夢の中 ~フェリクスの過ぎ去りし日々~ 前編
「こんにちは」
彼女からこんな挨拶を受けたことが、これまでに一度でもあっただろうか。
生前から死後にかけての数十年分の記憶を探ってみるが、出てこない。
出てきたのは、「おう」「放せ」「黙れ痴漢野郎」その他バリエーション豊かな罵り言葉だけだ。
「コンニチハ」
同じように返してはみたが、ぎごちなくなってしまった。
フェリクスは低い位置から子どものように見上げてくる女の顔を見て、その場で立ち止まった。
時代がかった生成りのワンピース。頭には布を被って、艶のある髪の毛を隠している。
大昔の既婚女性の服装だ。日本人にしか見えない顔の清乃が着ると、子どもがごっこ遊びをしているようにしか見えない。
森の中をこんな女がひとりで歩いていたら危ないだろう。
一瞬だけそんなことを思い、ここは魔女の夢の中だとすぐに思い出す。この世界に棲む魔女に、本人が望まない限りは危険なことなど起こらない。
昔のことを考えていたせいで、少し混乱してしまっただけだ。
「あんた暇なんでしょ」
「忙しくはない」
暇しかない。
当然である。義務も欲求もないのだから、することがないのだ。
「一緒にお城行く?」
「用がない」
「じゃあなんでこんなとこ歩いてるの。行きたいんでしょ」
「なんでだよ」
フェリクスが見下ろしたままでいると、清乃はやれやれとわざとらしく首を振った。
地味にイラっとする。
「ユリウスもいるよ。ほら、おトモダチが誘ってあげてるんだからおいでってば」
彼女は口で促しはするが、自分から男の腕を引っ張るようなことは決してしない。ユリウス以外の男に触りたくないからだ。
「いつからおトモダチになったんだ」
「え? 昔からでしょ」
よく言う。
若い頃、清乃の異性の友人の座は、ユリウスのためだけのものだった。
フェリクスは知っていた。そのことに気づいてからも、正しい生き方を追求する彼女に敬意を表して黙っていただけだ。
清乃にとって、男の友達、が特別な意味を持たなくなった今だから、こんな適当なことを言うのだ。
「はいはい。じゃあおトモダチの女の子を送ってってやるかな」
「それはどうも」
「ユリウスは先に行ったのか」
「うん。朝一緒に行ったんだけど、エルヴィラ様が近くにフェリクスがいるみたいだから誘ってやって、ってここまで跳ばしてくださったの」
「ふうん。最近、ユリウスの様子はどうだ」
義務のない世界で、清乃との恋への執着だけを持って存在しているユリウス。
清乃が出て行ったきり帰って来ないと言う彼は、少しずつ精神に異常をきたしているように見えた。
この魔女の夢の中で正気を保っていられる者はそう多くない。
だから歴代魔女たちは、すぐに消えることを選んでいるのだろう。そうでなくては、この世界は拡がり続けているはずだ。
ユリウスの執着に危機感を覚えた清乃は、改善策を見つけるために出て行ったのだ。
おそらく家出を決意するまで、昼も夜も関係なくユリウスがくっついて離れなかったのだろう。最初は付き合い始めだから仕方ないかと許容していた清乃も、さすがにこれはおかしいと思い始めた。
そして彼女の信じる魔女に相談するために、城を訪ねた。
「だいぶいいみたい。まさかあの健全美少年がヤンデレ化するとは思わなくて焦ったよ。健全だから、なのかな」
最近のユリウスは仕事と称して城に通い、清乃の住むアパートにいれば蛇口をひねるだけで出てくる水を汲む、火を熾す、他にも城の維持に必要な作業をしているらしい。元王子のくせに。
あそこは中世の騎士が治めている場所だ。普通に暮らそうとするだけで、気の遠くなるような作業を必要とする。
決められた作業をし、時間になれば、子どもの頃に憧れた伝説の騎士と手合わせをする。
健康で健全な生活だ。
「おまえは平気そうだな」
「まあね」
「健全じゃないのな」
「否定はできない」
「頼もしい。あいつのこと、これからも頼むぞ」
ユリウスは保護者よりも恋人との時間を必要としているのだ。
フェリクスは従弟離れしなくてはならない。これは、喜ぶべき幸せな痛みだ。
「はいはい。おにいちゃん」
「またやばいと思ったら早めに呼べよ」
身体を動かさせてやれば、頭もスッキリするはずだ。清乃に付き合って屋内でじっとしているから、目の前にいる恋人を押し倒す以外のことを考えられなくなるのだ。
つまり半分は清乃のせいだ。
「うん。ありがとう」
「キヨは、最近の感染状況のほうはどうなってる」
「落ち着いてるよ。少しPKが残ってるくらい。便利だよね。立ち上がりたくないときに、すごい集中すれば本棚から次読みたい本を取れるようになった」
「立って自分の手で取ったほうが早いし疲れないな」
「悩ましいところだよね」
魔女クラスになればまた別だが、超能力などあってもそこまで特別なことはできない。
PKは自分の手足を使っても大体同じことができるし、ESPなどあっても自制しなければならないことばかりだ。
子どもの頃はテレパシーで遊んだことはあるが、フェリクスが成人する前には誰もが携帯電話を持つ時代になっていた。早くて確実、疲れない。
「生活に困らない程度に少しずつ吸収して、コントロールの練習をしておけよ」
「はい、先生」
「そしたら、妊娠の心配はしなくていいんだから、直にやらせてやれるだろ」
「なんであんたはそう気持ち悪いことばっか言うの? 言わなかったら死ぬの? もう死んでるんだから、言う必要ないでしょ」
無垢な少女のような顔をしているくせに、清乃はフェリクスが何を言っても動じない。
子どもをふたり産んだ経験のある老婆だから、ではない。彼女はキスのひとつもしたことのない娘時代からこうだった。可愛げというものが欠如しているのだ。
「他にやることがないんだから、ユリウスにとっては大問題だろ」
「あんたと一緒にしないで」
「おまえらはいいよな。ふたりでこっち来れて。俺は毎日独りだぞ。可哀想だろ。たまには混ぜろよ」
嫌そうな顔をしかけた清乃だったが、途中で気を取り直してにっこり微笑った。
無邪気で可愛らしく見える。タチが悪い。彼女がフェリクスに向けてこういう顔をするときは、必ず裏があるのだ。
「だから誘いに来てあげたんでしょ」
「それはどうも」
「でも今のはさすがにユリウスも引くと思うよ。大好きなお従兄ちゃんが自分の寝床に潜り込もうとしてると知ったら、ショックを受けるよ」
下品な話にも怯まないどころか反撃してくる。防御カが強すぎる。
「自意識が低いな。俺はキヨがいないユリウスのベッドには入る気はないぞ」
清乃はフェリクスと視線を合わせることなく、指折り数え出した。
「ブラコン、マザコン、ロリコンにショタコンか。すごいな。変態の見本市じゃん」
「今夜にでも変態の実力見せてやろうか」
「あんたそんなに寂しいなら、マリママに相手してもらったら? 何気に待ってるって言ってたよ。こっちには相手がいないはずなのになんで来ないのかなって」
「……おまえそれ、意味分かって言ってるのか」
清乃の貞操観が分からない。生前は夫、今はユリウス以外の男が触るどころか近寄るだけで嫌悪を露わにしていたような奴が。
何故そんな女に、娼婦のところに通えば、などと平然とした顔で提案されねばならないのだ。本当に意味が分かっているのか。まあ彼女のことだから、理解してはいるのだろうが。
「マリママも別のひとも、フェリクスなら歓迎するって言ってるよ。だから既婚者は想うだけにしときなよ」
「あ?」
「応援はできないけど、トモダチとして見守っててあげるからね」
「………………」
だから清乃はタチが悪いというのだ。
フェリクスのハジメテの女は、従姉のエルヴィラだ。
その頃の彼女はすでに魔女として認められた、アッシュデール王国にとって特別な女だった。
なんでもできる最恐で最強の女。
十一歳のときに魔女であることが確認されるよりも前からESPの能力が高く、また制御する能力にも長けていた。
そのため、フェリクスが無自覚に頭を弄って壊してしまう心配のない数少ない人間として、物心付く前から接触を許されていたうちのひとりだった。
一年も歳が離れていない。なのに彼女はいつもフェリクスの上に、精神的にもだが時に物理的にもだ、立っていた。
喧嘩は毎回負けた。早熟な彼女に口で勝つことは不可能だったし、殴り合いをしてもすぐに負けて泣かされた。
幼いフェリクスは制限されることが多かった。
乳母のルイーザとエルヴィラ以外の人間と間近で接することは許されなかった。
だから彼は、どんな扱いを受けても何度負けても、従姉の後をどこまでもついてまわった。
彼女と乳母だけが、フェリクスの世界のすべてだったからだ。
そんな彼の世界に、ある日突然天使が舞い降りた。
君の従弟だよ。世話をしてやってくれるか。
顔だけは知っていた国王夫妻がそう言って、生まれて間もない大切な我が子をフェリクスのために授けてくれたのだ。
その日から彼の世界の中心は、ユリウスになった。
不快感をすぐに察知し解消してくれる小さな世話係のおかげで、赤ちゃんだったユリウスはいつも機嫌良く笑っていた。誰もが彼を天使だと言って微笑まずにはいられなかった。
その頃から少しずつ外の世界に出る練習をしていたフェリクスは、立派なお兄ちゃんね、と褒められた。
学校に通えるようになってからも、放課後は急いで帰るようにした。
そんな従兄をユリウスは、いつも大喜びで出迎えてくれた。
そしてフェリクスがいないとつまらない、僕も一緒に学校行きたいな、と抱きついて離れないのだ。
天使を抱き締め返している時間は、フェリクスは幸せだけを感じていられた。
成長したユリウスはPKも日増しに強くなり、世話をされるだけではない立派な相棒になっていった。
息の合った連携でエルヴィラを翻弄し、彼女を倒せるまであと一歩のところまでになっていたのだ。
その矢先のことだった。
エルヴィラが女になった。そして魔女であることが確定した。
アッシュデールの魔女は特別な存在だ。
彼女たちは魔女の亡霊を従え、命令を下すことができる。
エルヴィラに魔女としての特別な教育と訓練、仕事が課せられる。従弟や弟の相手をする時間などなくなってしまった。
フェリクスが彼女を倒す日は、一生来ないのだと知った。
もうその頃には彼の世界は広がっていたから、そこまでのショックはなかった。
ただ悔しかった。その感情はいつまでも残り続けた。
いつかはユリウスとふたり、力を合わせて倒してやろうと思っていたのに。そしてもっと大きくなった暁には、ひとりででも勝ってやると、それだけを目標に、王族に課される厳しい訓練に耐えてきたのに。
なのに彼女と喧嘩をする機会は、その日を境になくなってしまった。
途端に何もかもが嫌になった。
どれだけ訓練を重ねようが、魔女に勝てる者などこの世に存在しない。頑張っても無駄だ。
ユリウスは寄宿学校へやられてしまった。フェリクスは宝物を取り上げられたのだ。
やる気のないままダラダラと学校に通い、決められたカリキュラムをこなした。訓練もやれと言われるから参加はした。
長期休暇にはユリウスが帰ってくる。
そのときに情けない姿を見せるわけにはいかない。フェリクスはずっと、彼のかっこいい従兄でいなければならないのだ。
その気持ちだけが、なんとかフェリクスを支えていた。
エルヴィラの姿はたまには見る。
同じ城内に暮らす王族だ。接点がなくなったわけではない。
彼女はいつもフェリクスを馬鹿にしたように見て、ムキになる彼を鼻で嗤うのだ。昔から変わらない、嫌な女だ。
あるとき彼は、その嫌な女がひとりでぼんやりと外を見ているところに出くわした。
エルヴィラは背が高い。
世の中の女性の半数以上を見下ろすまでに成長していたフェリクスも、彼女の身長にはまだ追いついていなかった。
十五歳。
人によってはまだ子ども子どもしている年齢だろうが、彼女はすでに大人の女に見えた。
長身に大人びた整い方の顔。骨格がしっかりしているために、立ち姿が美しいともっぱらの評判だ。
ほんの数年前までフェリクスと同じ形をしていた胸は、見るたびに存在感を増していく。そのくせウエストは成長することを忘れてしまったかのように細い。まろやかな曲線を描く腰のラインは、彼女がまだ十五歳であることを見る人に忘れさせた。
「何かあるのか?」