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夢の中 ~誠吾とユリウス~ 前編

 やだなあやだなぁ。

 ぶつぶつ言いながら、誠吾はアパートの一室の前で立ち止まった。


 今日ユリウスはキヨの部屋か。てことは、ふたりは明日朝は起きて来ないな。せっかく弟と再会したってのになあ。

 フェリクスはそう言って笑っていたが、誠吾は笑えない。

 大昔、何十年も前に一度だけ姉夫婦の家に泊まったことがある。親の使いで訪問した際に、義兄に酒を勧められて飲んでしまったのだ。

 あの翌朝も気まずかった。

 まだ新婚間もない家庭のアパートだった。リビングに布団を敷いてもらい、同じ寝室に消える姉夫婦におやすみなさいと言った。

 そのとき急に、一緒に育ってきた姉は人妻になったのだと実感が湧いたのだ。その生々しさに、言葉は悪いがぞっとした。

 次の日の朝起きてすぐ、朝食も遠慮して早々に帰宅した。


 義兄と姉は少し歳が離れていて、そのせいもあって清乃は平均よりも早くに寡婦となった。そのときの憔悴ぶりは今でも覚えている。

 らしくねえな、元気出せよ。などと軽く言えるような空気ではなかった。

 たまにしか会わない弟の出る幕はなく、彼女の子どもふたりに任せるしかなかった。

 ドライな姉のドライな夫。はたからは冷え切っているようにも見える夫婦だった。互いを認め合い信頼し合っていただけだ。そのことをちゃんと分かっている、彼女たちの同じくドライな子どもたちは、黙って母親に寄り添っていた。


 あるとき姉は勝手に立ち直り、それぞれに家庭をつくっているふたりの子どもに別れを告げ、アッシュデールに移住してしまった。

 なんだそりゃ。甥から話を聞いた誠吾は、それしか言えなかった。

 今更何するつもりだよ。ユリウスだってとっくに結婚して子どもも孫もいる。今更なんで。

 慌てて姉を止めに行ったが、彼女はもう決めたから、と涼しい顔でのたまった。

 勝手にしろ。

 勝手にするよ。冠婚葬祭には帰って来るから。なんかあったら早めに連絡して。

 清乃からは何も聞いていない。

 でも誠吾には分かっていた。

 彼女は、いつの間にか魔女狩り組織の一員となっていたのだ。


 十年近く音沙汰無かったユリウスから、また連絡が来るようになった。姉夫婦とも交流があると聞いていた。

 彼が清乃に恋い焦がれていたのは、十代の頃の話だ。互いに別のひとと結婚し、それは過去のこととなったのだろう、だから姉の夫とも平気で会うことができるのだ。

 恋ではなくなっても、友人としての付き合いは続けたい。そういうことなのだろう。

 そう、思っていた。

 それだけではなかった。清乃は誠吾の知らない間に、向こうの世界に引き摺り込まれていた。

 姉がアッシュデール移住を決めたと聞いてから、誠吾はようやくそのことに気づいたのだ。

 気づいたからと言って、決定事項として話す清乃を引き留めるのが無理なのは明らかだった。

 これ以上はやべえと思ったら連絡しろよ。日本刀研いで迎えに行ってやるから。

 それだけ言っておいたが、あの頑固な姉は、日本にいた頃と同じように業務連絡しか寄越して来なかった。

 代わりにユリウスから、また清乃の付き人を名乗る人物から、定期的にメッセージが届いた。

 清乃は元気にしている。読書する習慣も変わっていない。たまには身体を動かすよう周囲の人間が気をつけている。

 快適に暮らしてやがる。老人ホームか。

 内容が変わらない連絡にうんざりしていたところに、ユリウスの妻が亡くなったと、旧友から報された。

 少しずつ同年代のそういった話が増えてくる歳頃だった。

 それから数年が経っただろうか。


 ユリウスから、珍しく音声での通信があった。そのときに顔も見た。

 改まってなんだよ。

 訝る誠吾に、美少年だった頃の面影をわずかに残したユリウスは頭を下げた。

 キヨに交際を申し込んで、了承を得た。セイの許可も取らなきゃと思って。

 今更何言ってんだよ。としか思わなかった。


 義兄が亡くなって十年以上が経っていた。

 姉はその間、異国で独りで生きてきた。

 友人や世話人は多くいた、どうやら魔女として敬われ丁重な扱いを受けていたらしいが、それでも家族のいない異国での暮らしは孤独だったに違いない。

 若い頃は何よりも清乃を優先していたユリウスには家庭がある。

 彼に頼って生きることは、清乃なら絶対しない。しなかったはずだ。

 ユリウスも同じだ。清乃の生活を気にかけても、精神的な支えになろうとはしなかっただろう。彼には妻があったから。

 そんなふたりが、配偶者を亡くしてから、大昔に忘れたままになっていた恋情を思い出した。


 もういいだろ。もう、そのくらい許してやってくれよ。

 ふたりとも、いつ何があっても不思議でない年齢だ。

 最後に夢を見るくらい、許してやったっていいだろう。

 武士の名を冠した清乃は、誰に教わるでもなく仁義礼智信を重んじて生きた。騎士道精神を胸に生きるユリウスだって似たようなものだ。

 ふたりは誰に恥じることのない人生を生きた。自分のために他人を不幸にすることを良しとせず、周囲に対する不孝を悪とし、己の信じる道を歩んだのだ。

 彼女たちは、大切に想う人々を守って生きた。

 だからもう、いいだろう。死ぬ前のほんのわずかな時間、昔の恋を思い出す夢を見るくらい。


 ジジババの恋愛事情なんざ興味ねえ。いちいち報告すんな。勝手にしろ。

 誠吾がそう言うと、同年齢であるはずの美しい男は、昔のように綺麗に微笑った。


(まさか夢を見続けてたとは思わねえだろ)

 ユリウスが逝ったと聞いてから何年が経ったんだっけ。

 ふたりはあれから、ずっと一緒にいるのか。もう夫婦だろ、それ。昨夜はそういう顔をして、同じ部屋に消えていった。

 この清乃が大学時代に住んでいたアパート、に見える、の中では、夫婦として暮らす外見年齢二十代のふたりがいる。

 生前新婚時代の姉宅で感じたのと同じ躊躇を覚える。ぞっとする。

 入れねえ。

 ピンポンも押したくねえ。

 

 昨夜は混乱したまま、ユリウスが住んでいるという部屋に泊めてもらった。

 これは六歳頃の身体、と言うミカエルと風呂に入り、ひと組しかない布団を敷いて眠った。

 それまでにも同じようにしてきた。

 当然のこととして、幼い子の世話をする要領で接してきたのだ。危険な行動をしないか、ちゃんと頭を洗えているか、寝床は寒くないかと、気にかけてきた。

 だが、その子はおまえの子だ、と言われてから、誠吾は緊張しっぱなしだ。

 ミカエルはけろっとして、変わらぬ態度で誠吾を見上げている。


「お父さん、一世紀も生きてた割りに若いね。そんな気にすることないよ。伯父さんも伯母さんも、ついでに僕も高齢者だから」

 そう言って彼は、背伸びをしてインターフォンを押した。

 中からはすぐに反応があった。

 良かった。起きてた。まあもう午が近いから当然かもだけど。良かった!

「おはよう。ふたりとも旅の疲れは取れた?」

 キラキラ王子様、ではもうないんだっけ、元王子の笑顔が眩しい。そういえばこいつ、若い頃はこんな感じだった。眩しい。

 長旅後のふたりを気遣って、この時刻まで待っていてくれたのか。別の方向に気を回して欲しかった。

 長旅だったけど。ここなら電車で数時間の距離だったな、とふと気づいてしまった。

 まあもうどうでもいいけど。四次元的におかしい場所も多々あるようだから、ひとりで辿り着けた気はしないし。

「うん。昨日はお父さんと一緒に寝たよ」

「そうか。良かったな。それでセイはその姿になったのか」

「?」

 誠吾がきょとんとすると、ユリウスが指摘してくる。

「昔は十代も三十代もセイは変わらないなと思ってたけど、やっぱり急に変わると分かるぞ。昨日より歳を取ってる。無意識のうちにミカに合わせたんだろ。二十六歳だな」

 言われてなんとなく自分の顔に触れてみると、顎にざらりとした感触があった。

 髭か。こっちに来てから剃った記憶はないが、剃り残し程度にしか生えていない。昨日まではもっと柔らかい手触りだった気がする。


 あのときの子、ってことは俺が二十のとき、ジェニファーは十八で子どもを産んだのか。うわあああああ……。

 昨夜はそんなことを考えながら、可愛らしい寝顔を眺めていた。

 ミカエルが六歳の頃、誠吾は二十六歳。中学校で剣道部の顧問を任され、授業準備や保護者対応にも追われて、あまりにもブラックな環境に毎日毎日辞めようと考えていた頃だ。

 あのときにこの子の存在を知っていたらどうなってた?

 そんなことを考えるうちに、二十六歳の身体になってしまったということか。


 ここは魔女の夢の中。

 死者の想いが創った世界。

 その死者、には誠吾も含まれている。

 誠吾の想いが、誠吾の姿を変えた。ということだ。

 今更だが、とんでもねえところに来ちまった。


「……ユリウスも、同じくらいか」

「あっ、僕のこの六歳の姿ね、伯父さんたちに合わせようと思ってやってるんだ」

「そうか」

「うん。伯父さん、伯母さんは?」

「ああ。中にいるよ。動くのが億劫だって」

 死んでからもモノグサな奴だ。自宅への客を彼氏に応対させるとは。歳を取ってそのへんの感覚まで鈍くなったのか。

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