10.諸悪の根源・1年目、1月ごろ
・2011年1月6日(木)
「ひゃっほーう! あけましておめでっうっぷぁっ!」
「……うわ」
「お酒臭っ」
合流するや否や吐きそうな状態の谷川さんに、わたしたちは思わず鼻をつまんだ。
年が明けて、もう6日。
……にもかかわらず、谷川家ではおとそが振舞われているようで。
――「こらこら」
呆れたようにメティスが呟く。
――「『お正月くらいは』なんて見逃してあげる大人も、さすがにいなさそうな時期になってきたわよ?」
というか、まずよくこんな状態で年明け初の講義に出席したよねえ、この人。
「……あのー、僕の知り合いに警察官がいるんですが……」
「ご、誤解だわ時永くん……!」
谷川さんが戦慄しながら言った。
「キミあれだよね!? まさかあたしを飲酒上等・タバコ上等の不良上がりなビッチだと勘違いして……ッ」
「ます」
爽やか笑顔のまま、たった2文字の毒を吐いた時永くん。
……約10ヶ月前に高校を卒業しただけの19歳、それが私たちだ。
「おぅふ……! た、助けて豊田さん、最近時永くんが遠慮なくなってきた!」
「よかったじゃん」
わたしは半ば『棒読み』で呟いた。……谷川さんが言う。
「うぅぅっぅう、なにそれ冷たぁい……この2人、そろってドライだ!!」
「「……うん」」
「冷たい目で見ないで!!」
まあ実際、時永くんがわたしたちに心を開きつつあるのは事実だろう。
少しずつ接し方が変わってきているのは、さすがにわかる。
「けぷっ、ほ、ホントに誤解だってばぁ、酔ったおじさんに飲まされたんだぁ……!!」
「だとしても、普通みりんで割ったりとかするでしょう」
「時永くん、本みりんもアルコールあるよ?」
「……ストレートおとそよりはマシです」
わたしに返事を返しつつ、やれやれと時永くんがハンドタオルを出した。
「ほら、ちょっと濡らして額とかこめかみ拭ったら多分マシになるから」
「うぇぇん、ごめんよぉ、洗って返すわ時永くん!」
「……返さなくていい」
「ホント辛辣ぅ」
ところで今回はさすがに寒いので、待ち合わせ場所は楓の下ではなく暖房の効いた食堂近くの空き部屋だ。
ただ、やはり目の前でリバースしそうになっている人を食堂に連れて行くのは、ちょっと抵抗が大きいわけで……
「どうする?」
「うーん……」
わざわざ食堂前の水飲み場でタオルを濡らして戻ってきたらしい時永くんは、脂汗でジトっとした谷川さんの横っ面を意外と乱暴にグイグイ拭きつつ、少しだけ唸った。
……そう、いまだに時々、ビックリすることがある。
――彼、人嫌いのくせに面倒見がいいところもあるのだ。
『意外と乱暴』どころか、そもそも、ここまで『面倒見がいい人』だったかな、なんて。
「……ほら、動かない」
「くすぐったいー」
会うたびに少しずつ、様々なことを知っていく。
出会って1年と少し。結構長いのに……まだまだ、彼についてはわたし、知らないことだらけだ。
「ふふふ、ふたりとも先に行ってていいよ……あたし、今日は食べるのやめとうッッッぐぇ……」
「あー、あああー」
うっかりまた戻しかけてる谷川さんを見つつ……わたしはため息をついて、その背中をさすった。
「我慢しなくていいからトイレ行きなさい!」
「アッハァイ……イテキマぁース……」
「寄り道しちゃダメだからね、ハンカチ持ってる? あ、時永くんのタオルあるか……薬ある?」
「ナァイ」
ダメだこの人。普段、『コミュ力の塊』な谷川さんが、片言のインド人みたいになってる……。
メティスも呆れたように言った。
――「……あとなんか、そうしてるとお母さんみたいね、美郷」
言わないで!
おせっかいなのは自覚してるから!!
「……仕方ないな、あれ」
「……うん、谷川さんは死んだと思っておこう」
「死んだんですか?」
トボトボと去っていった谷川さんを見つつ、わたしは気を取り直して口を開く。……彼女の復帰を待っていたら日が暮れてしまうかもしれない。
「というわけで時永くん、急遽わたしたちだけでお昼を……っ」
「……」
「えっと、時永くん?」
まただ。反応がない。
よーく見ると、彼はあらぬ方向を見てぼけーっとしていた。出会った頃にもよくあったアレだ。
「心ここに在らず」状態。
……そう、彼は時折、こうなる。
喋っていてこうなることもあるし、講義中もどうやら例外じゃないみたい。
高校までの「おぼっちゃま校」に行ってた時も、きっとそうだったんだろう。
「進学テストで気絶してた」、なんて言っていたことも思い出した。
「…………」
手を振る。ほっぺたをつく。
……目は開いているけど、全く動かない。
『気絶してる』。本当にそう言える状態なのかな、これ。
「……えっと」
前の時みたいに、トン、と肩を押す。
意外と体幹がしっかりしてるのか、ゆらっと揺れる程度で倒れない。
……次に手を握る。強く引っ張ってもやっぱり『ガクッ』と揺れるだけだ。
力の抜けたその体は、やっぱり冷たい。まるで、中身がないみたいに。
「…………。」
というか、ここまで鈍いのは初めてだ。
「おーい……時永くーん」
「……ん」
ようやく、時永くんが瞬きをした。喉もなる。反応する。
しかし……
「……何か、言ったか?」
ぞくっ。
違和感と共にどこか悪寒がする。
――「美郷、手、引っ込めて!」
「!」
――「はやく!」
慌ててさっと腕を抜く。……そう、これは普段の時永くんじゃない。
時永くんにしては、どこか様子がおかしかった。
「違う」。
本能的に理解した。これは別人だ。
確かに先ほどまで同じ場所に本人が立っていた。
その表情にはいつもの温かさは存在せず、殆ど無表情に近い。
「ふん……? なるほど」
少し髪をいじり、彼は呟く。時永くんとは少し違う印象で。
……かわいた、つめたい、まるで吹雪のような声で。
「……中身の変化が自分でわかるか、それとも」
その時永くんの姿をした何かはようやく無表情から脱し、ニヤッと笑みをつくった。
しかしそこにあったのはあの無邪気で、子供くさい、頼りなさげな笑みではなくて。
「たった今……メティスに教わったか?」
冷たい、背筋の凍るようなそれ。
やっぱり違う。
これは絶対に時永くんじゃない。
――「クロノス……」
メティスの呟きが、こだまのように頭の中で反響した。
すると、驚いたことに時永くんの姿をした何者かはわたしを見据える。
「ああ……やはりいたか。メティス。久しぶりだな」
聞こえるの? そう、一瞬思った。
目の前の人間がメティスと会話するなんて、わたしにとっては初めての経験だ。……同時に理解する。わたしの知っている「自称神様のメティス」は、わたしの中で完結しているものじゃない。
――心のどこかで訝しみながら、疑いながら、あえてうやむやにしていたその正体。
精神疾患じゃない。
映画や漫画でよく見る、イマジナリーフレンドでもない。
『神様たち』は、本物だ。
幻覚、幻聴、夢……その可能性を、丸ごと潰してくるのが目の前の存在だった。
「こんなまやかしがあってたまるか」と心の奥底で本能が叫ぶ。
「危険だ」と、「逃げろ」と、体の奥で何かが訴える。
――「……それが、本来の神様よ美郷」
メティスの囁きが耳元で聞こえるような気がした。
――「生きて、動いて、会話する自然災害級の生き物。もしあなたが私に親しみを感じていたのなら、きっとそうね……私が、きっと特殊なの」
……理解した。
理解した上で、時永くんに入っているその神様を、見返した。
「……ほう」
「何よ」
わたしは息を整えながら、口を開いた。
「……『わたしに向かって喋りかけてる神様』に、下々の人間は目を向けちゃいけないわけ?」
……そうだ、今更、思い出した。
わたしはいつか、『クロノス』という名前を聞いた事がある。
――メティスのたった1人の幼馴染。家族だった人。
話がかみ合わなくなった人、もう声の届かない人。
メティスが呟く。
――「……やっぱり来たのね」
「そろそろだと思ったか?」
目の前の、時永くんの姿形をした男の子は言う。
「今までも見えていた『その景色』が、そう、やすやすとひっくり返るわけがなかろうよ……メティス」
へらへらと笑いながらクロノスは首をすくめた。ニマリと笑う、時永くんの口。
「神の天敵のイレギュラーなど、現時点では地球上に1人も存在せんのだぞ?」
――「ええ、確かに、私たちには線が見えるわ」
メティスは静かに――でも、しっかりした口調で言い返した。
――「意図ともいうわね。ざっくり神様は未来が見えるんだ、なんていう人間もいるけれど、『預言師』の見ている断片的なそれとは違う」
わたしの知らない言葉を織り交ぜながら、メティスは言う。
――「私には、『その命が生きていく意味』が見える。何を見て、何を理解し、何を求めてさまよって答えを探すのかが見える。さすがに私が生まれる以前の過去は見えないけれど、物心ついてから。生きてから。――私が関わった人たち、関わろうとした人たち。触れ合い妬み、悲しみ、慈しんだ人の未来が見える」
瞬間――ふと、わたしの脳裏に浮かんだのは、知らない光景だった。
「メティスが思い出したもの」が頭に流れ込んできているのかもしれない。
『怯えた顔つきの少女を見上げている』記憶……
その表情が、少しずつ柔らかくなる……
笑顔が増えた頃には、目線は横だ……身長が追い付いている……
彼女に向かって、口の前で指を立てる記憶……
彼女は笑顔で同じように指を立てた。楽しそうに口が動く。
「神様の家出を手伝うなんて、思ってもみなかったわ!」。
……来た道を、振り返った記憶。燃えている集落が目に映る。
――「……幾つもの困難を見送ってきた。下手に道を外れれば、余計、悲惨な未来になるとあなたは幾度となく教えてくれた」
あの振り返ったのと同じ場所。今度はちいさな男の子と出会う。
迷子らしいその子は、「彼女」に目元がそっくりだ……
同じように燃えた集落を背に、少しだけ背が伸びた少年がメティスに叫ぶ。
「助けてください」、「これからの道を教えてください」……!
「……天秤気取りか、メティス」
せせら笑うようなクロノスの声が、わたしを現実に押し戻した。
「お前が世界をあるべき形に戻すと? ……お前だって干渉しているだろう。私情で『違う世界の自分』に手を貸した。貸していくはずだ。これからも」
――「私は、できる範囲のことをやっているだけよ」
メティスは言う。
――「あなたとは違う。……道を逸脱しない、運命から、もう外れない」
……『最初こそ、可愛げのある悪戯ばかりだった』。
以前、そうメティスは言った。クロノスのことを私に話したときに。
あの道でメティスが振り返った集落が……
火の放たれたそれが、もし彼の、最初の、「可愛げのない悪戯」だったとしたら?
――「私は、逃げた。故郷から逃げた。……逃げてはいけない。ただ、あなたのように運命を壊してもいけない。そう学んだの」
家出したメティスを残して、炎の中に消えた集落。
それを手伝った女の子は、どこへ消えた? 生き残った? それとも死んだ?
……あの男の子は、メティスを逃がした少女の遠い親類だったのか、それとも直接の子孫だったのか……
――「だからギリギリの場所で、ギリギリに情けをかけているだけ」
「……」
――「深入りしない。『気になり』はしても『気に入り』はしない。……運命の輪の中からはみ出さないように、それでもこれ以上『悪くならない』ようにバランスをとりながら、不幸な誰かの生きる道に、ちょっとずつの光を与えていくだけ」
メティスは静かに言う。
――「……これから先、私が何をするのかは、これからの私が決めることよ。今はこれ以上やる気はない。ただ、あなたは違う」
「……」
先を促すようにクロノスは、時永くんの手を前に出した。
「続きをどうぞ」とパントマイムだけで、表情だけで。言葉を出さずに。
――「これ以上、『時永 誠』に必要以上に干渉するのはやめなさい。じゃないと……」
「……こいつの魂に負荷がかかる、と?」
……負荷?
――「わかっているなら……」
「ハ、知ったことではないな。我には『やりたいこと』があるのだよ」
クロノスは時永くんの顔でにやりと笑う。
「壊れて困るなら、代わりを作り出せば良い」
「……ああ」
納得したわたしは口を開いた。
――ぱちぃん!
――「美郷……!?」
「そう、ですか……っ!」
……言いたいことは、分かった。
知らないこともある。想像つかないこともある。ただ、今の一言だけは看過できない。「負荷がかかる」。つまり、無理をしているということだ。
更には、「壊れて困るなら、代わりを」……?
「……ごめんよ、クロノス」
ビンタした手をそのままに、わたしは口を開いた。
「わたし、メティスと同じで時々、気が短いんだ。……頭に血が上ったみたい」
――瞬間、少しだけ時永くんの体が動く。
一瞬、その目に光が戻った。――時永くんだ。現状を理解しようと目がこっちに向こうとした瞬間、すぐに。
「……おっと。しつこいぞ、ゲームの駒風情が」
口がそう動いた。――クロノスの声がした瞬間、カクリと脱力する体。ずるっと消える、表情。
ごめん、時永くん……
もうちょっとだけ、寝ててくれてると嬉しい。
じゃないとわたし。
「……そりゃ、神様だから……命を作ろうが殺そうが自由でしょうよ」
――じゃないとわたし、文句の一つも言えないだろうから!!
まだそこにいる。
そう判断して、クロノスに向かって口を開く。
時永くんの体を勝手に使っている、ひとりの神様に向かって。
……言いたいことを、全力で言う。
ああ、負けていられるか。
プレッシャーがなんだ、生存本能がなんだ……!
そこにいるだけで背筋の凍る何かに、わたしは口を開く。
「……だけどね、いくらそっくりなものを作ったって、結局それは『そっくりでしかない』。二度と同じものなんて、手に入らない!」
だって……我慢できなかったからだ。
守りたかったからだ。
その価値を、どうしてもわたしは口にしたかった。
「……どれだけそっくりな人を探しても、想像しても、作っても」
わたしにとって『親代わり』になってくれる人はいても、両親の代わりはいなかったみたいに。
「――わたしがバイバイしたあの人たちは、戻ってこない!」
……メティスが仲良くなったあの少女も、戻ってこない。
少し似ている男の子も、「時々そっくりなだけの別人」であって、彼を救ったところで時間は巻き戻らない。
違いない。――ああ、この言葉だけは、間違ってない!
時永くんの代わりだって、どこにもいないんだ。
……少なくともわたしにとっては。谷川さんにとっては。
『壊れたら困る存在』だと、わたしは思ってるよ。
時永くんの代わりは、どこにもいないんだ! ――そう思ってるよ!
――「……ええ、そうね」
メティスが同意する。
――「確かに私たちの世界には、「生き物のような何か」を作る術も存在している。けど、それは元から存在している生き物に施して良い代物ではないわ。……いくら魂や人格を似せて作り上げようと、記憶を書き写そうと……そこに出来得るものは、もとより随分劣化した、『複製品』に過ぎないもの。変わりが利くのは、役職と数ぐらいよ……!」
「おやおや、2人揃って何を。そんなに大切か? この命が。踏めば消える。斬れば消える。頭をぶつければ消える。そんな儚いコレが?」
クロノスにとってはきっと、人一人分の命なんて軽いものなんだろう。
生きた自然災害。メティスがそう言ったのを思い出す。
……それでもいい。理解されなくてもいい。ただ、わたしは理解している。それだけの話だ。
「……大事だよ。すごく大事」
「……ふむ。我を説得しようとでも言うのかな? 確かに、メティスの方は昔から、どういうわけか我のやることなすこと全てが気に入らないようだが。――だが、判っているんだろう、メティス? もう既に決定された未来が。『それ』を守る価値はあるか?」
――「………。」
「メティス?」
――「わかってる……けど……それでも、ね」
彼女には何が見えているんだろう。もう脳裏のあのビジョンは見えない。
何かが見えそうになることもない。
……メティスの声が、ようやく聞こえる。
――「私はこの子が好きだから……美郷が困るようなこと、美郷が悲しむようなことは、極力避けたい。絶望なんて望む人はいないわ。神だろうと人間だろうと一緒よ! ……だから私は、私なりに足掻いてやる。あなたの言う『無駄な足掻き』を、私はずっとし続けてみせるって決めたの」
「ほう」
クロノスは小馬鹿にしたように笑った。
「……随分入れ込んでいるようだな。その人間風情に」
――「何言ってるの。私たちも所詮人間から生まれた変異種よ。上も下もあるものですか」
その次の瞬間、ふと反響がピタリと止んだ。
――「美郷」
それはいつもの、わたしにだけへ向けられた言葉だとわかる。
――「これだけは言っておくわ。……運命というものは、そう簡単には変えられない。神様にすら変えることは難しい、絶対確定の未来のことよ」
「メティスにはそれが見えてるの?」
――「……見えてる。私達はこれからずっと苦労する。死ぬまでずっと」
その言葉には、思っていたよりもずっと重みがあった。
死ぬまで……?
――「それでも、あなたはこの時永くんと一緒にいられるの? その、重荷を背負っていられる?」
「……時永くんって」
わたしは思わず笑ってしまいながら呟いた。
「……それだけわたしにとって、重要な人?」
――「ええ、重要な人ね。きっと、ものすごく」
……それは難しい質問だ。
だけど、それと同時にある意味……YESかNOの、簡単な質問だ。
「もちろん、わたしは一緒でいいよ。……この人、悪い人じゃないもん」
だって時永くんとでしょ?
……一度、好きになった人だもの。
いつか嫌いになるかもしれないけれど、今じゃない。
たとえいつかなったって、そんなもの今からじゃ、ちっともわからないけど。
「答えなんて決まってるじゃん……ただぼーっとしてるだけならともかくとして、こんな物騒な神様が近くについてるなら、余計危なっかしいでしょ?」
――「……そうね」
メティスは苦笑した。
――「そういう子よね、あなた」
「それにわたしのこの電波系な性格とおせっかい癖は一生治りそうに無いからね。……で、これは確定事項?」
答えは……YES。これで行こう!
メティスだって、わたしの強情っぷりは絶対知ってるんだ!
その、聞きなれた声は苦笑をもらす。
――「ええ、それはもう……これでもかというほど確定事項よ」
この話はもしかしたら、誰かの話の下敷きなのかもしれない。これは何かの前触れで、わたしはだた巻き込まれただけの一般人で。
……この物語は、何かの『過去編』なのかもしれない。
メティスは前に言った。
……わたしはこれから先、時永くんと仲良くなるだけで、「命がヤバい」。
時永くんと一緒にいると、早く死ぬってこと?
早く――それは、いつ?
『絶望なんて望む人はいない』と彼女は言った。
メティスの見ている未来……きっとその運命とやらは蹴破ることすら出来ないのかもしれない。
だけどもし、わたしたちが1つでもその規定と違うことをすることができたなら……それを皮切りに次々とそれは続いていくはずだ。
無論、それが出来たとして、勝算が必ずしもあるとは限らない。
だけど、その一筋の光に賭けてみる、その価値があるのなら。
「えっと……勝負しよう? クロノス」
わたしは言った。
「あなたが何を考えてるのか、わたしは知らない。……けど、それが楽しくないことだって言うのは、わたしにもわかる。……だからわたしとメティスはそれを出来る限り阻止する。それでいい?」
クロノスは笑いながらやれやれ、と首を振った。
まるで、出来るわけがないのに……とでも言うように。
* * * *
「………?」
数分後、時永くんは医務室のベッドの中で目を覚ました。
「……え? ……えぇっ!?」
「おはよー」
大慌てで彼ががばっと起きたのを確認しつつ、わたしはなんでもないように言った。――そう、クロノスとの会話なんて、何もなかったみたいに。
「お昼潰れちゃったね。そろそろ午後の講義だよ。あっ、サンドイッチ買ってきたけど食べる?」
「え、えっと……僕、いつの間に寝てたんですか?」
慌てて口にわたしの差し出したハムサンドを突っ込んで……携帯電話を両手で叩きながら言う時永くん。文面を覗き込んでみると、意外にもちゃんと教授へのお詫びメールだ。
さすが質問魔。先生と仲がいいみたい。
と言っても、さすがに今からだとドタキャン全開といいますか……
「谷川さんがトイレに行ってすぐ後かな? いきなり倒れてね……いやあ、びっくりしたよぉ。疲れがたまってたんじゃない?」
……もちろん、嘘だ。
だけど正直に言おうものなら……きっとわたしたちの関係は破綻する。
友達でも、わたしが勝手に夢見た恋人でも。
――何でも、なくなる。
うん……ずるいよね。本当。
それだけは避けたかったんだよ。
ハムサンドを飲み込んだ時永くんは、お詫びメールを送信した瞬間……訝しげに右頬をさすった。
「何?」
「何か、ここが物凄く……」
「痛い?」
時永くんは神妙な顔をして頷いた。
何が何だか分からないような顔をしてるのは、たぶん……
――「一瞬だけ起きたのも覚えてないんでしょうね。寝ぼけてたんじゃないかしら?」
メティスの見解に乗っかって、口を開く。
「……いきなり倒れたのにビックリして、とりあえず起こそうと平手打ちしたからかな?」
……ぎょっとしたように時永くんは言い返す。
「な、何それ!? もっといい起こし方とかなかったんですかっ!!?」
「あははー、ごめんごめん。ちょっとパニクって、ついー……」
……なんとなく、察しがついた。そういえばビンタしてからも、クロノスはスラスラと淀みなく喋っていたなって。
もしかしたらあの時、あの瞬間。「体の持ち主」である時永くんにだけ、痛覚的なダメージがいっていたのかもしれない。
メティスは言う。
――「この『痛がってる』時永くんを見るにだけど、クロノスはどうやら、時永くんを完全にのっとることが出来なかったらしいわね」
どうして?
その疑問符を思考を読んで気づいたのか、メティスは言う。
――「簡単に言えば、この時永くんが強いからよ」
強い?
このひょろひょろ系が?
――「いや、見た目関係なく精神的にだけどね。例えばの話なんだけど、今までも時永くんって、ぼーっとしている時間が頻繁にあったわよね?」
……確かに、たくさんあった。
いつも気がつけばうわの空だったし、気がつけばすっころんでいることもあった。その時は単におっちょこちょいだったり、そういう癖なだけなんだと思っていたけど……
――「時永くんはね、クロノスと同じ魂の型を持っているの。『根っこの部分が同じ』だといえばいいかしら。だから私たちの世界からこの地球にアクセスするときは、時永くんが一番手軽な経由地になるのよ。私が美郷を経由して地球上を見ているみたいに」
……なるほど?
――「そしてクロノスは多分、近いうちに地球で何か、悪戯をしようとしている。時永くんを経由してね。彼が重要視するのは私だけだから、私の気を惹くためかもしれないし、違うかもしれないけれど。……ともかく私は、それに巻き込まれる美郷を『できる範囲で』どうにかしたかった。だからここにいるし、あなたと仲良くなった」
……うん、ありがとう。
ようやく明かされたメティスの真意に、わたしは頷く。どんな感覚かは分からないけれど……メティスは確かに言っていた。
「人の生きる意味が見える」と。
彼女には、きっと見えていたんだ。
いつかの地点のわたしが困るのが。いつかのわたしが、誰かに助けを乞うのが……
メティスは続けた。
――「時永くん自体はきっと、クロノスと殆ど会話したことがないんでしょうね。使われるばっかり。それでも薄々クロノスがどういう神様か分かっているのよ」
どういう、神様か……。
――「……聞いたでしょう、美郷。彼は時永くんはおろか、美郷のことですら大切に扱おうとはしなかった。あれは、時永くんが気に入らないからじゃない。美郷が嫌いなんだとか、そういう話じゃない。私以外の皆に対してなの」
「…………。」
――「だから、ずっと彼はクロノスを抑えつけてきた。……私たちの世界からクロノスを地球側に出さないように、精神力だけで戦ってきた」
……RPGの勇者なんてレベルじゃない。
「豊田さん?」
「あっ、何?」
「僕をまじまじとみて、どうしました?」
「なんでもないよ」
――「……ぼけーっとしているその間、中でクロノスと時永くんが戦ってたのよ。クロノスが勝てば体の操縦権が奪われる戦いを、時永くんは幾度も幾度も、純粋に強い意志だけで乗り越えてきた。そのせいで中に傷を負っても、バラバラになりかけても、呼吸を止めずに生き残ってきた」
でも……時永くんは今回負けた。
完全にとは言わないまでも、乗っ取られた。
……今更ながら、寒気がする。
わたし、何に喧嘩売ったんだろう。
――「何? 今更怖気づいた?」
茶化すように言うメティス。
――「大丈夫よ、私がついてるし。こう見えてもこっちの世界では2番目に強いのよ、私」
へへん、と胸を張る様子がなんとなく見えた気がした。
メティスがそんなに強いとは知らなかったなぁ。
……でも、嫌な予感がするんだけど、やっぱり1番目って……
――「うん、残念ながらクロノスね」
駄目じゃん! ……わたしは撃沈しそうになる頭をこらえた。
目の前に時永くんがいるんだ、耐えろわたし。
――「っていっても僅かな差だからね。美郷が頑張ればどうにかなるわよ」
ってわたし頼みか! どうすりゃいいのよ!
……でもまぁ、別にいいや。
さっきよりはやる気も出てきたことだし。
――「その意気その意気!」
「それで……もう大丈夫? 動ける?」
諦めたようにもう一度横になっていた時永くんに声をかける。すると、時永くんはきょとんとした顔をして、それから……少し疲れたように笑った。
「……うん、もう平気です。心配かけました」
「おー、じゃあ医務の人に時永くんが気がついたって言ってくるから、そこで待ってて」
そう言いながら、わたしは背を向ける。
と、その時だった。
「……ありがとう」
後ろから小さく聞こえたその言葉を、わたしはあえてスルーした。
「……僕なんかに、よくしてくれて」
……なんか、って何よ。
そう言いたくて、でも飲み込んだ。
……すごいじゃん。時永くん。
わたしだったら、メティスと喧嘩したってきっと勝てないよ。
――「生きた災害」を、ひとりの人間が抑え込む。
時永くんの秘密に、知らず知らずのうちに大きく踏み込んでしまったことに……小さく、罪悪感を感じつつ。
「……すみません」
医務室の担当の先生を見つけ出したわたしは、口を開いた。
「あの……時永くん、起きたみたいです」




