12.折れるものかと君はいう
どうしよう。
部室の扉に手を掛けながら迷った。
「…………。」
……どんな顔をして入ったら良いんだろう。
あれからすぐに中間テストが始まり、演劇部の活動は暫くなかった。
それでも2週間というのはあっという間で、そもそもあたしが本番中に大怪我をしたらしいという噂は既に学校中に広まっているらしくて。
……大事には、したくなかったのになぁ。
目の前の教室からは部員たちのざわめきが漏れ聞こえている。全体的にみると一番多い1年生の……中でもふざけ気味のグループに属している男の子たちの声や、2年生のほとんど気の強そうな女の子ばかりの喋り声や。
中にはあの時の有志スタッフも集められているのか、元くんの声もあった気がした。
……そりゃそうか。あの子の声、通るもん。
どこにいてもなんとなくわかる。目立つ、聞こえる。そんな子だから。
大きく息を吐く。それから、大きく息を吸う。
……ええい、ここでもじもじしていても始まらない。
――がらっ。
意を決して扉を開け、あたしはつとめて明るく言う。
「皆! ゴメンねー! 心配かけたねー!」
「ゆっきー先輩!」
秀ちゃんの声がウェルカムな感じに上がる。――うん、もはや歓声と同じような表現だ。相変わらず底抜けに明るい。そしてやっぱりそこにいた元くんは、いつも以上に優しい音で言った。
「最近ドタバタしてたからな、久しぶり。で……怪我は?」
「一応は大丈夫!」
胸を張った瞬間、吊った腕がポン、と元くんに叩かれた。
「――痛い!」
「アホ」
元くんが一言呟く。仕方のないものを見るような目だった。
……いや、今叩いたの元くんじゃん。別にあたしがバカでケガのこと忘れてはしゃいだわけじゃないから! ちょっと気まずくて明るめに言っただけだから!!
「何だよぅ!」
「別に?」
「仲いいなーもう……あっ」
秀ちゃんが声を上げた。あたしの後ろに目を向けてのことだった。
……肩が、とんとんと叩かれる。
そこにいたのは津田さんだった。
「ねえ」
「何?」
あたしはいつも通りに声を返した。
「……それの事でちょっと」
その目が、あたしの吊り下げた腕に向く。
声が冷たい、表情が硬い。
「……話があるんだけど?」
「うん」
その後ろにいたのは柏原先生。津田さんは、静かにあたしを見据えた。
……冷たい目だった。
「……あの、谷川先輩」
「わかった」
立ち上がろうとして、少しだけ違和感を感じた。
――ああ、ブレザーの裾。
「……」
「いいよ、そんなことしないで」
……裾を握っていたのは元くんの手だ。あたたかい大きな手。引き留めるように彼は呟く。
「……俺も」
「いい」
あたしは苦笑した。
「……大丈夫だから、ありがと、犬飼くん」
嫌がらせだった。
この期に及んで『刺激しないように』なんて振舞って。
……いつも通りに下の名前を呼ばない彼への、ちょっとした仕返し。
元くんは少し間をおいて、なぜだろう。
――困ったように笑った。
* * * *
連れて行かれたのは、部室からほど近いパソコン室だった。
他の教室よりは広めの間取りで、大きなプロジェクターを使って映像資料を見ることもあるせいか、壁の素材は音楽室と同様の吸音ボード。カーテンは重く分厚い遮音カーテンで、窓からの光は入ってこない。
誰も入ってこないようにだろうか……古いドアに鍵をかけ、沈黙を切るような形で、津田さんが切り出す。
「……あれがなければ、完璧だった」
「え」
「転んだでしょ?」
津田さんはなんの感情もいれず呟く。
「私の母親の前で、転んだでしょ」
「…………。」
「……意味がないの」
津田さんは唇を噛んだ。
「色々我慢して、考えてみた。幾度も幾度もシミュレートした。でもダメだった――『完全じゃなきゃ意味がない』。佐田くんはああ言ったけど、私は違う。私は完全なものでなければ見せてはいけないの」
「何言って……」
「そう思ってるんだから仕方ないでしょ!?」
いきなり激昂した津田さんは机を叩く。
「だって私が生きていくためには、それなりにクオリティがいるもの! ……私はそれで生きていく方法しか知らない。目の前にライバルがいる。人生最大のライバルが、牙を剥いて私を潰そうと待ってる!」
「…………。」
机にひびが入るのが見えた。
「……負けられないの! 怖くて怖くて仕方がないの!! 生まれたときから見てるライバルが、根が甘ちゃんのくせにスターダムにのし上がったライバルが! さも当然に、当たり前のようにそこに立ってる!!」
ああ。そうか、この津田さん……
「私は比較対象として貶されて、おとしめられて! その差は何……!?」
「……」
「その血を引いてるだけで! 『似てないね』『出来が悪いね』『親の力』――型にはめられて生きるしかないその差は何!?」
「…………。」
「比べられる、比べられる比べられる比べられる!! ああ――絶対あいつだけは私が潰してやらなきゃ気がすまない、圧倒的な力量差を見せつけて圧倒してやらなきゃいけないの!」
あの時、あたしが実記さんに渡したチラシをポケットから取り出して、津田さんは叫んだ。
「ねえ、この気持ちがあなたにわかる? あいつは所詮、役者でしかないと私は気付いた、演者一本で、作る側には回れないのだとようやくわかった!! ――知ってるでしょあなたも。あの人、自分にチャンスが来たのに断った。自分で舞台を作る側に立てるはずだったのに、プロデュース側に回れるはずだったのに、断った!!」
……そう、実記さんは確か、一度断っている。
――「私は、他の人みたいに器用にできる自信がないから――」
あたしに言ったのと同じ言葉を使ってついこの間、津田実記さんは某有名タイトルの主宰を降りていたことが発覚した。それを知ったのは文化祭の日の晩だ。全てが終わった後の病院で記事を見た。
あの時あたしに向かって言った言葉は、そのことを指していたのかもしれない。
自分の実力やスキルを吟味して、彼女は悩んでその案件を「降りた」。
でももしかしたら、少しは「やりたい」気持ちもあったんじゃないだろうか?
現実的に考えたら「ああ、できないな」って思っただけで。
……だから、心に残ったほんの少しの後悔と。それでも誰かに言葉を残せるならという心の揺れが、あたしに少しだけ伝わったのかもしれない。
実記さん以外は芸歴の浅い、いわゆる「若手」や「新人」の俳優だったり、アイドルが多いプロジェクトだったと記事にはあった。――実際に話を断ったのは随分前だそうだが、演者がぽろっと舞台あいさつでこぼしたのがきっかけでニュース記事にまでなったそれ。
恐らくだけど、そんな記事が書かれるのを――発表されるのを実記さんは知っていたんだろう。
大手の週刊誌だったり新聞は、「こんな記事を書きますよ」と当人に報告することもあるという。
だからあたしにあんな励まし方をしたんだ。
演劇部の主役でしかないその高校生が。まだ青臭い、『高校演劇のベル役』でしかない谷川ユキが……これからのことがちゃんとある、「新人」や「若手」の舞台俳優と重なって見えて。
「せっかく仕事が来たのに断った。私がいくら足掻いても取れないチャンスを断った。そこに付け入る隙があるはずだと私は踏んだの。……ああ、その点私はできる、できる自信があった!!
……なんだってできる。なんなら今から勉強すればいい。
やる気だってある。だから、やつを超えるにはこれしかない。
津田さんはきっとそう思ったんだろう。
「――この学校の演劇部の部長はあくまで! まだ私なの!」
吐き出すように彼女は言う。
「私は文化祭公演に全てをかけて挑んできた。巧くいけばきっと、あいつを越えて高みに立てるはずだった。……主宰は、座長は、リーダーは、私なの! 文化祭公演は、私の演出で成り立ってる! そう言えるはずだった!!」
無理だよ。津田さん。
だって――やった後にあなたは言うはずだ。
『所詮素人集団だ、まだ足りない』と。満足できないはずだ。
だって、客観的に見たらわかる。あなたの中では――
「――私の舞台なの、私がほとんどを作り上げている!! 台本の一言一句にこだわってギリギリまで変えさせたのは勝つためよ、身の回りの全てに勝つため、ぶっちぎって戦うため。ベルを勝ち取れなかった私が、それでも舞台で戦うため!」
――舞台女優の『津田実記』は。
あのお母さんは、あなたにとって、永遠のライバルなんだ。
ずっと越えられないもの。越えても越えたと気付けないもの。
あなたはそれに気付いていないし、気付いちゃいけないと思っている。
ああ……あたしと同じだ。見ないふりをしている。
だってその方が都合がいい。メンツが保てる、プライドが保てる。自分が自分である理由を、見失わないでいられる。
「私が入学したとき、正直めちゃくちゃ注目されたわ、そりゃあそうでしょうとも! 有名女優の娘よ!?」
ふと、思い出した。
――「寺井くん何ナンパしてんの」
――「してねーよ、入部希望者!」
……あたしが、演劇部の戸を叩いた日。
先輩に連れられて、面白そうだからと軽い気持ちで入ることにしたあの時。
――「どうせチャラ井くんだしあの手この手で口説き落としたんでしょ、それより片寄さんの連れてきたあの子みてよ、デカいよー」
――「デカい? 何が?」
――「大物だってこと、だってあの子、あの『津田実記』の娘だって!」
その先輩のさした先にいた――まだ猫を被っていた頃の、大人しい津田さん。
――「絶対ヤバいよ!? あれ!」
――「……ああ、確かに大物だな」
あの時、あたしを演劇部に引き入れた男性の……『寺井先輩』はそう言って、ポンポンとあたしの背を叩いた。
――「でも所詮、血筋でどうこうできるもんじゃないだろ、高校演劇なんて。七光りだから上手いとか考えてるとエライ目に遭うぜ? だったら俺は、一緒にやってて癒されそうな可愛い美人を選ぶけどね!」
そこにいたはずの津田さんは、何を思っていたのだろう。――どこに目をむけていた?
津田さんは吐き捨てるように言った。
「……確かに地味よ私はっ! 華なんてないわよ、目を引くようなものなんてどこにもない! 最初から持ち合わせてるものなんてきっとどこにもない……!」
慟哭に近い。泣き声に近い、それ。
「魅力なんてない、だから作るしかないの!! 必死に作って、必死に合わせて、なのに自分のものでないステータスで持ち上げられて! ただ目立ってるだけだと馬鹿にされて。……それでもね、名前が残る方が、遥かに強いの!」
チラシを握り締めながら津田さんは呟く。
「リーフレットにもパンフレットにも、私の名前が演出と舞台監督でクレジットされてる。私が脇役まで追いやられても納得してたのは……裏で全部私がやっているからよ!」
“……ねえ。”
頭の片隅で何かが聞こえた気がした。
「全ては私が、舞台の裏側にも立てるんだと! 完璧なものを作れるのだとあいつに見せつけてやるため!」
“……誰か褒めてよ”、と。
「あんたに勝てるんだ、いつも比較される誰かに、何の感情も何の努力も何苦労もしないままそこにいるアンタに、必ず勝てるんだ!! そう身をもって分からせてやるため!」
“……誰か、気付いてよ”、と。
そんな気持ちが、気分が。不思議と伝わってくるようだった。
ああ、相変わらずだ。巧い。人に気持ちを伝えるのが――巧い。
受けるのは下手でも。キャッチボールは下手でも。
掴ませるのだけは、巧い。
……人としては、すごい努力家だと思う。
真っ直ぐで強い。強くて、だけど脆い。
素敵な役者だと思うし、演者だと思う。
スタッフ側としてもそうだ。
「良いものを作りたい」――その情熱は、すごいと思う。
でも……でもだ。
あたしは舞台上で一度、何かを見た。ああ、「見てしまった」。
人の「心」を見た。自分の心とも通じた、そんな気がした。キャッチボールが、できた!
そんな今だからこそ強く思うんだ。
津田さんのそれは、「何かが違う」って。
「…………。」
……言葉にはできない、うまく言えない。それでも「違う」。着地点が違う。
やっぱりこの人は、そう。
――見えていない、視野がせまい。
自分のことばかり見えているから、自分の中で完結する。
――外に投げるばかりで、受けられない。
「ねえ、谷川さん?」
彼女は口を開く。
そう――違う。
何のためにこの人は、舞台に立ちたいと思ったのかな?
最初に舞台に上がったのは、何故だろう。当初の理由はなんだった? 最初から、ライバルに勝つためにそこにいた? お母さんばかりずるい、そう思っていた?
ううん――違うはずだ。もうちょっと、違う理由でそこにいたはずだ。
確かに彼女は、幼い頃からお母さんの背中を見てきたんだろう。背中ばかり追ってきたんだろう。
だから、きっと……津田さんは。
「私、ごっこ遊びをする気は無いの」
……憧れていたんだろう、あたしみたいに、誰か違う人に憧れて。
自分とは違う生き方の人に憧れて。それになりたかったんだ。
例えばその人は実記さんで――あんなふうになりたいから、そこにいたんだろう。
なのに。
「普通さー……」
「…………。」
こてっと津田さんの首が曲がった。とてもいい笑顔。
「あんな場面で転ぶ?」
「…………。」
背筋が冷える。手紙ぶりの感触だ。震えながらその目を見る。
――あたしは手をさすった。吊った布が手に触れる……その布の冷たさが、更に手の震えを感じさせる。
「もしかして、わざとやったのかな? ――土壇場で、アドリブが決まったらかっこいいと思ったのかな?」
……しらじらしい。知ってるでしょう?
あたしはその目を見返した。あなたは、その裏側を知っている。
だって――靴箱の手紙を入れたのは、そして花道に仕込まれた、透明なテグスの先を持ったのは、あなたなんだから。
「…………」
津田さん『らしくない』。文面からそう思ったこともある。それでもあたしはこの間テグスで転んだとき、そして今――ふっと思い直した。
あたし。……津田さんを、過大評価していたんじゃないだろうか。
この子はあたしと同い年だ。
いかに強い瞳でも。背伸びしていても、厳しくても。
強がっているだけ。彼女は高校3年生の女の子だ。
「何黙ってんのよ」
「…………。」
「なんで何も言わないの?」
「…………。」
「ねえ」
イラついたように彼女は言う。
「私のしたことは無駄だったの? ねえ、へし折れなさいよ」
そうだ、ひどいことを口に出して……散々口から毒を出し、いつでも相手の首をじわじわと絞めてきた。
あなたはそうやって、今まで生き残ってきた。
「役者として、人として――折れちゃいなさいよ!! 傷ついてるんでしょう!?」
「……それが、言いたかったんだね」
結局はそういうことだ。
「言いたかった? 訳知り顔で言わないでよ。――要らないのよ、私は。自分より巧い誰かなんて、近くに要らない」
「…………。」
「私はね」
津田さんは息を吸った。今にも窒息しそうな、息苦しい音だった。
「潰されたくない、だから潰す」
「……っ」
「勝ちたい、誇りたい! 身の回りの高みには誰もいないんだと笑いたい!」
多分それは、彼女の本音だ。
「遊びでここに居るんじゃないの……将来がかかってんの!! 谷川さんって毎回そうじゃない……!」
津田さんのいつも思ってること。苦しんでいることだ。
「いっつもいっつも皆からチヤホヤされてっ……人気者だからって調子に乗らないでよ!」
それから……悪意や敵意に変わっていく、卵や蛹みたいな気持ち。
「どうせこんな演劇部、お遊びとしか思ってないくせに! 遊びだから……あんなに、楽しそうに、笑えるくせに」
あたしは震えを押し込めた。――少しだけ、カチンときたからだ。
――こんな、演劇部。
「ねえ」
「何よ!?」
「……やめちゃえば?」
「は?」
あたしはへらっと笑って呟いた。津田さんは解せない顔で言う。
「なんですって?」
――ぶち壊せ。
舞台上で聞いた、あの声を。
――もう限界だって叫べ。どうせ最後なんだってやめちまえ。そんな「いっぱいいっぱい」な状態で芝居が続けられてたまるか!
口に出す。
ほぼ、そのまま自分の言葉にのせる。
「……お芝居なんてやめちゃえばいいじゃん。そんなに苦しいなら」
「ふ……!」
息を詰まらせたのは向こうの方だった。そりゃそうだ。あたしはたった今……津田さんの半生を否定した。とても軽いノリで、彼女の根幹を傷つけた。
彼女はきっとその世界しか知らない。
その、彼女に見えている世界を――傷つけた。
あたしが傷つけられた分。
今まで……元くんが、やられた分。
ああ――やりかえした。
「……フワッフワしてるからそんなことが言えるのよ、あんたは……」
向こうのボルテージが上がっていく。
うん……知ってる。火をつけたのはあたしだ。
「見てたら分かるわよ、何に対しても本気で、全てを捨てて取り組んだことがない……」
そうだ。
「黙ってすましていれば、全ておぜん立てされる」
そうだ。
「苦労なんてしない、だって何もしないでも愛されているから。愛されるだけの薄っぺらい才能に恵まれているから飽きっぽい……」
そうだ。
傍目から見ていれば、そうなる。
……あたしはきっと、そういう女の子だ。
それもきっと正しい一つの真実で、あたしを言い表す、簡単な言葉の一つ。
――移動速度は軽い。在り方も軽い。
羽のよう。水のよう。ただ、あたしが旅の荷物のように、相手に持ち込んでくる愛だけが重たくて。
「――あなた――」
津田さんは呟いた。
「寺井先輩とどれだけ続いたの?」
「3カ月」
あたしは即答する。――ええ、そう、開き直っての威嚇だ。ニッコリ笑って。
「3カ月、楽しかったよ」
「ほら」
津田さんは言った。
「つまりどこに行ったって遊びじゃない」
ああ軽い。だからそれは事実だ。
――何も本気でやったことがない。こなしたことがない。
そういう子が、谷川ユキだ。
「演技も、恋愛も――興味がなくなったらぱっぱと捨てるし捨てられる。悲しみも何もしない。あなたには人の心がない。どこに行っても遊んでるだけの只の、いつまでも成長しない、ガキなだけの女の子よ」
「そうだな」
「!」
存在をすっかり忘れていた柏原先生が、津田さんに同意した。……そうだ、忘れてた。
「おれからすれば、とても真面目にやっているようには見えなかったな、演劇部も」
「…………」
同意を得た津田さんの気が大きくなるのを感じた。これは、ちょっと……
「暇があれば発声練習もしないで、台本も読まないで……有志と喋って、笑って……まるで緊迫感がない、お前はそういうやつだな」
彼はピクリとも表情を変えなかった。
……確かにこの先生は最初から苦手な人だった。向こうもあたしを嫌いなんだろう、そう思っていたけれど。
ただ、ここまで露骨にしてくるなんて、ちょっと予想外だった。
「……津田さんに頼まれて色々してる、そういうわけじゃなかったんですね。柏原先生」
「何のことだ?」
彼は棒読みに近い口調で言う。
……柏原先生は、柏原先生で何か考えがあったんだろうか。単に津田さんに立場を利用されているだけだと思っていた。一緒につるんでいるにしても、ほとんど自己主張のしない彼は時々口を出すだけ。
――そうとばかり、思っていた。
「おれはな、谷川。――夢を見たいだけだよ」
柏原先生は膨らんだポケットをずりあげながら呟いた。
「それも出来のいい夢をだ。ほら――お前だって眠る間際には電気を消すだろう? 不要な明かりがあると邪魔なんだよ。物語にはいつだって、主役だけがいればいい。時々輝く、生半可に巧いやつなんて目障りなだけさ――だったら最初から巧いやつの餌にした方が効率がいい」
静かに。だが、朗々とした語りは場の空気を固めていく。
「……練習すれば伸びる、成長する。そんな体のいい『幻想』をおれは昔から信じていない。練習だの稽古だのは、あれはただのストレッチだ。ウォーミングアップ。やればやるほど、己の中のスイッチが入るもの。だからこそ体は滑らかに動くようになる。――そうして周囲にやる気をアピールできる代物、それが稽古だ」
ああ、まるでそれは――
「元から持ち合わせている輝きが欠片もないやつに、持ち合わせていないものが出せるわけがなかろうが」
――魔法と同じだと、なんとなく思った。
時々人は言うだろう、「言葉」は「刃物」と同じだと。それと同じで、「剣」より「ペン」が強いこともある。
それが、口に置き換わっただけの話。呪文に置き換わった。それだけの話。
「持ち合わせのないものが出せたとしたら、それは偶然だ。そしてその偶然が、『真に才能のある人間』の居場所を奪う。この世はゴミで埋め尽くされていく」
――自覚はないが。いや、自覚しているのかもしれないが。
「この世界は幾億ものゴミと、一握りの才能の持ち主でできている。その点、津田美潮はおれが見出した逸材のうちの、確かな一人だよ。地味だが確かに影響力はある。その言葉は人の心の芯まで貫き、抉り、相手を倒す――」
彼の奥底にあるのは、人に夢を見させる言葉ではない。
きっと――刃物に準ずる、何かだ。
「偶然の産物で一度きり輝く勘違いしたスターを、容赦なく排除してくれる素晴らしい人間が彼女なんだよ。……母親より、随分才能がないがな」
ぴくりと津田さんの肩が跳ねたのが分かった。
ああ、そういう……
「……よく眠って夢を見る。佐田は胡蝶の夢と言ったが、その辺の考えは近いかもしれんね。出来のいい、夢か現実か分からない。そんなものが見たいだけなんだ。だから安眠妨害の種は要らない。お前には可能性を感じないんだよ谷川。そんな夢には程遠い。可能性のないゴミを排除したい。――おれが考えてるのは、それだけだが?」
「…………。」
津田さんは確かに主犯格だったんだろう。
一連の嫌がらせは、いじめは……あたしという人間を潰しにかかったのは……やはりどう見ても津田さんで。柏原先生は恐らくそれに賛同して、手を貸した。アドバイスまでした。
それだけの話だった。決して「仲間」だったわけじゃない。
津田さんは彼を利用していたし、彼も彼で津田さんを利用していた。
「それにホラ……おれが手を貸せば、入手困難なチケットまで手に入る。いやあ、人気だったんだよ。予約が全然取れない……」
愛憎入り混じって複雑なライバル。そんな母親のチケットを、先生の買収に使ってまで――津田さんは、あたしを潰したかった。
それだけきっと彼女は、あたしが憎かった。元くんのこともそうだろう。彼女が、彼に少しだけ惹かれたのも事実で。
そしてもう一つ。
あたしは自分を『客観的』に見れない。だから、演技者としてのそれはピンとこない。だけどきっと彼女は――あたしが、「自分の手に入らないもの」をずっと持っているように見えて。
ずっとそれを直視しているのが、たまらなく嫌だった。きっと……
「…………。」
ああ……きっとそういうことだ。
少し悔しげなその表情を見て、あたしは確信した。
手紙が彼女の字だと気付いたのは、靴箱の手紙のすぐ後だ。あたしがそれでも彼女と長く言葉を交わしたのは。文化祭まで同じ教室内にいたのは。
そういうことだけで絶対負けたくなかったから。せめて自分のことだけはすましたい。やりたいことだけはやりたい。そう思ったから。
だからわざと、あたしはそこから目をそらしていただけ。
……文化祭が終わるまで普通に、何事もなかったかのように過ごしただけ。
メンツという言い方も少しありそうだ。っていうかあった! ……だって身の回りに心配をかけたくなかったのは、正直普通に、事実だったもの。
あたしよりよっぽど沢山頑張ってる後輩にあんまり「3年生の情けないところ」を見せたくなかった。……だって文化祭だよ?
演劇部の一番の輝きどころじゃん!
それを今からやろうっていうときに、仲間割れとか普通ないじゃん。あたしと津田さん以外が普通にやってて、それ、絶対邪魔したくないじゃん!
それにあたしはその辺、意外と負けず嫌いだ。
「これ」と決めたら、気が済むまでやりたかった。「気が済んでなかった」! それだけの話。
「……いやあ、いつか潰してもらおうと思ってたんだよ、お前のことは」
柏原先生はこともなげに言う。その程度のこと、とでもいうように。
そう――文化祭のミーティングでも少しだけ話題になったように、3年生はあたしと津田さんだけ。あたしたちは最後の2人だ。
……最初はそう、もっとたくさんいたはずだった。
あたしが入った当初……同級生は、「13人」もいたわけで。それがだんだんと減っていったのは、気の強い。己を曲げない。そんな津田さんと言い争っての出来事だった。
「なのにまさか、あんなところで偶然の産物を見せつけられるとは。――とても巧くできていた。一瞬の出来事だったがな。だが、さすがに予想はしてただろう……『次は自分だ』と」
……そう、次に立ち去るとしたら、あたしだ。
順当に行けばそうなる。
「なあ、谷川――最後に残るのは津田一人で、お前は最後の最後に脱落する……そういうシナリオだと、お前はとっくの昔に気付いていたんじゃないのか? 例えばそうだな、犬飼をおれが転ばせた、あの日から」
そうだね。だからこそ、ずっとあたしはここにいた。
目論み通りにここで辞めたら、きっと「気は済まない」だろうから。
「どんな罠だろうが、どんなピンチだろうが……不思議と、本当に巧い人間ならば巧いことすり抜ける。そういうのは今風に言うと、リアルラックが高いというんだったか?」
柏原先生は少し気だるげに息を吐いた。
「だから、あえて言おう。――あの時転んだのは、お前のせいだ。おれは悪くない」
……ほう。
「お前に備わっていたものがなかった。お前の力不足で舞台の存続は危ぶまれた。――ああ、もう少しでお前は――」
柏原先生は一拍だけ間を置いた。半端に演劇経験のある、その手腕。――「間」の使い方を。その破壊力を理解して。
「そう――谷川ユキは、自分のお気に入りの遊び場。たくさんの人間の夢を抱えて走り続ける。そんな『演劇部』の足を引っ張るところだった」
ぐ、と唇を噛んでしまう。――言っていることはおかしい。客観的に見ればすごくおかしい。なのに、雰囲気にのまれそうな自分がいる。
「お前もあの人と喋ったな? 開演前に喋ったはずだ。あの光輝く大スターと!! ……ほーら、納得するだろう? 半端なものを見せて、よかったのか? 一度でも現実を見せてしまって。目を、覚まさせてしまって。……凡人が。半端者が遊んでいい場所じゃなかったはずだが?」
「……っ!」
「才能に恵まれなかった哀れなやつ。……やる気のない凡人はすぐに帰れ」
彼は囁く。……まるでそれが、当たり前の意見だとでもいうように。
常識にのっとって喋っている。これが「人という生き物」の総意だとでもいうように。
「『カリスマだけで芝居はできない』と、いい加減分かっただろう? 魅力なんてものは、この世にあふれた代物だ。それを振りかざすしか能のない人間に、『この世界』に関わる資格があるとでも? ああ……二度と来るな、目障りだ」
「……」
「布団と枕をひっかぶって、こちらの目の届かないところに引きこもっていれば良かったんだ。そうすればここまで執拗に辱めを受けることも、ついぞなかっただろうに」
「あーあ、ホント最悪よね。人の芝居にまで迷惑かけてさ、なにやってんの?」
津田さんの声が耳にささる。
「こんなもの、自業自得でしょ?」
……そうだ。あの花道で。
もうちょっと気を回していれば。
注意深く歩いていれば。芝居にのめり込まなければ。見て見ぬふりをしなければ。
「今更何かの“役作り”をしようとしてるわけ?」
……違う。誘導されるな。
骨折した腕を揺すられながら考える。いや、でも……。
「悲劇のヒロインでも演じようと? ……大袈裟ね、痛い振りなんてして。そんなトコがムカつくの。人間のふりをしてるロボットみたい。何を言われても心になんて響いてないくせに。痛い辛いって言えば誰かに気が引けると思ってるくせに」
「そん……」
その時だった。
「こっ、の……」
「?」
つい先ほど、あたしたちが入ってきた扉の向こう。そこから。
「落ち着け、犬飼っ……」
「全てにおいてふざけてんのは……っ」
……聞こえた。
いつもどこか斜に構えてて、素直じゃない。
好きだと言いつつ最近は「名前」も呼んでくれない。
不思議と暫くずうっと飽きない。
そんな、あの子の声が。
「てっめーらの人間性だあああああ――――ッ!!!!」
津田さんが振り向く。
その先にあったのは――見えない外。
ほとんど聞こえないはずの外界。
防音ではない、分厚い引き戸の向こうだった。




