26.友人の【悪口】 3年目・9月上旬
・2012年9月12日(水)
「ねーえ、豊田さんと時永くんってさ~あ」
海水浴場での一件からだいぶ過ぎて……谷川さんがまた『軽口』を言うようになってきたのは、秋になってからの話だ。
「最近ちょっとイイ感じだよね~?」
「え、そうかな?」
「そーだよ。いつの間にか随分とまー、距離が縮まっちゃってさ~あ?」
「……そりゃあ、なんといいますか? 距離感も縮まるよ」
わたしは笑って返す。
「谷川さん、最近後輩くんたちに人気で、なかなかお昼こないでしょ?」
大学からの帰り道。駅前広場を横切りながら言うわたしに、谷川さんはムッとした表情で立ち止まる。
「うっ……ま、まあ、それだけ……人生謳歌してるってことだし?」
「フッフッフ、ものは言いようってやつよねー、谷川さーん……」
「な、なんだろーこの子、妙な余裕しかないわ……」
――「あー美郷、あそこにいるのってまた……」
あれ、本当に「また」だ。メティスの指摘で気づく。
見覚えのある後姿が、むき出しになった地面にブロックを敷き詰めていた。わたしは暫く迷った後、口を開く。
「……慎治さん、何してるんですか?」
馬越夫妻の旦那さんの方。
でもやっぱり周囲に栄子さんもいないし……服装が服装だ。
どう考えてもお仕事中だったけれど……思い切って声をかけると案の定正解だったみたい。彼は驚いたように顔をあげた。
* * * *
「あの、いいんですか? 奢ってもらっちゃって」
「ジュース2本くらい、どうということはありませんよ」
炭酸の抜ける音と一緒に慎治さんは苦笑した。
「お小遣いももらってますし」
「……バイト代プラスお小遣い。そう考えると、ちょっとリッチですね」
まだ9月、暑さの残る最中のありがたい申し出だ。時間的にもちょうど休憩時間の直前だったみたいで、なんだかんだとご厚意にのっかることに……
「ぷはー! おいしー!」
「そりゃ、自販機で一番高いジュースもらったからね?」
なんだかさっきまでぶーぶーしてた谷川さんも、ジュースパワーですっかりいい気分みたい。……うん、自分で買ったのよりもらった方が美味しくは感じるよね。
「でも本当、色々なところで出会いますね」
「ですねえ、ほら、海水浴場にもこの間来てらしたとか」
「んー?」
不思議そうな顔をして聞いている谷川さんにわたしは解説した。
「この間の海水浴のときね、慎治さん、あそこで監視員もやってたんだ」
そう、あとで時永くん経由で聞いたら、『海の家のバイト』じゃなくて『監視員』だったみたい。サメの後から見なくなったなと思ったら、事後処理でバタバタしてたんだって。
「へぇ、じゃああたし、あそこですれ違ってるかもなんだ? よっと」
わたしの手からスナック菓子を奪い取る谷川さん。
そう、ジュースを一方的に奢ってもらうのもなんだし、わたしはわたしでたまたま持ってたお菓子を開封している。
――「美郷が家でこっそり食べる用のやつだったんだけどね、それ」
まあ、細かいことは言わないよ。
「……で、おじさん、時永くんのご近所さんだっけ? 普段は時永くんとどんな話してんの?」
「そうですねえ……」
慎治さんはこれが初対面にもかかわらず、いきなりフレンドリーな谷川さんにも嫌味を言うことなく丁寧だ。
「なんでもない話ですよ? ごく普通かと」
行き帰りが遅くなりがちな時永くんは、完全に夜型だ。日中はこの辺りをぶらついていて、帰った頃には暗くなっている。
大きなライトをつけて夜にこっそり草刈りすることもあるようで……お昼間は働いていて、偶然同じような活動時間になっている隣家の慎治さんと、柵越しに目があったりもするみたい。
「……庭の手入れをしながらポツポツ話すんですよね。最近ついてしまった変なくせの話とか」
手をぐっぱーと動かした慎治さんはくすくす笑った。谷川さんが言う。
「それが変な癖?」
「ええ、右手が知らないうちに動いていることがあるらしいです」
……知らないうちに……?
「あとこの季節、窓から見える星の話だったり。見かけた草花の話だったり。結構面白いですよ、一生懸命話してくれて」
……ふと気づいた。もしかして慎治さんって、ずっと時永くんの話し相手だったんじゃないだろうか?
――「僕は、そもそも『人と話すのが苦手』でした」
……わたしがクリスマスのあの日に知った一面。
そう、まだまだ【話し下手】だった時期から、ずっと彼の拙い話に耳を傾けていたんじゃないだろうか?
「今日読んだ本のこととか。ああ……そうだ、誰かの悪口だったりもしますね」
「時永くんが悪口!?」
ふっと意外そうに谷川さんが反応した。
「ねえねえねえ、それあたしのこと言ってた!?」
「う、うーん、具体名を出さないので何ともですが……」
確かに谷川さんの『乗り換えっぷり』をイジったりとかは聞いたことあったんだけど。わたしは苦笑いしつつ思った。
……そういえば最近、それも聞いてないなあ。
慎治さんは苦笑する。
「今思いましたが、あまり『大学のお友達』と関わりのない私にだからこそ、口を滑らせるのかもしれませんね? ――ほら、当人と全く関わることがないなら、悪口の相手がイコールで結ばれたりしないでしょう?」
確かに。いや、もうここで大学生との交友関係は出来ちゃってるわけだけど。
「それに彼はその場にいても、喋るか喋らないかの両極端です。……意外とお喋り下手なのですよね、彼」
出た。話し下手――つまり、お喋り下手。
慎治さんの言葉にわたしは深く頷いた。それはもう当人から聞いているし、気づいている。そのあとは言われたら、ゴロゴロと色々な場面で気付いた。
彼――聞いてはいるけれど、話に入れないことがあるんだ。
「いや、お喋り下手ってゆーか……純粋な誰かを口八丁で丸め込むのとかは得意なんだけどさ、あの子」
もぐもぐとお菓子を頬張りながら谷川さんはいう。まあ確かに、『おバカ暴走特急』みたいな落川くんをよく各駅停車にしてるけど……。
メティスが頭の隅っこで忍び笑いした。
――「各停にしといて、方向性のおバカは直さないのね?」
……そりゃあ、落川くんはアホだけど、意味がなくアホなわけじゃないもの。
彼だって理由があって行動するんだから、最初からいろいろ言ってたらきっと動けなくなってしまう。
「勿論全部コントロールするわけじゃなくってさ。ほとんど泳がしてるんだけど、行く先は注目してる。……後輩が痛い目を見そうになってたら、方向はさておいて着地点をコントロールするのが、豊田さんと時永くんたちだよね?」
「だねえ」
……その辺り、谷川さんも分かっていたらしい。
「行動した結果は面倒みる……失敗してたらフォローする。けど、普段はあえてほっといてる。だから同じ理屈、『ほっとく意味』であまり発言しないんだと思ってたんだけどな、あたし?」
うーん。それもどうだろう。
「あえて『ない』とは言わない。……でも、意外とそう見えてるってだけかもよ?」
「そー?」
わたしが言えば、谷川さんは口を尖らせた。……何かお困りだろうか?
「時永くんの場合、単純に気を遣い過ぎてる時もあるし。『何言えばいいか困ってるなあ』って見えることもよくあるし」
……そう、「入れない」というのがこういう時だ。
しっくりくる言葉を探しすぎるし、求めすぎる。
「そっかあ。……なんか難しいなー、時永くん」
「……自分でも難しいんじゃないでしょうかね、きっと」
慎治さんは苦笑いしながら言った。
「何をどう言えば、とよく思う――ふとした瞬間に、自分があまり喋っていないと気付くんだそうです。『ついていけていない』と誤解されたら、周囲に気を遣わせてしまう」
……ああ。
「かといって意識して発言しようとすると、勢いで、軽口として誰かの文句や悪口を言いそうになる、なんて話もありましたね。話題の出し方をミスするんです」
「あ、だから悪口か……それこそ意外だわ……」
谷川さんが呟いた。どうもそうは見えてなかったらしい。
……不思議。谷川さんって『コミュニケーション能力』のかたまりみたいな印象あるのに。
――「いや、それだけ周りと比べて変なんじゃない時永くん?」
メティスは突っ込むように頭の中に割り込んでくる。
――「……あと、谷川ちゃんの場合は単純に、「他人との距離が近い」のよ。ゼロ距離が日常の女の子に、あんな気難しいパーソナルスペース・デカ男は難しいわよ」
……ねえ、メティス……
私の頭に浮かんだ読み仮名はともかく、『パーソナルスペース・デカ男』って何……?
いや、いい。ニュアンスはわかった。
「……時永くんっていつも遠くから様子を伺うようなところ、ありますもんね」
わたしは【メティスに向かって】ため息をつきつつ、谷川さんたちに参戦した。
「遠くからじっと人間観察してる。で、いい部分は素直に認めるし、悪い部分はちょっとバカにして見てる……って、こう言うと性格悪いみたいだけど」
「分かりますよ、言いたいことは」
慎治さんは頷く。
これももしかしたら、彼自身の怯えからくる性質なのかもしれない。だって以前言っていた。
「……たぶんですが、見るたび、その都度。いちいちその場で細かく分析してしまうんでしょう。常にその人がどういう人物だか確認している。石橋を叩いて渡るように」
……自分の記憶を、信用していない。
いつクロノスが入っているか分からない、記憶が穴だらけの人間だと。
「……ですから一見斜に構えては見えますが、距離をとりつつもじいっとまっすぐに相手を見つめている。不器用な人に対してはその都度イライラします。器用な人だなと思ったら率直に、その場で尊敬できる。それが彼です」
彼はそう言ってジュースを飲み干した。
「タイムラインは頭の中にありますが、前の評価はあまり引きずらない。常に更新されている」
……だから、直近で嫌だと思った人のことが頭に浮かべば悪口も素直に出る。
ポンッ、と。
「勿論、一般的にみると褒められたことではありません。正直者にもほどがありますからね。彼は最近よく言います。『そんな自分に気づく度、嫌になる』……」
『この人は嫌な人だ』と最初に思っても、すぐに別の一面が見えることもある。人が見ているのはあくまでも『多角形の面』の一つに過ぎない。一見非合理に見えて、イライラするものに見えて、それには必ず何か自分の見落としているものがある。
足りないパーツを補えば「筋が通る」。それが人という生き物なのかもしれない。
まるでさっき回想した落川くんのように、うまく周囲に説明できなくても「個人」の中では道理が通るのだ。
だから、いくら話題が見当たらない中の軽口でも、考えなしに「誰かを否定」すれば、時永くんにとっては罪悪感が芽生えてくる形になる。
……だってその悪口の裏には……記憶のない間に見逃した、「パーツ」があるかもしれなくて。
「……誰かに対しての不平や不満。そんなもの、誰にだってあるでしょう?」
時永くんの込み入った「事情」を知らないはずの慎治さんは、苦笑いしながら口を開いた。
「悪口だったり愚痴だったり……そういうのがあってもいい。普通の人間なんだから、誰も責めやしません。私はそう言いました」
……悪口言ったって、普通の人間なんだから。
それを自罰的な彼は、どういう気分で聞いただろう。彼は長らく一人で、「普通」とはかけ離れた世界にいるのに。
刑事である栄子さんに「本当のこと」も言えなかった時永くんが――言ったところで、信用もされなかった時永くんが。
……「普通の人」だった試しは、今まであっただろうか?
「……悪口も愚痴も、無理して我慢しなくていいんじゃないのかと言ったら、『駄目です』……」
それを言った瞬間の時永くんは、どんな表情だっただろう。
どんな感情だっただろう。
恐らく時永くんは、慎治さんにあのクリスマスの告白をしていない。
……だけど。
「『僕が、僕を変えたいんです』」
それを言った瞬間の表情は、なんとなく分かった気がした。
「『……だって、格好悪いでしょう?』」
……なるほど。わたしは少し笑ってしまった。言いそう。
困ったような眉毛で――でも、どこか晴れ晴れとしたニヤつき顔で。
「今までもそうと言えばそうだったんですが、それを聞いて驚きましてね。意外と彼は格好つけ屋なんですが――本気で『他人の目』を気にするようなことを言ったのは、そのときが初めてでした」
……ふと思った。
それだけ彼らは長い間、一緒に草刈りをしてきたのかもしれない。柵を隔てて、時間と記憶を共有してきたのかもしれない。
初めてわたしが慎治さんと出会ったときのことを思い出せば、人付き合いに難のある時永くんにしては……彼と、とても距離が近かったような気がする。
たぶん先に出会った栄子さんより、慎治さん相手の方がやりやすい。
気を許している……たぶん彼らはご近所さんというより、『友達』なのだ。
「……ふーん、『目』を気にし始めたと?」
「なによ谷川さん、怪しげな声出し、て……」
谷川さんはにまっと笑って、わたしの頬をぐにゅ、と掴んだ。
「あいったたたたたっ! いきなりなにっ」
「時永くん、豊田さんについて何かもらしてませんでした〜!?」
「……もらす??」
「どっアホー!」
ごちゃごちゃっとした攻防の末、ようやく谷川さんの手を頬からひっぱがす。――いかん、妙に汗をかいてしまった。メティスがクスクス笑う。
――「谷川ちゃん、美郷での遊び方をよーく知ってるみたいね」
そんな知識、普通に暮らす分には絶対要らないぞってのよ!?
「! ああー……なるほど」
慎治さんは大慌てでフーフー言ってるわたしを見て、谷川さんと同じようなニヤつきを顔に出し始めた。いや、何を納得しちゃったんですか!?
「……そういうことですか、もらしてたこと、あっりますねーえ……」
「あるの!?」
「悪い印象はまったくないのではと思いますよ?」
くすくす笑う慎治さん。
「……だって彼、人付き合いに不器用なところがあるでしょう? つい癖で人と距離を置いてしまうような」
「はあ」
「私も昔はそうでした。だからこそ、なんとなく分かるのですが……ああいう人には独特の間合いがあります」
独特の間合い。それをうまく、少しずつ詰められる人。警戒されないように何となーく距離感を取りつつ、でもほんの少しだけ強引に、ちょっとずつつめてくる。そんな人……
「……『この人になら何されても大丈夫』、そう思えるような人物っていうのは、どんなに自信のない人間でも、虐げられた人間でも、探せばどこかに必ずいるものです」
慎治さんは苦笑いしながら呟いた。
「私はたまたま、早い段階で出会いました。いじめられっ子だった私は、どんなときでも自分を守ろうと努力してくれる気の強い女の子に出会いましたし、彼女は『強いだけ』でない、弱気な自分を見てくれる私に出会いました。……出会った男女が、たまたまバランスがとれていたんです」
谷川さんが「あ」という顔になったのをわたしは見逃さなかった。……何?
「……彼は、どういう人でしょうか」
慎治さんはゆっくりとわたしに問いかけた。
「『人付き合いに臆病』で、でも『少し見栄っ張り』な彼は……誠くんは普段、ぐいぐい行くときがありません。でも、最近そういう面が出てきているのではありませんか?」
……出てきている。
「……あなたはどういう人でしょうか。『一見元気』な性格に見えて、たまに『引っ込み思案』になってしまう豊田さんは。海水浴場で私のような知人を見かけても、声をかけたりすることは少ない。けれど、誰かの手をとって――『お昼ご飯に行こう』と誘うことはできる」
……。
――「彼、美郷のこと、よっぽど話してるみたいね」
メティスが笑った。谷川さんがちょっぴり呆れたような顔をしながら缶を潰す。
「……あのさ」
「な、何……」
谷川さんはジト目で言った。
「……そこまで来ると、できてんじゃないの?」
「できてないよ!?」
ぺきょ! とアルミ缶が音を立てた。




