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29.影の想定 3年目・12月24日


・2012年12月24日(月)


 で、クリスマス当日。


 ラーメン屋に午後4時集合、なんて言われたけど、実際は予定よりも随分早く時間が空いてしまったわけで……


「滑るぞ、気をつけて帰れよ」

「はいはい平気平気、っておわっ」

「言った側から何やってんのーもう」


 校門を出るとすぐ、ちらつく雪の中、何度かコケそうになりながら自転車を押して坂を下っていく少年の姿が目に入った。メティスが言う。


  ――「え? あれ店主の孫?」


 まだちっちゃいけど、体格はしっかりしてきた後ろ姿だ。……うん、子供の成長って早いもんよ、特に男の子はね。


「暫く見ない間に背が伸びたねぇ」


 後ろから声をかければ、きょろっと目のあった谷川さんが首をくにゃっと傾けた。


「おー、きたきた豊田さん。……ま、あれでも未だに『前へならえ』が苦手みたいなんだけどね〜」


  ――「……ああ、大体腰に手を当ててるってことね」


 メティスがくつくつ笑って返す。まあ、向こうには聞こえてないんだけど!


「さーそれはともかく入れ入れー! そんなとこつったってると寒いぞー!」

「おー目指せガスストーブ!」


  ――「テンション高いわね、あなたたち」


 扉を開くと同時に鳴るのは備え付けの鈴。 店主は札を「close」にかけ直すと、「後は頼んだ」とばかりに奥へと引っ込んでいった。


 谷川さん曰く、今のイツキくんは肌の弱い妹ちゃんの塗り薬と諸々を取りに戻っただけで、妹ちゃんたちは上の居住スペースにいるそうだ。確かによくよく聞いてみると、赤ちゃんの声が聞こえるような気がする。


「なるほどねー、お兄ちゃんは大変だ」


  ――「あの分だと、お母さんとの関係は修復できたのかしら」


 ……さてね?

 そう思いつつ、わたしはそそくさと温風が当たりそうなカウンター席に沈み込んだ。――息を吐く。ガスストーブはつけてそんなに経っていないらしい。空気はどこか冷たく、心なしか息も白かった。


「で、谷川さん。ボヤいてたのは知ってるけど、実際どうなの?」

「何が?」


 コトン、とコップがカウンターに置かれた。うん、まずお冷だ。


「客足」

「いや〜、全然だよぉ?」


 締め直したアルバイト用エプロンのヒモ先をぶん回しつつ、谷川さんは苦笑い。


「賑わうのもお昼12時半から1時の僅かな間。それで擬似満席にはなるけど、他はガラガラ!」

「やっぱそんなもんだよね、冬休みだし」


 と、目の前にカツン、と小皿が置かれた。


「何これ」

「メンマ。今日分の残り」

「勝手に出しちゃっていいわけ?」

「いーのいーの、まだここにあるってことはどうせ賄い用だし。バイトは現在あたししかいないから気ぃ使う必要もナシナシ!」


 はぁ、そうですか。

 そう思っていると、また。


 ――チリン。


 ようやく温まりかけた空気に冷たさが流れ込んでくる。

 扉を開けたのは時永くんだった。


「こんにちはー……って、随分暖かそうなところにいるなぁ」


 分厚い扉がガチャンと閉まる。目をそらせば――コツ、コツ、コツ、とブーツの足音が隣に近づいた。

 ガスストーブの目の前に陣取って、その上にダッフルコートを羽織っていたわたしはどうやら笑われてしまったらしい。


「そんなトコにいんだから、いい加減脱いだら?」


 谷川さんにまでニヤニヤからかわれたわたしは、思いっきりむくれた。


「えー、だってまだ寒いし」

「冬なんて、寒いものですよ〜っと」


 そう言いながら隣へやってきた時永くんは、ふざけて、自分のコートを頭からドサッと被せてきた。


「うわ」


 一瞬、柔軟剤のような匂いがしたのは、時永くんの服の匂いだろうか。


「……お、重いわー!」

「おっと!」


 色々な意味で()()()()()コートをぶんなげる。谷川さんが大笑いした。


「はっはっは! まるで京都人っ」

「着倒れってかい!?」

「いやそれ京都観光に来た人じゃ?」


  ――「現地の人ではないわね、確かに!」


 ちょっと、メティスまで笑わなくってもいいじゃん!? ひどい!


「はいはいおふざけはお止めなさい! 時永くん、たたんで横の席にでもおいておくようにっ」

「ちぇっ、いいコート掛けがあると思ったのになぁ!」


 さすがに騒げば騒ぐだけ暑くなる。自分のコートをキャッチしてニタニタ笑う時永くんをチラ見し、わたしはようやく上着を脱いだ。


「……なんかさ」

「ん?」

「すごく」


 谷川さんはそれを見て何やら、物思いにふけったようだった。


「……仲良くなったよね、君たち」

「?」


 が、一瞬だけ訪れた意味深で静かな雰囲気は、すぐにまた鈴の音にぶち壊される。


「たぁぁぁぁーのもぉおおおおおおおお!!」

「どうもー! メリークルシミマスー☆」

「こんにちはー」


 ごく一人を除き挨拶が間違っている気がする、3馬鹿トリオのご到着だ。


「……ねえ、谷川さん」

「こーらぁぁ!!」


 谷川さんは少しため息をついて、後輩たちの挨拶に答えはじめた。渋々わたしは口をつぐむ。さっきの谷川さん……なんだか、妙な雰囲気だった気がする。


  ――「そう?」


 だと思うよ? でも、もうそれはない。

 一瞬元気がなさそうだったけど、それでも後輩相手には明るくふるまっている――まるで、さっきのが嘘だったみたいに。


「あんたたち、ず・い・ぶ・んッ――大荷物だけど、何持ってきたの!?」

「イタイイタイイタ~イ、まだ何もしてねーのに関節技かけないで谷姐!」

「ふむ、この後するんだろ、落川……?」


 七生くんの言葉に、時永くんが粛々と突っ込んだ。


「……なるほど、する気満々なのか」

「へっへえー! 何をするかだとぉ!? そして何を持ってきたかだってぇ……決まってるっしょ!」


 佐田くんがビニール袋を高々と掲げた。


「ほれ、材料一式とタコ焼き機ぃ!!」

「……予想はついたわ」


 佐田くんに関してはやっぱりだ。

 しかし、大荷物なのは何も佐田くんだけではない。


「で、そっち二人は?」


 顔をあわせ、ニヤリとする落川くんと七生くん。

 ……嫌な予感がする。

 特に、いつもなら呆れた顔をしているか無反応かどっちかの七生くんが今日は落川くんと一緒に悪ノリしているように思えるのが、その場にある種の寒気をかもし出していた。




    *   *   *   *




 ……おい。


 ……おい。


 ……おいコラ。後輩ズ。



  ――「えっと……嫌な予感、見事的中?」


 やはりというべきか、事態はカオス度を2段飛ばしに増していた。わたしはメティスの問いに深く頷く。


 あれから数時間。……わたしが一応手に持っているのはお酒。それも七生くんたちが持ってきたものだ。


  ――「……地球人もまだまだ勘が働いたりするってことよね。私の未来予知レベルには足りないにしても」


 ああ、危機回避能力の延長なんだっけ。メティスの未来予知って。

 まあ、つまりわたしは――この状況に、危機感を覚えてるってこと。


「だっから平山さんに言ってやったんだよ!! おれは! 生まれる場所を! キロ単位で間違えたのだぁ!」

「うぇーい、そうだそうだー! 落川が生まれるべきはパン酵母の中だったんだー!!」

「――――意味が、ワカメ……」


 落川くんはいつも以上に余計テンションが上がっているし、七生くんは普段より三割増しでよく喋る。

 そして転がる屍が2体。

 片方の仰向けに倒れている佐田くんは『タコの食べすぎ』という不注意からきているので何も問題はない(?)のだけれど――問題はもう一人の方だ。


「はぁ――そんなイメージは何となくあったけど、アルコール弱いのかぁ、時永くん……」


 うん……だって……お酒が強いんだったら、もうちょっと()()()()ようがある気がする。谷川さんがため息をついた。


「こういうイベントってさ、だいたいお酒が得意な人が立案するっしょ?」

「うん」


 わたしは頷く。そう、時永くんは今……店の床で()()()()ているのだ。


「で、そんな機会があっても今まで絶対のらなかったじゃんか、時永くん! それって多分……」


 正解だろうと思うよ谷川さん。

 わたしは同意しつつ、遠い目をした。

 ……あと時永くんの場合、『酔っぱらって記憶がない』のか、『その他の原因で記憶がない』のか判断しづらいのもあると思う。怖いよそんなの。


「あー、でもちゃんと息はしてるや……」


 鼻の前に手をかざした谷川さんの声には少しため息が混じっていて、わたしもつられて息をついた。

 しかし、時永くんがアルコール・ハラスメントされてぶっ倒れるという事態を、いったい誰が予測できたというのか。わたしはネット動画を見ながらゲラゲラ笑っている加害者、落川くんと七生くんにジト目で声をかける。


「ねえ、どうすんのこれ?」

「ハッハッハァー! ほっときゃ起きますって!」


 起きる気がしない。

 なんというか『土下座』に近いような独特のスタイルでいびきをかいている時永くんは、ゆらしても頭を弾いても、全く微動だにしなかった。


「というかなに、この寝方」

「お腹見せたくないんじゃない?」

「お腹?」


 谷川さんはのけぞりながら言う。


「ほら、こういう……犬とか猫の服従のポーズあるでしょ」

「仰向けになってお腹丸出しになるあれ?」

「そう。あれって要するに『僕は誰にも傷つけられない自信がありますよ!』っていうリラックスサインなのさー」


 にゃー、と仰け反ったままおどけてポーズをとって谷川さんは説明する。……よく体幹ブレないなこの人。


「あれ人間も同じなんだって。自信満々な人ほど仰向けに寝入って、その寝相が長続きする。反対に自分に自信がなかったり、ガードが堅い人ほど弱点……つまりお腹を出さずに寝る。うつぶせになるし、丸まるの」

「……ああー」


 確かに顔だけは横向いてるけど、うつぶせだ……そしてそのくせ、膝と背中は思いっきり丸めている。よく眠れるなこの体勢で。


  ――「そして美郷、すごくどうでもいい未来予測を言っていい?」


 メティスは言った。


  ――「彼、家で寝てるときも土下座スタイルよ。今家にいるような気分なんでしょうね」


 待って。なんでメティスの未来予知に時永くんの普段の寝相が出てくるの……いや、みなまで言うな。ただ、認めたくないだけだ。



  ――『時永くんと仲良くなればなるほど、惹かれれば惹かれるほど、あなたは巻き込まれる』



 ……海水浴の時の説明だって、忘れたわけじゃない。ここから先、時永くんに一番近づく女の子は――いつか『大きな泡』を必ず生み出すのだと。


「「ホェーッヘへへへへへ!!」」


 そして後輩ズはどんな笑い方だ。


「ねーえ! 君たちもお酒程々にしないと帰れないよ!」

「いーんだZE!! 最悪佐田んち止まるから!」

「マミーには連絡済みですからぁ~ザンネーン!」


 そして君たちは古いなぁ、ネタのチョイスが!

 谷川さんは時計を見てため息をついた。


「……今9時か。あの子たちが落ち着くまでここで見てるしかないかなあ……」

「任されちゃったもんね……」


 騒ぎすぎないように~とか散々言われたし、上にはきっと、さっきしれっと戻ってきてたイツキくんたちがお泊まりしてたりするんだろうし……


「あたしは終電逃したって、頑張れば徒歩で帰れるだけの距離だしいいけどさ……で、豊田さんはどうする?」


 付き合って残る、なんて言っても正直居場所がない。後輩トリオは結束力が強いから混ざれないし、谷川さんほどここが、勝手知ったる場所でもないのがわたしだ。


「……申し訳ないけど、わたしはそろそろ帰るよ」

「そっか、お疲れ」


 わたしはまだ調子の悪そうな佐田くんにウザ絡みをする落川くんたちを見た。……あーあ。青年たちよ、せいぜい将来のために何か失敗談を作るがいい。


「あ、()()()()()()()

「何?」


 荷物をまとめていると谷川さんに呼び止められる。彼女はニヤッと笑った。


「……ちょうどいいや。時永くん、連れてってくれない?」

「は?」


 ――アレを!?

 土下座状態の時永くんはむにゃむにゃと口を開いた。


「いっそのこと……みんな……ねば……らくになるのではなかろーか……」


 ――あの超・不穏なことを口走ってるアレを!?


  ――「……待って美郷。今、時永くん、寝てるのよね?」


 だと思うけど。そう思いながら見ていると、右手がピクッと動いた。

 ふと思い出す。

 慎治さんが言っていた、時永くんの最近の癖……。



  ――『……庭の手入れをしながらポツポツ話すんですよね。最近ついてしまった変なくせの話とか。右手が知らないうちに動いていることがあるらしいです』



 ……右手。

 今も、右手が動いている。


  ――「……美郷。あなたに聞きたいのだけど。もしよ」


 いやに硬い声をしたメティスが言った。


  ――「あなた、うまく動かないロボットのパイロットになったら、先に何を動かす?」


 ……ロボット……?


  ――「漫画によくある人型パワードスーツでもいいわ! 普段、自分の意思で動かせないものを、あなたがいきなり動かせるようになったとして……」


 えっと、それは多分……

 人を模した形だったら、目の前の手を動かしたり、握ったり……待って。


 ――()()()()


 わたしはハッと時永くんを見た。――動く、右手。


 谷川さんは手を合わせてきた。


「お願〜い! あのままだと、ヒートアップした落川七生コンビにどうにかされそうだからさ。酔っ払いほど怖いもんはないでしょ!」


「……わ、わかった」


 わたしは見た。……手を、握る動作。ワキワキと握る、()()()()()()……。


「……豊田さん? 顔青いよ、大丈夫?」

「……大丈夫、たぶん」




    *   *   *   *




 上に、一般人の子供が寝ている状態で――横で、誰かが楽しんでいる状態で。

 あの()()を出すわけにはいかない。


 時永くんの体を引っ掴み、慌てて外に飛び出した。


  ――「美郷、背中に気をつけてね。というか何も持たせてないわよね!?」


 当たり前だ、彼の鞄ですらわたしがカラビナで前向きにつけたリュックからぶら下げてるのに!


「ええい、世話の焼ける人だなぁ、もう!」


 前から、居眠り要注意な時永くん。でも眠らないわけにはいかないのが人間という生き物だ。それも相手が『神様』だったら、きっと余計に勝てないだろう。

 だって時永くんには忘れがちだけど、クロノスが紐付いているんだ。

 まるで、わたしとメティスみたいな関係性で。


「……メティスは、わたしが寝てる間に体を使ったことはある?」


  ――「あるわけないでしょう。他人の肉体よ?」


 即答してくる女神さまに、わたしの心は少しずつ落ち着いていく。時永くんの中にいる何かは、どうもずっと『右手』しか動かせないらしかった――まだ少し、ぴくぴくと動いている。


  ――「私と美郷は【魂の造り】が同じで、だから繋がっていられる。気軽に声を届けられる。世界を超えたきょうだいみたいなものだけど、やっぱり別物だもの! 基盤は同じでも、発展の仕方が全く違うんだから!」


 細身の時永くんは、わたしが思っているよりも意外と軽い。

 だから背中にしょって、どうにか立ち上がれたんだけど……。


「持ち、づらい……!」


 だが、今の季節は冬。

 お互い着膨れしている。だからすぐ、ずるずると落ちていってしまうわけで……!


「ん……んん……」

「! 起きたかな」


 何度か背負い直していると、背後から聞こえた『ぼんやり』した呻き声。

 ……対処を如何すべきか、女神さまに問う。


  ――「……なんか寝ぼけてるみたいだし、その場にいる美郷の感覚に任せるわ。それ、誰だと思う?」


 ……誰、か。


 右手はもう、動いていない。

 わたしは大きく息を吐いて、耳を澄ました。

 ――落ち着こう。

 息を整えているうちに、言いようのない感覚に気づく。

 呼吸の奥の()()()()()雰囲気。あのコートと同じ、あたたかさ。


「……これ、時永くんかな、いつもの」


 これは――そうだ。いつもの。

 不思議と雰囲気だけで分かる。「さっきとは違う」って……わたしはようやく、緊張を解いた。

 そして、ふっと思い出す。

 以前……言われた一言を。



  ――『僕はあの後、どうやってあの血だまりと手を片付けた?』



 ……ちょうど1年前に聞いた、時永くんの話。

 あの時おぼえた違和感。クロノスがやるはずもない……時永くん自身に覚えのない、「惨劇の後片付け」。

 右手の動いた時――さっきの寝言。

 全部……何か普段と違う、『冷たい感覚』がした。


「『いっそのこと、皆死ねば――楽になる』?」


 あの寝言を、ちいさくわたしは口に出す。

 ……ひどく焦燥感のある、何かだった。

 ひどく、辛そうな、音だった。


 あれはやっぱり、()()()()()()()()気がする。


「皆……」


 皆というのは、誰だろう。


「……」


 考えても答えはない。でも、あれは絶対クロノスじゃない。

 だってクロノスならもう少し【変な余裕】がある。

 余力があるというべきかもしれない。


 ただ……時永くんでもないような……


「…………ううん、もしかしたら」


 ある、可能性に行き当たった。

 あれはわたしの、「知らない時永くん」なのかもしれない。


  ――「美郷?」


 メティスは、気づいてたのかな。



  ――『()()()()()()()()()()()()()()()



 ……仲直りした時の、雰囲気の違う時永くんの問いかけ。



  ――『だから、そう。少しずつ「飲み込んで行こう」と思ってる。……責任なり罪悪感なりは勿論、僕のものだ。ただ、だからって我慢するのはやめるよ。色々なものを』



 ……海水浴場に向かっていた、車の中での一言。


 あれはそう、どちらも少しだけ――わたしの知っている彼とは、違う振る舞いだった。今までの時永くんと同じように見えて。


「……メティス、教えて」


 わたしは口を開いた。


「時永くんは、クロノス以外に『()()』を抑え込んでるの?」


  ――「……そうね」


 未来の見える、女神は言った。


  ――「……やっぱり、()()じゃないかしら」


 ……そう。

 わたしはメティスの言葉にしっくりきた。


 あれは、結局のところ……()()()()


 わたしの知ってる時永くんであって、時永くんでない部分。

 今更、思う――後片付けをしたのは、もしかしたら時永くん自身だったのかもしれない。それも通常の精神状態じゃなく、放心状態に近いような形で。



  ――『目の前には血だまりがあって、手には何かをえぐったような感触だけ残っていた』


  ――『生ぬるい血の感触。それがいつまで経っても、右手にこびりついて離れない』



 ……右手で、自分がやったという自覚はあった。

 だから、怖くて証拠の隠滅をはかった。それが時永くんの裏の顔だったのかもしれない。

 ただ、時永くんは。

 たぶん、それを恥じて――忘れたいと思った。


「……だとしたら……人って、不思議だね」


 忘れたいと思ったから――()()()

 それはきっと、彼の弱い部分だ。

 誰にも見せたくない――汚くて誰にも褒められない、そんな部分だ。


「ん……んん……」


 未だ、闇の中をもがくような呻き声に――わたしは声をかけた。


「……時永くん、起きろ?」


 『右手』はぷらんと動かない。

 そこにいるのはきっと……今は、わたしの知ってる時永くんだ。

 わたしは思う。

 ……当時幼かった彼に、「傷」があるのは当たり前だ。


「……とよださん……?」


 気持ちの悪そうな、ふわふわっとした声がようやく耳に届く。

 ……前に、どこかで聞いたことがあった。

 人の心っていうのは、今までの『記憶』で出来ているらしい。


「……これ、どこ……」

「もうすぐ駅だよ、自分で歩く?」

「……。むりれすぅ……」


 ならもし、「忘れたかったところ」にも【心】があったらどうだろう。

 それはきっと――どうあがいても【自分】なんじゃないだろうか?


「無理って、やってみなきゃ分かんないよ。男の子を背負ってる女子大生の身にもなれー?」

「……うーん……」

「うとうとしてるでしょ、聴いてる?」


 ……わたしにもあるのかもしれない。忘れてしまったものがたくさん。

 だって、わたしでもやったかもしれない。目の前のことを受け入れられなかったら、「見なかったこと」にしたかもしれない。


 自動車を見るたびによぎるあの事故も、あの時メティスがいなかったら――時永くんと同じに、【記憶】を引きちぎって、忘れていたかもしれない。


 ……でも君は、きっと。


「……時永くんなら歩けるよ」

「えへへぇ……そーかなぁー……」

「ほーら、勇気を出して降りてみよう!」


 君は、逆にいえば――きっと、()()()だから忘れようとしたんだよね。

 そのままじゃつらくて動けないから、生きていくのもつらかったから。だから忘れてでもいい、ちぎってでもいい、もがいて……立ち上がろうとした。


 わたしにとってのメティスがいない中。クロノスが頭の片隅に住み着いている中。

 ――目をつむってでも、生きていこうとしたんだよね。


「……んー」


 まだ、思いっきりお酒が残っているらしい。

 呂律の回らない時永くんのズルズルした呻きが小さく耳に入った。


「とよださん」

「何?」


 ……耳の後ろに息が当たる。


「――すき、です」

「は?」


「きみ、が……」



 ……わたしは思わず、立ち止まった。



「……。時永くん? 今、なんて……?」

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