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前編

暗い話を書きたい気分だった。何事もバランスが大事。

 薄暗い部屋の中、人が椅子に腰かけ、PCに文字を打ち込んでいる。顔はテーブルスタンドの黄色い光に照らされ、手は滑るようにキーボードの上を縦横無尽に走っては止まり、頬杖をついて遠くを見ながら思慮に耽り、視線を目の前に戻してはまたタイピングしている。


 これは私たちの秘密である。他言無用の秘密保持、順守すべき秘め事。私の心の中に留め置き、一切記さないことが望ましい。しかし、そうできない理由がある。この秘め事は忘れてはならない大切なことでありながら、その一方で忘れたい苦しいことでもある。心を蝕む毒は取り除かねば、全身に回り衰弱し、やがては死に至る。故に私は、これを一目につかぬ書に記し、心の中から苦く辛い思い出を取り除き、ほどよく忘れて健やかなる日々を過ごすこととする。その記憶が必要な時は読み返し、詳細を思い出し、それを以って対処する。

 およそ1月前の出来事。


「 まだ寒さの残る初春、夕刻にある山に男が来ていた。山の上の方や北側にはまだ雪が残っており、日の光を受けて溶けては空中で結露して霧になる様子は、無数の煙が出ているようだ。谷に向かって凹凸によって雪が千切れ、その分厚い断面を遠い、向かいの道から確認できた。

 立ち入り禁止の縄をくぐった向こうに少し歩くと滝の上に出る。滝の上は雪がほとんどなくなり、薄茶や焦茶色の枝から点々と新緑が芽吹き、爽やかな色が溢れていた。

 男が小川の前にしゃがみ込み、手を伸ばすと水面に反射した女の手が男の手と重なった。

 男が顔を上げると、小川の向かい側に女が立っていた。やつれた黒髪と垂れた眉、光のないぼんやりとした目、口角の下がった口をしていた。ベージュのダッフルコートを前を開けて着て、その下にグレーのセーターを着て、薄緑のデニムを履いていた。

『あの…、ちょっとよろしいですか?』

「ええ、構いませんよ」

 男は立ち上がって水を払い、ズボンを叩いて水をふき取った。

『ああ、良かった!勇気を出して話しかけて!』

 女は特に気に留めず、両腕を上げて掌をぐっと握った。

「私はあなたを知っています。蒼倉そうくらさん、あなたに伝えることがあります」

『…?以前お会いしたことがありましたか?』

 蒼倉はきょとんとして男の顔をまじまじと見た。

「いいえ、初めてです」

『…?あ、もしかしてナンパ?どうしよっかな~…』

 蒼倉は勢いよく後ろを向き、コートがふわりと広がり、すぐに垂れて収まった。その後、ゆっくりと男の方を向き直した。

『ところで名前は?』

「私は縁翠えんすいといいます。お伝えしたいことというのは…」

『縁翠さん、まずはお話しましょう。私の話を聞いてから』

「…いいですよ。気が済むまで話してください。それこそもう思い残すことがないくらい」

『変なの』」

 その後の話は次の頁に記す。

「 蒼倉は岩の上に座りこみ、手で横を示した。しかし、縁翠は斜め前の倒木に腕を組んで座りこんだ。

『まずは、そうだね…、ええと…?何言おうとしたんだっけ…』

「本題から入ってもらって大丈夫ですよ」

 蒼倉は少し驚いた様子で縁翠を見て、下を向いて小考し、顔を上げた。

『…いいの?暗い話になりそうだけど』

「構いませんよ。話したくて仕方がないんでしょう?」

『それなら…遠慮なく』

 蒼倉は目線を下げて組んだ自身の指を見ながら、話し始めた。

『何もしていないと不安に駆られてた。不安の原因は、深く考えたことはないけど、きっと私自身、すべきことをしていないことへの焦りがあったんだと思う。でも考えたことが無いから、何がすべきことなのか分からない。悪いところを直す?彼氏を作る?勉強をする?若いうちにすべきことをする?今しかできないこと?…分からない。普通の人だったら自分と向き合って探したり、こうだと思うものを試しては検証するんだろうね。でも私は違った。私は何かをして、不安を遠くに追いやっていた。8割方面白くもない掲示板やSNSで時間を潰し、ゲームをこなし、眠くなったら寝る、そして仕事中はそれどころじゃないと余計な事を考えずにいた。…ああ、なんていい加減なのだろう。苦しみから逃れて先延ばしにしているだけ。私は自ら不自由にして、時間を浪費し、それで何とか生きながらえていた。不自由なのを息苦しく思いながらも不自由にしているのは自分自身…』

 蒼倉はふう、と息を吐き、髪をかき上げて息を大きく吸い、話を続けた。

『頑張れと言われると、私は十分頑張っているのに、まだ足りないのかと自分に失望する。私の頑張っていると思っていたことは、一般人からすれば頑張ってるうちにも入らない程度のことなんだって。自分の無能さがよく分かって嫌になる。そして、どうすればいいか考えることすらせず、時間が過ぎ去るのを待つだけ。そのツケは未来にやってくる。怖くて考えたくない』

「……」

『話変わるけど、この山の噂を知っている?』

「だいぶ変わりましたね。消滅した限界集落の話ですか?」

『それに関するといえば、関する話だね』」


 ここで説明を加えておこう。蒼倉の言う噂とは次のようなことである。噂をまとめた記事がある。学術的なものではなく、真偽の定かではない娯楽用のものだ。


 平安時代もしくは室町時代に都での政争に負けた貴族が家来を連れて拓いた村があった。しかし明治時代以降、居住移転の自由が得られるとその村から人はどんどん減っていった。元々出稼ぎなどで人の往来がそれなりにあったため、外に出ることにそれほどの抵抗はなかったのだ。それでも人はまだ残ってはいたが、平成に入った辺りからさらに人が減り、その村はついに消滅した。資料は一部が残っていたが、建物はもう見えない。日本では良くも悪くもすぐに自然に還ってしまうためだ。ただし、緑に覆われた中をかき分けて探せば、崩れた石垣や錆びた鉄の戸などは出てくることだろう。


 もう一つ特徴的な村がある。山賊たちの村だ。今はもう無いと考えられている。近辺の道路工事に伴う取り締まりで消滅したのではないかと言われている。こちらの先祖は源平合戦の落ち武者か、応仁の乱の落ち武者か、戦国時代の落ち武者か、とにかくはっきりしていない。負けたという報告は敵の罠だと考え、隠れ潜んで暮らしていた。子孫の代は勝ち負けなんてもう関係ないが、受け継いで暮らしていただろう。しかし閉じた世界では、血が濃くなってしまう。そこで人を攫っていたと考えられている。


 それらとは別にサンカの人々もいたと言われている。サンカとは山に住み、土地私有の概念を持たず、主に狩猟によって生活をする集団である。場所によっては彼らが山賊と同一であることもある。この地では村人と交易を行っていたようだ。私有財産の概念が無いため、村のものを勝手に持ち去ってしまうトラブルもあったという。なぜそんなことが…とピンとこないかもしれない。もし、景色の写真を撮ることが窃盗扱いになる、としたら当人たちの困惑も分かるだろうか。私たちにとって景色は共有物であり、その社会では私有物だとは思いもよらない。それと似たことだ。そんな彼らだが、明治以降は戸籍を持ち、転居も自由となり、日本人として平野部の人々と同化して徐々に消滅していったと考えられる。現在日本には存在しない。


 …さて、前者の村に話は戻る。その貴族の拓いた村には口減らしがあった。彼らは冬を乗り越えるために、山の神に召使として捧げるという名目で養いきれない分を山に捨てていた。記録によると凶作の続いた年に捨てていた記録がある。その魂は死後も山を彷徨い、生者を惑わした。また、彼らを祓う除霊師たちもいて、そんな霊魂たちを成仏させて回ったという。なお、彼らは仏教徒ではなかったので、成仏と言うのは正確ではない。昇天の方がいくらか意味あいが近いか。また、村の出入り口には紋章が描かれており、山の神の使いや村から一度出た除霊師たちは入れないと教えられていた。捨てられた者たちの中には山賊たちの村に辿りついたか連れていかれた者もいたと考えられている。


 かの除霊師たちは、生きたまま埋葬されていた。彼らは身を清め、破邪の化粧をした後、制服に着替え、睡眠薬を飲んで棺に入る。そして数々の副葬品と共に埋葬される。建築や治水への人柱は各地で見られる。それらと同様に、生者の力を使おうとしたものと考えられる。


 話を戻そう。蒼倉と縁翠の話の続きだ。

「『村には皆罪みなづみと呼ばれる人たちがいて、人を捨てる祭りや除霊などを行っていたみたい。いや、押し付けられていたのかも』

「ひどい名前を付けたものですね」

『そうだね。今そんなことしたら炎上してる。でももしかしたら田舎で気づかれずにということもあるかも?』

「ただ、本当にそうだったのか分かりませんから。冠婚葬祭や除霊は神聖なものでもあるのです。確かに、非日常で縁起が悪いと関わるのを嫌がる人もいますが」

『だといいけどね。で、出るらしいよ。ここ』

 何とは言わないが意味するものは明白だ。幽霊のことだ。

『だから夜になる前に、ね』

 蒼倉はヒヒッと笑い、両手を上げて伸びをした。

『もう少し話を聞いてもらっていい?』

 尋ねてはいるが、止める気配は見られない。

「どうぞ。気の済むまで」

『うん、まだまだ聞いてほしい』

 蒼倉は顔を伏せてイヒヒッと笑い、肩を震わせた。かと思えば頬を涙が伝い、無きじゃくる声が漏れ出てきていた。

『ごめんなさい…ごめんなさい…、蓋を開けたら悲しさが噴出してきて…』

 縁翠が立ちあがると蒼倉は手を前に突き出して静止した。

『大丈夫。大丈夫だから…』

 縁翠は座り直し、黙って落ち着くのを待った。

『ん…、ごめんね。私は繊細で、どうでもいいことばかり、みんな気にしないようなことばかり…』

 蒼倉は右手で左腕をぐっと握った。左手の指が反応してぴくっと動いた。

『他人の咳き込む音が怖くて、他人の口臭が気になって、…全然慣れない。仕事が計画通りに行くか常に不安でビクビクしているし、失敗したときは…、…例えそれが何とかなるものであっても全然寝付けなかった。毎日の満員電車に耐えるために心を殺し続け、いつしか感動を忘れてしまった。何をしても楽しくない。飲み会は何度も同じ話ばかり聞くことになるし、粗相が無いように気を張り続けて疲れてしまう。ストレスはたまり続け、発散させようにも面倒くささが先に来て何もする気が起きない。無理にでも体を動かさないとずっと動けなかっただろう。ここまで来れなかっただろう』

 蒼倉は顔を上げて周囲を見渡し、横を向いて話を続けた。

『耐えられなくて記憶が曖昧になることがある。周囲の人はそんなことないのにこんなの私くらい。世の中には同様の人もいるらしいけど、私の周りにはいない。上手くいかない…。…そんな私だから理解者はいない。私は迷惑な存在だ、邪魔な存在だ。相手の立場に立てば分かる。しょっちゅう記憶違いする人なんて怖くて関わりたくないし、そんな弱いメンタルの人に大事な仕事を任せたいなんて思えない』

「……」

『死にたくても死ぬための行動を起こす気力が無かった。生きながらにして死んでいる毎日、ずっと醒めない夢を見ているようなぼんやりとした日々。騙し騙し、体を無理に動かして、ついにここまで登って来た。この機を逃したらもうチャンスは無いと思った。滝を上から見下ろした時、私は美しさを感じた。白い激浪の何ときれいなことか。美しいと心から思ったのはいつ以来だろう。いつもの灰色の景色に色が灯った。そして、私の周りに緑があることに初めて気づいた。美しい緑に心が安らぎ、死が怖いものとは思わなくなった。この美しい世界に包まれ、溶け込むのなら、何を恐れることがあるのだろうと…。零になるの』

 蒼倉は下を向いて両膝を立てて腿の下に両腕を通して手を組んだ。垂れた髪が顔を覆い隠し、口元だけが僅かに見える。

『足を踏み出して宙に浮いた瞬間、なんとも言えない全能感に脳が焼けそうなくらい興奮していた。でも…不思議だね、私は死ねなかった。…目が覚めると滝の上に戻って来ていた。登ってきたことをぼんやりとしか思い出せなかった。死ぬにはまた飛び込まないといけない。そう考えると今度は怖くなってきた。きっと見下ろせばまた怖くなくなるはず。でも怖くてそこまで近づけない。私はどうしたら…、涙が溢れて気づけば泣いていた』

 蒼倉は額の左を天辺に顔を上げ、髪の隙間から左目で縁翠を見た。

『でも…2人ならきっと怖くない。分かるよ…、あなたもそのために来たんでしょう?さあ、一緒に行きましょう』

 蒼倉の差し出した手を縁翠は横にそっと押しのけた。

「私は死ぬために来たのではありません。伝えることがあって来たのです」

『そんなこと言ってたね。それはいったい何?』

「思い出して欲しいのです。死の記憶を。あなたは既に死んでいるのですから」」

後編に続く

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