聖女と神と、それから悪魔
人が誰かを憎む瞬間は無数に存在する。親を殺された時。恋人を虐げられた時。差別を受けた時。だがそんなに深刻な話でなくとも『恨む』くらいのことは多すぎるほどに巡ってくる。客や先輩に暴言を浴びせられたり、嫌味を言われたり。嫌いなものばかりを食事に出されたり。休みたい日に限って仕事や学校に駆り出されたり。乗ろうと思った電車が目の前で行ってしまったり。人身事故で止まっていたり。運命の輪は、こちらが組んだスケジュールをところどころハサミでチョキチョキと切り刻もうとしてくる。綺麗に作り上げたデコレーションケーキを狙う子供のように、それは虎視眈々とこちらの隙を伺っている。誰も恨まず生きろという方が無理な話だ。それこそが人間であるということなのだろう。
だがヒトは、そんな『ちっぽけな事』で誰かを恨むことを良しとしない。くだらない、ワガママだと嗤い、そんなことで復讐を考えようものなら蔑まれ、異端だなんだと迫害されてジ・エンドだ。
それは何故だろう。俺は考える。恐らくそれは、心の底では人を愛する事も人に慈悲を持つ事も出来ていない証なのだろう。
「愚かな……!お前たち悪魔がのさばることでどれほどの命が浮かばれない死を遂げたか……っ」
眼前の女は肩を震わせながらやっとその言葉を搾り出すと、まさに憎しみに燃えたような顔で俺への刃を握り直した。ふと出会った旧友に接している気分だったのはどうやら俺だけだったらしい。
ふと顔を上げると大通りのネオンが木漏れ日のように通路の入り口に差し込んでいるのが見えた。繁華街は当然のように人通りが多い。わらわらと群がって、己の欲を満たしたり他人の欲で懐を温めるのがこの街のしきたりのようなものだ。それはまるで鉄骨を抱き締めて暖を取るようなもので、そこにあるのは一歩間違えれば身を裂くような、突き放すような冷たさだけだった。それもしばらくすれば暖かく感じることもあるが、その温度が元々自分のものであったことに気付く者はあまり多くない。
無骨な建物と、薄汚れた路地と、行き場をなくしたような人々と、欲と、その刺すような冷たさが混在する街。それがある種の都会らしさというか、ヒトがヒトらしくある場所のようだった。拒絶された境遇や思想が密かに、そして強かに生きるにはちょうど良い環境なのだろう。細菌が成長するのは、暖かく湿った環境が良いらしいが、ここは客観的に見れば真逆のように思えた。だとすればここでは細菌は生きづらいのだろうか。欲まみれのクリーンルームだと考えて、俺は小さく首を降った。
新宿の路地裏、深夜の喧騒から隔離された空間で俺は今二人の女に刃を向けられている。悪魔業というのも楽ではない。悪魔であるという事実だけで俺はこの女達に命を狙われているのだから。
女達はシスターと呼ばれる職業で、俺は悪魔なのだからそれも仕方のないことだとも思える。水中を縦横無尽に泳ぐ魚が常に頭上の鳥に狙われているように。魚はただ生きているだけで鳥に命を狙われる。俺たち悪魔も同じだ。ただ違うところがあるとすれば、俺には抵抗の手段が残されている点であろう。仮にも悪魔なのだから、少し抵抗しようと思えば俺はこの女達に絶大なる苦痛を与えることができる。
感情昂ぶる女は先程俺に思いの丈をほんの少しぶつけて来た方で、もう一人はどこかつまらなさそうに背後に控えている。階級や能力にもかなりの差がありそうだ。恐らく奥の女が上司なのだろう、ざっと見たところ手前の女よりは手強そうだ。といっても手前の女は悪魔退治に派遣するには些か能力不足と表現するのが適切であろう。
どちらにせよ、俺にとっては赤子の首を捻るくらい簡単なことだった。何しろ悪魔として生まれ長く生きてきたからには、この程度の修羅場とも表現できない相対は朝食の回数と同じくらいの頻度で巡り合ってきたのだ。
しかしながら俺は、この女達に実力を行使するつもりは微塵も無かった。いっそこの瞬間に殺されてもいいとすら思っていた。
そう告げると眼前の女は更に俺に牙を剥く。静かな刃だった。
「なぜ、そう思う?」
言葉を発したのは意外にも奥の女だ。てっきり傍観を貫くつもりかと考えていたのは手前の女も同じだったようで、むしろ俺よりも意外そうに、開きかけた口を噤む。
「お前は悪魔として長い時を生きただろう。このような相対は珍しいことではないし、その度にお前は尻尾を巻いて逃げるか、相手を殺すかしてきたはずだ。その都度お前は死を望んできたのか?」
ーー死を望んでいるわけではない。と、いうのが本音だった。
「では、なぜ」
「どうせ繰り返しだからだ」
「繰り返し?」
「まず、お前たちが神と崇める存在は、所詮偶像でしかない」
「無礼者……!!」
俺を葬りたくて仕方がない様子だったシスターが、まるで弾かれたゴムのように飛びかかってくる。修道女にしておくにはもったいない身体能力と言って過言ではない。素直に感心したが、悪魔に身体攻撃を仕掛ける判断力は正直褒められたものではない。
現に俺はその獰猛な牙をあっさりと避けて、煙草の煙を吐くような気持ちで彼女の鳩尾に一発食い込ませている。声にならない声を上げて女は動かなくなる。悪魔を感知できるような法力の持ち主ならば少しは常人と異なる能力もあるだろうに、なぜ生身で殴ろうとするのか。その身を犠牲にしてまで、激情に命を捨てるまでの愛を捧げられる偶像が殊更哀れに思えた。
「神はいない。少なくとも、お前たち教会が思い描く形では存在していない」
「その言い方だと、別のかたちでは存在しているように捉えられる」
もう一人の修道女は、気怠げに頭巾の裾をナイフの先で弄んでいた。部下の失態や命などどうでもいいかのように、いや、どちらかというと俺が手を下さないことを分かりきっているかのように。
「存在しているさ。ーーお前は、異能が使えるか?」
異能というのは文字通り、異質な能力のことだ。世間は超能力だとか霊能力だとか呼んでいるが、俺から見れば全て同じものである。むしろそれこそ人間が扱っている以上特別視する必要すら感じないが、なにせヒトは自分の理解できない現象を毛嫌いするのだから仕方ない。そして便宜上俺もその区分に従っておくのが話をスムーズに進めるのに適切だという認識の元でそれを使う。だがあくまでそれは個人の少し珍しい方向に秀でた能力でしかない。例えるならば、脚が速いだとか暗算が得意だとかそういったものと同じなのである。
「お前のような悪魔を感知できているんだ。使えないわけがないだろう」
至極もっともな意見だ。それ故に先ほどの血気盛んな修道女を俺はぼんやりと一瞥した。修道女は汚い路地裏の地面で静かに気を失っている。命の取引をしているはずなのに全員の視線が噛み合わないこの状況がぬるくなった炭酸を連想させた。
「ーーこの世界は神によって創られた」
「そういった考え方なら残念ながらお前よりも我々の方がよっぽど得意だがね。聖書の引用はウンザリだ。それが命乞いのつもりなら失望だよ」
修道女が悪魔に一体何を期待しているのか、という言葉が浮かんで消えた。
「お前たちの思想はある意味では正しい。それが人間である証でもあり、神である証でもあるのだろう」
女が初めて俺を見つめる。瞳の輝きは鋭く、まるで射るかのように俺を貫いた。
「お前たちの指導書では、神はまず世界を創り、そしてアダムとイヴを創ったのだろう?では何故神は世界を創ろうと考えたのか?ーー簡単なことだ。神は、寂しかったんだ」
見下すように女は息を吐いた。たかだか十数メートルの間合いが一気に遠退いたような感覚に陥る。だからどうというわけでは無いが、何となく不思議な気分ではあったし、ここで死ぬのは悪くないとさえ思える雰囲気であった。
都心の薄汚れた空気に女のため息はスパイスのように作用して、麻薬の如き感覚を生み出してくれた。漆黒の修道服がマフィアのスーツのようでいて、欲望の暗黒のようにも清純な輝きにも見えた。
「神は世界を創った。光から大地を創り、環境を整えた。そして、ヒトになったんだ。一人が寂しくなった神は打開策を思いついた。自分で自分を作れば良いのだと。神は初めに世界を創った。それが一度目の人生だ。七日目に神は休んだのではない。生まれ変わったのだ。ただ生まれ変わったのではなく、わざわざ一度目の自分が生きている時間まで戻って生まれ直した。これで二度目の人生で、神はようやく初めての友を得たことになる。つまり、一度目の自分だ」
女の瞳は繁華街のネオンよりも幾分か暗く、しかしより鋭利であった。俺が纏うスーツはその鋭さを少しも軽減してはくれない。それは少なからず俺の気持ちを落ち込ませたし、時折吹き付けるビル風が冬の訪れを示唆するのが更に堪えた。まるで四方から責められているようだなどと考え、それがやたらと悪魔に相応しいことに気付きより一層惨めな気分になれた。
「神はそうして何度も人生を繰り返すことで複数の友人と豊かな感情を覚えた。誕生した者は元を辿れば全て自分なのだから多少の面白味には欠けるが、孤独に耐えるよりはずっと楽しい時間だ。そうしてサイクルを回すうちに、己の記憶を消すことを思いついた。最初はぼんやりと、次第にはっきりと忘れていった。一度終わった人生ーーつまり、生まれ変わった最新の、現行の神以外はみんな脱け殻だ。そこにはその時々の神の思考が残ってはいるが、大きな性格の相違が無い代わりに思考が凝り固まってしまう。神は個性を求めたのだ。同時に同じ時間軸に生まれることもやめた。時が流動性を持ち始めることになる。その方が個性が生まれやすいだろうとの考えだ。神はずっと考えていた。退屈しない時の過ごし方を。何故そんなことをしたのかを理解出来たのなら、俺が今何を考えているのかも分かる」
ワイシャツの胸ポケットを探り、煙草を取り出す。緊迫した空気を打ち破りたくなったのでも、緊張にさらされた我が身を解したかったのでもない。ただ、紫煙が恋しくなったのだった。煙草を吸うという事実が本人にもたらす影響は多岐に及ぶ。健康を害することはもちろん、精神や、果ては人間関係にまで暗い影を落とす。もちろんネガティブな影響ばかりではないが、ポジティブな影響が多いこともない。そうなれば悪い印象が強く残るのが人間というものであろう。
ならばなぜ、喫煙者は煙草をやめられないのか。煙草に含まれる成分が人に中毒症状を与えるのだと社会は言う。ニコチン中毒者に対する薬もある。だがーー俺はそうは思わない。
喫煙者は、煙草に恋をしているのだ。
人は生きるうえで何かに依存せずに生きることはできない。何かに縋り、それを目印にすることで自分の居場所を忘れないように努める。自分以外の何かに魂の一部を預けることで己が虚空の存在ではないと思いたがる。それが醜態なのかは分からない。だが、縋らないということは何にも興味が無いということだ。何者にも依存しない人間は、自分にすら興味が無い。ただ、生きる。目の前の現象を、その瞬間の己の感情を、刹那的に昇華しつつ、遺恨は無い。感情が無いのかもしれない。目の前の現象を処理し、生きる。ただ、それだけ。
紫煙は揺れる。薫りの乗った空気が肺に流れ込み、そして満たす。澄んだ空気を侵し、なだれ込む。それが心地よかった。俺はもうヒトではないが、せめて依存者であることをやめたくは無かった。
「ーーそんなことを続けているうちに、事件とも呼ぶべき事態が発生する。俗にいう、アダムとイヴだ。神はとうに個性を得ていたし、アダムとイヴの段階で記憶を手放すことにも成功していた。すなわちそれまでの十数回の自分は、一度目の自分と同じように天地を創造するような莫大な能力を保持しつつ、それぞれの僅かな個性を喜び合うような穏やかな時間を過ごしていたというのに、同じ記憶を持たない彼らはその秩序を乱した。楽園がそれまでのシステムでは立ち行かなくなった。だが、神はそれでも構わないと思ったんだ」
「なぜ?」
女が微笑む。歪だ、と思った。
路地裏は荒れていて、隣接するビルから出たのであろうゴミが散乱していた。といっても生ゴミなどの腐敗性のゴミは袋にまとまって隅に追いやられている。ともすればカラスのご馳走になりそうではあるが、ゴミ収集までの仮置きなのだろうか、袋が二重になっているところ以外は特に鳥類への対応をしているようにも見えなかった。単に面倒なのかもしれないし、それがこの街の掟なのかもしれなかった。腐敗した人間が出したゴミがどの程度のスピードで腐り落ちるのかは分からない。それは他より早いのだろうか。それとも、最初から腐っていればそこから退化はしないのだろうか。
女はそんなゴミと同じように置き去りにされていた惨めな一斗缶の上にどかっと腰掛けた。修道服の汚れを気にする様子も無く、疲れたから座る、といった顔をしていた。こいつは依存をしない類のヒトなのかと思うと、突然分かり合えないような気になり、こんなにも長々と語り始めた自分が馬鹿馬鹿しくなった。
「ーー寂しくないから、だよ。神は世界を創り直した。今度こそ完全に記憶の保持を辞めて、幾度となく人生を歩み、数多の文化を生み出しながら時を過ごした。自分が何度人生を重ねたのかも数えられないほどの命となった。脱け殻たちが複雑に絡み合いながら、神は今も何処かで人間として生きている。それが今の世界だ」
「随分と長い演説だったが、肝心の答えが一向にわからないな。それとこれと、どう関係がある?」
「俺もお前も異能を持っている。それが何を意味しているか分かるか」
「さぁ、どうだろうな」
ふいに女が視線を投げる。何となく言わんとすることを察して、俺は残りの煙草を女へと投げた。煙草は放物線を描いて女の手へと吸い込まれる。女がその白を咥え、カチリ、というライターの小気味いい音と共に生み出された紫煙に心を預けるのを見て、少しだけ安堵する自分を見つけた。依存は、堕落を招く。それは悪魔にとっての甘美であり、少なくとも憎むべきものではないのだから。
「異能というのはつまり、神の能力だ。神の能力を、お前も俺も、思い出しているんだ。俺たちは昔、始まりの時点では神だった。それが脱け殻になった今も、神であったことを思い出したことで使用可能になっている。神であった時の記憶をほんの一瞬でも思い出せれば、異能を使うことが出来る。俺は、それを思い出しすぎた。だから、悪魔になった」
「面白い仮説だ、とでも評しておこうか。私は修道女だからな、お前のその戯言にそれ以上のコメントはできない。そして、これが最期の問いだ」
片膝を立てて缶に座る女は紫煙を燻らせる。つまらなそうに。まるでその行為に意味などないかのように。煙を求めて息を吸うのではなく、煙を救う為に息を吐くかのように。その姿が彼女を修道女然とみせるようだった。
「なぜ、今になって死を受け入れようとする?」
しん、と急に空気が冷えた。いや、元より冷え切っていたのかもしれない。だが俺はようやくそれに気付いた。気付かなければまだ温もりを錯覚できたかもしれないのに。もはや手元の煙草はその役目を終えようとしていた。それをゆっくりと地面へ放ち、焦げた色の皮靴のつま先でその灯火の息の根を止めた。
「受け入れる受け入れないの話ではない。どうせまた俺は俺として生まれ、過去の断片を思い出し、そしてまた悪魔になる。ただそれだけだ。今回はそれが僅かに早まるだけ、ただそれだけなんだ」
悪魔が無慈悲であるというのは偏見である。悪魔が家畜たる存在の人間に感情を抱くわけがないと主張する人間がいる。だが俺に言わせれば、それは人間同士にも通用する話である。人間は同じ人間を見下すことも、家畜のような印象を抱くことも絶対にあり得ないと言い切れるだろうか?いいや、それはできない。逆に言えば家畜に愛情を持つことも、家族のような関係になることももちろんある。なればそれは、その人間が悪魔にとって対等に接する価値がないと判断されたまでの話である。悪魔との関係は、少なからず相手がドライで利害に厳しいという点を除けば人間同士の関係と何ら変わりがない。権力者と呼ばれる人間は他者よりも力を持つが、本人次第で良き友人にも恐るるべき脅威にもなりえる。庭に蔓延る雑草だと判断されるか、美しい白百合だと判断されるかは当人次第なのである。
その観点から言えば、間違いなく目の前の女は雑草以上の価値を持っていた。それがどんな花であろうが、俺の視線を離させないような力を持っている時点で、花の名などに意味は無かった。少なくとも、俺にとってはそれが全てである。世界にとっても。今この瞬間に大切なのは自分以外の絶対的他者の評価ではなく、自分自身の感情である。
「なるほど。本当に面白い話だった。つまりお前は、死を受け入れているのではなく、静かに世界の終焉を待っているだけというわけだ」
「世界に終焉などすぐには来ない。それこそ神が満足するまで続く」
「それはそうだ。そのための世界なのだから。だがお前は今、終焉を望んでいるという部分を否定しなかったな」
女は一呼吸おいて、静かに一斗缶から腰を上げた。今の今まで気づかなかったのだが、修道着の下に彼女は真っ赤なハイヒールを履いていた。それが酷く不釣り合いで、背徳を煽る妖艶さでもあった。
「……確かにそうだな。だが肯定もしていない」
コツン、コツンと音を立てて、真っ赤なヒールは地面を叩く。老賢者の操る杖のような印象を抱かされた。その音すらも何か特別な力が込められているかのような錯覚。荘厳な森林に響く雨音にも似ている。一音一音がやけに重く、精神を揺さぶる振動となる。
調律師たる女は美しい姿勢で、ゆっくりと俺に歩み寄る。気怠げな表情のまま、ゆっくりと。
ピリピリと空気が振動する。女が歩みを進めるごとに、風は鋭さを増すようだった。ビルの壁に小さな音を立てて、細い亀裂を描く。転がっていたポリバケツがガタガタと震えている様がまるで恐怖に怯えるかのようで、僅かに愛おしさを感じさせた。
いつの間にか女は俺の目の前にいた。
無防備にもその距離は短かった。手を伸ばせば抱きしめられる距離。手を伸ばせば首を刎ねられる距離。手を伸ばせば、命も心も揺さぶれる距離。
そこに、女はいた。
女は微笑んでいた。美しいと形容する他に言葉を見つけられない微笑みだった。慎ましく柔らかなその笑みのまま、シスターはナイフを俺の首元に突き付ける。切っ先は無邪気な令嬢のように淑やかに細胞を切り拓く。他人の感情の機微が分からないかのように、まるでこんなことどうとでもないと言うかのように。笑顔のままに、そして無自覚に殺されるようだった。
「私は修道女だが、別に悪が嫌いだというわけではない。人を憎むこともあれば恨むこともある。私に逆らう者は等しく全て絶望を味わえば良いとすら思う」
切っ先は皮膚を何枚か突き破ったところで止まっていた。血が滲みそうで、しかしそれは叶わない。外界を知りたい血球たちが疼く。刃はそこに到底敵わない壁があるかのように微動だにしなかった。そこで俺はこの女がほとんど人間でなくなっていることを思い出す。鼓動による揺れも呼吸による乱れも何もなかった。彼女がそのまま無機質なナイフであるかのごとき鋭さと冷たい微笑み。
俺は何というか、今までに無い感覚を得ていた。カルチャーショックとも言うべきかもしれない。言葉を発しようと口を開いたものの、そこからすぐに出たのは唖然と困惑の入り混じった吐息でしかなかった。
「お前は本当に修道女なのか……?」
カラカラと乾いた声で女は笑う。
「悪魔のお前に言われたくはないね。お前は誰かを憎んだりすることは無いのか?」
す、とやって来た時と同じ空虚を携えて、ナイフが首元から離れる。だが何故か凍りつくような冷たさは、傷と呼ぶこともおこがましいような切り込みに残っていた。もしかしたら凍っているから深い傷にならないのかもしれないと考えて笑う。虚しい処世術のようだ。凍ってしまえば傷つかないと思うのはあまりに図々しい。凍ることで残るのはむしろ傷の方だ。人間の体は凍てつく寒さに適応するように作られてはいない。身を凍らせて敵から逃れたとして、そこに待ち受けるのは霜焼けなのだ。己を守ろうとして、自ら傷付ける。所詮いつかは溶けて消える氷で、人は身を守ることなどできない。
「あった、な。だがもうそんなことは些細な事象でしかない。俺は自分のしたいことをしたいようにしてきた。充分すぎるほどにな」
「そうか。私はね、憎んでいるんだよ。神と、この世界を。終わりにしたいんだ」
「ーー意味を図りかねる」
ハイヒールの紅は都心のくすんだ闇夜によく映えた。女は白く細い腕を伸ばすと、俺の胸に手のひらをそっと置いた。そしてそのまま、まるで心臓の鼓動を聞くかのように修道服を翻して俺に体重を預けた。俯いた瞳は手折られた百合のようで、唇の紅が妙に映えていた。
「お前は先程、私達教会の人間を偶像崇拝者だと言ったね」
「ああ」
「違うよ。偶像崇拝をしているのは末端だけさ。枢機卿を初めとした幹部はみんなこの世界の真実を知っているんだ」
「……何だと?」
とん、っと軽く俺の胸を押して、その反動で彼女は小さく飛ぶように後ろへ下がった。その拍子に間近で女の瞳を視線が捕まえて、その水晶がハイヒールと同じ紅色に輝いていることに気付いた。
彼女の身体は重力とは無縁であるかのように軽やかに路地裏を舞った。羽のように不安定に、しかし絶対的な自信を携えて。
「悪魔祓いが正当化されていることに違和感を覚えなかったのか?脱け殻が過去を思い出し過ぎたら悪魔になるのだとしたら、教会の幹部は皆悪魔だ」
それが彼女の力なのか、はたまたそもそもの体質や性質といったものなのかは分からない。とにかく目の前の修道女はまるで重力など存在しないかのように軽く、軽く、踊っていた。もはや俺の耳に彼女の声は届いていなかったのかもしれない。悪魔と呼ばれるようになってからは感じたことのない感覚に、ひどく懐かしい気分になった。
唾を飲み込んだとして、体内の水分が増えるわけではない。起こってしまった脱水は治らないし、喉の渇きが癒えるわけでもない。まさに気休め。だが口渇感を覚えた時、手元に水がなければ躍起になってでも唾を飲む他に手立てはない。なぜか、そんな気分だった。
「やつらはね、この世界に綻びを許さない。どんなに解れてボロボロになっても、世界を存続させようと動くのさ。理由は分かるだろう」
ねじまきで得た動力を失ったオルゴール人形のように彼女はピタリと動きを止めたかと思うと、リボンを解くような優しさと滑らかさで頭巾の端をつまみ、引いた。今の今まで狭苦しい空間に閉じ込められていた白銀の糸が流れるように飛び出す。月光を受けたそれは天女の羽衣のように彼女の肩から背中へと舞い落ちた。白銀の髪は、白磁のような冷え切った肌の色にとても合う。任を解かれた頭巾は、髪があるべき位置に収まるのを待った彼女が手を離すと同時に今度は本当のリボンのように帯状の布へと形を変え、くるくると巻きつくように彼女の腕を駆け上がり、首元に辿り着くと最初からそうだったかのようにチョーカーへと姿を変えた。濃紺の布地はいつの間にか、ハイヒールと同じ紅に染まっていた。
「ーー寂しいから、か」
自分の声が震えていることに気付いて、俺はひどく驚く。
「私はこんな世界を終わりにしたい。虚しいだけだよ」
「ーーそれを決めるのは神だ。この世界で揺れ動きながらも絶対的に動けるのは、現行の神だけだ!」
怒鳴り声に近い大声が自分の口から飛び出したことに俺はさらに驚くこととなった。喉に手を当てて、本当に己の声帯による波長だったのかと疑うことしかできない。困惑と、動揺。そんなものは自分の中から消え失せたと思わざるを得ないほどに懐かしい感覚だった。
「それは違う」
彼女は静かにそう言った。月明かりが後光のようだと思った。俺は自分が彼女を縋るように見つめていることに気付いて、もうどうしたら良いのか、どうやってこの醜い変化を止めるないしは受け入れればいいのかさえ分からなくなっていく。
「神はもう、自力で世界を終わりにできない」
「そんなことが何故分かる!」
俺は考えるより早く彼女に詰め寄り、そしてその華奢な胸倉を掴み上げていた。身長差で彼女の体が宙に浮く。そこまでされても彼女の顔は涼しげで、何の変化も読み取れない。薄く紅が引かれた唇が小さく上がり、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「私が、今の神だからさ」
(ーー愛してるよ、何度でも、何度でも)