夢の中 ~ユリウス~ 前編
懲りずに前後編。
よろしくお願いします。
ユリウスは飽くことなく、目の前の幸せを見つめ続けた。
まだ開きそうにない瞼を縁取る睫毛。影と同じ色なせいか、ぎっしりと密生して見える。
肌は乳色。ほんのり黄色味がかった温かみのある白。
赤ちゃんのように全身から甘いミルクの匂いがしてきそうだ。全然しないけど。
その代わり、かすかにシャンプーの匂いがする。あまり強い香りではないから、今までは風呂上がりくらいにしか嗅いだことがない。
翌朝にも残っているのか。知らなかった。新しい発見だ。
清乃自身の匂いと混ざって、昨夜よりもユリウスの好きな香りに変化している。いつまでもこうして嗅いでいたい。
短い髪が乱れて、細い頸を隠す役割を放棄してしまっている。
乳白色の首筋、静脈が透けて見える。他の色が混ざらない真っ黒な髪の毛との対比を見ているうちに、落ち着かない気分になってきた。
細い頸に鼻を寄せると、昨夜かいた汗の匂いがわずかに感じられた。
このことは黙っておこう。
彼女はきっと、えっくさい? と言って離れようとするだろうから。
臭くない、いい匂いだと言っても、絶対に近寄らせてくれなくなる。お見通しだ。
絶対に言わない。こっそり堪能するのだ。
清乃はたまに、ユリウスたちのことを竜の子呼ばわりする。
白く細い首筋に吸い寄せられてしまう、今のユリウスは確かに吸血鬼じみているかもしれない。
歯を立てて血を吸うような蛮行はしない代わりに、なめらかな肌を吸う。物足りない。もう一度。もう一ヶ所。もうひとつ。
「…………ん」
眠り姫のお目覚めか。
と思ったら、身じろぎしただけだった。まだ起きないらしい。
「……んん? ユリウス?」
やっと起きたか。でももう遅い。
「……おはよ」
「おは、ええ? ちょ」
今更止まれない。拒絶の言葉が出る前に唇をふさいでやる。
「……キヨ。キヨ、好きだ」
「…………っ」
大好き、可愛い、綺麗だ。心に浮かんだ言葉を、そのまま口に出すことができる。
清乃はユリウスの恋人なのだから。それが許される関係だ。最高だ。
恥ずかしそうに潤んだ目。弱々しく抵抗する細い腕。拒否しないでと懇願するユリウスに、少しずつ力が抜けてくる。
逃げることを諦め、受け入れることを決めた彼女の手が、白金髪の頭をそっと撫でる。
ユリウスはこの手の感触が好きだ。清乃の手は彼の頭を優しく撫で、うなじ、肩、背中と遠慮がちに下りてくるのだ。
もっと触って欲しい。もっと触りたい。一日中ふたりきりでこうしていたい。
ずっとずっと、いつまでもこのままで。
それだけでいいのだ。
ユリウスにはもう、他に望むものなどないのだから。
「……だって好きなんだ。仕方ないだろう」
顎をテーブルに乗せて、ユリウスは憮然として呟いた。
「いや、だからおまえ何したんだ。相手を考えろよ。武士を相手にしてるんだろ」
色ボケした従弟のサラサラの髪を見下ろしたフェリクスが、半笑いでそう返した。
「……朝からちょっとしつこかったかもだけど」
「あー。あいつ嫌がりそうだな」
「……見えるところに跡付けたって怒られたけど」
「それはおまえ、マナー違反だ」
「誰が見るわけでもないんだから、少しくらいよくないか」
ユリウスはずっと我慢していたのだ。
魔女の夢の中、清乃とふたりで恋をやり直すことにした。生きている間は、年老いるまで叶わなかった恋だ。
交際を申し込んで、快諾された。あのときはもちろん、天にも昇る心地がした。
だけどやっぱり、出会った頃の若く美しい彼女と過ごす日々は特別なものとなっている。
歳降りた清乃は、少々のことに動じることはなかった。ユリウスのくちづけを、微笑んで受け入れてくれていた。
なのに、ここに来てから彼女は変わった。
昔のように、警戒心が強い小動物になってしまった。多分それは、警戒されるようなことばかり考えているユリウスのせいだ。
近づくと身構える。びくっとして離れようとする。
最初はショックだったが、その赤い顔や動揺を見ているうちに、感動に近い感情が胸に広がってきたのだ。
清乃は今、ユリウスを相手に恋をしている。恋人の姿を見るだけでどきどきする段階なのだ。
可愛い。いつも冷静な彼女がこんなふうになるなんて、想像もしていなかった。
可愛い。清乃をこうさせているのは、ユリウスだ。彼に恋をしているから、こんなに可愛らしい反応をするのだ。
愛おしい。抱き締めたい衝動にかられる。
だがしかし。慎重に反応を見ながらでなければ、嫌がられる。我慢が必要だ。
ユリウスは我慢した。
清乃が若い自分と恋人の姿に慣れ、外見年齢に相応しい付き合い方をする覚悟が決まるのをひたすら待っていた。
我慢の限界がきたら困るから、夜も一緒にいたい気持ちを押し殺して、別の部屋に帰る日々を過ごした。
ようやく結ばれたと思ったら、問題が生じて再び我慢し続ける日々が始まった。
清乃がESPのコントロール方法を覚えた。それが完璧になる前、ユリウスとの接触を絶っている期間にその能力は消えてしまった。
一気に吸収したからだろ、次からはちゃんとコレ使えよ。とフェリクスがどこからか手に入れて寄越してきたもののおかげで、二回目以降の朝は平和なものとなっている。
どこにあるんだ、と訊いたら、フツーにそこのコンビニに売ってた、と返ってきた。
ユリウスが行ったときにはなかった。多分、生前に買った記憶がないからだ。何故フェリクスは日本での購入経験があるのだ。そっちのほうがおかしいだろう。
まさか今後ずっと、彼からしか入手できないということか。結構嫌だ。清乃にバレたらまたひとりで葛藤を始めそうだ。これの入手経路は隠しておく必要がある。
「つまりアレか。離婚原因になるやつ」
性の不一致。
「やめろ」
「だってそのせいで家出されたんだろ」
「行き先は分かってるんだ。エルヴィラを捜しに城に行きたいって言ってたから」
「……ひとりでか」
何があるかも分からない場所にである。清乃らしくない無茶をしたものだ。
「多分無事。マリと一緒に行ったんだ」
「それでもう一週間なんだろ」
心配はしている。
が、多分この世界に、清乃を害すモノは存在しない。
この世界は、彼女に優しい。彼女に言わせれば、ユリウスが一番危険な存在なのだろう。
「…………迎えに行くべきかな。まだ解決方法が見つかってないんだけど」
「我慢する気はないと」
「できる気がしない」
真顔のユリウスに、フェリクスは笑うしかない。
「まあなあ。まだ十八? だもんな。無理か」
「無理だ」
「話し合え。とりあえず迎えに行ってやれよ。キヨだってきっと待ってる」
フェリクスの言うことも尤もである。
これから先もずっと一緒にいたいと思うのならば、話し合って一緒に問題を解決していく必要がある。
清乃は帰るキッカケが掴めずに意地を張っているだけだ。
ここはユリウスが大人になって迎えに行ってやるべきだろう。
そして、どれだけ彼女を想っているか伝えて、理解を求める。譲歩もする。
ふたりの意見が違うのであれば、落とし所を探せばいい。
昔のように、アッシュデールか日本か、どちらかしか選べない状況ではないのだ。こんな些細な問題、幸せの一部でしかない。
清乃はきっと、ユリウスの迎えを待っている。早く行ってやらなくては。
「楽しそうだな」
フェリクスがおかしそうに笑う。
「そのようだ」
ユリウスは憮然として相槌を打った。
こんなことだろうと、本当は分かっていた。少し夢を見ていただけだ。だってここは夢の中だ。夢見るくらいいいだろう。
清乃が笑っている。
時代がかった生成りのワンピースに、頭には布を被って黒髪を隠している。
中世の既婚女性の扮装である。出て行ったときは少年の振りをしていたはずだ。何故あんな格好を。意外と似合うな。日本人顔の清乃が着るとコスプレ感が強いが。可愛い。
地面に敷いた布の上に座り、彼女の大好きな「綺麗なおねえさん」を見てにこにこしている。
あれはここの女主人か。若い頃の父や兄と似たような色合いの、長い金髪の婦人。遠目にも上品な美しさが見て取れる。多分先祖だ。
清乃が好きそうだ。というか絶対好きだ。だってほら、うっとりしている。絶世の美少年といわれていたユリウスには絶対あんな顔を向けないくせに。
何故だ。美形が好きなら、この顔でもいいはずだろう。好きなだけ見て触れてくちづければいいのに。
赤褐色の髪の少女、あれはエルヴィラか。なんだあの姿は。何故子ども。幼いのに可愛くない。なんて奴だ。
他にもふたり、若い女性がいる。身分の高い使用人か、それとも領主の親族か何かか。
全員で座って、仲良くおやつタイムのようだ。
お茶とお菓子と美女。
清乃の好きなものばかりではないか。なんてことだ。いつまでも帰って来ないわけだ。
「……帰ろうかな」
嫌になって呟いたユリウスの背中を、苦笑顔のフェリクスが押す。
行きたくない。何しに来たの? と言われるのがオチだ。
「おや。侵入者かな」
竜まで出て来た。憧れの騎士。
「……紅い竜殿。家の者がお世話になっております。迎えに参りました」
「ああ。キヨの」
含みのある笑い方をして、赤毛の騎士は清乃たちのほうへ歩いて行った。ついて来なさい、の仕草に、仕方なく後ろに従う。
「……格好いいな、紅い竜」
伝説の姿に、フェリクスも興奮を隠せない様子だ。
「うん。前見たときより若い気がするな。三十半ばくらい?」
普通にのんびり歩いているだけに見えて、隙がない。彼はきっと、どこからどんな攻撃が飛んできても、軽々と受けて返すのだろう。
彼は魔女ではない。ハリボテのはずだ。なのになんだこの存在感。
従兄とふたり、キラキラした眼で紅い竜に従って歩く。
少し進んだところで、茶会中の女性陣がこちらに気づいた。
「あら」
父と兄と同じ髪、だと最初は思った。近づいて見たら、輝きが違った。長さがあると迫力がある。絵画のように煌めき、その輝きに負けないほど、彼女は顔も美しかった。
ユリウスは女性の顔の美醜に、あまり興味がない。自分がその顔だからだろ、とよく言われる。そうなのかもしれない。
清乃のことはいつも可愛いと思っているし、美しいとも思う。生前の妻には、心からの賛辞を何度も送ってきた。
でも他の人物の外見に心動かされた経験はほとんどない。
そんな彼が、清乃の隣に座る美女の笑顔には圧倒された。
彼女は紅い竜の姿を見つけた瞬間、花開くように微笑んだ。とろけるような笑みを浮かべたまま、いとも優雅に立ち上がった。
竜がせわしなく美女の元に足を進める。妻の手の甲にそっとキスをして、幸せそうに微笑む。
美しい夫妻だ。
普段であれば、うへえ、とでも言ったであろう清乃も、そんなふたりをうっとり見ている。
「ご歓談のところを邪魔して申し訳ない。彼はキヨの迎え、で合っているかな」
「えっと、多分はい、です。ごめんユリウス、迎えに来てくれたの?」
「……一応。迷子になってるのかと思って」
む、と顔をしかめた清乃だったが、茶器を返して大人しく立ち上がった。