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夢の中 ~誠吾~


「ねえお願い。わたしのこと、今だけは普通の女の子だと思ってよ」


 あの女がそう、懇願してきたのだ。

 生まれとか育ちとかその能力だとか、そんなものはなくても、まず見た目からして普通の女じゃなかった。

 ふたつ上の兄によく似た、繊細かつ圧倒的美貌を持つ少女。

 好き、ではなかったと思う。

 そんな感情を抱くには難しい相手だった。

 最初は悪感情しか持てなかった。その身勝手さに腹が立ったし、話の通じなさに恐怖を覚えた。

 幼かったのだ。

 ただそれだけだと知って、同情めいた目で見るようになった。

 美しい外見に見惚れたこともあるし、無邪気な笑顔を可愛いと思ったこともある。

 誠吾も未熟だったのだ。

 まともな交際経験もない学生だった。免疫も自制心も足りなくて、流されてしまった。

 好きでもない、好かれていた気はするが恋われていたわけではない、付き合っているわけでもない、美しい魔女を抱いた。


 今のこの状況は、あの過去のせいなのだろうか。

 

(今更。あれから何十年経ったと)

 誠吾は竹刀袋を担いで地元の街を彷徨いながら、ひとりごちた。

 成り行きで関係を持つ前に、ジェニファーにはきちんと伝えてある。

 俺はおまえを好きなわけじゃないし、今後も多分好きにはならない。それでもいいのか。

 誠実なつもりだった。もしかしたら傷つけたのかもしれないと、彼女が姿を消してからようやく気づいた。

 でもだからと言って、他に何ができたのか分からない。

 振りでいいから普通の女の子として扱って。ごっこでいいから恋人の気分を味わわせて。

 抱いて欲しいと言われて怯んだ。何度も断って、結局ずるい宣言をしてから彼女の望みを叶えた。

 ジェニファーは魔女だ。

 遠くを視る眼と、そこまで自分を一瞬で移動させる能力を持つ。

 誠吾が一人暮らしのアパートの部屋でひとりダラダラしているときに現れる。

 何度も前触れなく現れるから、途中で拒否も説教も無駄だと諦めた。

 せめて予告してから来い、と連絡先を交換した。そうしたら礼儀正しく予定を訊くメールが届くようになり、約束をしてから現れるようになった。

 彼女はいつも、散らかった部屋で楽しそうに喋り、そして誠吾の話を聞きたがった。

 惚れっぽい彼には珍しく恋にはならなかったけれど、少しずつ彼女に対して優しい気持ちになることが増えていった。

 小さな子どものように無邪気な魔女。その幼さゆえに暴走したのは、情に篤い面もあるからだ。

 悪い子じゃない。


 そんな風に思ったのが間違いだったのだ。

「あのくそ魔女が」

 我儘ばかり言って、勝手なことばかりして、黙って消えたジェニファー。

 ある日を境に突然、メールが届かなくなった。送ることもできなくなった。

 それはかの国の人間、全員だ。

 忘れよう。そう思って生きてきた。

 なのに。



 百に達することはできなかったが、目前だった。我ながら大往生だ。

 誠吾は泰然と構えて、そのときを待っていた。

 そこに現れたのだ。

 何十年振りか、数えるのも馬鹿馬鹿しいくらい昔に別れたきりの、我儘魔女。

「セイ。最後のお願いよ。これで本当に最後だから。あの子に、会ってあげて」

 最後って、そりゃ次のお願いができる頃には俺はもうこの世にいない。

 口に出す力も残っていなかった。

 ジェニファーはすっかり老いて、しわくちゃ婆さんになっていた。

 見た目も魔女らしくなったじゃねえか。

 わずかに唇を歪ませた誠吾に向かって、彼女は微笑んでみせてからまた消えた。

 その直後に家族の顔を見て、声も聞けた。

 最期の記憶はそれだ。


 そして現在。

 誠吾は自分の足で、よく知る道を歩いている。

 よく知る、というか知っていた、だ。これは昔の町並みだ。

 電車もバスも一日に数本しか走っていないから、みんな自家用車で移動する。なのに渋滞とは無縁な田舎町。

 ガソリンで走るうるさい車ばかりだ。当時はこれが普通だった。

 当時。

 誠吾が現在のような外見の年齢だった頃だ。

 多分十代。二十歳かもしれない。大体そのくらいの、若い身体。

 最期は、自分でも眠っているだけなのかそれとも死んでいるのか分からない夢現の状態だったように記憶している。

 それが何故か今、肉体の最盛期に戻ってしまっている。


 ここはあの世か。現世のように見えるが、天国なのか地獄なのか。

 最初はそう考えたのだが、どうも違うようである。

 誠吾は古い古い記憶を頭の奥から引っ張り出してきた。

 ここは多分、昔々に一度だけ訪れたことのある場所(せかい)だ。

 まだ高校生の頃だ。ほんの数時間だけの非現実。約一世紀に及んだ人生のなかで、心当たりはあそこくらいしかない。

 魔女の夢の中。

 迫害された女たちの妄執が創り出した世界。

(なんで俺がここに)


 誠吾は平凡な人生を歩んできた。

 教員免許を取って、中学で英語を教えてきた。三十過ぎで結婚して、子どもは三人。育児は妻に任せきりになってしまったが、孫の世話はした。曽孫の顔も見た。

 魔女となるような要素はひとつもない。

 であるのならば、原因はやはりあれしかないだろう。

 最期に見たジェニファーの幻。

 何十年も昔、成人前に縁を結んでしまった魔女の願いを叶えなければならないのだ。


 あの子に会ってあげて。


 あの子って誰だ。

 こんな年寄りを死んだ後まで振り回すんじゃねえ。


 魔女の夢の中。

 何が起こるか分からない場所。

 誠吾は竹刀袋に竹刀を三本入れ、それを担いで家の周辺を歩いてみた。

 近所の人間の顔をしたハリボテと挨拶を交わした。存在感の希薄なハリボテにしか会えなかった。

 これはやはり、アッシュデールまで出向くべきなのだろうか。

 かの国の知人は、あらかた亡くなっている。

 移住して昔の友人と恋仲になった姉も、その相手である元王子も、彼の側近や元側近候補たちも。美形揃いの王族はとうに代替わりしており、誠吾とは面識のない人物ばかりになっているはずだ。

 つまり、彼らのうちの誰かはこの世界に来ていることを期待できるということだ。


 この世界でも、通貨は必要だろうか。

 一応現実世界のような振りをしているから、持っていれば安心できる気がする。

 自分の財布の中にはぎりぎり四桁の現金しかなかったから、母親の財布からキャッシュカードを拝借した。当時は知らなかった暗証番号は頭の中に残っている。こんな非常識な世界で罪悪感を持つ必要はないだろうと思いつつも、財布に向かって土下座だけはしておいた。

 誠吾は若い頃の写真付きのパスポートと数泊分の荷物、剣道着と防具、竹刀と木刀、居合用の日本刀とを担いで電車に乗り、空港に向かった。


 電車の中にもヒトのカタチをしたモノはたくさんいた。

 カラダの向こう側が透けて見えないのが不思議なくらい、存在感が希薄な連中ばかり。

 これは全員、誠吾の記憶なのか。過去にすれ違っただけの人物。気持ち悪い。

 幽霊のようだ。

 そう思ってすぐ、自嘲する。

 彼らはただの幻だ。幽霊は誠吾のほうだ。

 誠吾の肉体はおそらく、すでに火葬されている。

 魂? 亡霊? なんと表現すればいいのか分からない存在になってしまった。

 父母も妻も子のひとりも見送って、充分過ぎるほど長生きした。生きることに未練なんかない。

 なのにこんな、生の続きのような時間を与えられてしまった。

 感覚としては、生きている頃と変わらない。

 二十歳前後の、若造の肉体と精神。百年近い人生の記憶。

 それらを抱えた誠吾は、幻のニンゲンばかりの世界からの逃避を図って目を閉じた。


 乗換え駅の少し手前で目を醒ました。

 まぶたを上げると同時に、小さな気配を感じて横を見る。

 幼い子どもがそこにいた。

 目が合った。

「……こんにちは」

 きょとんとした丸顔に向けて、他にかける言葉が見つからなくてそう言ったら、同じように返された。

「こんにちは」

 確かな存在感がある。この子はハリボテじゃない。

 根拠は自分の直感しかないが、誠吾はそう思った。

 魔女の仲間か。

 小学校入学前くらいの、小さな男の子。髪の毛が黒いから、一瞬違和感の原因に気づかなかった。

 瞳が青い。顔立ちが純粋な日本人とは少し違う。

 近頃の日本は単一民族国家とは言い難いものになってはいるが、それでもまだ日本人らしい顔をしている人間のほうが多い。

 この子はハーフとかクォーターとか、最近よく見る類の子だろうか。

 こんなに小さい子が、魔女だとでもいうのか。それとも誠吾が若返ったように、彼の実年齢も、見た目とは違うのだろうか。


「……君はどこまで乗るんだ」

「あなたは?」

 アナタ。こんな小さい子に呼びかけられると違和感がある。やはり見た目通りの年齢ではないのか。

「俺は次の駅で乗り換える」

「目的地はどこ? 僕が連れてってあげようか」

 連れて行けるのか。

「どうやって?」

「あなたは知っているはずだ。飛行機に乗ることなく、日本と別の国を行き来していたひとのことを」

「……ああ」

「僕も、彼女と同じことができる」

 彼女。

 ジェニファー、もしくはエルヴィラ。

 彼は、魔女と同等の能力を持っていると言っているのか。

「……じゃあ、お願いしようかな」

「いいよ。どこに行きたい?」

 彼は小さな男の子らしい無邪気な笑顔を誠吾に見せた。


「俺の姉を知ってるか。三崎、もしくは杉田清乃。どうせこの世界にいるんだろ。あいつのところに連れて行ってくれ」

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