五話 逃走と闘争
日常も束の間、謎の柴犬の耳を付けた黒いスーツのグラサンを掛けたおっさんに目を付けられる。
おっさんを撒いて同級生のミノルとミカちゃんの待つ集合場所の橋に辿り着くことは出来るのか。
細い路地にお座りをして佇む、体格の良い柴犬の耳を付けた黒いスーツとサングラスを付けたおっさん。
友達のミカちゃんとミノルとの集合場所の橋は一つ先の曲がり角を右に曲がったところにある。
おっさん犬に目を付けられた以上はどうしても対峙は避けられない。
おっさん犬が口を開く。
「……貴女、能力者だね?」
唐突に私に向かって話しかけてくるおっさん犬。
四つん這いの状態で柴犬の耳と黒いスーツとサングラスを着用しているおっさんなんて、とんでもなくヤバい奴だ。
赤の他人に話しかけられた恐怖よりも、おっさん犬の見た目からの恐怖の方が上回っている。
どうにか逃げなきゃ。
「ふ、不審者……」
(……あれ、このおっさん犬……今、私のことを能力者って言った?)
何故、おっさん犬は私が能力者だということを知っているのか。
脱獄囚ドロスの仲間だから私のことを知っているのだろうか。
私に恨みを持ったドロスが、私に仲間を差し向けたのだろうか。
そこまで考えたところで、おっさん犬が四つん這いのまま私の方へと勢いよく走ってきた。
私の背後にある犬小屋で鎖に繋がれているドーベルマンは、おっさん犬を威嚇し続けている。
(ヤバい……!!逃げなきゃ……)
集合場所の方面へ向かって五〜六歩走り、辛うじて突進を躱す。
一車線の道路で対峙しているため道幅が狭く、おっさん犬との距離が近くに感じてより恐怖を感じる。
「逃げても無駄だよ。私には能力者かどうかを判別することが出来るんだ。犬に相当する私の嗅覚で匂いを嗅ぎ分けて、能力者かどうかが分かるんだよ。」
(このおっさん犬、意外と話せる……?)
恐怖心と警戒心は全く落ち着いていないが、足が震えて全力で走るのはまだ難しそうだ。
怖いけど、なんとか会話して時間を稼ごう。
「じゃあ、おっさ、おじさんも能力者なんだ」
おっさん犬は未だに吠え続けているドーベルマンに気に留めること無く、お座りのポーズのまま私の様子を見つめている。
サングラスが夕焼けを反射してギラリと光る。
「……そうだ。私の犬並みの嗅覚で能力者を判別出来る。知っていたかい?能力者からは決まった香りがするんだよ。普通の人には全く香らないが、甘く爽やかな林檎みたいな香りがする」
(回答がキモい……けど、おっさん犬も能力者なのが分かった)
話しながら四つん這いでジリジリと距離を詰めてくるおっさん犬。
一歩近づく度、私も一歩ずつ下がっていく。
「な、なんで近寄ってくるの?来ないで……」
「理由を貴女が知る必要は無い。さあ貴女の能力を出してみろ」
私の能力を警戒している……?
初撃の突進以降、おっさん犬も安易に距離を詰めてこないし、隙もあまり無いように見える。
足の震えは多少マシになった。
これならなんとか走れそうだ。
ゆっくりではあるが、後ろ向きのまま一歩ずつ橋へと近づいていく。
チラリと後ろを向き、曲がり角まで近づいているのを確認する。
鎖に繋がれたドーベルマンの姿は見えなくなったものの、今だに吠えている。
(……ドーベルマンの鳴き声を何かに使えるかも……そうだ、私の『想像と創造』でドーベルマンの鳴き声をパトカーのサイレンに変えてあげれば、おっさん犬の隙を作れるかもしれない。隙を作って逃げてスマホでママに連絡しよう)
本来ならエンプレスに連絡したいところだったが、エンプレスはスマホを持っていない。
『想像と創造』の能力を用いてエンプレスに連絡を取るにも、実現したい内容が想像出来ないことにはテレパシーのように連絡を取ることが出来ない。
ママに連絡すればエンプレスに今の状況を伝えられるかも。
距離を詰めたいおっさん犬と、距離を離したい私。
一歩一歩、ジリジリとしたやり取りが続いてる。
「能力を出さないか……じゃあ私から行くぞ!!」
しびれを切らしたであろうおっさん犬が私に向かって駆け出す。
走れる状態までメンタルを戻せたのは良かった。
初撃の突進から続けて攻撃をされていたら危なかったかもしれない。
能力を用いてドーベルマンの鳴き声をパトカーのサイレンに変化するように想像する。
(ドーベルマンの鳴き声をパトカーのサイレンに変えたッ!!)
ウーウーと周囲にパトカーのサイレンが鳴り響く。
おっさん犬にとっては当然、突然鳴り響いたように思えるサイレン音だろう。
駆け出した足を止め、おっさん犬は警戒するように辺りを見渡している。
(よし!狙い通り!!)
私はおっさん犬の隙を突いて、橋の方面へ一気に走り出す。
おっさん犬はまだ辺りを見渡しているようだ。
「パトカーは見当たらないがサイレンの音が聞こえる。それに、音はドーベルマンが鳴いていた場所から聞こえてくるな。よく聴くと、サイレンの音にしては断続的で不自然な感じだ。……これは、小娘の能力か!!」
実は私は運動神経は良くない方だ。
50m走をこの前測った時は9.5秒とかで、クラスの女子の中でも遅めのタイムだ。
後ろをチラリと見ると、おっさん犬が私に向かって走り出していた。
(曲がり角まで……もう少し……)
どんどんと距離を詰められているのを感じた。
私の速度では曲がり角に辿り着く前に追いつかれてしまう。
追いつかれそうな焦りから心臓が激しく鼓動し、暑い中を走ったせいで汗もダラダラ流れている。
今日の今ほどに自分の運動神経の低さを憎んだことはない。
だが、おっさん犬との距離を稼ぎながら次の手を考える時間は稼げた。
私はさっきドーベルマンの鳴き声をパトカーのサイレンに変化させて、おっさん犬に聞かせた。
つまりは私の能力を音を別の音に変える能力、とでも勘違いしているだろう。
能力を誤認させた隙を突いて行動できるチャンスだ。
「逃げても無駄だぞ小娘!!」
おっさん犬が吠える。
再度後ろを向くと、四足歩行では無く二足歩行で走っているではないか。
(……普通に走れるんだ)
心の中でツッコミをしつつ、左手をおっさん犬から死角になる胸の前に添えて、燃え盛る青い炎を灯す。
能力は同時に一つしか扱えない制約があり、左手から青い炎を発生させた為、パトカーのサイレンの音は元のドーベルマンの鳴き声に戻った。
この青い炎は見た目上は本物の炎に見えるが、実際は全く熱くない。
見た目では判別が付かないほどリアルなホログラムのようなものだ。
「”鬼火纏いの凛”の真の能力を受けるが良い。全てを燃やし尽くせ、『百鬼夜行・鬼火』!!」
おっさん犬の足元に向かって左手を掲げ、右手で左手の手首を掴む。
そして、道の端から端までを通る隙間の無いように青い炎を発射して道を塞いだ。
「炎で壁を作っちゃえば追ってはこれないはず……」
走る足を止め、呼吸を整える為に大きく深呼吸をする。
青い炎が音を立ててメラメラと燃えている。
おっさん犬が青い炎を突っ切らずに私を追う為には、交戦が始まった時に見た細い路地を通るのが最速だ。
その細い路地はおっさん犬からかなり後ろにある。
「わおぉおおおおおおおおん!!!!」
遠吠えだ。
おっさん犬の遠吠えだが、おっさんが低音で叫んでいるだけなので雄叫びの方が近いか。
おっさん犬が走り出す足音が聞こえ、段々と足音が遠ざかっていく。
恐らくはおっさん犬が待ち構えていた細い路地を通って川沿いの遊歩道を通り、私を追いかけようとしているのだろう。
「橋まで後ちょっとだ……ミカちゃんとミノルはもういるのかな……」
おっさん犬と距離を離せたとはいえ、走力にかなりの差があった。
悠長にしている暇は無いだろう。
スマホからママに電話をかけつつ、橋に向かって走る。
(集合場所だからって橋に向かってるけど、ミカちゃんやミノルのいる場所におっさん犬を連れていくのは危ないかも……ママが電話に全然出ない!!)
息を切らしながら曲がり角を右に曲がる。
コンクリートで出来た橋が目の前に飛び込んできた。
おっさん犬の姿は見えなかったので、まだ迂回の途中だと思われる。
「はぁ……はぁ……」
橋は車が一台通れる程の幅で、車道と歩道は分けられて作られているが、所々ヒビが入っていて年季を感じる橋だ。
橋の中央付近にはミノルが立っていた。
「文楽!!走ってきたのか!?」
ミノルと合流した。
ミカちゃんはまだ集合場所に到着していなかったみたいで姿は無かった。
背後に視線を向けたタイミングで、おっさん犬が角を曲がってくるところが見えた。
このままでは追いつかれてしまう。
おっさん犬にこのまま追いつかれてしまうと、能力者では無いミノルにも危険が及ぶ可能性がある。
どうする。
「はぁ……はぁ……ミノル、ごめん。手を繋いで一緒に川に飛び込んで」
「え、どういうこと」
「おっさんが来てるから早く!!!!」
ミノルの手を強引に取り、橋の手すりを超えて、転がるように落下した。
川までの高さは飛び込んでもケガしないぐらいだ。
水深は詳しくは知らないが大人でも足が付かない程には深そうだ。
しかし、二人は川へ落下することはなかった。
「文楽……これって何が起きてるんだ……?何で橋の下で空中で浮いてるんだ!?」
ミノルは私の片手を力強く握りしめながら、普通の人間が当然思うであろう疑問を叫ぶ。
「シッ!静かにして」
人差し指を立ててミノルの口に当てる。
ミノルが状況の理解を出来ないのは分かるが、今は説明している余裕は無い。
私とミノルは、橋の上からは死角となりおっさん犬からは見えない位置である橋の下にいた。
川に飛び込んだ直後、能力を使って透明の足場を創造して着地し、二人で橋の下に転がり込んだ。
傘を逆さまにし、持ち手の部分を橋の下に接着させて、二人で傘の生地の上に乗っているようなイメージだ。
二人で息を潜めていると、おっさん犬の声が聞こえてきた。
橋の手すりから身を乗り出して川を覗いているのだろう。
声がよく聞こえてくる。
「くそ……すばしっこい小娘め、川に飛び込んで逃げられると流石に追えないな……」
実際には川に飛び込んではおらず、橋の死角となる位置に息をひそめている。
空気を読んだのか、小声でミノルが囁く。
「文楽、おっさんに追われているのか?俺が今透明の床に乗れているのと何か関係があるのか?」
ミノルの口を私の手で塞ぐ。
おっさん犬は聴覚も良い可能性があるので小声でも今話すのは危険だ。
スマホに『追われてる』とだけ書いてミノルに見せると、ミノルは頷いた。
私達から離れつつあるおっさん犬の声が再び聞こえる。
「サイレン音を出したり青い炎を出したり、あの小娘の能力は一体何なんだ……必ず捕らえて親分の元に持っていかなければ」
おっさん犬の声も足音も聞こえなくなった。
夕日がかなり傾いて山に隠れ始め、日の色が段々とオレンジ色に染まってきた。
ミノルは私が押さえていた手から離れて口を開く。
「おっさんいなくなったっぽいぞ。能力がどうとか文楽を捕らえるとか言ってたけど……さっきの文楽の焦りっぷりを見ると本当のことみたいだな」
「……」
ミノルには能力等の事情を話しても問題無い気がする。
実際のところは分からないが、ミカちゃんがミノルの良い所を私に話していた時に、”口が固いところ”を良いところの一つとして挙げていた。
「ミノル、今から話す事は誰にも言わないでね」
「勿論言わないよ」
エンプレスの存在と能力の存在、私の能力、ドロスと交戦時に敗北して一度時間を巻き戻している事、おっさん犬に追われている理由は定かでは無い事。
全てをミノルに話した。
ミノルは少しの間黙って考え込んでいる仕草を見せた。
「今の話をもし男友達から聞かされてたなら全く信じられないけど……文楽が言うなら本当……なんだろうな」
ミノルの私に対する信頼度が物凄く高い気もするが、私の突拍子も無い話を信じてくれるのは凄く助かる。
「追っ手もいなくなったっぽいし、一旦橋に上がらないか?」
「そうだね」
ミノルと一緒にひとまず橋の上に上がる。
周囲を警戒しながら橋をよじ登り、おっさん犬の姿が無いことを確認する。
「おっさん犬……何処にもいないね」
大きく深呼吸をして強張った身体の緊張をほぐす。
そして、激しい戦闘で付いた服の汚れを手で払う。
辺りからは川のサラサラと流れる音、射し込むオレンジ色の夕日に近所の住宅からの焼き魚の香り。
地元の見慣れた光景が私を包み込み、実家のような安心感に浸らせる。
「クク……我、鬼火纏いの凛の白星をまた増やしてしまったな!!!!」
勝利宣言を上げて腰に両手を当てて高らかに笑う。
ミノルの方を見ると、川の上流の方を覗き込んでいた。
「……あれ何だ?文楽、ちょっと見てくれないか」
ミノルは川の上流の方角を指差した。
上流の方角には山に隠れつつある夕日が見えた。
夕日が眩しく、目を細めながらでしか見れない。
「ミノル、どうかした?」
「ほら、あそこだよ。あそこ。上流の方からこっちに何かが飛んできて無いか?」
手で夕日を隠してミノルが指を差した方向を注視する。
(カラス……?いや、もっと大きい……)
段々と近付いてくる飛行物。
カラスにしては大きすぎる。
「文楽、ちょっとまずいかもしれない。あれ、多分人間だよ。……人間が滑空してこっちに向かってきてる!!」
不意にスマホが揺れる。
ママからの電話だ。
「ママ……今はちょっと取り込み中すぎる……最悪なタイミングだよ!!」
「逃げるぞ!!文楽!!」
ママからの電話に出て即座にスピーカーに変更する。
そして、ミノルの後に続いて私も駆け出した。
走りながら滑空してくる人間をよく観察する。
黒いスーツにサングラスをかけているのが見えた。
(おっさん犬と同じ服装だ。おっさん犬の仲間……なのかな)
背中には巨大な羽が生えており、顔は真っ赤で明らかに能力者であることが見受けられた。
「ダメだ!あの滑空人間速すぎる!!こっちに向かって来てる!!」
ミノルの叫び声が辺りに響き渡る。
(走っても逃げ切れない……なら……逃げずに立ち向かう!!)