夢の中 〜ミカエル〜
ミカエルは釣りが好きだ。
彼には義理の伯父、つまり伯母の夫という存在がひとりだけいる。
公にしてはいけない親戚だ。血縁上の父の姉の夫、ということだから。
その義伯父が、釣りの手ほどきをしてくれたのだ。
日本の海で釣竿の扱いを教えてくれ、季節や狙う魚に合った仕掛けの作り方を伝授してくれた。
そんなときは育ての父とも言うべき実伯父も、ミカエルと同じ生徒の立場になって海に向き合っていた。
伯母も最初は一緒だった。まだ小さい従弟妹の相手をしながら、優しく微笑んで付き添ってくれていた。
でもインドア派の彼女は途中で、もう付き合い切れない! と言って海には同行してくれなくなった。
ミカエルは不満だったが、伯父も義伯父もよく持ったほうだなと笑って、その意見を受け入れていた。
ごめんな。君の伯母さん、外に出るより家で本を読んでいたいひとなんだよ。
義伯父はそう言って、ミカエルの頭を撫でた。
ママはいつもそうなんだよ。ミカが来るときだけは一緒に来てくれてたのに、それもなくなっちゃった。
小さな従妹も、ませた口調で諦め顔になった。
歳下の子にまでそんなことを言われては、ミカエルも不満を出すわけにはいかなくなる。
割り切ることにして、釣りの師匠である義伯父や、同じ釣り場に集まる地元の子どもとの交流を楽しむことにした。
伯母の家に戻れば、彼女は笑顔で出迎えてくれるのだから、それで良しとするのだ。
幼い頃の楽しい思い出だ。
大人になるにつれて忙しくなると、異国の親戚を訪ねる機会も減っていった。
でも大切な思い出だ。
父のいないミカエルを、そのことを忘れるくらいに愛してくれた伯父。
ユリウスは母と似ている。
清乃は、ミカエルの血縁上の父に似ているらしい。
母方の伯父と、父方の伯母。ふたりは若い頃に友人関係にあったのだと聞いている。
それだけだと聞いていたが、子どもだったミカエルはそのふたりと三人で過ごす時間を欲しがった。
伯父と伯母と、ふたりに似ているミカエルとが三人でいれば、親子に見えると気づいたからだ。
伯父にそうねだったら、叱られてしまった。
それはコータ伯父さんにすごく失礼なことだ。キヨ伯母さんとオレに対してもだし、アリシア伯母さんやおまえの母さんに対しても。次に言ったら、二度と日本には連れて行かない。
父に繋がる唯一の糸である伯母に会えなくなるのは嫌だったから、それ以降は一度も口にしていない。
伯父が必要以上に厳しくそんなことを言った理由は、何十年も経ってから知ることになった。
義伯父が亡くなってから、伯母はアッシュデールに移住して来た。
年寄りが独りで暮らしてるとね、周りが色々うるさいから。それくらいなら、まだ必要としてもらえる場所に居たいの。
全然年寄りに見えない伯母はそう言って、生まれ故郷を去りミカエルの住む国へやって来た。
彼女は昔、一度だけアッシュデールを訪れたことがあるらしい。そのときに知り合ったという人々は彼女を大喜びで歓迎した。
伯父も喜んで、彼女が不自由なく暮らせるよう細々と手配し準備を整えた。
だが実際に伯母がやって来ると、伯父はそれまでの心配りが嘘のように、まったく彼女に関わろうとしなかった。
伯父夫婦の様子や伯父の友人たちの言動を見て、ようやくミカエルは事情を知ることになる。
ミカエルの伯父ユリウスと伯母清乃は、昔恋仲だったのだ。
だからふたりは互いの配偶者に遠慮して、親しく関わろうとしなかった。
伯父は妻を亡くしてからも、清乃の元を訪れることはなかった。
伯父の妻アリシアは、病床に就いてすぐの頃から常々言っていた。
わたしが死んですぐにユリウスが恋人をつくっても、あのひとを責めないでね。それはわたしの望みだから。あのひとがいつまでも動こうとしないようなら、背中を押してあげて。わたしはあのひとと一緒にいられて幸せだったから、あのひとが独りで寂しい思いをするのが嫌なの。
彼女はミカエルにとって、もうひとりの母のような存在だった。
伯父は妻の葬儀が終わっても、しばらく動こうとしなかった。
だからミカエルは、もうひとりの母の遺言に従うことにした。
そんなことしてたらボケるだけだぞ。友達のところにでも行って来いよ。
そう言って、伯父の友人の自宅に片っ端から連れて行った。そうしているうちに、伯父も少しずつ生きている自分を思い出し、普通に動いて普通に喋り笑うようになっていった。
そろそろかな、と思って、ミカエルは伯父を伯母のところに連れて行った。
ふたりはどのくらい会っていなかったのだろう。顔くらいは見ていたかもしれないが、プライベートな会話をしてからはもう何年も経っていたはずだ。
そんなことを感じさせないくらい、彼らは自然な挨拶をして、会話を始め、時に年甲斐もなく言い争ったりもしていた。
まあこんなものか。
ミカエルはそう思った。
漏れ聞いている彼らが恋仲であった時期は、それぞれ別のひとと結婚する何年も前、ミカエルが生まれる前の話だ。半世紀以上が経っている。
アリシアの想いは、邪推というべきものであったのだ。
ユリウスはそれからはミカエルが促すまでもなく自分で動き出した。
だいぶ鈍ってきたな、と言いながら、若者に混ざって年齢を感じさせない剣捌きを披露したりもしていた。元気になり過ぎだ。
友人宅訪問も継続しており、年齢のせいというよりも元より出不精の清乃を引き摺るようにして出掛けることもあった。
少しずつ、ユリウスが清乃の元を訪れる頻度が増えてくる。
ぼんやりする時間が増えていた清乃は、そのことを気にしていないようだった。
そんなある日、ユリウスが宣言した。
キヨと付き合うことにした。
おめでとう、とミカエルは言った。
アリシアの墓に行って報告しよう、と思った。
義伯母さん、やっとだよ。思ったよりも時間がかかっちゃったけど、義伯母さんの望み通りになったよ。
ミカエルは禁忌の存在だ。本来であれば、生まれてくることを許されていなかった。
彼の母ジェニファーは魔女だ。魔女が産む子は世界を滅ぼす可能性があるとされている。
可能性が何よ。わたしはママになりたかったの。あなたに会いたかったらあなたを産んだのよ。
いつまでも子どものような母の言動は、周囲には迷惑でしかなかったに違いない。
だけどそんな母と、伯父夫妻の存在が、ミカエルを守り育んでくれたのだ。
オレはおまえに救われたんだ。気持ち悪いって自分でも分かってるから、誰にも言うなよ。昔、子どもだったおまえを叱る資格は、本当はオレにはなかったんだ。オレはおまえを、オレとキヨの子だと思って育てた。そう思って、少しずつキヨへの気持ちを昇華していった。おまえが生まれてきてくれたから気持ちの整理ができて、アリシアと向き合うことができた。オレの今の幸せは、全部おまえが生まれてきてくれたおかげだ。
晩年の伯父はそんな言葉を、彼が逝った後もまだ生きていかなくてはならない甥に遺そうとした。
ミカエルはこう返した。
伯父さん、それもう聞いたよ。ずっと昔に。
怪訝な顔をするユリウスを笑って、こう続けた。
赤ちゃんだった俺に、よく言ってただろ。ずっと忘れてたけど、アリシア伯母さんの遺言を聞いて思い出したんだ。
魔法使いめ……! と恥ずかしそうに吐き捨てるユリウスを、魔女の息子は笑ってやった。
ずっと忘れていた。禁忌の子と陰で言われ続けた幼いミカエルを、伯父のその言葉が支えてくれたのだ。
生まれてきてくれてありがとう。おまえがいたおかげで幸せだった。
実父には言われる機会がなかったが、父のような伯父がそう想い続けてくれた。
「だからって、来るの早過ぎない? あなたまだ若いでしょ」
清乃は呆れ顔で紅茶を淹れ、冷めるのを待ってからミカエルの前に置いた。
「だってつまらなくなっちゃったからさ。亡霊たちの様子が変わっていくから、これはキヨ伯母さんがいるな、つまり伯父さんも一緒だろうって思って。そんなの、そっちのほうが絶対楽しいじゃないか」
ミカエルはぬるい紅茶をひと口飲んだ。
別に熱いままでもいいのに。見た目は子どもでも、もう老人と言ってもいい歳だ。
「だからっておまえ……」
ユリウスも渋い顔になる。
「安心して。別に自死したわけじゃないよ。ふたりはいつまでも俺を子どもと思ってたみたいだけど、俺だってもうそれなりの歳な爺さんだったからね」
そうだっけ、とミカエルの伯父伯母が首を傾げる。この年寄りどもめ。
記憶と認知能力が怪しくなるまで生きていた彼らだ。最期まで元気に動いてはいたが、半分夢の中だったに違いない。
「まあもう来てしまったんだから、何も言わないけど。なんでそんな姿なんだ」
ユリウスが眩しいくらいの美貌を苦笑の形に変えた。
生まれたときから見ていたはずの顔だが、久しぶりだと破壊力がある。
「伯父さんと伯母さんの年齢に合わせただけだよ。二十半ばってとこ? それなら俺は五歳くらいになるのが妥当だろ」
日本人の伯母はまだ十代に見えるが、多分彼女は伯父との年齢差をキープしたがるはずだ。つまり二十代後半。
「二十六のつもりだ。年に一回、希望者を集めて一斉に歳を取ることにしたんだ」
「へえ。じゃあ俺は六歳スタートにしようかな」
六歳の頃の意識を自分の中から探し出してきて、それを表面にも反映する。
これで一年分の成長完了だ。
「初めて会ったときよりも小さいね。可愛い」
清乃は二十九歳か。ミカエルの記憶通り、小柄で可愛らしい。
「伯母さんもね。ここはキヨ伯母さんが昔住んでた家?」
ここは日本だ。
玄関で靴を脱ぐよう言われて、そのようにした。
狭い廊下はキッチンを兼ねていて、その先には小さな部屋があった。机とテレビとベッド、大きな本棚。生活に必要なものがすべて収まっているという印象だ。
「家というか部屋かな。学生時代に住んでた集合住宅だよ。当時この部屋に伯父さんが急に現れてね、家に帰れないから泊めてくれとか言い出したの」
「へえ。迷惑だな」
こんな小さな部屋に、見知らぬ男が現れたら。若い清乃はさぞかし恐ろしい思いをしたことだろう。
「おい」
「迷惑だったよ」
「ひどくないか」
「今ではその迷惑男と半同棲中だよ。人生、魔女生? 何が起こるか分からないものだよね」
ふたりは幸せそうだ。
晩年に気持ちを通わせて、ほんの短い時間を共に過ごしていた。
昔からふたりを知る人物は、たったあれだけの時間、と泣いていた。
あれだけ、だったけどでも良かったな。最後に一緒にいられて。と泣きながら笑っていた。
その通りだったのだ。あの短い時間があったから、生きている間に、ずっと昔に忘れた古い恋を新しくすることができたから、ふたりは今こうして一緒にいるのだろう。
ユリウスは気づいているかもしれない、清乃はきっと知らない、ミカエルがアリシアから聞いている話がある。
わたしは絶対に魔女の夢には行かないわ。行きたくても行けないはずだしね。でも万全を期すために、生きている間もあそこへは行かないことにしているの。魔女の亡霊と関わらずにいれば、可能性はうんと下がるみたいだからね。今世ではユリウスを苦しめてしまったから、あそこに行ってからは迷いなくキヨノ様の手を取れるようにして欲しいのよ。だってあのひと、同時にふたりの女を愛することなんてできないもの。少しはフェリクス様を見習えばいいのにね。
そうすれば、今世でもいい思いができたのに。
義伯母の言葉には、それはどうかな、と言っておいた。
寡婦となった過去の恋人を愛人にするような甲斐性がユリウスにあったとしても、清乃に拒否されて終わりだろう。ただの甥であるミカエルにも分かる。
清乃はそういうひとだ。
そんなふたりだから、妻が死ぬのを待っていたんだろう、なんて陰口を叩く人間は彼らの周囲にひとりもいなかった。
「半?」
「半だ。オレはここの一階にある部屋に住んでる」
「なんで?」
夫婦としてこの異界で暮らしているのだと思っていた。
「結婚してるわけじゃないし。ずっと一緒だと疲れるから」
ユリウスは憮然として恋人の言葉を聞いている。ふたりの関係性が垣間見えた気がした。
「じゃあ俺、僕、かな。僕はこの部屋に住んでもいい?」
「いいよ」
「駄目だ! おまえは城にでも行け」
清乃からはあっさりオッケーが出たのに、ユリウスからの反対に遭ってしまった。
「なんでさ。子どもを放り出すの?」
「何が子どもだ。爺さんだと、自分で言ったんだろう」
「ヤキモチ妬くなよ。僕はキヨ伯母さんの甥だよ? しかも今はこんな体だ。何を心配しているんだ」
「……どうしてもと言うなら、オレの部屋に住め」
「えー。じゃあ日替わりとか」
離婚した男女とその子どもか。
多分その場の全員が思ったことだが、誰も口にはしなかった。
ユリウスの子どもはアリシアとの間の子だけだし、清乃の子どもは康太との子だけだ。
そこを清乃の前で間違えてはいけないと、昔ユリウスに釘を刺されている。
「ミカ」
「冗談だよ。ふたりの邪魔をしたりはしないよ。でも僕もしばらくこっちに居座る予定で来たからさ。落ち着く場所が決まるまで、伯父さんのところに泊めてくれる?」
「分かった」
「ご飯は食べにおいで。伯父さんも毎晩食べに来てるから」
「うん。キヨ伯母さんの味噌汁好き。また食べられるの嬉しい」
ミカエルはもうとっくに大人だ。高齢者の仲間入りをしてからこっちに来ている。
だから子どもの姿をしていても、若い姿の伯父と伯母が、この三人の団欒を複雑な思いながらも喜んでいることには気づいている。
清乃と同じ黒髪に円い目、小さい口。
ユリウスと同じ青い瞳、通った鼻筋。
ふたりの肌の色の絵の具を混ぜて作ったような膚。
他にも探せば、相似点はもっと出てくる。髪で半分隠れている耳、指の形。爪の生え方。
ふたりは伯父と伯母だけれど、父がいなかったミカエルは、一瞬だけでも両親が揃って慈しんでくれていると錯覚できる、こんな時間が好きだった。
だからふたりが決して口には出さない想いが、悪いものとは思わない。
無邪気な顔でふたりを慕う子どもの振りを、これからはこの世界で楽しんでやっていくのだ。




