犬耳が生えた同級生
襲いかかってきたのは、クラスは違うが同級生の女の子だった。
確か名前は町代祝。運動神経や成績は普通、性格や家庭環境に問題はない。どこにでもいる善人のはずだった。どうして暴力行為に及ぼうとしているのか、対象はなぜ僕なのか。
なぜ犬耳っぽいのが生えているのか。
とりあえず、素直に攻撃を受けてやる義理はない。
箒を受け止める。大仰な振り上げだったがへっぴり腰、勢いはまるでなく、防ぐのに特別な力はいらない。受け流す必要すらないと感じた。
握った箒を、そのまま取り上げる。「おい」と語気を強めて言う。
「埃が舞うだろ」
使い古された箒の穂は汚い。掃いた場所が逆に汚れそうなくらいに。一ヶ月に一回は手入れし、かつ一年に一回は買い換えるべきだと思うが、この学校はその辺おざなりだ。
拡散するミクロのゴミに、渋い顔にならざるを得ない。
怒ってると捉えられたのだろうか。町代は泣きそうになって、「ひっ」と後ろに下がる。頭の上の犬耳は、ペタンと垂れ下がっていた。
びびるくらいならやるなよと思ったけれど、襲撃せねばならない、やむにやまれぬ理由でもあったのか。
「やっぱり、やっぱり無理だったよカムイ!」
彼女は泣き叫び、一目散に逃げていった。まるで僕の方が悪いことをしたみたいだ。事情を聞くヒマもなかった。「なんだったんだ」と困惑する。
『むむ』「どうしたマクラ」
『ビビッときた。あの女の中。妖怪がいるぞ』
「犬の耳が生えていたしな。つまり、今の僕たちと同じ状態ということか?」
『そうだぞ』「じゃあカムイというのが、バディのお名前か」
妖怪に取り憑かれた女が、妖怪に取り憑かれた男に、危害を加えようとした。
もちろん、通り魔的な犯行ではないだろう。何らかの意図がある。殴りかかるメリットがあった。しかし、心当たりはない。昔世話になったあの養護施設と、一介の女子高生たる町代が無関係なのは断言出来る。ほぼ確実にマクラ絡みではあるけれど、それ以上のことは何も分からない。
町代祝は、二年三組。
直接問い質しに行く。彼女の教室に辿り着いたが、帰ってきていなかった。待ってればそのうち来るかと、予鈴まで張り込む。だが来ない。余裕ある行動は僕のポリシーの一つなので、自分のクラスに戻る。
「どこ行ってたの? 保健室?」
しばらく遠巻きにされる運命の僕に、未交がまた声を掛けてくれる。大変ありがたい。こういう会話がクラスの輪に回帰するきっかけになればいいが、未交自体が輪からハブられているので、高望みはするまい。
「体育での失敗は、初心に帰ってみてただけだ」
「傷心じゃなくて?」
臆面もなく、彼女は言った。
そういうところが嫌われるんだぞ。そういうところが。という言葉を、グッと飲み込む。僕たちの会話が聞こえていたらしいクラスメイトは、ハラハラした表情でこちらを見守っている。ああ、焼身したい気分だよと返してみたくもなるが、嫌味が過ぎるだろうから言わない。
もちろん怒ったりもしない。
「まるで僕がフラれたみたいな言い方だな」
と、小さく肩を竦めるに止める。未交は、少し心配そうな表情をしたのち、「別に、我慢しなくてもいいんだよ」と言い残して、自分の席に戻った。
我慢しているつもりは、ない。
五、六時間目を終えたのち、荷物をまとめて早々に帰宅する。通学時にはたくさん残っていた雪は、朝から正午過ぎにかけて晴れていたからか、もうだいぶ溶けてしまっていた。民家の芝生の上など、一部にしか見られない。
あの雪だるまも、頭が落っこちていた。
「マクラ」『うん?』
「妖怪が人間に取り憑くというのは、よくあることなのか?」
妖怪が人を糧に出来る。それは知っている。しかし、取り込んで栄養にするのと取り憑くのとでは、まるで話が違う。捕食と寄生と言えば、意味の乖離が分かりやすい。
マクラは迷う素振りもなく、『うーん、知らない』と答えた。「だろうな」と、僕もすぐに諦める。
『さっきの犬女のことだな?』
「ああ……面倒そうなのが出てきたなって」
『すぐ退散したじゃないか。面白い泣き顔だったぞ、くくく』
「一回失敗したんだ。懲りた可能性もあるが、二回目三回目と、手を替え品を替えでやってこない可能性がないとは言えない。妖怪に取り憑かれたのが他にもいて、しかも僕らを襲う利点があるのなら、もっと面倒だ」
はぁと溜息を吐いた。昼間の快晴から一転、空はだいぶ曇っている。雪こそ降っていないが気温は低くなり、息が白く濁った。
マクラが、驚いたような声を出す。
『へーっ。日文ってよく考えて生きてるんだな』
「マクラは考えないのか?」
『お母さまの言うことを聞けば、たいてい上手く行くからな! そうだ。里に行って、日文をお母さまに合わせてやろうか』
「言っとくが、僕とマクラを繋ぐ謎の糸をどうにかしなきゃ、お前は帰れないからな。まさか僕が、猫又の里で暮らすわけにも行くまい」
『猫又に、オスは滅多に生まれない。女の子だらけだぞ?』
「だからどうした?」
間髪入れずに返す。内側から動揺が伝わってきた。
マクラにもう少し色香があれば、ひょっとすると僕も惑わされたかもしれないけれど、こいつがいっぱいいたところで、休み時間の幼稚園校庭ど真ん中とそう大差はない。
『まあ日文は、悲しい事件があったばかりだもんな』
「そういう理解をされるか」
薄く笑った。
今の僕は、心がかなり、中のマクラに引っ張られている。学校でいつも通りいられたのは、こいつのおかげ。恋人である真島柿を亡くした悲しみ、虚しさは、実のところマクラによって、相当薄まっていると言える。
でも、感じていないわけじゃない。
「なあマクラ。未交の言う通り、僕が我慢してると思うか?」
脈絡なく尋ねた。僕の内側にいるマクラなら、僕の心理を客観的に見れているかも、と期待したからだ。
彼女の、答えようとする思い。しかしそれは突如として消える。
代わりに、マクラの心の尋常でない震えが、急速に伝わってきた。
「おい、どうした」
『あいつが、近くにいる……』
関係ないはずの恐怖が、こちらにじわりと染みてくる。僕まで悪寒で、背筋が震えてきた。体が硬直する。額から頬まで、冷や汗が垂れる。
ガクガクと不安定な声音で、彼女はこう申告してきた。
『いる。近くに。マクラを殺そうとした奴が』