24.海水浴 3年目・7月6日~31日(中)
* * * *
「ねー、競争しようよ!」
さて、遅れてわたしたちが合流した砂浜の上……青い海を前に、突拍子もないことを言いだしたのは谷川さんだった。
「競争?」
きょとんとした顔で時永くんが聞くと、佐田くんが早くもカキ氷を詰め込んでスースーキンキンしている口を開く。
「いっやぁ、さっき『誰が一番早く泳げるかなー』って話をしてたら、そりゃあもう軽く盛り上がっちゃって!」
「……ああ」
なるほど、そういえば時永くんと話している間もずっと谷川さんたち、かなり騒がしかった気がする。
「僕はその……パ」
「よっし、受けてたぁぁーつ!」
「えっ」
――「断る気だった時永くんが焦ったようにこっち見てるけど? 美郷」
うーん、前もメティスが「美郷の後についてくるからカルガモみたい」って笑ってたけど、確かにこれカモ永くんだな……
「さすがダッさん! そうこなくっちゃ!」
「ええ、ボクらのライバルにふさわしい勇ましさです! ……。アマゾネスかな?」
「誰がアマゾネスだ七生くん」
真面目な顔で一瞬考えた結果がおちょくる一言とか、本当にアレだなこの男の子は。
「……何、僕以外、全員参加?」
「時永さんやらねえの?」
「僕はちょっと」
佐田くんの問いかけに、時永くんは目をそらしながら言った。
意外。
時永くん、こういうのは苦手なんだ。
「普段、なかなか水着すら着ないので」
「何!? 時永先輩、水泳、高校とかが最後!?」
ハイテンションの落川くんが茶化したように言うと、時永くんは苦笑いを強めた。
「……いや、小学校で最後かな。中学からプールの授業すらなかったから。私立校だったし、そもそもカリキュラムからして不要という考え方だったみたいで、敷地内にすらなかったんですよ……」
「ぶッ」
「……何、豊田さん」
「いや、泳げないのにちゃんと水着で来たんだと思って」
わたしが噴き出したそれに、意外とムキになって時永くんが言い返した。
「しっ……失礼な。一応泳げてましたよ! バタ足程度なら!」
――「いや、なんでバタ足程度で威張り始めたの、この青年……?」
メティスのツッコミに同意したい。いや、完全に泳げないよりはマシだけどあれだ、『初歩の初歩』で水泳の授業が止まってる人だ、この感じ。
「はいはーい、お二人、喧嘩は後でやろっかー! かき氷の早食い競争とかー!」
「嫌ですよ、頭痛いじゃないですか!」
なぜか猛烈に憤慨しながら谷川さんの提案を断る時永くんに、佐田くんが口をジャクジャク言わせながらのたまった。
「フッ……それはたった今、5秒でブルーハワイを飲んだオレに言ってるのかい、時永さんや……!」
「うん、なんかうっとおしいよ佐田くん」
もうあれだ、お腹を壊してしまえ。
「……大丈夫だとも、佐田」
ぽん、とその肩に七生くんの手が乗った。
「比較にならない。お前は……ヒトではなく、軟体生物のカウントだ。間違いない」
「おれもそう思う」
「なんで!?」
ねっとりとしたジト目で七生くんが言うのに追従する、真面目くさった落川くん。
「ちなみに学名はポセイドン」
「ポセイドン!?」
うん……谷川さんを頂点とした人間関係ピラミッド、最下層の落川くんにすらイジられるようになったら、このグループでの立ち位置はもうおしまいだ。
谷川さんがいう。
「時永くん氷が嫌なら、焼きそばの早食いでもいいよ! 暑いのと冷たいの、どっちがいーい?」
「あーはいはい! 塩焼きそばならそれこそ僕の本分ですよ! 受けて立ちましょう!」
「……いや、何をもって本分と言い始めたの……そもそも塩焼きそばに何を求めてるの、この眼鏡を失った系男子は……」
よく分かんないけど、そっかぁ。
わたし、水泳競争のあとは時永くんと早食い競争か……重いなあこのタイムテーブル。
――「時永くん……絶対わざと場を引っ掻き回すために美郷に噛みついたわよね、このノリ……泳ぎが不得意なのは本当だろうけど、あとで違うものに参加することにしておけば、とりあえずヘイトはたまらないもの」
……う。そ、そう考えると微妙というか。
馴染んできたはずなのに、まだまだわたしたちに気を遣ってるんだね、この人……。
「じゃ、ちょうどいい不参加者がいるのでー! 時永くんはスタートの合図お願いしていーかなっ?」
誰が先についたとかそういうの、見る目はあると思うし。
谷川さんがそう言いながらスタートラインをひけば。
「大丈夫ですよ」
……時永くんは笑って頷いた。
ホッとする。――よかった、泳げなくてもなんだかんだで楽しそうだ。
「うっし! じゃああそこに見えてる岩までたどり着いて、グルッとこっちまで帰ってきた人が勝ち。早いもの順!」
どこから持ってきたんだろう――ホイッスルを時永くんに渡しながら谷川さんがルール説明すれば、落川くんから質問がとんだ。
「なあなあ、賞金とかあんの!」
「えー、そうだなぁ」
谷川さんはニヤッと笑う。
「……一番に帰ってきた人が、好きな人を指名してなんか奢ってもらう!」
「えー、ビリじゃなくてー!?」
佐田くんが数杯目のカキ氷を飲み干しながら悲鳴をあげた。
……うん、絶対ビリにならない自信がある子だ、アレ。
「それだとビリの子が帰る気なくなるじゃん、行方知れずになったらホラーだよ」
「うーい」
「じゃあ、さっそく行きますよ、位置についてー……」
線上に待機するわたし、佐田くん、落川くん、七生くん、谷川さんの5人。こうしてみると――なかなか、手強そうなメンツだ。
「よーい……ドン!」
時永くんがしっかり鳴らしたホイッスルの音で、わたしたちは「わっ」と一斉に駆け出した。ためらいもなく、振り返りもせず。
* * * *
ざぱん。――耳に聞こえるあぶくの音。
ああ、夏だ!
ようやく自覚が出てきてウキウキしだす。……コレって100パーセント、夏の風物詩だ!
内心はしゃぎつつ、まず一番後ろにいた落川くんを軽く追い抜いた。
次に意外と遅い七生くん。すぐ目の前を泳いでいるのは谷川さん。
そして少し遠くに佐田くんが見える。
わたしはニッと笑うとスピードを上げた。
「(ぐげっ!)」
谷川さんがゲッとした様子でわたしを見る。
「何今の! とばしすぎじゃない!?」
谷川さんが水面で立ち泳ぎしながら声を上げたみたいだったけど、残念ながら火がついたら止まらないのは昔からだ!
――「大口叩く割にはちょろいじゃない、東京人!」
メティスがなぜだか勝ち誇った様子で言うのがうっすら聞こえた。
……うん、わたしだって出身は東京だけど、親戚一同イベントごとには目がない。特に離島なんかに引っ越した際には、こういう海遊びは学校イベント含め、散々てんこもりに連れていかれたのだ。……へっへー、甘く見るなよぉ!
「……(みえた!)」
影が見える。――もう目の前を泳いでいるのは、佐田くんしかいない。
スピードに拍車をかけようとした……その時だ。
「ごばっ!?」
……いきなり佐田くんが奇妙な悲鳴を上げて海底に沈む。一瞬ギョッとしたけれど、すぐ急浮上。……うわ。
「(獲ったどぉおぉぉ――!!)」
……返してきなさい。
手に持っている、吸盤つきの足。何?
いきなり絡まれたの、もしかして?
そこまでタコと縁があるとか何? 彼の前世、半魚人か何か?
「(……。えー、とにかくお先に!!)」
競争のジャンルが『魚を捕獲する』のに変わってしまった佐田くんの下をくぐりぬけ、あきれ顔で追い抜いた。体力にはまだ余裕がある。あとは、目印の岩までこの順位をキープすればいい……そう、思っていたら。
――「美郷!」
……え? 焦ったような声が頭の中に飛び込んだ。
メティスの大声。そして目の前に現れた何かを見て、わたしは思わず水をかく手を止めた。
岩の傍。青い海。
光の注ぐ水中。目の前にある……何かの大きな、「生き物」の影。
「ヤバいよ!」
息継ぎにとにかく浮上した瞬間、谷川さんの叫び声に気づいた。
そして、影の正体にも。
……ヒレ。あのB級パニック映画とかでありがちな、三角ビレ。
それが、1、2、3……
「……うわぁー……」
思わず、呆けた声が出た。
どこで見たのか思い出した――サメ映画だ。
――「ウワァーじゃないから!!」
メティスの叫び声に慌てて後退。撤退――もはや退避だ。近づかないに越したことはない。
――「待って、なんで、まさか!?」
メティスがなぜかビックリして慌てているのをよそに、とにかく泳ぎ続ける。この辺り一帯には確か、「サメ避けネット」が張ってあったはずだ。ここに来る際に調べたとき、ガイドマップのQ&Aに書いてあった。
あと、人畜無害なサメも多いらしい。だから不用意に刺激はしないように。
そんなことをどこかで聞いた気がする。けど……
後ろをチラリと振り返った。
――「美郷!」
……雰囲気で分かる。
……こいつら、「気が立っている」と。だって動きがおかしい。グルグル回ったり、いきなり海底に突っ込んでみたり……なんか変だ!
「(メティス、わたし、怪我とかしてないよね!?)」
――「よく言うアレ!? 『血の匂いがしなきゃ害はない』ってやつ? いや、バカなこと言ってないですぐバック、海岸バーック! 後ろー!」
だよねえええ!? ……だってアレ、どう考えても超興奮したジョブズさんだ! あ、いやジョブズじゃない、なんだっけ!? ともかくヘタな望みは持たない方がいいのは、わかってる!
「がばっ……」
……変に慌てたせいで、息継ぎのタイミングがズレた。
落ち着け、わたし。意識を保て。
――「美郷!!!」
……少し水を飲んだけど、泳いだ。口の中が辛い。泳いで泳いで、それでも追いかけてくる。速い。
心臓がばくばくと鳴るのがわかった。
あんなもの――勝てない。しかも複数だ。
引き離すなんて、到底無理だ!
……半ばパニックになりかけた時。
「……?」
海水の流れが一瞬、変わった気がした。
――それは。
「……失せろ」
――ゴッ、と聞こえたのは、風の音みたいだった。いや、正確には波の音。
潮の流れと勢いが、急激に変わった音だ。
「ッ!?」
水中――バタ足もせず、魚雷のように突っ込んできたそれは、見覚えのあるシルエットだった。長い手足に、色素の少し薄い髪。首から下がったホイッスル。
それが一瞥をくれた途端、追いかけてきたサメの一頭が静止した。
――ポコリ、とお腹が潰れる。
瞬く間にひしゃげたサメは、ブワッと血を撒き散らした。
「……」
――鋭い目の底で、不思議な色が光っていた。青みがかった冷たい色。
この声は――この表情は、クロノスだ。
「……失せろと言ったはずだが?」
水の中なのに、それはハッキリした声だった。空気中を漂うのと同じ音。
メティスが頭の中で息を吐く。
――「……相変わらず訳がわからないわね、あいつ。物理法則にすら無視されてるみたい」
残りのサメたちは慌てたように後ろを向いた、得体のしれない何かから逃れるためだろう、一目散に逃げていく。
いや……でも。
「(……そこまでしなくても!)」
……逃げていく一頭が切り刻まれた。
もう一頭の首が、ズルムケになって落ちていく。
メティスは言った。
――「違うわ、『制御』できてないの」
……制御?
――「……まあ、勿論。今回に限ってはそうね――私もなのだろうけど」
意味が分からない。
そう思っていると、時永くんに入ったクロノスは、大きく息を吐いた。
いや、ちょっと待って――普通に息できてるの? それ、時永くんの体だよ?
――「この人レベルの性能になると、きっとそういうこともあるのね」
メティスは沈んだ声で口を開く。
――「ハードウェアがなんだろうが、関係ないことがあるのよ。大事なのはソフト――この人の場合はそうね、『自分という生き物』を特別視すること。その辺の人間と同一視しないことで、自分を守っていると言ったほうが正しいかしら」
勝手に解説されているクロノスは、不機嫌そうな様子でこちらを見る。いや、たぶん正確には――わたしを通して、今喋っているメティスの方を。
――「『人間より高次の生き物』だと自分自身を位置付けていること、時永くんの肉体を自分のものとしてカウントすることで、無茶な理屈を通す――自分が水中にいるくらいで死ぬわけがないと思い込むの」
「……事実だろう」
こんな状況で水圧――いや、気圧? とにかく体内の違和感が気になるようで、片耳を抑えて泡を吐き出したクロノスは言う。まるで飛行機の中でやる耳抜きみたいだ……。
「……不快極まりない。やはり『寄生虫』の飼育など、するものではないな」
クロノスの独り言が耳についた。
わたしは口を開く。……どうして、助けてくれたの?
「……助けた、だと?」
鼻で笑いながらクロノスは言う。
「……元はと言えば、こいつが焦って海に飛び込んだのが発端だ。水を吐き出すのに苦労したぞ。泳ぎは苦手だと言っていただろう」
……あっ。
――「……なるほど」
メティスが歯切れ悪そうに呟く。
……うん、わたしもようやく思い至った。クロノスが出てくる前、時永くんは眠っている必要があるわけで。つまり。
――「……泳ぎ、マジで苦手だって言ってなかったっけ、彼……」
前も似たようなことがあったが、時永くんの場合――いざという時は驚くほど「考えなし」になる。あのお姫様抱っこと同じだ。
あの時だって自分一人なら軽々とジョンくんから逃げ切れるところ、迷わずわたしを抱えあげた。
今回だってそうだ。たぶん異変に気付いた瞬間――彼は、わたしたちを追いかけて飛び込んだ。
……彼にとっては足のつかない、暗い、海の中に。
自己犠牲といえば、聞こえはいい。
人のためといえば、聞こえはいい。
でも、たぶん違う。
今更ながら、思い至った――養父母、つまりお父さん、お母さんを失ったときの後遺症だろう。
『罪悪感』が濃いから、『罪滅ぼし』をしたいとどこかで望んでいる。
いつ記憶がなくなるかわからない、自分の中の神様との関係――いつまた、誰かを傷つけるかわからない、恐ろしさ。
自分を肯定できる要素が、今までの経験にない。
つまり、ここにいていい理由がないから……
――「……ここにいて、いいんですね」
いつかの彼の言葉。
そう、つい2、3か月前――誕生日会で彼が口に出した問いかけ。
彼にとっては経験上、どうしても「自分」が、その場のマイナスになる。
わたしがクリスマスと誕生日に幾度も口にした「生きていていい」「ここにいていい」という答えとは、いくつものミスマッチが重なる。
ただ……彼はたぶん、わたしの「肯定」を、否定したくないと思ったんだろう。
だからどこかで折り合いをつけようとしている。「自分というもの」を肯定するために――彼は、「命を投げ出す」ことを無意識に選んでいる。
誰かのために、自分は必要なんだと。
だから自分の命が軽い。だから、後先考えない。
「……それにこいつもそうだが、そちらもそうだろう。今死んでもらっては我も困る、花が咲く前の蕾と同じだ」
「(?)」
意味ありげなことを言い出したクロノスは、ちょいちょい、とわたしに向かって上を指し示す。……何?
――「大方、話が長くなるから息継ぎしろってことでしょ?」
水面上で話しません!?
――そう思いながら「ぷはっ!」と顔を出す。
でも、確かに異様な雰囲気だった。
「あのクロノスが……息継ぎしろって?」
しかも、「死んだら困る」?
妙な言い草だ、だってクロノスは人間を見下している。わたしなんかに気を遣うような性格は一切していないわけで。
「……。脆すぎにもほどがあろう」
うわ、水の上でもムカつく声が聞こえる……
――「繊細だとおっしゃいな!」
改めて潜水しながら指を立てた。――メティスに同意。
こんな「水の中で息できる」ような人に、ため息混じりで言われたくはない。
「一々騒がしい」
クロノスが「がぽっ」と泡を吐き出した。
「本来はこんな、下等生物一匹にバカ丁寧なことはやらんのだがな……虫けら一匹。水からすくいだすために出てきたのだと思われてはすわりが悪い。どうせなら調整していくとしよう」
――「……ゲームバランスを?」
メティスが嫌そうな声で言った。
「そうとも。ライバルの駒に向かって情報提供だ。さっきから同じ土俵にすら立てていない顔をしているからな」
そりゃーどうも……。わたしは内心舌を出しながら顔で表現した。
っていうかクロノスって情報小出しにするの好きだよね。
何だろうこの人? もしかして「ミステリアスな自分カッコいい」と思ってるタイプの痛い少年?
クロノスはつんつんと自分の吐き出した大きな泡を突きながら――面倒くさそうにわたしを見つめた。
「まあ、それはともかく、あぶくだ――この世界が『大きなあぶく』のようなものだと仮定しよう」
いきなり何の話だろう。……あぶく??
「この世界が、とても巨大なあぶくだとして、珠のように空気をひとところに押しとどめている力は必ずしも一定ではない――あぶくというのは内と外のバランスで出来ている。だから少しの衝撃で均衡の壁は崩れ、たえず空気が漏れる」
するとまるで空気を読むみたいに、クロノスが突いていた泡がぽこぽこぽこっと分かれた。――ねえ、今は触ってないよね? なにやったの?
「……あぶくから漏れ出した空気は、こんなふうに無数の小さな泡になる。本体からちぎれて彼方にとんでいくわけだ。――ほら、たとえて正解だ、分かりやすかろう? 今のはいくつもの小さな泡になって上がっていったが……」
ドヤ顔の彼にイラついた。
……理科の実験の先生かおのれは!?
「同じように大きなあぶくが全て『小さな泡』になったら、たちどころに消えてしまう。だが不思議なことに、このあぶくはいくら分かれたとしても、通常は『小さな泡』しか発しない。必ず本体というべき、大きなかたまりがその場に残る。彼方に飛んでいくこともなく、水の中に留まり続けるのだよ――それも少しずつ図体が成長していてな。まるで強大な生き物のごとく、生きているというわけだ」
クロノスの吐いた泡たちが、水面でまた弾ける。
それは脆さを象徴するようで。
――「……世界が【あぶく】。なら、ちぎれた小さい泡は、あなたと同じ【神】に類するもの。あなた、もしかして地球の話をしようとしているの?」
「そうだ。この世界だと言っただろう。我らの世界というわけではない……ああ、おい」
あ、はい。
律儀に息継ぎタイミングを指示してくる神様に調子が狂いつつ、もう一度浮上して息を吸う。
視界に入る――青い、空。
「……この、水の惑星の話だからあぶくに例えたのだよ」
その言葉はなんだか、クロノスが発するにしては変な心地がして振り返る。それは妙に『つまらなそうな』音で……
「……この星が大きなあぶくで、海の底にじっと張り付いている空気の層なのだとすれば……そこからふとした拍子に分かれ、無数の【目視もできない気泡】どもを取り込み、空を目指す。立派に目視のできる『小さな泡』。それが神だ」
……うん?
「しかし、あぶくも少し調子が悪かったのだろうな。不思議なことに……このあぶくから、小さな泡が発生しなくなってきた」
クロノスは、あぶくがこの地球だと言った。……メティスは、泡が神様だと言った。つまり地球から神様がいなくなった時のことを話している。
メティスは以前、言っていた。
昔は地球にもたくさん、「神様みたいな人」たちがいたのだと。
「――泡が減ったら、どうなると思う?」
クロノスはわたしに問いかけた後、答えを待つこともなく自答した。
「……大きくなっていくだけのあぶくは、内外の『バランス』を保つのが難しくなる。やがて割れてしまうだろう」
続けてクロノスは飄々と語り続けた。――それはある日の大洪水かもしれないし、隕石の襲来かもしれない。疫病だったかもしれない。
「あぶくを構成するのはバランスという奇跡だ。幾つもの偶然をなくならず、強運にも乗り越えてきた今日の生き物の運勢だ。幸運のつみかさね……だから潰れる際、弾ける間際に訪れるのは、きっととてつもなく大きな不運だろう」
――その『幸運』は生きていて、その『偶然』は、意思を持つ。
「だからあぶくは慌てた。……慌てて、『大きな泡』を作ることにしたのだ」
……この「あぶく」は生きている。人のように、生き物のように――だけど生き物が寄せ集まって。
たとえばまるで、いくつもの菌や細胞が集まって、人という生き物が生きているように。だとすると、神様……『小さな泡』の代わりに発生した、『大きな泡』っていうのは……
「大きな泡が発生するであろうポイントは、我が、外からバランスを乱している『この付近』だといえる。ああ、下等生物に肩入れするお前らしくもない……」
クロノスは、「わたしの向こうの女神さま」をじっと見た。
「まさか、こんなことになろうとは――思ってもいなかったのだろう?」
――「……ええ」
……妙に沈んだ声をしているメティスは、肯定の言葉を呟く。
――「全ては、『未来』を変えようともがいた結果……」
前に、メティスが言っていたことをようやく思い出した。
――『美郷、これだけは言っておくわ。……運命というものは、そう簡単には変えられない。神様にすら変えることは難しい、絶対確定の未来のことよ』
メティスは、以前もたくさんのヒントを残していた。それはたぶん、『未来』が見えるから。その先が見えるから……
――『え? あ、ああ……言ってなかったっけ』
いつかの言葉。わたしは水面上で深く息を吸う。このままだと――
――『あなたの命が、ヤバい』
……あれは、わたしがいつか、『大きな泡』に遭遇するから?
今現在のメティスは噛みしめるように呟いた。
――「そう、未来を変えようとした結果よ。だって通常ではなかなか遭遇しないし、見かけないでしょ? こんな対策も万全の海辺で、本物の人食いザメなんて」
……あれは、いつだっただろう。
――『クロノスは多分、近いうちに地球で何か、悪戯をしようとしている。時永くんを経由して』
――『彼が重要視するのは私だけだから、私の気を惹くためかもしれないし、違うかもしれない。……ともかく私は、それに巻き込まれる美郷を「できる範囲で」どうにかしたかった』
……メティスの真意を初めて知った日。
幼い頃のわたしに話しかけた、理由を知った日。
メティスは言う。
――「そう、通常なら見かけるはずもない――あのサメ、たぶん、私の無意識が呼び寄せたものだもの」
「だろうな」
――「私だけは、やるまいと思ったのだけど」
メティスはたぶん、幾度も見てきている。
クロノスが、今日みたいに――制御できなくなる様を。
――「まさか、いつものあなたみたいに『偶然』が暴走するなんてね。世界を変えるにしろ、運命を変えるにしろ。まさか……こういう変わり方は望まないわ」
「しかし、実際問題こういうことになっただろう」
……気心知れたメティスが相手だからに違いない。
クロノスは自らの不機嫌を隠さないながらも、ゆっくり諭すように言った。
「その愚かな考えが。無意識の内、または一瞬でも心の片隅にあったから現実化したのだ。そうだとしか考えられまい? ――メティス、お前の庇護対象がある日あの時、あの場所でいなくならないためには、先に死んでしまうより他にないではないか!」
――「……。」
……なるほど。
あのサメは、メティスの無意識が呼び寄せたもの。
つまり、わたしは今――メティスに殺されかけた。
――「……っ」
メティスたち神様には、ある程度の未来が見える。今までのヒントから察するに、わたしはクロノスに幾度となく困らされるし、下手をすると死んでしまうんだろう。
……そう、まるで、時永くんの両親と同じように。
それをメティスはたぶん、避けようとしてくれた。ううん、避けようとずっと口を出していたし、見守っていた。
恐らくそれに失敗したんだろう。
……同時に、もう一つある。
――「……そうね。たぶん、理屈はあってるわ……私ね、クロノス。今更言うけれど――その子が憎かったの」
その子。
今この場にいるのはわたしと、クロノスと、時永くんだ。つまり。
――「あなたが出入り口にしている時永くんが、今から憎かった。まだ起きてもいないことを恨んで――だって美郷が人災でいつか死ぬとしたら、要因は100パーセントあなたが介入した結果の時永くんだもの!」
……やっぱり。
わたしは、メティスの今の言葉と一緒に、「あるもの」を見た。
ビジョンだ。――いわゆる、白昼夢。
わたしは今までにも一度だけ、メティスの考えたらしい光景を「拾った」ことがある。たぶんそれは、わたしが一番『メティスと近しい』からに違いない。
つながっているから、分かるに違いない。
前に見たのは、彼女が故郷を飛び出したときの光景だ。
たぶん、クロノスのことが嫌になったときの話……メティスの家出を手伝う、人間の女の子の表情。
――燃え続けた、『集落』の跡。
今回も同じに……少しだけ、朧げな何かが見えた。
一人で立っている、時永くんだ。
今より少しだけ、顔つきが違うように見える。……足元には、赤い水溜り。
その目は冷たくて、でも同時にひどく空虚で――何か、「大切なもの」が抜け落ちたよう。
そう、なんというか……。寂しそう。
それがきっと、いつかメティスが見る光景。
――「……だけど、実物を見なければ気づかなかったことがある」
しっとりとメティスの声は続ける。
かたいような、やわらかくて優しいような。複雑な心を奏でながら。
――「会話と呼べるほどではないけれど、接しなければ分からない事がある」
……さっきのビジョンは、確かに未来の想像図だったに違いない。
水溜りをこえて、『こちら』を見下ろしている――冷たい目。
でも、現在の時永くんはあんな顔をしない。
だってついさっき、メティスに呼びかけた。遠慮がちではあったけれど、親しげに接した。――それは、「やさしさ」からだ。
――「あなたが今、我が物顔で手足にしているその子は、そうね……優しくて真面目で、きっとひどく善良な青年よ。だから……」
メティスはぽつりと言った。
――「……だから。【負の感情】をどこにぶつけたらいいのか分からなくなったのは、事実だわ」
「……ハッ」
クロノスは笑った。
「成程、お前の中の無意識は、こいつを守ろうとしたのか?」
――「そうね、守ろうとしたのよ」
メティスは存外に、強い口調で言った。
――「もしかしたら願ったのかもしれないわ。未だ見えぬ、もう一つの選択肢……『時永 誠』くんに手を汚させない、そんな終わりを」
……メティスは、守ろうとした。
『わたしが傷つく未来』をなくして、『時永くんがああなる筋』を、消そうとした。肩の力が抜ける。……怒れる、わけがない。
勿論、意識的な選択ではないから、「今のわたしが消える」という矛盾と破綻はあるけれど。
――それは、この神様の「やさしさ」だ。
「お前自身が守ってきた、庇護対象を犠牲にすることで?」
――「……知ってるでしょう、クロノス。弱いのよ、私」
それは、捉え方によればただの裏切りだったのかもしれない。
長く見守ってきた「今のわたし」を見捨てて、ただ一言、言葉を交わしただけの時永くんを守ろうとした。でも。
――『ことあるごとに持ち上げられて、ことあるごとに崇められて……ご機嫌取りをされて』
……わたしは、以前に聴いた――あの寂しそうな声を知っている。
――『……それが、本来の神様よ美郷。生きて、動いて、会話する自然災害級の生き物。もしあなたが私に親しみを感じていたのなら、きっとそうね……』
――『……私が、特殊なの』
……知っている。
どれだけこの人が時永くんに話しかけられて驚いたのか。
わたしは――ああ、わたしだけは、知っている。
メティスがどんな子供時代を過ごしたか。
それから……やけに長く、人間から怖がられていたこととか。
そして今更、納得したこともある。
――自然災害級、という言葉の意味。
普通の人間から恐れられる、線を引かれる――本当の理由。
……きっと神様は人間より、ちょっとだけ「こうだったらいいな」と思ったことが実現しやすいんだ。
水の中で息を吸ってもなんともならない、時永くんに入ったクロノスがその証拠だろう。
――『「そこは違うでしょ」とか、「何でできないの」とか、余計なそれを口に出してしまう。……私、神様でしょ? 余計なことを言うと、それがルールになっちゃうから本当は自重したいのよ。だから大体部屋にこもってるし、人間と直接は関わらない』
――ラーメン屋さんで、店主のお孫さんを見ながらの話。
いつかきいた言葉の重みが、今になって分かった。きっとメティスが「意見」を口に出したら、わたしたちみたいな『ただの人間』の意思は消し飛んでしまう。
そして口に出さずとも、周囲は何かしらの影響を受けるんだ。
だから警戒されていたこと。利用されもしたこと。
だから、あまり『人間』に近づかなかったこと……。
メティスの思い付きが、単純な要望が……たとえ、本気でなくても。頭の片隅に、よぎっただけでも。何かを及ぼす。
彼女はいつも、それが怖い。
だけど――同時に、わたしは嫌というほど知っている。
――どれだけ、この神様に人間味があるかということを。
わたしが妙なことをしたら笑う。優しくされたら泣く。
怖いものみたさで時永くんの記憶に触れて、とても嫌なものを見たら――それこそ吐く。
「人間に心を動かされる」、ひどく脆くて人間味のある神様。
「……いつもと逆ではないか」
クロノスが吐き捨てるように言った。
「幼い頃にはまったく考えられなかった事態だな。あのメティスが、私情に駆られて力を制御できないだと?」
――「……はん。癇癪を起こすたびに勢いあまって世話係を殺していたあなたに言われたくはないわね」
……バイオレンス幼少期が、もうありありと想像できる気がした。
――「……岸に戻ったら、でいいわ」
メティスはため息をついた。
――「早くその子に体を返しなさいね。いい加減取り返しがつかなくなるでしょう」
「はああ!? ――お前に言われる筋合いはないな!」
鼻を鳴らしながらクロノスは言った。
「我が止めにこなければ、そこの人間はお前に殺されていたのだぞ?」
――「あなたが見たいのは、人間じゃない。……大きな泡でしょう?」
メティスは吐き捨てるように言った。
――「『大きなあぶく』だって、見世物じゃないぞ、と思ってるのではなくって?」
「……何?」
――「だって小さな泡が神様なら、今まで生まれ出ることのできなかった泡を集めて出来た、大きな泡は――いわば、世界の子よ」
……世界の子。
――「今のあぶくに並び立つもの。スケールでいったら同じもの。……次のあぶくに等しいわ」
「ほう」
――「この世界が生きているのと同じよ、クロノス。いつか自力で呼吸し、生きていくだけの『命』がある。ヒトを閉じ込めてもいつか脱走するように――決してそれは、飼える生き物ではない。……あなたに世界は渡さないわ」
また2人の間だけで話が進んでいるようだけれど。
……それでも、納得したことがある。
――メティス曰くの世界の子。
つまりクロノスは近々出現するかもしれない、世界から切り離された「大きな泡」をみたいのだ。――間近で、切り取って眺めるようにまじまじと。
そしてそれには、なぜだかわたしが必要で――だからわたしを助けた。
時永くんも、おそらくは。
「(クロノス、とりあえず岸に帰ろう)」
……わたしは泡と一緒に言葉を吐き出した。
時永くんだって、ずっと気絶してるのも嫌だろう。
「(メティスも。ほら、寒くなってきた)」
――「……そうね」
メティスは息をつく。
――「……ごめん、美郷」




