25.海水浴 3年目・7月6日~31日(下)
* * * *
……あれからえらい騒ぎだった。
大方「下々の人間」が話しかけてくるのを避けたんだろう。クロノスは岸についた瞬間、いともあっさりと時永くんの体をかなぐり捨てた。
結果的にいきなり「ぐがっ!」といびきをたててぶっ倒れる時永くん。
……いやごめんて、まさかそんな、砂浜の上でスヤスヤ状態丸出しになるなんて……。
サメから生還したわたしはなぜか勇者のごとく胴上げ状態になるし、メティスは相変わらず落ち込んでるし、事態は暫く混沌を極めた。
結局あれから数時間。
谷川さんたちが真面目に通報したサメ探索のために海水浴場は一部遊泳禁止になったり、それでも浜辺からはよく見えてなかった人が多いみたいで、意外とパニックは起こらず。一部のお客さんはまだまだ緊張感なく、足のつきそうなところで遊んでいたり。
本当にあのサメがメティスのせいだったとしたら、普通に遊んでる人たちに申し訳ないことをしたなぁ……なんて少し罪悪感が。
――「……いや、あのね美郷。目をつける場所がおかしいでしょ」
ようやく呆れ気味の声が復活した。
――「だって今しがた私に、殺されかけたのよ?」
「……能天気だけが取り柄だからね、わたし」
わたしはため息をついた。
「あと、メティスだって悪気があってやったんじゃないでしょ? ……気にしちゃいないっての、今更」
メティスはおずおずと聞いてきた。
――「……怒ってないの?」
わたしは頷いた。……怖かったのは確かだ。けど、引きずるような性格はしていない。
「……事故だよ、事故。そんな情けない声出さない」
……そんなことを返しつつ、レジャーシートの上でぼけーっと砂浜を眺めているのが現在だ。
「ちょっと休んでな、顔色悪いよ?」――なんて谷川さんに真面目な表情で言われたら従うしかないし、実際疲れたのもある。
……だって対外的にはわたし、「謎の興奮したサメに追っかけ回されて生還した」女の子だ。
「ヤッホー! パス回しておっちー!」
「いいかお前ら、回転サーブだ!」
「佐田くん狙え」「佐田だな」「おう、やるかあのタコっぽい子」
「ねー! ドッジボールじゃねえんだから集中砲撃しないでくんない!?」
谷川さんたちはいつの間にかこの海水浴場でも仲間をつくっていたようで――見知らぬ人たちとビーチボールを叩きつけ合っていた。
勿論ノリの良い後輩たちも参加している。
「……ねえ、メティス」
――「……何?」
「起きないね、時永くん」
――「……あの子も無茶はしたから。きっと疲れたのは大いにあるわね」
わたしは遠くで谷川さんたちの奮闘をちらちらと観戦しつつ、先ほどの出来事を頭の中で整理していた。
「……「大きなあぶく」からちぎれた、『小さな泡』……『小さな泡』が出なくなったから、『大きな泡』が生まれる……」
――「ねえ、美郷」
「うん?」
横でぐったりと寝かされている時永くんは、谷川さんが万が一に備え声をかけてくれていたレスキューのお医者さんに軽く見てもらったけど、やっぱり緊張が切れて寝ているだけみたい。何だか、少しうなされているようなそれを横目でみながら……。
――「……美郷、あなたさ、私と違って普通の人間よね?」
「いきなり何?」
……わたしはメティスと、こそこそ会話を続けた。
他人が見ていたらいかにも怪しい絵面だろう。電波にもほどがある。
「『後継者がいたらどうするか』とか、考えたことある?」
「……子供のこと?」
わたしは思わず振り向いた。
そこにメティスがいるはずもないのに。
――「そう。あなたの後ろを歩く、小さな世界が現れたらどうするかって聞いてるのよ」
……小さな世界。
まるで、『世界の子』を示すような不思議な表現。
「……あるけど」
あるはずだ。だって幾度もわたしは引っ越した。
俗にいうたらい回しの最中、色々な家庭の形を見てきた。色々な子供も、親も。
――“意外と面倒見がよくって、おせっかいだからねえ、美郷ちゃんは”。
昔住んでいた近くの駄菓子屋のおばあちゃんなんか、小銭をチャキチャキいじりながらよくわたしにこう言ったのを覚えている。
――“いいお嫁さんどころか、いいお母さんになりそうだねえ”。
……わたしは時永くんを意識するまで……『男女間の恋愛』というものを深く考えたことはない。勿論映画とかテレビ番組のラブストーリーは好きだったけれど、あくまでも娯楽としてのものだ。
……誰かに近づいて、また失われるのが怖かった。
それは間違いない。
だからもう誰も好きにならないと思っていたし、もう二度と家族らしい家族なんて持たないと思ってた。
メティスがいなかったら、何も考えず一人で生きていこうとしたかもしれない。
誰にも心を開かず、閉じこもったまま過ごしていたかもしれない。
けれど……もし、「好きな人」ができたら。
それからもっとちいさな、「好きな子」ができたら。
それはきっと、とても普通で――素敵なことだ。
そう思っていたのは、きっと確か。
――「……大きい泡はね、美郷。エネルギー的な観点から見ると『世界の子』だけれど、物質的には違う」
メティスはゆっくりと言った。
――「神様だって、人間から生まれると言ったことがあるでしょう? 大きい泡もそれ。器だけを見たら、『ごく普通の人間』から発生するの」
……そうか、神様が小さな泡だもんね。
つまりクロノスの言っていた「世界から分かれる」云々は、物理的な肉体の話じゃない。「概念的な話」ということになる。
「電気がどこから来て、どこへ行くのか」というような話で――それを動かすマシン、つまり人体は別のところからきていて、作られている。
大きな泡は、ちゃんとこの世界に足を付けた生き物なんだ。
……待って?
今、このタイミングでメティスが「もしもの話」をした理由。
大きな泡と、一見つながりがなく見えるこの話。まさか。
――「そのまさかよ。神様……つまり『小さい泡』ですらこの世界には存在しないんだもの。神様から世代交代で一段階上に上がる、なんて階段じみたことは起こり得ないし、出てくるとしたら、手段としてはただ一つだけ――」
メティスはボソッと言った。
――「普通の人間が、そのまま崖っぷちを駆け上がるように跳躍する。スキップして生まれるのが『大きな泡』」
……あぶくには、内と外のバランスがある。
あぶくから発生する大きな泡は……
――「【あぶくのバランスを乱したもの】の周りに現れる。今、大きな泡が出現するとしたら――それは外部からこの世界を乱そうとしている、クロノスの周り」
……つまり。
――「今あなたの頭によぎった結論で間違いないと思うわ。美郷、あなた今、時永くんと一番『距離感』が近いでしょう」
出入り口にしている時永くんのすぐ近く。
ピースがはまる。だってさっき、わたしは思っただろう。
メティスの言い方に――『世界の子』のようだと。
つまりその大きな泡は、いつか生まれてくるとして――
――「ええ。時永くんと仲良くなればなるほど、惹かれれば惹かれるほど、あなたは巻き込まれる。つまりね美郷? ここから先、時永くんに一番近づく女の子は――いつか『大きな泡』を必ず生み出す」
「…………。」
――大きい泡は。
いつか、生まれてくるとして……わたしからの可能性があったのだ。
――「幾つもの偶然を超えて、必ずその子は地球に落ちてくる。……今の地球は神様を知らない。だからこそ普通の人のように育てられるその子は、弱い人のように生きて、人のように喜怒哀楽を得ながら――いつか、必ず『得難いもの』を得る」
「……その子は」
わたしは思わず口にしていた。
「――――生まれるだけの【価値】はある?」
――「…………。」
「ごめん、変なことを聞いた。でも、嫌だなって思ったんだ」
わたしは言葉をぶつける。違和感があった。……なぜわたしが、時永くんが。
いや、違和感じゃない。わたしは気付いた。
――逃げる理由を、さがしている。
「…………。」
――「美郷?」
「……違うね。メティス」
なるほど。こういうことだ。
「……流されないようにしなきゃ。これ、メティスが言わせてない?」
――異世界の神様が、『逃げろ』と思っている。
過酷な運命から。【普通の人間】を憐れんで――切り離そうとしている。まるでわたしが今、勝手に『世界の子』を哀れんだみたいに。
――「ごめん、たぶんそう。……でも当然でしょ? 私、あなたのこと、結構好きよ?」
「知ってる。じゃあ、言い方を変えよっか。――嫌だな、と思ったんだ」
あえて同じ言葉で表現しよう。
ただし、それは続きが違う。言いたいことが違う。
「その子が時永くんより、わたしより――先に、『クロノスに望まれて』生まれてくるのだとしたら、わたしは嫌だなって思ったんだ」
……話をずらしたわけじゃなく、それも事実だ。だってなんだか実験動物みたいじゃない? クロノスが仕組んで、誘導して、大きな泡が時永くんの周りに出現するというのなら。
――見たいから。聞きたいから。触りたいから。
不躾な好奇心からの希望。願望。
――「……いや」
メティスは少し、厳しい声で間を置いた。
――「……美郷、こういうのは『誰が先か』じゃないわ。質よ」
「質?」
――「ええ。たぶんその子はクロノス以上にアレな人と強く結びつく。強く強く望まれて、生まれてくる。たとえばそうね……水泳が苦手で、後ろ向きで繊細で、そのくせ頑固者の青年とか?」
わたしはハッとして彼を見た。
意識のない、ぐったりと眠ったその顔を。
――「彼にとって、『その子』がなんだかわかる?」
言われて――今更、衝撃を受けた。
想像して、はじめて気付いた。
その大きな泡は……彼にとって、未知の生き物だ。
神様をこえた力を持つからじゃない。
彼が、子供という生き物に慣れていないからでもない。
……彼は、もしかして。
そこで初めて「出会う」んじゃないだろうか?
――『自分の中のヒーローを否定されるみたいで、悔しかったんだ』
以前、聞いた話。
……養父母に馴染めなかった理由は、漠然とした「憧れ」だった。それだけ血縁への羨みと憧れが強かったのだとしたら……
メティスは言う。
――「ここから先はあくまでも想像の範囲よ? 一応、見えはするけどまだ霧がかかっている。読み取れるものは少ない……でも彼、養護施設にいたのよね?」
メティスからの確認。
うん、だったと思う。――だって彼は自分で、そう言った。
――「そこが、いかにずさんなところだとしても、地球の。それも美郷のいるような日本なら……おそらく『入所した子』の個人情報は一通り記録するはずよね。……どんな状況で保護したか、画像なり、写真もあったとは考えられない?」
時永くんは保護されたときの情報を、ざっくりとだが知っているようだった。
……もし、資料を見せてもらったことがあるとしたら?
――『実は発見された当初、僕は推定5ヶ月だったらしいんだ。つまり僕は本来、冬生まれだった』
『生後5ヶ月』の写真がもしあったら。
もし――それが、不意を打ったように『目の前の誰か』と重なったら?
――「……多分、そういう流れでしょうね、これは」
……妙な心地になるかもしれない。恐らく何かがこみあがるはずだ。嬉しいより、悲しいより。例えられようもない何かが。
――「彼はそうやって理解の淵に至る。通常の人間が人生で一番最初に出会うものに、今更ながら辿り着く。……どんなルートを辿っても、当の赤ちゃんより容易に猛スピードで泣きっ面を晒すもの。カッコ悪いったらないわ」
メティスにはそれが見えているんだろうか。……もう一度メティスの「見て」いるものが見えないかと神経を尖らせても、もう見えない。
……彼はその時、どんなことをいうんだろう。
泣きながら、何を――――
――「世界の子は、いわゆる『幸運のかたまり』のような子だもの。誰よりも身近な人間にしっかりと祝福されて生を受ける。きっと誰よりも愛を感じて生きていく。……少し寂しがりやさんだけど、甘えたではあるけれど、意外と普通に生きていく。逆に何事もなさすぎて不気味なくらいに」
「……そっか」
――「……だから彼にとって、その子は大きな泡でも神様でもなんでもないの。ただの、人生ではじめて出会う【血縁者】なのよ」
「それが、神様を超えた異能を持っていても?」
メティスはそうね、と呟いてから数秒、何かを考えこんだように口をつぐんだ。
――「……たとえが難しいんだけど、あなた、クロノスが水の中で軽く息をしたのを見たのよね? 『普通の人間』は水から酸素を取り込めないし、発声してもガバゴボ音がする。そうでしょう」
頷く。
……そもそも、あそこまでクリアには聞き取れない。
――「そんなクロノスは私たちに『違和感』をもたらした。ならクロノスよりもっとすごいことをやらかす人がいたら――どうなるか分かる?」
「もっと違和感があるんじゃない?」
――「いや、逆よ。そうね……違和感がなくなるの」
メティスは苦笑いしながら言った。
――「人間と同等の知能を持ちながら、心を持ちながら――『超常的な力』を持つ知的生命体が、自分にとっていちばん都合のいい場所を作ったらどうなると思う? 見た目にはきっと、ごく普通の人間の子ができるはずよ。だって、仲間外れにされたくないじゃない」
それは……
――「嫌われたくない、いじめられたくない――溶け込まないと、いい子と呼ばれるような子どもじゃないと、誰からも愛してもらえない」
……メティスから見た、その子の話だろうか。
――「生き物である以上、承認欲求は誰にでもあるわ。特に幼年期のときは、誰しも『周りの年上』に認めてもらいたいものだもの。孤独だったり、寂しさには耐えられない。……それは時永くんを見ていたらわかるでしょう?」
時永くんは人付き合いが苦手な人だ。でもそれを聞いて思い出した。――顔を見たことがない。声すら知らない。そんな実の親がヒーローの代わりだった……。
――「自分が『他人と違う』ことを無意識にでも知っている子は、できるならそれを隠そうとする――溶け込もうとする。クロノスが思い込みの力だけで水中で息をしたように、常識や認識を曲げられる。もしかしたら自分の認識だって曲げられるかもしれない。表面上は自覚がなくなるの」
クロノスを見ていてもわかる。……メティスの今日の失敗を見ていても、身に染みて分かった。
神様は思ったこと、願ったことが現実になりやすいのだと。
――「『そんなものだ』『普通の子である』としか、周囲からは感じ取れなくなるかもしれない、そうなると見た目にはただの人間になるわ。願いを何でも叶える事ができるということは――それも、息をするように叶うというのは、そういうことよ」
普通の子になる、ということだろうか――全てが平均値の『違和感のある普通』ではなく、『普通の子ならもっとパラメータがバラける』といったことも含めた普通を、周りから感じ取って知らず識らず自分のものにする……
目立たなくなる。溶け込む。
それはある種、動物的な本能に思えた。
なんのためか。
秀でていることを隠すのは、自分自身にすら認識させないのは。
……たぶんそれは、生き抜くためだ。
――「私やクロノスには、そういう能力がたまたま強く存在したの。望む物事はかなりの確率で本当になるし、未来だってある程度見える。だけどそれは元はと言えば『運が良い』とか、『ツイてる』とか……自分にとって都合の良い結果を無意識のうちに作り出したり、ふと口にした事が本当に起こったり……そういうことが起こりやすい性質をたまたま持ってるっていうだけなのよ」
メティスはぼそっと言った。
――「運良く生き抜ける能力、と言った方がいいかしら」
……それらはもともと、人が『大きなあぶく』から引き継いだ、生命力のようなものだと。
生きていくための意思を通すためのもの。
こうしたい、こう生きていきたい。そんなあらすじを、我を通すもの。
――「美郷たち普通の人間にも多少はそういうものが備わっていて……その中で私たちはたまたまその能力が強く発現しただけだった。……要は神様なんて、単に運の能力数値がカンストしてるだけのラッキーな人間ってこと。『世界の子』もそう。その子は限界値だと思われたものをきっと軽々突破するけれど、本質的には何も変わらない」
それが生まれた時点で『同じ生き物』だとメティスはいう。
――「……クロノスのように『違う』と思わせないことが大事。誰かを憎む悪意を育てず、かといって何かを嫌になっても否定はしない。……普通の子と同じよ。その子にだってまっすぐ伸びる権利がある」
「メティスはその子を信じてる?」
好きなことが――やりたいことが、全て現実になるというのなら。
逆にいえば、『それ』を止める人が誰もいなくなるということだ。
よっぽど「親しい人」が相手なら止まるかもしれない。
それでも耳に入るとは、限らない。
――「……勿論。普通の人間だって、足掻けば好きな人生を送れるもの」
メティスはいう。
――「世界の子は、ちょっぴり世界がイージーモードなだけよ――私を含めた生き物は皆、等しく、幾つもの偶然と奇跡の上に成り立っているのだから」
と、その時……ようやく時永くんが軽く呻き声を上げて目を覚ました。
「おはよう」
「……!?」
慌てたようにガバッと起き上がって辺りを見回す時永くん。
彼が「誰かのお父さん」になった姿を思い浮かべることは、わたしにはまだできそうにない。だって彼はまだ、現実には――何も知らない大学3年生だ。
「……よかった」
「こっちも心配したよ?」
……気がつけば、「できるだけ落ち着いて見える」ようにしているわたしがいた。
ああ、嫌われないようにしてるなあ……。
クロノスと出会った直後と同じだ。変な隠し事ができちゃった……。
「……時永くん、クロノス抜けてからなかなか起きないから」
「……。また出てきたんですか?」
……でも、きっとそれだけ、わたしはこの人が好きなんだろう。
メティスの言葉で揺れたのは事実だ。……『世界の子』を背負う覚悟もない。もしもの未来が重たいのも、きっと事実だ。
それでも、どうしてだか心が求めている。――これが、正解の道だと。
わたしが「後悔しない場所」はここにある。
生きたい世界は、ここにある。
「覚えてないの?」
「豊田さんが危ないと思って、慌てて海に飛び込んで……それから後はまったく」
――「あまりに突然の出来事だったから、前みたいに感覚を共有する余裕もなかったみたいね」
やる気があったかも怪しいけど、とメティスはわたしの頭の中で息をつく。
「何があったんです?」
「……驚いたことに、クロノスが助けてくれてね」
「は……?」
一部は情報を開示する。あとは知らないフリ。――わたしは「クロノスが自分を助けた理由」については、とりあえず口を塞ぐことに決めた。……だってそんなの、時永くんが生きづらくなるだけだ。
うん、今思った。まるで……メティスみたい。
「豊田さーん、時永くん起きたー?」
その時、谷川さんの声が遠くから聞こえてきてわたしは返す。
「あー、うん! もう大丈夫みたい!」
「じゃあこっち来て、また泳ごーよー!」
ぴくっ、と隣の気配がふるえるのを感じた。ひきとめそうな空気も。
でも、平気。
……不安に思わせないよう、振舞わなきゃ。
メティスが何も言わないということは、もうあんなことは起こらないってこと。
それにいざとなればクロノスまで止めにくる。
わたしは指で無理やり口をむにゅ、と押し上げた。
……平気だよ?
「まだ浅瀬だったら大丈夫ってー!」
「おっけー!」
「っ……」
ふっ、といきなり手首が掴まれて。
わたしは驚いて振り返った。
「……何?」
「……行っちゃ、駄目だ」
――手首を強く掴んだまま、時永くんは意を決したようにこっちを見た。
……はじめてだった。ここまで握り締められたのも。ここまで……
「……また、あんなことがあったら……僕は、どうすればいいと思ってる?」
……まっすぐな声を、投げかけられたのも。
「そっか」
「……」
テコでも動かないぞと握力が言っている。
……掴んだまま、離さないぞ。
「時永くん」
「何か」
「……えっと、手」
「嫌です」
つっけんどんに言われた。
……まだ何も言ってないんですけど。
「『はなして』とは言ってないよ?」
「君のことだ。――言うんでしょ」
「ううん?」
わたしは苦笑いしながら息をつく。やれやれ。
でも、なんだかホッとした。
……そうだよね。わたしが知ってるのは、メティスの知ってる『いつかの時永くん』じゃなくて……
「手を離さないんだったら、ちょうどいい……引きずって行こっかなーって」
「は?」
……今、この場所にいる「時永くん」だ。赤い水溜りの向こうでもなければ、メティス曰く『泣きっ面がカッコ悪い』それでもない。
たとえいつか。そこに一歩一歩、近づいていくとしても――わたしが今、好きなのは、この人だ。
「時永くん普段、海水浴とか来ないんでしょ。だから泳げないんだ? だとしたらむしろ、わたしのせいで海にトラウマが刻まれたままとか、ぜんっぜん好ましくないんだよねー?」
「な、何をするつもりです……?」
わたしはニヤニヤしながら言った。
「水泳教室」
「え……」
「わたしー、結構アウトドアだからなーあ。来年もお誘いされたら、君おいて、こっそり海辺に行っちゃうかもなー!」
……時永くんがクロノス無しでちゃんと泳げるようになってくれないと、わたし、もう一回「ひとりサメ映画」しちゃうぞー?
なーんて口に出せば。
「……あ、あの、それ、は……!」
彼は、瞬く間に真っ青になった。
「なら一緒に泳いでわたしを監視できるくらいのレベルになるのだ時永くん! 名付けて、『心配だったらずっと見ときなさい』作戦!」
「え、あ、ああ、ちょっ……」
掴まれたままの手を引っ張り、わたしは大げさに声をあげた。
「谷川さーん! 時永くんやっぱ泳げない子だったー! さっきの火事場ミラクルだったー!」
「何言ってるんですか君!?」
「いいかね時永くん!」
わたしは偉そうに胸を張った。
「一緒にサメから逃げるまでが海水浴です! クロノスはノーカンだからもっかいサメに遭遇しよう! 目指せ時永くん VS ホオジロザメ!」
「それ、絶対食われますからね僕!?」
……怖いから逃げる。それはしたくない。時永くんだって同じだろう。
わたしも時永くんも……逃げるなら、回避するなら、自分から。
時永くんはヤケクソ気味に言った。
「……わかったから引っ張るのやめてください! ビート板とかあります!?」
――― ――― ―――
その夜、夢を見た。夢の中で、あの少女は近くに佇んでいた。
傍らにはしっかりとあの剣を携えて。
「――あなたが ね?」
声が聞こえた。肝心なところが聞こえない。それに、どこかで聞いたような声だった。……誰だろう?
少女は頷き、こちらを見上げ、何か言いかける。
やはり顔はぼやけて、よく見えなかった。




