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27.対極の人 3年目・9月中旬


・2012年9月20日(木)


 その電話がかかってきたのは、大学からの帰り際のタイミングだった。


「あっ……はい、豊田です」


  ――「どうでもいいけどその着メロの謎のセンス、同世代にはなかなかいないんじゃない?」


 はいはい。

 いや、確かに同じ教室にいた子たちにはすごい目で見られたけど、文句はこの曲を流しつつレーザービームで地球を破壊するような面白ネタの代名詞になった、某有名野球選手に言ってほしいわけで。


『時永です。突然すみません』

「どうしたの?」

『……少し、確認していいかな……』


 時永くんの小声。

 恥ずかしそうな、人目を避けるような音。


『……僕の誕生日にくれたライラック、どこで買いました?』

「あれ? だったら、谷川さんが教えてくれたホームセンター……」


 わたしはふと、困ったような響きの奥に「何か」があるのに気づいた。


『……ごめんなさい。お店の場所、教えてもらっていいかな』

「いいけど、というか今帰りなの?」

『ちょうど終わったところで……』


 向こうはそこまで言ってわたしの言わんとすることに気づいたようだ。

 わたしはその言葉をあえて言う。


「……ちょうど良いじゃん。どうせ駅降りたらすぐだし、一緒に行こ?」




    *   *   *   *




 待ち合わせたのはいつものごとく、一本楓の前。


「いや、もう……助かった!」


 へらへら笑って現れた時永くんは、いつもより少しテンションが高かった。


「目をつけてたお店がいきなり閉店してしまったんで、しらみつぶしなんですよ!」

「閉店したって、お花屋さんが?」

「はい!」


 困ってたって……そういえば、どうしてお花屋さんに用があるんだろう。


「……誰かに贈りもの?」

「そんなところです」


 と、その時だ。


「ヤッホーイ!」

「「っ!?」」


 陽気な声がして、時永くん共々肩がビクッとした。


「おひさっすー! 豊田さんと時永さんじゃないっすかー!」


 うん……どうも、専門学校から帰宅中の佐田くんに見つかったらしい。


「……うん」

「お久しぶり……」


 おかしいな。別にやましいことはないんだけど、なんでこんな「見つかった!」感があるんだろう。


「佐田くん、こんなところで奇遇……」

「カっモぉぉぉン!! 空気読めない系タコ男子!!」

「うわ」


 時永くんが挨拶しようとしたすぐわきを、今度は谷川さんが猛スピードで突っ込んできた。


「! ひでぶッ」


 ――ドサッ!


「脱走ダコ、無事確保! 失礼しましたっ!」

「へ? あ、うん……?」


  ――「結構ジャンプ力あるのね谷川ちゃん。顔面目掛けてのドロップキックだと思うんだけど、それはもう華麗に決まったわ」


「秀ちゃーん、あたしたちは今からおデートにでも行こーねぇ、しょーがないからねぇー?」

「な、なんすか、オレなんかマズったの?」


 よくわからないまま引きずられていく佐田くん。

 どうやら谷川さんに気を使わせてしまったらしいんだけど……えー、どこからつけてきたの……?


「あの、どこで電話とりました? 豊田さん」


 呆れた顔をして時永くんは言った。


「どう見てもあの谷川さん、豊田さんのストーカー状態では……」

「暇だったんだね……たぶん……」


 せめて「仲間に入れて」と一言言ってくれれば検討はしたのに。


  ――「言いづらかったんじゃない?」


 そうだろうか。


「着信音のせいで目立ったんじゃ……」

「え、そんなにアレかな、わたしの携帯」

「結構アレだと」


 少なくとも目立つ、と言われてわたしはふくれた。

 いいもん、他と比べてなんか変なのくらいはわかってるもん!


「……ところで改札まで来て思い出したんだけど、お不動前のケーキ屋さんが……」


 そのあとは結局話の方向が変わってしまって。

 時永くんが花をあげる相手が誰なのかわからないまま、わたしたちは駅前へと向かうことになってしまった。


 ねえ。


「ん……なんです?」

「……なんでもない」




    *   *   *   *




「ほら、あそこ」

「……ああ」

「目立つでしょ」


 大学の前のモノレール駅からひとつ乗り継いで、駅前から数百メートル。

 でもメインストリートからは外れない、結構わかりやすいところにあるのが問題のホームセンターだ。建物が大きいせいで遠くからでもよくわかる。


「でも、お花かぁ……」


 前に栄子さんにからかわれてた慎治さんじゃないけれど、「花を贈る」と聞くと女性相手を連想してしまう。ただ、時永くんが誰に何をあげたっていいような気もするわけで……


「あった!」

「……時永くん?」

「この時期、なかなか売ってないんですよね」


 建物内に入るまでもなかったらしい。屋外の売り場で彼は足を止めた。


「これを暫く探していたんです。……家だとちょうど、今頃に咲いてた気がして。懐かしくて」


 以前わたしが贈りつけた白いライラックとは正反対の、ちょっと派手な印象だった。

 細長い形状の赤い穂先。

 時永くんは口からこぼれるみたいに語り出した。


()()()()。うちで育ててた事があったんだ。もう何年も前だけど」

「……うん」

「ちょうど僕があの家に引き取られた年の、夏から秋。それから次の年も、次の年も。毎回、貰い物だって愚痴りながら」


 ようやく思い出した。

 そういえば前にも、彼は言っていたことがある。

 彼にとって、お花は女の子のものじゃない。もっと別の人を指すアイコンだ。


「……最近、頻繁に足を運びたくなるんだ。週末、あの人が座り込んでいた場所を……まるで子供の時みたいに」


 ……去年のクリスマス。彼の家に行ったときは遠目で見ただけだったけど、確かお家の横には丸い建物があった。

 あそこには空調管理のできる、独立型のサンルームがあるそうだ。

 誰かに見せるために作られたんだろう、ガラス張りのドーム式。それもかなりの規模があって自動の散水機までついているような代物。

 いわば屋内にある大きな円形の、()()()だ。


 決められた時刻に地面近くから水が流れるから、雨も降らない。

 そんなところにまるで、「間借り」をするみたいに……時永くんのお父さんはよくしゃがみこんで、ひっそりと簡単なガーデニングをしていたという。

 水と種をまいて、時々肥料を混ぜて……。



「元々僕と同じで外部の人間だったらしいから……もしかしたら、変な遠慮があったのかもしれないね」


 時永くんの語りは止まらない。

 ……散財癖のあった彼のお母さんはとてもわがままな人で、彼女に対して強く言える人が必要だったという。

 没落寸前だった時永家を再興するために、先代の当主が血眼になって探し回ったのが、『わがまま』に屈しない性格の敏腕企業家だった。


「……性格的には、本当に遠慮なんて似合わない人だったんだけど」

「だから強く言い返せたんだ?」

「そう、だからあの家に呼ばれたんだと思う」


 時永くんにとっては、どちらも血のつながらない父母だ。

 けれど、その言葉尻は他人を語るそれではない。たった7年か8年、共同生活を送っただけの間柄だったにしても。


「……ただ、当人は自分のやりたいようにやってるだけのつもりだったろう」


 今まで【わがまま放題】に育てられたお嬢様が我慢なんてきくはずもない。

 『駄々をこねられたら、それに答えられるだけの財力を手に入れる』。

 それが、結局は時永くんのお父さんの役割になった。


「僕の父親は、お金を集めるのは得意だったみたいだけど、結局は人間関係があまりよくなくて……ぶっきらぼうだし、良くも悪くも言いっ放しだし、人には無駄に嫌われるし」

「うん」

「結局、()()()()()()の方が得意だったんだと思うよ」


 週末だったり、仕事が早く済んだ日は、必ずと言っていいほどガラスドームにいたのが彼だった。

 時永くんもお母さんが苦手だったから、逃げるようにそこへ行った。


「……お父さんの方が好きだったんだ?」

「困ったときの盾としか思ってなかったような気もするけれど……それでも、過ごす時間が多かったのは事実だった」


 サルビアの鉢植えをそのまま屋外レジで買って、ビニール袋を下げた時永くんは外に出る。

 ……夏の名残でまだ蒸し暑くて、曇天の空模様。


「だからかな。あの透明なドームに行くたび、あの、扉を開けた瞬間の湿気を感じるたびに思い出す。このくらいの時期は何が咲いていたかな、何を育てていたかな……」


 最初はそこまで興味がなかったはずだ。

 有り余る時間を潰すために、お父さんの近くにいたはずだ。

 1人でいるときに苦手な人に絡まれるのが嫌で……それを避けるために、引っ付いていただけの少年期。


「……読みかけの本と一緒に僕は、必ずポケットサイズの図鑑を持っていきました。彼がたまに【話のネタ】にしようとするんです。『これは何科の植物だ?』『花言葉はなんだ?』って。もしかしたら彼は、話のネタにしたいがために植物を育てていたのかもしれない。……たぶん、僕と喋ろうとしたんだ」

「うん」

「『知らない』と一言いえば、絶対に話は長くなるでしょう?」


 時永くんは苦笑いしてサルビアの葉を少し撫でた。


「だから、僕は植物に詳しくなる必要があった。それだけ目の前の大人と喋るのが、本当に苦手だったんです」


 返答に困った時永くんは、該当ページを広げてカンニングペーパー代わりに置いておくこともあった。おかげで必ず視界の隅にあった花の種類も、どれがどういう性質かも、少しずつ口に出すことができた。


「……君がくれたライラックも、春に植わっていた一つだった。ペチュニアもそうだ。君が何かをくれるたび、僕はあの時のことを思い出す――確かに僕は父親と話すことを億劫に思っていたし、恐れてもいた。けれど同時にどこか、ホッとしてもいた……」

「うん」

「だからきっと今更、懐かしいものを見たくなるんだ。今更、あの人に世話を焼いてもらいたくって……彼が好きだったものを、家に買って帰りたくなる」


 わたしのあげたライラックは本当に長持ちしたらしくて、最初は玄関前に置いていたらしい。でも途中から虫がついて、ふいにガラスドームの方から聞こえた気がしたという。

 「――()()()()()()()()()()()()()()()」と。

 ……屋内なら、確かに虫はつかない。

 侵入してきたとして、ほんの少しだ。


「……怖くて行かなかったんですよ。今まで。半端な思い出のせいだろうな……あの人の残した『何か』が、ずっとそこにいるような気がして」


 でも時永くんはその日、ふらりとドームに訪れた。

 普段は周りだけ掃除して、決して入らない。

 まるで『大きなタイムカプセル』みたいに扱っていたのに……。


「大きくなったライラックを持って中に入ったとき……僕は思わず、お腹から息を吐いたんです」


 時永くんの目に入ったのは、本当に「そのまま」の光景だった。


「ずっと放置されていても、木の枝が多少生い茂っているだけだった。もっと荒れていると思ったのに……まるで、誰かが守っていたみたいに、そのままでした」


  ――「……成程。本当にタイムカプセルね」


 メティスが言う。わたしは思わず笑った。


「本当に守ってくれてたんじゃない?」

「……そうかもしれない」

「……めずらしいね、そういう話するの」

「言いづらいからね」


 苦笑いして、時永くんはビニール袋をこぼれない程度にゆっくり振った。


「豊田さんもそうでしょ?」

「えっ?」


「――()()()()


 時永くんは笑って、『なんでもないこと』みたいに口を開いた。


「人と違う過去って、話しづらいでしょう……勝手にタブーにされて、喋りづらくなることってありませんか?」




 ……耳の奥に未だに聞こえる、()()()()()()()


  ――「辛かったねえ」 そういわれて育った。


 ねえ、「つらいもの」でなければいけない?


  ――「重いよ、そういう話」 そういわれて、口をつぐんだ。


 なるほど。喋ってはいけない? ……ほんとうに?




「……ある」


 ……思わず、声が震えるのが分かった。時永くんは言う。


「多分ですよ? 勝手な想像だけれど……タブーにしておかないと、父親相手の僕みたいに……向こうは『答えに困る』んです」

「うん……」

「だから誘導するんですよ。喋らないほうへ、漏らさないほうへ。そのほうが相手を困らせない。つまり『不幸自慢をするな』と言われるんです」


 苦笑いして、その声は続けた。――軽やかに、重みすらなく。


「今から思ったら……()()()()()()()だ。そもそも、僕らが不幸だったと誰が決めるんです?」


 息が、詰まったような気がした。

 何か……ピンポイントで、ぐりぐりと胸の奥を引っこ抜かれるような。


「……そりゃあ確かに恵まれてませんよ、僕らは!」


 でもね、とその声は口にする。


「少なくとも僕らの認識として、()()()()じゃないじゃないですか! 恵まれていないのが当たり前なんです。今までそうやって、生きてきたんです」


 ごく普通の話題を、タブーとして飲み込んできた。

 ごく普通の出来事を、爆弾だと思ってきた。


「……『今日は雨が降ってるね』って口にするみたいに、僕らには誰もいないのに!」


 そう、だから彼は……この瞬間、こういうことを言いたくなったんだろう。


「僕は最初からいないし、それが当たり前だった。……豊田さんは少し違いますよね。()()()だ。少なくとも物心ついてから両親を亡くしている。僕と似ているようで、対極にいる人だ」

「……」

「だからこそ何か、喉骨辺りに引っ掛かりそうな気がするんです」



 ――幾度も、思い出す一幕がある。

 幼い頃のわたしは、それを口に出そうとした。

 ……「()()()()()」のように抱えていた、わたしだけの記憶。

 でもいくら綴っても哀れまれるばかりだった。口に出しても、真意をねじって受け取られるばかりで。「忘れられないんだね」と言われるばかりで。


 だって、誰が見たって悲惨な事故だった。

 でも逆だ。逆なんだよ。「忘れるのがいいこと」みたいに言われたくはない。

 わたしは、残すために誰かに語りたくなるんだ!


 返事に困った周囲は、それをやめさせた。

 「つらい話をしなくていい」、「無理して喋らなくていい」。

 案じているというポーズの、禁止だった。

 自分が聞きたくないだけの、遮りだった。


 ……忘れていく。

 抱えたものが、ぽろぽろと落っこちていく。



「……君はたぶん、僕と違って『どこで生まれたか』を知っているし、覚えている」


 ……未だに()()()()のことを何も知らない男の子が、目の前で語る。

 自分の本来の名前さえ分からない時永くんは、口を開く。


「君は僕が口を開くまで……猛獣の話をする直前まで、一つとして家庭内の話題をすることがなかったし、僕もさぐるような真似はしなかった。それはきっと……扱いが難しいからだ」


 わたしは返事の代わりに息を吐いた。時永くんが頷く。


「……うまく言える気はしない。けど、勝手に推察されて、勝手に悲しい出来事と決めつけられて、悲劇のヒロインにされることがあって……」



 時永くんも同じことがあったんだろう。

 子供の頃なんてよくある話だった。

 親はどんな人かと友達に問われて、馬鹿正直に話して――たとえば目の前の子が殴られる。


 ――可哀想なことを聞くんじゃないの。


 そうしたら、顔が曇る。

「わるいことをおもいださせたね」

 その決めつけが、無色透明の記憶を『悪いこと』にしていく。


 なぜ、家族の話をしただけで嫌な記憶にされるのだろう。

 思い出してはいけないもののように扱われるのだろう。



「……君があの時まで家庭環境のことを出さなかったのは、きっと『哀れまれたくなかった』からだ」


 時永くんは真実を口にした。

 一度もわたしが喋ったことのない、本質を。


「だって君はおそらく、『可哀想な人』にしたくなかった」

「うん」

「過去の自分を、自分を取り巻くすべての環境を……君の、大事な父母を」


 ……時永くんは笑って、こう言ってくれた。


「可哀想な人じゃなくて、『大好きなもの』だと、そう胸を張って語りたかった。……現実逃避ではない、幼いから理解をしていないのでもない。ちゃんと自分の中に()()()()()()()、大好きな人間の思い出として語り継ぎたかった!」



 ……。正解だ。

 ああ。大正解で。なんだか喉のおくが苦しくて、むかむかして。



「……。」

「豊田さん?」



 ……あれは、いつだったかな。



  ――『まぁ、豊田さんにだって色々な事情がありますよ。人に言えない事情とか、重たいものとか』


  ――『たかがゲームの話でそこまで飛躍する!?』


  ――『しますします。裏を読むのは大事です』



 ……あの時、ドキッとしたのを思い出す。

 時永くんと谷川さんの会話だ。

 わたしの中身が、この子に透けて見えているようで。



  ――『……それ時永くんが人を信用しないからじゃないのー?』


  ――『おやー? 誰が人間不信だって言いましたー?』



 ……おかしい、な。


「…………。」



 ……今更脳裏によぎるのは、大破した赤い乗用車の光景だ。

 今更。

 今更。ああ今更。幾度も――今更。


 重たいことでもないのに。

 わたしにとっては普通のことなのに。

 上に乗っけられていた重しが、ガラガラと崩れていくような感覚がして……。



「……あ」


 時永くんが驚いたようにこちらを見ているのがわかった。おかしい。今まで泣きそうになることはあっても、本当に泣いてしまうことはなかったのに。


「あの」


 ……何かがのどに詰まったみたいに、なるだけだったのに。


「……あの」


 二度も話しかけるのに失敗した時永くんは、恐る恐るわたしに手を伸ばした。


「……もしかして、違ったかな」

「ううん」

「それともまた、知らないうちに何か……言ったかな、僕……」


 ……だいじょうぶ。


「違わない……!」


 ――時々、洗いざらい、ぶちまけたくなることがある。

 似て非なる人に。対極の誰かに。

 わたしの中身が透けて見えている。そんな彼に、たまに……!


「違わないよ! ……これは、その、わたしが」

「うん」

()()()泣いたっていうか……意外と、なんていうの……っ、泣き虫だから、わたし……!」


 所在なさげに浮いていた時永くんの手が、わたしの髪にふれた。

 軽く梳いたその指は、躊躇いがちに首の後ろをトントンと叩く。


「……だろうね」


 にじんだ景色の向こうで、彼は言った。


「泣いてたな、君。前も――僕が谷川さんと喋ってる時に」


 ……ふっと気づく。もしかして……


「『裏を読むのは大事』……」

「そう、その時だ」


 時永くんはハッキリした声で言う。


「目から塩水が出るんじゃなくて、あれはなんていうか。そう……雰囲気が泣いてた」



  ――「……なんだ」


 メティスがふう、と息をついた。心なしか、ほっとしたように。


  ――「前からあなたが言ってる通り、()()()()()じゃない。時永くん」



「……う」



 瞬間、わたしは思わずしゃくりあげた。

 じわっともう一度涙がこぼれてきて……こぼれて、こぼれて。気づけば声をかけていた。


「時永くん」

「何?」

「……話、聞いてくれる?」

「……そうだね。お茶でもしましょう」


 ビニール袋の音がして、暫く。

 目の前のにじんでぼけたシルエットは、わたしの手をとった。


 右手に握らされた、布の感触。


「涙拭いて」

「……ハンカチ、洗って返すから」

「ぜひそうしてください」


 ハンカチを借りても。

 拭っても拭っても、涙がこぼれてキリがなくて。


「……そこ、段差あるから」


 でもすごく、握ってもらえた左手があったかくて。


「止まりませんか、涙」

「……止まんないねえ」


 ああ、わたし、今日もうだめだ。……ひとりでもう、歩けないや。


「……何食べます? 甘いもの」

「なんでもいい」


 ……鼻がつまってきた。

 嫌だなあ、絶対変な顔、してるんだろうなあ。


「……栗、好きです?」

「好き」

「おいもは」


 頷けば、時永くんの笑った声がした。


「……時永くんが食べたかっただけじゃない? 秋のスイーツ」

「何を言うやら」


 ……ぎゅっとにぎった手。わたしを引っ張る力が、少し強くなる。


「僕だって、()()()()()()ことくらいあります」

「……そう?」

「夜中の2時とか、学校帰りに親と合流している中学生を見かけたときとか……そういう如何にも、くだらない切欠だけれど」


 ぽろぽろと落ちた水滴の向こうに一瞬。

 ……ちらりとこちらを振り返った、妙に大真面目な表情が見えた。


「口の中がしょっぱいときは、強引に甘くすればいいんですよ」

「……そっか」


 行きつけのケーキ屋さんがあるくらいに甘党な時永くんは、ずんずんと突き進みながら口を開いた。


「君が勝手に泣いたんだ。僕だって、『勝手な慰め方』をして構いませんよね?」


 ~その後・喫茶店にて~


「こういうモンブランの上って、よく栗のっかってるじゃん」

「あるね」

「あれ、よくお母さんのとって怒られた」

「……。」

「時永くん?」

「……それは、僕でも怒る」


「……」

「……ちょっと……」


「……怒るんだ?」

「……狙わないでください。あげるから」

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