5.少女と魔物
「いいかい? ミコト。この家にはドームがあるだろう? ……あそこには、絶対入ってはいけないよ。あそこにはとっても嘘つきで、獰猛な魔物がいるんだ。噛まれたり、虐められたくないなら……絶対入らないこと、わかったね?」
「……うん」
それは……とてもとても幼い頃。そう。確か3つくらいの頃だったと思う。珍しく2人で食事をしたり写真を撮ったりしたとき、父に言われた言葉だった。
その時はただ、普段あまり遊んでくれない、声すらかけてくれない父が私に話しかけてくれたことに素直に喜んで、意味もわからないまま元気良く頷いただけ。
そしてその時、父が話した『魔物』たちに出会ったのは……それから、何年もたった夏休みのこと。
* * * *
「つまんないなぁ……」
私は読み終わった本をほっぽり出して呟いた。
学校の宿題はもう済ませてしまったし、自分の本棚の本は全て読みつくして飽きてしまった。父の書斎にある本はまだ自分には難しいのか……正直、あまり読み進めることが出来ない。
「なんか……楽しいこと、ないかなぁ……」
ベッドにごろりと寝ころぶ。
……学校では、クラスメイトが友達と遊ぶ約束を交わしている様子を何度かみかけたけれど……あいにく、暇さえあれば本を読んでいた私には、友達と呼べるほどの人間もいなくて。
というより――作り損ねてしまった、という方が正しい。
この春に小学校に入ったばかりだったこともあるけれど……同世代の子どもと話すのは実際、これが初めての経験だったりしたから。
馬越さんがずっと家にいるし、父が首を縦に振らなかったのもあって、幼稚園や保育園には一度もいったことがない。だから初めにどう声をかければいいかわからなかったというのもある。……何を話せばいいんだろう。
共通の話題なんて一個もないし、大人と話していても距離を感じるし。
それに、図書室ほどではないけれど教室の一角には面白そうな本棚があって……最初はそっちに興味が行ってしまったのだ。
おかげで気がついたら「仲良しグループ」に入り損ねていた。
それに私の家は正直いって、町の中ではひときわ寂れたところにある。おかげで学校からは電車通学するほどに遠い。
クラスメイトの家はきっとそれよりも遠いのだろう。そんなところまでたった1人で行く気には、とてもではないが……なれないわけで。
それに最近近所では不審者や通り魔の噂もよく聞く。
あとこれは最近身近で流行っている怪談の1つだが……この近辺では、何故か「人が消えてしまう」という話も。
「通り魔。魔……そういえば」
――「あそこにはとっても嘘つきで、獰猛な魔物がいるんだ」。
そんな言葉を、ふと思い出して……
「魔物、かぁ……」
年相応にはファンタジーが好きな私は、少し考えてみた。
……嘘つき、獰猛、噛まれたり、虐められる。
……ん?
「嘘つき」? それに、虐められる?
……と、いうことは。
私は今更ながら気づいた。それって……もしかして、殴られたり蹴られたりというよりかは口で何か言われるということなんじゃないだろうか?
っていうことは、お話とか出来るのかな、その魔物!
がばっと寝返りを打つ。
父は確か、通り魔にあった人みたいに『不意打ちでいきなり殺される』とは言っていなかった。……もしかしたら、お話くらいならいいんじゃないのかな。
「……んー……!」
……興味がわいてくる。いったいその「魔物さん」って、どんな魔物なんだろう? 学校入りたてのとき、先生が読み聞かせてくれた絵本に出てきたような、怖くて大きな鬼だろうか。それとも一寸法師のような……小さな小さな小人なのかな?
なんだか、だんだん魔物に会ってみたくなってきた。
「……よしっ」
私はほっぽりだした本をしまった。
父も夜まで帰ってこないし、馬越さんは確か、珍しいことに休暇中!
そこまで考えた私は……自分の部屋をそうっと抜け出した。
* * * *
……植物の生い茂った、透明なドーム。
ここまで好奇心と勢いだけで走ってきた私は肩で息をしながら、扉を見た。
よかった、馬越さんがかけ忘れたのか、運のいいことに鍵はかかっていない。
ぐっと押してみると重い音を立てて扉が開いた。……恐る恐る中を覗く。
「……わぁ」
目の前に広がる、人工的に創られた緑の林! ――外から見たことは何度かあるけれど、中に入ったのは初めてだった。
父は屋内にこんな森を作って、いったい何をしたかったんだろう? まさか、いじわるな「魔物さん」を他の人から隠すためにこんなことをしたんだろうか!?
そんなことを思いながら、中へ中へと私は進んでいく。
この辺では見たことのない植物もいくつかあって、ちょっとだけ私は驚いた。
でも、そのたびにもっと奥に行きたいという気持ちが強くなる。なんだかドキドキしておちつかない。もしかしたらこれが、冒険心っていうものなのかなぁ。
そう思いつつ暫く進んでいくと、遠くに場違いな大きな花が見えてきた。なんだか……すごくあまい匂いもする。
「あんなのもあるんだ!」
私は思わず足のペースを上げた。
「こんなの、図書館の植物図鑑でもみたことないっ!」
はしゃいで口を開く。私はもっと近づいてみようと花に向かって走り出した。……と、その時だった。
――ばさばさばさっ!!
「うひゃっ!! ……な、なになに……っ?!」
木の枝を思いっ切りしならせて――誰かがゆっさゆっさと揺らしている。おサルさんが威嚇でやるみたいなあれだ。そんな音がした。
驚いて思わずうずくまると、とおくのほうから声が聞こえる。
「――今、そっち行っちゃ駄目だっ!」
多分、男の人の声だった。声は遠くて、反響している……大人? お兄さん? でも、大人よりはどこか幼い気もする。
「誰……?」
私が辺りを見回していると、ふと花に1匹の蝶がとまっているのが見えた。そしてその蝶は花の蜜を吸っていたかと思うとふらりと地面に落ち……
「あっ」
ぷつり。……あれほど鮮やかだった羽は、崩れるようになくなって。ぽろりと皮がめくれるように反転する。その蝶がいたところには【木の芽】のようなものが顔を出していた。
「………っ」
――ぞくっとして。思わず後ずさる。嫌な汗が頬をつたった。もし私が近づいて、あんなふうになってしまっていたのなら……。
「……はぁ……っ」
走った後みたいに、息が上がっているのを感じた。
そういえばあの声は? いったい誰?
「お礼、を……しなきゃ」
私がきょろきょろと見回していると、また枝を故意に揺らしたような音がした。
「っ……」
衝撃的なものをみたあとだ。さすがに怖い。見慣れない林の道が、まるでばけものの牙みたいに見えるけど。足がすくんで、お尻をつきそうだけど。
でも駄目。歩き出さなくちゃ。振り向かないで勇気を振り絞ろう。
だってあの声が聞こえなかったら……私はきっと、どうにかなっていたんだから。
「どこにいるのっ!?」
せめてそう。ありがとうございました、っていいたい。そこから逃げてもいいんだ。
手がふるえてしまって、でも負けてられないと大きく声をかけてみる。
するとまた、遠くから声が聞こえた。
「――来たいなら、こっちにおいで?」
私は音のする方、声のする方へと進もうとして……足元に大きな木の根っこがあるのに、まったく気づかずに大きく足を踏み出した。
「おっと」
木の根に躓いて転びそうになった時、倒れそうになった自分を何かが支えた。……これは。
「植物の……つる?」
つるは私を助け起こすようにするすると動くと、しっかりと私の手に巻きついた。
「危なっかしいな。君は」
苦笑するような声。もしかして「魔物さん」? ……私はその存外な暖かさに驚いた。
でも何も言わず、手をひかれるままに歩く。
……暫くすると、開けた道に出た。このドーム、きっとすごく大きなものなんだ。外から見た感じじゃわからなかったけれど。
「あの声は……きみ、なの?」
そして目の前に立っていたのは、他とどこか違う若木だった。よく見るとどことなく人の形に見えるような気もしてくるその木は、枝を小さく振って答えた。
「まぁ……そういうこと」
近づくと葉っぱの下から、きょろっと目が覗いて見えた。これは……愛嬌がある、というのだろうか。でも気のせいか、ちょっと複雑そうな表情をしているように思える。
よかった、とにかく言葉は通じるみたい。そう思った私は、とりあえず自己紹介をすることにした。
名前を教えるのは大事だって、馬越さんも言っていたことだし。
「私は……ミコトっていうの。時永 命。……あなたの名前は?」
私は、友達を作らない。作れなかったともいえる。……だから、ちゃんとした自己紹介はこれが初めてだった。友達付き合いに憧れなかったといえば嘘になる。でも、乗り遅れた私にはとても、クラスメイトのグループに入れる気がしなかった。
気がついたらずっとひとりで過ごしていた。
だけど、この不思議な生きている木とは、なんとなく友達になれる気がして。
……そしてやっぱり「なんとなく」だけれど。
友達になりたい、と思ったんだ。
「……やっぱり名字は時永、ね」
若木は静かにそういうと、黙り込んだ。
「……どうしたの?」
時永という名字。確かに他では聞かない珍しい名字ではあるけど、そんなに考え込むような名字には思えなくて。
「あ、いや……ね。なんでもない」
我に返ったようにようやく口を開く若木。
「名前はミコトちゃん、か……そうだな、オレの名前はね」
――その木は、ゆっくりと続けた。
「そのまんまなんだよ。イツキっていうんだ。……意外とありそうな名前だろ?」
「……イツキ」
私は、ゆっくり繰り返した。……確かにそれはそのまんまで、しっくりくる名前だった。
* * * *
それから、私は毎日イツキの元へと足を運んだ。
……父は相変わらず家にいないし、帰ってきても私とは喋らない。
私はひたすらイツキの元に通った。
はじめての友達。はじめての、友達とのお喋り。
だからとにかく楽しくて、思いつく限りの話をした。図工の先生のハゲの形が段々綺麗な星型になってきたとか、算数が苦手だとか。体育の授業が面白いとか、最近読んだ本の話まで。
最初はなんだか硬い感じがして、ひたすら聞いていると言う感じだったイツキも、段々と相槌をうったり、そのうち自分から遠い国にあるらしいちょっと複雑なお話なんかを妙に詳しく話してくれるようになった。
……たまに知っているお話もあったりはしたけれど、基本的には知らないお話ばかり。それを聞くのが本を読むよりかは10倍、いや100倍楽しくて。
気付いたら、イツキと喋ることばっかりがどんどん楽しくなっていった。
――そんな毎日が続き、そして暑さがようやく和らいできたある日のこと。
「……あれ?」
と、イツキがふと気づいたように呟いた。
「なに?」
私が聞くと、彼は言った。
「……最近、来なかったんだけどなぁ……」
「来なかった?」
「いや、さ……なんというか、友達がいるんだ」
……友達?
「どうも近くに隠れてるっぽいんだよな……」
「……イツキって友達いるんだ」
今までなんとなく自分だけしか知らないひみつの友達だと思っていたイツキに、自分以外の友達がいる……そう知って、少し寂しくなった。
そうだね。私にとって「はじめて」だったりしても、イツキにとっては私がはじめてだったりするはずもない。だって私よりもイツキはずっと大きいんだもん。木の年齢なんて全然わかんないけれど。
……でも、興味もわく。
こんな不思議なイツキの友達って、どんなだろう。
「そりゃ……いるって。友達ぐらい」
照れくさそうに。でも、少し複雑そうにいうイツキ。
私は気を取り直してイツキに聞いた。
「で、どんな人? イツキみたいなの?」
イツキはちょっと笑って、ひそひそっと呟く。
「……えっとね、オレより説教臭くて顔怖いやつ……」
「――なあああんっ、だとコラァ!!」
「ひっ?!」
大きな声とともに――何か大きなものが向かい側の木の上からどしっと音を立てて降ってきた! 砂埃が一瞬だけ舞うが、その姿の全貌はすぐに姿を現す。
「ひ、えぇ……!」
その迫力。思わず声が出る。大きくがっしりとした体に、犬というか、狼のような顔つき。……固まる私をよそに、大きな犬は後足で立ち上がるとずんずんとイツキに詰め寄った。
「何やら暫く来ない間に見慣れないお嬢さんがいるからー? おとなしく様子見してたらーぁ? 言いたいことばっかり言いやがってーぇ? ……ははっ、オイこらイツキぃ……」
「ふ、ふふふっ……何だよイヌカイさん?」
イヌカイさんと呼ばれた大きな犬……よく見ると肩の形、前足の形が犬というより人に近い……はイツキに向かって凄んだ。
しかし当人のイツキは何故か半笑い。「見た目より怖くないよ」と言われているような気がして、私はそうっとイツキの後ろから顔を出す。
イヌカイさんはイツキと私を見比べ……暫くしてなぜか呆れた顔をした。
「……ったく。で、誰が説教くさくて顔怖いって?」
「そっりゃあイヌカイ大せんせーに決まってるでしょうが。……あ、その顔その顔。それがこわい」
イツキが慣れているようにからかうと、イヌカイさんは不満げに返した。
「え? この方が怖くない? ほれほれ」
「あ、明らか怖いねそれ。……ってか見ないうちに変顔のバリエーション増えた?」
……いつの間にか変顔披露大会になっている。最初こそあっけにとられていた私だったが、いつの間にか完全にイヌカイさんのペースに巻き込まれ、数々の変顔に笑っている自分がいた。
……それが、思えば最初の3人が揃った、はじめての記憶だった。
小さかった私はその時相手をしてくれた2人の裏に、壮絶な過去が眠ることなど露知らず、ただ思っていた。
父が言っていた「魔物」というのは、この2人で間違いがなさそうではあるけれど……父の言うような凶暴さはまったく見受けられない。
確かに人をからかうことはあるが、単なる小さないたずらのうちだ。嘘をつくこともあまりないし、いったい父は何を私に教えようとしていたのだろうか。
……そしてこの「魔物さん」たちは、一体何者であったのだろうか……と。
* おまけのやり取り *
「イヌカイさん、さわっていいですかっ!?」
「い……いやっ! ちょっと少女!? 許可取る前にハグしてくるのやめて!? あっつい! 今俺結構あっついからな!?」
「もふやまもふおだっ!」
「女の子から突如として放たれる謎の人名!!!」
「小学生の思考回路なんてそんなもんだよ? で……イヌカイ、なんで最近来なかったの?」
「……そりゃ……あれだよあれ……動きたくないだろ……」
「夏だから? 気温で?」
「毛皮で。……おいイツキ、やめろ、待て! 同情の目を向けるな! 向けるなっつってんだろーーーーっ!!」