過ぎ去りし日々 ~エベラルド~ 後編
エイミーを抱いたまま店に戻ると、スミスは本当に働いていた。
重い水桶を運び終え、昼前の空いている時間にと床掃除をしているところだった。
「…………ただいま戻りました」
「おう、エベラルド。エイミーのご機嫌は直ったみたいだな。ありがとう。助かったよ」
お偉いはずの騎士様が、這いつくばって床を磨いている。マジか。
「すみません、すぐ代わります」
「いや、おまえはその前に」
「……………」
食堂の主人が、無言で卓のひとつに皿を運んできた。
「?」
エベラルドが訝しげにその様子を見ていると、主人は短くひと言、喰え、とだけ言った。
賄いというやつか。客の食べ残しをもらったことはあるが、こんなしっかりした食事を出されたことは今までに一度もない。
日雇いの小僧だし、こんなものか、と思っていた。
「……いただきます」
よく分からないが、喰えと言うなら、主人の気が変わらないうちに食べさせてもらおう。
エベラルドは左手に赤子を抱えたまま椅子に座った。
スープと鶏肉の煮込みの中間くらいのその料理は出来立てらしく、まだ湯気が立っていた。
「うま」
思わず呟いたエベラルドに、スミスが破顔する。
「エベラルドが食べ終わるまでエイミーはこっちに来い」
「あ」
父親の手でひょいと持ち上げられたエイミーは、途端に泣き出した。
「どどどうしたエイミー。お父さんだぞ!」
「もうすぐ寝そうだったのに動かすから」
「そういうことは早く言ってくれ!」
前振りなく取り上げたくせに。
「……その子も女の子なら、顔のいい若い男のほうがいいんだろ」
ボソリと呟いた主人を、スミスが睨みつける。主人が降参の両手を挙げる。
「何やってんだよ。すぐ喰い終わるから待っててください」
「おまえ今日ちょくちょく言葉が崩れるな。わざとか」
「さあ」
エベラルドが熱い食事をかきこむ間中、食堂内にはエイミーの泣き声が響き渡っていた。
翌日、自分の担当の洗濯を済ませてから重い長剣を振る練習をしているエベラルドのところに、スミスがやって来た。
「肩に力が入ってるぞ。それじゃあまともに動けない」
「はい」
簡単に言ってくれる。重いものを持つのに力を入れるなとは。
「見てろ」
そう言ってスミスは腰の剣を抜き、軽々と振ってみせた。
それは体のでかいあんただから出来ることだろう。
言いたいが言えない。
「ご指導、ありがとうございます」
「全然分かって無さそうだな。まあ俺もおまえくらいの頃はそうだった。だが貴族の子は十やそこらの子でもこのくらいの動きはするぞ」
「……ああ、はい」
確かに従者仲間のなかでも比較的父親の身分が高い者は剣の扱いが巧い。
「あいつらはもっと小さい頃から教師がついているからな。俺たちみたいなのとは最初から差があるんだ」
「……はい」
「おまえは頭がいいし、身体の使い方も巧い。すぐに追いつくはずだ。これでも食べて頑張れよ」
スミスは腰に下げた袋から出した油紙の包みをエベラルドに差し出した。
「ありがとうございます?」
パンだ。燻製肉も入っている。
何故スミスがこんなものをエベラルドに。
「……昨日帰っておまえの話をしたら嫁さんに怒られてな。娘の恩人に渡せと言われた」
大袈裟な。
エベラルドは笑いを我慢出来ないまま、同じ中隊所属というだけの縁しかない騎士を見上げた。
「恩人はスミス様です。昨日の帰り際に受け取った給金が、何故かいつもの倍でした」
「あれはあの主人が悪いからだ。相場の半分の給金で、しかも食事も摂らせず子どもを一日中扱き使うとは」
そんなことにはとうに気づいていた。
それでも、他に雇ってくれる店がなかったからありがたいと思うしかなかった。
「自分では交渉できなかったから。助かりました」
食堂の主人は、騎士であるスミスの言うことだから、大人しく非を認めたのだ。世間知らずの小僧が騒いでも、一笑に付して終わったはずだ。
「……知ってたのか」
「何度も遣いに出されてたら、相場くらい分かります。他に雇ってくれるところが見つかったらすぐに辞めてやろうと思ってた」
相場の給金に加えてまたあの美味い賄いを食べられるなら、まだしばらくあそこに通ってやってもいい。
「そうか。さすが賢いな。嫁さんにも言われたよ。汚れたオシメの洗濯までしてくれてる、あんたよりもその従者の子のほうがよっぽど賢くて人間出来てるってな」
「そうかもです」
「なんだと」
「少なくとも俺は、自分の子の機嫌くらいは取れる親父になる」
歳若い騎士は、従者の言葉に顔を覆って落ち込んだ。
「……仕方ないだろう……。戦から帰ってきたら生まれてたんだ。その後もすぐ国境に駆り出されて。父親の顔を見て泣く子をどうしろと」
そんな事情があったのか。騎士というのは難儀な職業だ。職業は違うか。生き様、騎士道の追求者、だっけ。
「へえ。娘さん、スミス様に似てて良かったですね」
「……おまえそれ意味分かって言ってるのか。子どもじゃなかったら斬られても文句は言えないぞ」
「なんかこないだそんな話を聞いて」
留守にしてる間に嫁が産んだ子が、自分でも嫁でもなく隣人の旦那に似てるんだ。
非番の騎士が昼間から、自棄糞のように笑い飛ばしながら酒を飲んでいたのだ。
「純真無垢な美少年がだいぶ染まってきたな……」
「あ?」
「いいや。頑張り過ぎるなよ。たまにうちに子守りに来いよ。嫁さんもエイミーも喜ぶ」
「はあ」
行かないけど。
エベラルドは、これ以上の厚意をスミスから受け取る気はない。
施されるのを厭うたわけではない。
彼の言葉を真に受けて訪問し、赤子の相手をしたら、きっと美味い飯を喰わせてくれ、帰り際には子守り賃だと小銭を握らせてくれる。
そのくらい受け取っても、彼の矜持は傷つかない。
スミスがいいひとだから、怖くなってしまったのだ。
エべラルドには、従者仲間と協力して仕事をしているときも、ムカつく従騎士に悪戯を仕掛けて笑い転げているときも、片時も消えることのないどす黒い気持ちがある。
この憎しみを捨ててしまいたくなりそうで、怖くなったのだ。
再びスミス家を訪れることのなかったエベラルドに、ウォーレンは強要したりはしなかった。
ただ時折、食べる時間がなくなった、だの子どもにオヤツだ、だのと言って惣菜や菓子を寄越してくる。
その場にいる他の従者にも同じように配るから、礼を言って受け取るしかなくなる。
餌付けしてんなよ、と思うこともあるが、そういう騎士は他にもいるのだ。
ガキ共しっかり喰ってデカくなれよ。喰って寝て元気になって、仕事も鍛錬もそれからだ。
彼らはエベラルドの大嫌いな生き物だったはずだ。
なのに彼らは、エベラルドの故郷にいた大人のように、子どもたちを守り育てようとしていた。
「失礼いたします、スミス夫人」
エベラルドは顔くらいは何度も見たことがあるが、直接言葉を交わしたことのないミリーに初めて正面から挨拶をした。
彼女は前触れなく自宅に現れた国王の姿に驚き、固まってしまった。
「ミリー、すまない。でも俺のせいじゃないぞ」
おまえらは入って来るなと近衛をスミス家の前に放置して、エベラルドは左手で赤子を抱いたまま右手でミリーの手を恭しく持ち上げた。
貴い女性への礼を表す仕草。
彼は戸惑う手の甲に額付けた。
「御礼に伺うのが遅くなりました。あなたからいただいたお心のおかげで、俺はここまで生きてこれた。ご恩を忘れたことはごさいません」
「……ええと?」
「パンも燻製肉も美味かった。チーズも、ふかした芋も」
その昔、常に腹を減らしていた少年にと食べ物を持たせてくれた夫妻は、顔を見合わせて困っている。
それはそうだろう。彼らにとっては当たり前のことだったのだろうから。
彼らは辛い仕事と空腹、寝不足とを常に抱えていたエベラルドに、ただの子どもでいられる時間を与えてくれた。
腹が減っていたら、どんどん暗く惨めな気持ちになってくる。奮い立つにも時間がかかる。
彼ら夫妻は同情でも善行でもない、腹を減らしている子どもがいるから、なんて当たり前だけど全然当たり前じゃない理由でいつもエベラルドの腹と心を満たしてくれた。
もらった物にかぶりつくその短い時間、エベラルドは確かに幸せだった。
あの日々が、あの時間があったから、エべラルドは大人になれた。騎士たる己の責務をまっとうし、大切な人々を守る道を間違えることなく選ぶことができた。
当時は決して認めたくなかったこの感謝と尊敬を、ようやく伝えることができた。
「あの」
「でも今はとりあえず、この子の尻を拭く布をいただけますか」
「あっはい。ここに」
「おい祖父さん、これ。洗っとけよ」
「何故おまえが仕切る」
てきぱきと赤子の世話をする国王の耳に、慌ただしい足音が聞こえてきた。
これは騎士の走る音だ。鎖帷子を着け、長剣を腰に差した男の出す音。
「お義母さん、ご無事で……っ」
駆け込んできた男を見て、エベラルドは軽く声をかけた。
「おう、アル」
「…………陛下」
「どうした。血相変えて」
「……騎士団長邸に暴漢が押し入ったと聞いて」
「誰に」
「自分です」
片手を挙げた近衛に、エベラルドは片眉を上げてみせた。
「……暴漢らしく暴れるかな」
首を回し指を鳴らす王に向けて、ミリーが笑顔で外を指し示す。
エベラルドは彼女に優雅な仕草で頭を下げてみせ、アルの首を捕まえて外に出た。
腰の長剣を主君に奪われた近衛は距離を取りつつ外の警戒に当たる。
護衛のためというより、国王が暴れる姿を外部に漏らさないためである。
そこへ別の騎士も現れた。
「あ、お疲れさまです。どうぞ。暴漢が暴れてますので取り押さえてください」
近衛の案内に、ニコラスが半笑いで剣を抜く。
「おう。任せとけ」
「お義父上は城下ですか」
「そうだろ。引退してるんだから、こんなとこまで来ねえよ。てか義父じゃねえ。クロエはデイビスの娘じゃねえっつってんだろ」
「あっ急いでください。アルが勝っちゃいますよ。あのひと最近体動かせてないから」
「大丈夫だ。ほれ、上手いことウォーレンが妨害に入った」
エベラルドは仲間の近況を知る、たったそれだけのことすら難しくなった。
彼らが今何をして何を考えているのか、何も教えてもらえない。
彼らに喜ばしい出来事があっても、逆に何かに苦しむような状況に置かれていても、エベラルドはその知らせを耳に入れてもらえないし、力にならせてもらえない。
だが、エベラルドが鳥籠の生活に倦んだとき、辛い思いが澱のように溜まって昏い目をしているとき、彼らは駆け付け、ほんの少しだけ昔のように仲間に入れてくれるのだ。
「よかったね」
アデライダはそれを、エベラルドが何も言わなくても察して微笑むのだ。
「何がだよ。アルの奴本気でやりやがって。腹ぁ切られたんだぞ」
「ふうん。それだけで済んでよかったね。あんたもういい歳なんだから。日々鍛えてる若い子には勝てないよ」
「俺だって現役だったら、あんなガキに遅れを取ったりしない」
「はいはい」
エベラルドは寝台に転がり、優しく細められた金茶の瞳を見上げた。
「本当だぞ。明日から毎日時間を作って鍛え直す。十年後も若い奴らには負けねえ。エルバに俺の未来を視させてみるか」
「やめなさいよ。あの子の能力を遊びに使わないの」