォン・クライネルトと申します」

 その声も表情も、完璧な令嬢のものだ。けれど、心の中では冷静な「俺」が分析していた。彼はまだ「恋愛対象」ではない。ただの、「家の決めた相手」だ。そう、自分に言い聞かせた。彼の真っ直ぐな瞳が、なぜか少しだけ、私の心を揺らしたことには気づかないふりをして。


 数週間後、王家主催の夜会の日がやってきた。

 アンナに手伝われながら、私は初めて本格的な夜会服に袖を通していた。

 コルセットがぎゅうと締め付けられ、息が詰まる。肌に直接触れる絹の裏地は、くすぐったいような、それでいて落ち着かない感触を私に与えた。

「リリア様、少し苦しいですか?」

「だ、大丈夫……」

 アンナの手が私の頬に触れ、紅を乗せていく。その柔らかな感触に、心臓が跳ねた。羞恥と戸惑いで、顔から火が出そうだ。鏡越しに見えるアンナの瞳が、熱を帯びているように見えたのは、きっと気のせいではない。その指先は、私の肌の上を滑るたびに、微かな熱を残していく。

『なんだこれ……。化粧なんて、ただ顔に色を塗るだけの行為だろう? なんでこんなに、恥ずかしいんだ……』

 理屈では説明できない感情の波に、私はただ耐えるしかなかった。


 準備が終わり、アンナはうっとりとした表情で私を見つめた。

 その手つきはどこか名残惜しそうで、私の髪に触れる指先が微かに震えている。まるで、完成してしまった作品を、いつまでも手元に置いておきたいと願う芸術家のように。

「本当に……息をのむほどお美しいですわ、リリア様」

 その心からの感嘆の言葉に促され、私はおそるおそる鏡に視線を向けた。

 そこにいたのは、淡い青のドレスを纏った、知らない少女。

 銀の髪は編み込まれ、小さな宝石が星のようにきらめいている。頬はほんのりと上気し、唇には濡れたような艶。サファイアの瞳は、不安と期待の入り混じった複雑な光を宿していた。


『……綺麗だ』


 思ってしまった。心の底から、素直に。この姿を、綺麗だと。

 それは自己嫌悪とは少し違った。むしろ、男だった「俺」の美的感覚が、目の前の完璧な美少女を「最高傑作だ」と絶賛しているような、倒錯した満足感。そして、この美しい少女が「自分」であるという事実がもたらす、抗いがたい高揚感。

 可愛いドレス、きらめくアクセサリー。それに心がときめくのは、紛れもなく今の「私」の感性だ。だが、この姿を客観的に評価し、その価値を最大化したいと願うのは、かつての「俺」が持っていたプロデューサーのような視点だった。

 二つの感情が、鏡の中の私を挟んで、奇妙な共存を始めていた。


 きらびやかなシャンデリアが照らすホールで、私は壁の花になっていた。婚約者であるアラン様が、案の定、ガチガチに緊張した面持ちで私の前に現れる。

「リ、リリア様。その……一曲、お相手願えますでしょうか」

 差し出された手は、剣のタコでごつごつしている。私は淑女の笑みを浮かべてその手を取ったが、内心では『朴訥な騎士クン、顔が真っ赤だぞ』と面白がっていた。

 ワルツの調べに乗り、私たちはぎこちなく踊り始める。会話は途切れがちで、彼は私の顔をまともに見ることすらできないようだ。その初々しさが、なんだか小動物を観察しているようで微笑ましい。

 その時だった。酔ったらしい別の貴族がふらつき、私にぶつかりそうになる。危ない、と思った瞬間、アラン様が力強く私の腰を引き寄せ、彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。

「……っ、大丈夫ですか、リリア様」

 間近で見た彼の瞳は、驚くほど真摯で、心配の色を浮かべていた。どくん、と心臓が大きく鳴る。初対面の時とは違う、確かな「男性」としての力強さと熱。それに触れて、私の頬に一気に熱が集まった。

 曲が終わり、彼は慌てて私から離れると、「し、失礼しました!」とだけ言い残し、逃げるように去っていった。

 一人残された私は、自分の胸にそっと手を当てる。まだ、心臓がうるさい。

『面倒な相手だと思ってたのに……なんなんだ、今の……』

 彼の不器用な優しさと、不意に見せた男らしさ。そのギャップが、私の心に小さな波紋を広げていた。


 アラン様が去った後、私は火照る頬を両手で押さえながら、ホールで待機してくれていたアンナの元へと戻った。

「アンナ、見ていた?」

 少し上ずった声で尋ねると、アンナは完璧な侍女の笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、リリア様。アラン様と、とてもお似合いでしたわ。まるで物語のワンシーンのようでした」

 その声色も表情も、完璧だった。私の親友として、そして侍女として、主人の幸せを心から喜んでいるように見えた。

 だが、その完璧な笑顔の奥、彼女の瞳が一瞬だけ、寂しそうに揺らいだのを、私は見逃さなかった。それは嫉妬とも諦めともつかない、複雑な色。すぐにいつもの優しい光に戻ったけれど、確かに見たのだ。

 その瞬間、私の胸にチクリと小さな棘が刺さったような痛みが走った。アラン様に抱いた高揚感とは全く違う、ちくりとした痛み。その正体が何なのか、この時の私にはまだ分からなかった。


 夜会から数日が過ぎた、穏やかな午後。

 私は庭園の木陰で、分厚い科学書を読んでいた。前世の知識を忘れないための、ささやかな抵抗だ。

 不意に、がさがさと草を踏む音がして顔を上げる。そこにいたのは、訓練を終えたらしいアランだった。

「リリア様。……その、先日はどうも」

 彼は夜会の時よりもさらにぎこちなく、視線をあちこちに彷徨わせながら言った。

「アラン様。訓練、お疲れ様です」

「あ、はい。……リリア様は、読書ですか。……その、失礼ですが、それは何の御本で?」

 彼の視線が、私が開いている本の難解な図版に落ちる。貴族の令嬢が読むような恋愛詩集や歴史物語ではない。そのことに、彼は純粋な興味を引かれたようだった。

「これは……自然科学の、まあ、古い論文のようなものです。物事の仕組みを考えるのが好きなのです」

「仕組み、ですか。俺にはさっぱりですが……」彼は少し困ったように眉を寄せたが、すぐに真摯な眼差しで私を見つめ直した。「ですが、リリア様がそうして熱心に語られるお姿は、とても……魅力的だと思います」

 彼は不器用な言葉で、必死に私自身を理解しようとしてくれている。他の令嬢たちとは違う、私の風変わりな部分を、否定せずに受け止めようとしてくれている。その様子がなんだか微笑ましくて、私は自然と笑みを浮かべていた。

 ふと、彼が私の手元に視線を落とし、眉をひそめた。

「日差しが強い。……本に夢中になるのも良いですが、お身体に障ります」

 そう言うと、彼は私の隣に立ち、その大きな体で日差しを遮ってくれた。


 その瞬間だった。

 どくん、と心臓が大きく跳ねた。

 彼の真摯な眼差し。朴訥な、けれど確かな優しさ。それらが、私の心の壁をいとも容易く溶かしていく。

 これが「恋」という感情なのだと、知識では理解できた。けれど、心が、身体が、追いつかない。


『嘘だろ……』

 自己嫌悪よりも先に立ったのは、純粋な混乱だった。俺は、女が好きだったはずだ。なのに、なぜ。男相手に、この身体はこんなにも素直に、そして熱く反応してしまうのか。

 理性が、身体の本能的な反応に振り回されている。自分の身体でありながら、その制御権を奪われたような感覚。私は俯き、ただ震えることしかできなかった。


 その夜、自室に戻っても、胸の高鳴りは治まらなかった。

 ぼんやりと窓の外を眺めていると、アンナがそっと隣にやってきた。

「リリア様? 今日のアラン様との一件から、ずっと上の空でいらっしゃいますね」

 その声には、いつものような明るさがない。心配と、……ほんの少しの、寂しさ。夜会の準備の時に感じた、あの熱を帯びた瞳が脳裏をよぎる。

 私はハッとしてアンナの顔を見る。彼女は、ただ寂しげに微笑んでいた。その笑顔は、私の幸せを願う親友のものでありながら、同時に、自分の知らない場所へ行ってしまう私を見送る者の、諦めにも似た色を帯びていた。

 その瞬間、アランに向けたものとは全く違う、けれど同じくらい確かな感情が、私の中に存在することに気づいてしまった。

 この、誰よりも私を理解してくれる親友への、どうしようもない愛おしさ。守ってあげたいという、強い庇護欲。

 それは、前世で「俺」が女性に向けていた感情に、とてもよく似ていた。そして、夜会の準備の時に感じた彼女の熱っぽい視線を思い出し、アラン様とは違う種類の熱が、胸に灯るのを感じた。


 男性に惹かれる心。

 女性を愛おしいと思う心。

 どちらも、紛れもなく「私」のものだった。


「……私は、一体、何なの……?」


 絞り出した声は、夜の闇に溶けて消えた。


 答えの出ない問いに苛まれ、私は一人、月明かりが差し込む自室のバルコニーに出た。

 手には、いつものように前世の知識を忘れないための科学書。けれど、その無機質な文字列は、今の私の心には少しも響かなかった。それよりも、夜風が素肌を撫でる冷たさや、ドレスの裾がふわりと揺れる感触の方が、ずっとリアルに感じられる。


『ああ、そうか……』


 私はもう、記憶だけの存在じゃない。この身体で、この世界で、確かに「生きている」んだ。


 再び、鏡の前に立つ。

 そこに映っているのは、紛れもなく可憐な少女「リリア」。けれど、そのサファイアの瞳の奥には、かつての「俺」が持っていた分析的な光も、確かに宿っている。

 それはもう、違和感ではなかった。


 男だった過去を、捨てる必要なんてない。

 女である現在を、偽る必要もない。


 アラン様に向けられる、胸を焦がすような恋心。

 アンナに向けられる、守ってあげたいと願う庇護欲と、仄かな劣情。

 科学を愛する、知的な探究心を持つ「俺」の思考。

 綺麗なドレスにときめき、自分の美しさを楽しみたいと願う「私」の感性。

 そして、この完璧な美少女である自分自身を、最高の作品としてプロデュースしたいと願う、倒錯した欲望。


 そのすべてが、矛盾したまま、この身体の中で溶け合って、今の「私」を形作っている。

 それでいい。それが、いい。

 完全に女性になるのでも、男性の心を捨てるのでもなく、この複雑で、ちぐはぐな自分自身を、ありのままに受け入れること。それが、この世界で私だけの「普通」と「幸せ」を見つけるための、たった一つの答えなのだと、ようやく悟った。


 そっとバルコニーに戻ると、いつの間にかアンナが寄り添い、私の肩にショールをかけてくれた。その温もりが、じんわりと心に沁みる。

「何を考えていらっしゃったのですか?」

 優しく尋ねるアンナに、私は穏やかに微笑んだ。視線の先には、月明かりの下、訓練場で一人、黙々と剣を振るうアラン様の姿が見える。彼にも、そして隣にいるアンナにも、同じように穏やかな気持ちを向けている自分がいた。


「ううん、何でもないわ。――ただ、今夜は、私がとても綺麗だと思って。……この複雑な想いを、これからどう育てていこうかしら」


そう呟くと、私は隣に立つアンナの手に、そっと自分の手を重ねた。驚いてこちらを見る親友に悪戯っぽく微笑みかけると、彼女は少し頬を染めながらも、優しくその手を握り返してくれた。


 その言葉と表情には、もうかつてのような戸惑いはない。すべてを受け入れた者の、静かで凛とした強さが宿っていた。鏡が映し出すのは、もう知らない誰かではない。新しい人生を歩み始めた、確かな「私」の姿だった。

Pixivにも投稿しています。

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25503518


カクヨムにも投稿しました。

https://kakuyomu.jp/works/16818792438665748609

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